同じの向こうで
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□ リクエスト「レッドとグリーンとゴールドとシルバーで、先輩後輩」
 土曜日の午後、トキワシティにて。住宅街から少し外れた坂の上に、ポケモンジムが見える。建物の外観は他の街にあるものと同じくしているが、余った土地にぽつんと捨て置かれたような立地ゆえか、或は最強と名高くその立ち振る舞いも他のリーダーと一線を画していた、先代の威光か。殺風景な中にもどこかしら風格を感じさせる、慎ましくも堂々とした佇まいである。
 休日のジムは閑静だ。挑戦者がいないのはもちろんのこと、公式戦の行われるバトル・フィールドでは、一部の熱心なジムトレーナーが自主練習をしているが、ジムリーダーたるグリーンを訪れるものはない。普段はジムを束ねるものとして、あちこちに引っ張られては書類仕事の時間を取られるグリーンの貴重な執務時間である。もっとも最近はそれだけでなく、彼が参画しているポケモン研究コミュニティの研究論文を執筆時間でもある。
 グリーンにとって、名実ともに偉大な彼の祖父は、誇らしい存在であると同時にコンプレックスでもある。それは物心ついたときから今まで頭から離れなかったことで、おそらくこれからも付き合っていかなければならない問題だ。彼の気性からして、祖父の七光りだのと思われるほどしゃくなことはない。祖父の七光りだと嘲弄されて動揺するのは、それが真実であることを証明しているようなものだった。だからこそ彼は、幼いころから何より先に自分自身を鍛えることで、その感情と戦い、自信によって克服してきた。
 今回の論文も、おそらくその一環だとグリーンは分析する。目的は自信をつけること。祖父への感情と戦うこと。そうして自分を保つことができる。手書きの調査ノートと、参考書をテーブルに溢れさせ、ノートパソコンの画面の中のデジタルな原稿用紙にタイプする。漂白をさぼっているせいで、内側に茶色のさざなみもようの残るカップは一口分のコーヒーを残して放置されている。グリーンは集中している。息苦しさに埋もれ、その息苦しさから脱出することを夢見ている。エンターキー、確定。じっと眺めてみて、溜息とともにバックスペース、連打。あまり良い兆候ではない。
 そのとき、ポケギアに着信があって、彼の集中は途切れた。

『トキワジムの近くまで来てるんだけど いまいる?』

 レッドからだった。グリーンは簡単に、いる、とだけ返した。返事はなかったが、間もなくレッドがやってくることだろう。彼は土曜日を狙ったように、こうしてたまにジムを訪れる。物好きなやつだとグリーンは少し呆れなくもない。休日のトキワジムほど奴にとって退屈で似つかわしくないものもないだろう。ついでにギアの時計で時間を確認、二時四十分。再びグリーンはデジタル原稿用紙に向き直った。
「お邪魔しまーす」
 能天気な声とともに執務室のドアが開いたときにグリーンが再び時計を見ると、時刻は二時四十五分を指していた。どうやら本当にすぐ近くまで来ていたものと見える。
 ジムに来たときのレッドは、大体グリーンの執務室にある来客用ソファの上で過ごしている。たまに気まぐれのように出かけて行って、自主トレに励むジムトレーナーにちょっかいをかけることもあるようだが、多くは何もせず、この部屋でダラダラしているばかりだ。
 何のつもりだ、と尋ねたことはない。どうして尋ねないのか、グリーンには自分でもよく分からない。尋ねる理由も言葉も見つからない。ただ不用意に尋ねてしまえば、レッドはもうここに来れなくなる気がした。それが怖いのかもしれない。
「……へいわすぎてとけそう……」
 ぽつりとレッドが呟いた。声の調子からして返答を期待しているわけではないことが分かったが、グリーンはいちおう、そうかよかったなとだけ返事をしておいた。
「なにそのへんじ」
「平和なのに越したことはないだろ」
「そりゃそうだけど、こう血湧き肉踊るバトルがしたいんだよ」
「贅沢もの」
「それ本気で言ってる?」
 レッドは語尾で笑っていた。
 普段、執務室に彼を邪魔と感じることは少ない。レッドもそのあたりは心得ているのか、あまり喋ることは少ない。喋ったとしても、何の気もないことばかりで、煩わされるようなことは殆ど無い。けれどもグリーンは、今日に至っては彼とのやりとりを億劫に感じた。研究論文の執筆がうまくいっていないせいで、たぶん気が立っているのだろう。
 なぜ、今日に限ってレッドが来たのだろうと、グリーンはふと思い至った。
「……シロガネ山」
「へ?」
「この時期、大抵そこで修行してなかったか」
 そうだ、夏は決まってレッドは山ごもりをして、秋の深まる前に帰ってくるのが常だった。去年も、夏の間にレッドは一度たりとも来なかった。あー、とソファの向こうから、彼らしからぬ、やる気なさげな声が聞こえる。
「なんか最近、行き詰まってるっていうか」
 そういうことか。グリーンは内心で得心し、再びレポートに向かう。まさに今の自分と同じ状況であることを、少し気の毒に思った。グリーンから見れば、レッドほどスランプと無縁そうな男もいないと思っていたのだが。
 不意にレッドが何かを思いついたように声を上げた。
「そうだ、グリーンさ、今年夏休みもう取った?」
「……来週の予定だが」
 拍子抜けしつつの答ではあったが、レッドはその言葉を待っていたとばかりに勢いをつけて起き上がった。背凭れに両肘を乗せ、グリーンに顔を向けているレッドの身体は、断続的に続く詰まったような衝撃音に合わせて上下に揺れている。
「じゃあ一緒に修行しよーぜ!」
「なんで俺が。ゴールドでも誘え。ソファの上で跳ねるな」
 冗談じゃない、とグリーンは思った。今年多目にとった夏休みを使って、今まさに取りかかっているレポートを八割まで進めてしまわなければならないのだ。ただでさえ煮え切らず、予定よりも進捗具合が芳しくないというのに。そこで、彼は以前にもこの親友と修行をしに行ったことのある後輩の名前を出したが、レッドは聞くなりにやりと笑った。
「……へー? 自信ないとか?」
「…………なに?」
 無論、それを聞いて黙っていられるグリーンではない。
「久々に思いっきりバトルしたいなーと思ったんだけど、そーゆーことならしょうがないよなー」
 ぴくりと親友の片眉が上がったのは見るまでもないとばかりに、レッドは天井を眺めながら嘯く。その態度がいかにもこれみよがしで、グリーンは既に彼の策に嵌っていたことは承知していたが、もう後に退くつもりはない。
「行けばいいんだろう。……こっちこそ、望むところだ」
 途端、やりい! と両腕を天井に伸ばしてガッツポーズをとり、レッドは背をむけてテーブルに放っていたポケギアに手を伸ばした。
「折角だからゴールドも誘っとく。で、シルバーも誘えばタッグマッチもできるしさ。あ、シルバーの連絡先…………、ブルーに聞けば分かるかな?」
 何を言い出すかと思えば、とグリーンは少し呆れる。ゴールドはともかく、シルバーはこの親友と殆ど接点が無かったというのに、開口一番、修行に行こうぜ! とでも誘うつもりなのだろうか。とはいえ、既に気分の伝染しているグリーンに止めるつもりはない。彼もまた、自分のポケットからポゲギアを取り出す。
「俺が知ってる。誘っておこう、来週の水曜からでいいな?」
「さっすが!」
 大袈裟に思えるほどの歓声を上げるレッドのことを言う気にはなれなかった。
 レポートに書くつもりの調査結果は、厚めのノート一冊にだいたいがまとまっているから、小型のノートパソコンとバッテリーと一緒に持って行けばいい——バッテリーが切れたらレッドのピカに協力してもらうことになるが、おそらく嫌とは言われないだろう。
 肌に涼しいくらいの麓の樹海を抜け、四人連れ立って足を踏み入れたシロガネ山の洞窟は、雪解け水にしっとりと濡れ、ひんやりと湿っぽい。太陽の光が届かなくなった瞬間に肌寒さを感じ、すぐさま薄手のパーカーを羽織れば十分だったが、レッドの後に続いて上へ上へと登るにつれて、次第に寒さが増してきた。山の中腹でいったん外に出て、また洞窟に入るからというレッドの言葉が現実となる頃には、更に着込んだウィンドブレーカーの前をしっかりと閉めなければ震え上がりそうなくらいになっていた。視界も悪ければ見通しもよくない、迷路のような洞窟を行ったり来たりして、何度目かの曲がり角でUターンし、やはり何度目かの坂道の登りに差し掛かったところで、前方に真っ白な光の穴が見えた。
 しんがりをつとめるグリーンは最初、洞窟の暗さに目が慣れてしまったので、外光が眩し過ぎるのだと思った。が、先頭のレッドに続くゴールドが妙に騒ぎ立てているのが気になった。先頭二人よりも数メートル離れて歩いていたシルバーも怪訝に思っているようだったが、その足取りが乱れることはなかった。
「遅かったな、シルバー!」
 ゴールドの笑い声に迎えられつつ外に出て、グリーンは納得した。眩しいと思ったのは、暗闇に目が慣らされてしまったせいだけではなく、辺り一面が白銀の雪景色だったからだ。
「今年はあんまり雪、解けなかったのかな」
 レッドが白い息を履きながら、雲一つなく晴れた山頂のほうを見やる。冷夏だからな、というグリーンの呟きに、レッドはたったいま耳にしたような顔をした。
「や〜、雪なんて滅多に降らないっスからねー、屋敷のみんなを連れてきたら大はしゃぎするだろうなァ」
「……レッドさん。道、大丈夫ですか?」
 楽しそうに辺りを眺めまわすゴールドをよそに、シルバーが淡々と尋ねる。それに応えてレッドが頷いたのを合図に行軍再開。銀世界に目を奪われていたゴールドの傍を通り様にシルバーが声をかける。するとゴールドは少しばかり面白くなさそうな顔をして、「ちったあ情緒ってもんをだなあ」云々言いながら駆け足にその後を追い、シルバーに絡んだ。
 肩に引っ掛けられた片腕を振り払うことなくシルバーは大人しく歩を進めている。たびたび見られるゴールドの反応も、軽く肩を震わせたり首を振ったりするだけで、険悪な点は見られず、会話の調子はむしろ穏やかだった。後ろからそれをまじまじ眺める機会に恵まれたグリーンは意外に思う。この二人といえば、全く喧嘩ばかりしているものと思っていたのだが。
 前後左右に油断なく気を配りながらも、グリーンはシロガネ山——自然の要塞と呼ばれる、屈強な野生のポケモン達の生息する地域の一つ——の空気に、感化されつつあることを自覚している。見渡す限り、一点のしみもない雪の絨毯に覆われ、凍りついた岩場と、思い出したように群生する裸の樹々が、まるで死んでいるかのように佇んでいる。太陽の光に濾過された空気は冷たく澄み切ってはいたが、幸いにしてちょうどよく湿気を含んでいる。だが、依然として厳しい寒さに晒された身体が、しんから引き締まって行くのをグリーンは感じていた。体力と気力。公務に塗れた日々の上で、忘れかけていた力が戻ってくる。寒さに萎縮した肌の奥では、心臓が負けじと大きく拍動し、大量の血液を一気に送り出しはじめる。幼い頃からの修練で磨き抜いた精神力が、本来の輝きを取り戻したかのように彼の中で燃え始めた。彼の名誉のために付け足しておくならば、決して修練を怠っていたわけではないが、公務の都合上、山や森という自然の中に身を置き、自らの生命力を虐め抜くということが少なくなっていたのも事実だった。それを自覚したとき、グリーンは酷く苦々しい思いがした。彼の礎となっていたのは、いつもこの力だったのだ。
 そのときグリーンは場違いにも、バックパックに詰めたレポートのことを思い出した。ジムリーダー業とは別に、彼の所属しているポケモンの研究コミュニティの集まりで発表するつもりの調査結果の報告書だ。急にそれがばかばかしいものに思えて、彼は舌打ちした。夢中になって書き募った調査用ノートと、書きかけのレポートを保存しているノートパソコンに、この静謐な気分をぶちこわしにされた気がした。持ってこなければよかった、と彼は思った。
 それからまた洞窟を出たり入ったり、休憩を挟みながら歩くこと数時間、一行はレッドが見つけたという、キャンプをするのに丁度良い洞穴に辿り着いた。切り立った急勾配の崖に近付いて地面との接地面を隠すように覆い尽くした分厚い雪の層を、レッドの指示に従い、シルバーが手持ちのニューラに掘り返させると、ちょうど大人一人がやっと入り込めるような、小さな隙間があらわれた。真っ黒に塗りつぶされた穴の奥は見えず、レッドのピカが先んじて安全確認を引き受けた。彼のフラッシュに照らされた穴の中に入り込むと、そこは十畳ばかりの空洞になっていた。天井が低く、膝を曲げるか膝立ちでしか移動することができないが、ある程度地面はなめらかに整えられており、広さも全くおあつらえ向きで、四人が暖をとるにはちょうどいいだろう。
 いつまでもピカのフラッシュに頼るというわけにもいかず、また、洞穴は狭いために下手に大型のポケモンを出すわけにもいかない。一番奥まったところには、レッドが去年、今年使うつもりで蓄えておいたという薪の束が残っていたので、一抱え持ち出して、火をつけた固形燃料を囲むように重ねる。火はゆっくりと燃え出して、その周囲をうすぼんやりと照らし出した。
「はー、もうくたくたっス」
 不意にゴールドが、大きく溜息をついて座り込んだ。くだけた口調ではあるが表情は本物だった。緊張が緩んだのだろう。元より、ゴールドは特別鍛えているというわけでもない。ここまで他の皆のペースについてこれたというだけで、上出来と言える。
「火を起こせば直ぐにあったまるよ」
 闇の中に浮かび上がったレッドがそう言った。
「……。リングマの巣穴だったのかもしれないな」
 グリーンは推測を口にして、ちらりとシルバーを見たが、彼は困ったように首を横に振った。電波の届かない場所でたびたび過ごすとはいっても、流石に雪山で暮らすようなことはないのだろう——確かに、わざわざそんな気を起こす物好きは、おそらくレッドくらいのものだな、とグリーンは思い直した。
 チリビーンズやオイルサーディン、スパム。空ければ直ぐに食べられる缶詰群がずらりと並ぶ横で、ゴールドとシルバーは水煮やホールトマト等、調理用と思しき缶詰も持って来ていた。小さなスパイスのパックを取り出しながら、市販のやつはずっと食べ続けてると飽きるんスよと、ゴールドの意外な一面を見た。グリーンと目の合った親友はちょっと肩をすくめた。レッドはゴールドほど食べ物に頓着しない性質らしかった。ゴールドは飯盒と米まで持ち込んで来たから、期待していたよりも遥かに上等な食生活が送れそうだ。ちなみに、シルバーは野宿経験は多くとも、缶詰のような長期保存用食料を使う機会はなく、食料に関してはゴールドに任せたらしい。彼は積み上げられた缶詰の山には目もくれず、入り口の方向に顔を向けている。
 ほっとしたら、引っ込んでいた食欲が戻ってきて、まずは遅い昼食をとった。缶詰を火にあてて、温めてから黙々と食事をしたが、思ったより量はとれなかった。それでも腹を満たすと疲れがどっと押し寄せてくる。
「俺、今日はもう無理っス」
 真っ先に自己申告したのはゴールドだった。続くように、俺も今日はやめておきます、とシルバーが真摯に告げた。
「グリーンは?」
 レッドの大真面目な表情を受けて、化け物かお前はと突っ込みたくなったが、グリーンはその言葉を呑み込んだ。親友は無表情だったが、目の色が違った。発情期のポケモンさながら、高揚して落ち着かない気分でいることを、その目はありありと語っていた。
 グリーン自身もまた、自分が高揚していることを自覚していたが、過ぎるがゆえに、今日は自粛するつもりでいた。だが、レッドのその表情を見たら、黙ってはいられなかった。またしても、気分が伝染した。
「三十分後だ」
「よっしゃ」
 うわーバケモノかよ先輩たち、とゴールドが軽口を叩き、シルバーは何も言わずにそのやりとりを眺めていた。



 胸が熱く、息切れがして、動悸が止まない。炉に石炭を放り込まれて猛烈な勢いで走り続ける汽車が、その心臓部から爆発寸前まで膨れ上がった蒸気を煙突の細い筒から吐き出しては、まだ苦しいともがきながら、無理矢理にベアリングを回転させられ車輪をまわすのに似ていた。だが、今はもう、停まっている。心臓は停まっている。排出の追いつかなかった蒸気が、外気に冷やされて白い煙となって、真っ青な空の上にのぼっていく。
 寝ると死ぬぞ。遠く聞こえたその切れ切れの笑い声にも、グリーンは顔を傾ける気が起こらなかった。ただ思い出しただけだ。ここには、喘ぐように熱を吐き出しているものが、もうひとつあるのだと。寝ると死ぬのか。問い返したのは、それなら毎晩死んでいることになるじゃないかと思ったからだった。答がかえってくるまで、やや間を要した。
「死ぬさ」
 今度の声はすぐ近くで聞こえた、と思ったら、まだ息の上がったレッドが、上から覗き込んでいた。
「戻ろう。シルバー達が心配してるみたいだ」
 その言葉を怪訝に思って起き上がったグリーンに、レッドはある一方向を指でさししめした。顔を向けた先には、シルバーのニューラが佇んでいた。妙に取り澄まして、何もかも心得ているような顔をして、行儀良くその場で待っていた。
 立ち上がったふたりはそれぞれに振り返って見た。先ほどまで熱烈なバトルが繰り広げられていた雪原は、今はひっそりと静まり返っている。西日が差しかかり、暗い影も迫り上がりつつある、雪の丘陵。その紙のように白いふちを滑る、紫の影や橙の光がだんだんに色を変えてゆく。しみひとつなかったまっさらな雪原はそこらじゅう荒らされ、足跡や、掘り返した跡や、溶けた跡などの弾痕が、分厚い雪の層を抉って大地を剥き出しにしていた。それでも、氷の粒のひとつひとつは、太陽の熱に表面を溶かされては光る。地面を厚く覆い尽くす、無数の粒はそれぞれに潤み、一体となってきらきら輝く。その光、その無数の光線を、佇むふたりの目は受け止め、解析し、感覚する。何もかも、変わらないまま。
 戻ろう、とレッドが言った。
「陽が沈むと、戻れなくなるから」
 しずしずと歩を進めるニューラを先導に、ふたりは歩き出した。歩きながら、グリーンは、自分が柄にもなく沈んだ心持ちであることに気付き、また、先ほどのレッドの声は妙に寂しそうだったかもしれない、と思い、打ち消した。気分が平静でないときは、正気の判断など望むべくもない。よけいな憶測などしないに限る、と彼は軽くかぶりを振った。
「……あいつら、何喋ってるのかな」
 ふとレッドが思いついたように口にした。おそらく、残して来たゴールドとシルバーのことだろうと思って、グリーンは、さあな、と応えた。喧嘩してないかなとレッドはなおも呟いた。グリーンは、ここに来るまでに見た、あの二人の意外にも仲のよさそうな姿を思い起こして、答えた。
「大丈夫だろう」
「だって、前に修行に行ったとき、ゴールドの奴、すっげえシルバーを目の敵にしてたんだ」
「何年前の話だ」
 グリーンは素っ気なく言った。二年も経過すれば、いろいろなことが変わるのは当たり前のことだ。二年前のあの日には、まさか、オーキド博士から図鑑を、ウツギ博士からポケモンを盗んだトレーナーと、一緒に修行をする日が来るなんて思いもしなかったし、ジムリーダーの公務をしていようとは予想もしなかった。バトルのある瞬間から次の瞬間には戦局ががらりと変化することを思えば、何かが変わり過ぎるにも十分な時間だ。
 すると、レッドは黙ったので、グリーンも口を閉じた。その沈黙に違和感を感じた。けれどもその正体が分からないまま、黙々と足を動かした。
 目的の洞穴が見えて来た頃に、レッドが口を開いた。

「……最近、俺さ。お前と何を話していいのか、分からなくなるときあるんだ」

 その言葉は、グリーンの違和感を見事に言い当てていた。





「おかえりーっス!!」
 洞穴に滑り込むなり、威勢の良い後輩の声と共に、むっとするような熱気、食欲をそそる油の匂いが纏わり付いて来た。レッドが歓声を上げて這っていった先を見ると、ゴールドが火にかけた三つの飯盒のすぐ傍でおたまを揺らしている。アルミ製の丸っこい調理器具の中では、ぐつぐつと赤色のスープが揺れている。
 キャンプ地の洞穴に入る直前、まるで執事か何かのようにレッドとグリーンに先を譲ったニューラが続いてするりと降りて来て、壁際にいるシルバーのもとへ戻って行った。何の料理だ、とレッドが尋ねるのに、トマトと豆のスープっスよ、レンツ豆とひよこ豆と、押し麦も入れて、そうそう、あと牛肉も! そんな会話を背にしながら、グリーンは焚き火よりも手前側で、ちょうどニューラをボールに戻したところのシルバーに目をやった。
「すまなかったな。迎えまで」
 声をかけると、シルバーは、いや、と素っ気なく応える。グリーンは遠目に焚き火を囲むふたりの姿を見やり、再びシルバーに視線を戻した。おそらくそもそも迎えを遣ろうとした発端は、彼のほうだろう。仮にそうでなかったとしても、遅いか早いかの問題で、彼は必ず迎えを寄越したに違いない。
「レッド」
 グリーンはその場で、レッドに顔を向ける。彼は焚き火の傍で、ポケモン達を回復させていた。丁度良い。
「ブイを出しておけ。常に天候の予測をしておきたい」
 傷は回復させたとしても、先ほどのバトルの疲れの取れていないところ、ブイには苦労をかけるが。レッドはきょとんとして、忘れてた、と呟いた。
 やがてマグカップ大のアルミの容器に、三分の二ほど盛られた料理は、スープというよりは煮込み料理に近いように感じた。香草の浮かぶトマトのスープにスプーンを入れると、これでもかと詰め込まれた豆の層に突き当たる。掘り起こしてみれば、繊維状になった牛肉の解し身が覗いた。ほどほどに掬って口にいれると、思ったよりもずっと普通だった——というのも、こういった条件の厳しい状況での料理は、材料の不足や、保存のしにくさから、料理が得意であったとしても、まともに作れることのほうが少ないからだった。予想していたトマトの酸味はそれほどでもなく適度に薄められ、それから申し訳程度の、コンソメかブイヨンと思しき旨味成分。絶品と呼ぶには味気ないが、調理の残骸を見るに、転がっているのは数個の缶詰だけだ。どれもきれいに使い切られている。
「流石ゴールドだよな、普通にうまい。しかもきっかり使い切ってるし」
「へっへー、それほどでもないっスよ」
「なんかコツとかあんの?」
「コツう? うーん……俺、ちょくちょく自炊してたんで、どの缶詰がどういう味するかって大体覚えてるんスよ。あとは、ラベルの成分一覧かな? こいつで大体予想できるんスよねー」
 ラベルの成分一覧、そんなんで分かんの? と、訳知り顔のゴールドの手元を覗き込むレッドを焚き火の向こうに眺めながら、グリーンはふと、レッドの言葉を思い出す。最近、お前と何を話していいのか、分からなくなるときあるんだ。ゴールドやシルバー、ブルーと話すときは違うというのかと考えて、自分もまた、人のことは言えないのだと気付く。レッドとは、今まで多くの言葉を交わしたはずだった。とてつもなく多くの、ひょっとしたら今まで関わって来た人々の中で、レッドとは最もたくさんの言葉をやりとりしていて、それ以上が考えられないなんて、そんなふうに感じていたことを自覚した。冷静に考えてみれば、レッドとのやりとりなんて、グリーンの生活のごくごくイレギュラーなケースの一つに過ぎなかった。それなのにどうして、振り返ってみると、確かにレッドとは誰よりも多くのことを語り合った気になっていた。今になって考えてみれば、言葉の数など二十思い出せるかどうかすら怪しいところなのに。
 レッドはいま、流暢に喋っている。ゴールドにかけるべき言葉を見つけ出す。レッドからグリーンへ、またグリーンからレッドへも同じことには違いないのに、今、答を求められれば、自分でも言葉が見つからないのに決まっていることもグリーンは知っていた。
 食事の後に、グリーンとレッドの修行がどんなものだったかと尋ねたのもゴールドだった。横でレッドが喋るのを手持ち無沙汰に聞いていたグリーンは、時折訂正を差し挟んだ、というのも、殊更好敵手同士ではありがちなことではあるが、レッドは話を誇張したがる癖があったからだ。先輩として後輩に接する態度に相応しく、はじめレッドは節度ある態度を保とうと努めていたようすではあったが、話に熱中してくると、選ぶ言葉や声の響きが酔ったような熱を孕みはじめる。それは決して短所とも言い切れない特徴ではあったが、この場合、レッドが、リザードンの炎が分厚く積もった雪に大きな穴をあけたことや、ニョロに指示を出しながら自分がどんなことを考えていたかということを話す間の、自分やグリーンへの素直な賞賛とともに、ほんの無邪気な感情——自分が好敵手よりも優位に立っていたことを主張したいという思いが見え隠れする。そういうとき、グリーンは倫理的な教師としての側面よりもむしろ、彼の良き好敵手の義務として、文句のひとつも呈さなくてはいけないということだ。
 話の途中、危ない局面はいくつかあったものの、幸いにして、二人とも先輩としての尊厳をまるきり忘れてしまうまでには至らなかった。とはいえゴールドは最後のほうにもなってくると、レッドとグリーンが張り合うのにすっかりあきれ果て、肩をすくめてシルバーに目配せをしてみたり、シルバーは先輩たちが言い争うのをふしぎそうに眺めるのだった。が、意地の張り合いもほどほどに、何とか最後の場面まで話し切ってしまったのだから、この話し合いはとりあえず後輩への訓示の体を保つことができたわけである。後輩二人は先輩達があまりにも張り合うのに唖然としてはいたが、話の内容自体はポケモン研究の専門用語を使うようなレベルの高い戦略もいくつか混じっており、先輩達が言い合っているあいだに、時たまシルバーがゴールドにくだけた解説を差し挟まなければならなかったほどである。そのために、話が終わった後でも、後輩二人の目から尊敬の色が消えたわけでもなく、かえってやや強まったくらいだった。
 それからは皆で話す種もなくなったと見え、ゴールドはピカとピチュに混じって遊び、レッドとグリーンはさっきの話の続き(後輩の手前、打ち切った意地の張り合い等もろもろ)をはじめ、シルバーはブイやニューラと一緒に入り口付近に座ってぼんやりと外の様子をうかがっていた。グリーンと、おそらくレッドも、それから後輩達のあいだに何かやりとりがあったのか、よく覚えていなかった。しかし話にひと区切りがついて気がつくと、ゴールドはピカとピチュと、半端に寝袋に包まった状態で眠っていて、シルバーも然りだった。シルバーの寝袋からは、レッドのブイが顔だけ出して眠っていて、傍にニューラが丸くなっている。レッドとグリーンは顔を見合わせてみて、互いにちょっと肩をすくめた。無言のまま、レッドが殆ど尽きかけていた焚き火を靴で揉み消した。
 真夜中、ふっとグリーンは目を覚ました。その切っ掛けが物音だったのか、それとも話し声だったのか、それはわからないが、不意に誰かが動いた気配を感じ、条件反射的に目を開くと、携帯用LEDランタンの白い光の中に、ぼんやりと人の影が揺らいで、間もなくして消えた。
 微睡みのなかにあった意識が再び引き上げられるまでに時間を要した。洞穴内の空気には、まだほんのりと温もりの名残が感じられる。寝袋を剥いで起き上がってみると、薄明かりの中、ほとんど冷たくなった薪の向こうでゆっくりと上下する膨れた寝袋の隣に、空の寝袋が無造作に脱ぎ捨てられている。そこから少し、洞穴の入り口に近い場所で、人が起きているが、暗闇にまだ目が慣れず、誰かまでは判別できない。が。
「シルバーか?」
 なんとなく、そう思った。すこし送れて、はい、と闇の向こうから平坦な声が返事をする。グリーンは再びちらりと空の寝袋に視線をやった。
「レッドは」
「散歩と」
 ポケギアの画面を見る。午前三時。耳を澄ましても風の音が聞こえないあたり、天気は良いのだろうが、と内心グリーンは溜息をつく。覚醒の直前に聞いた気がした話し声なり物音なりは、レッドだったのかもしれないと思い当たる。もっとも、目の前の後輩相手に文句を洩らしてもしかたがない。
「お前もレッドに起こされたのか」
 だとしたら気の毒だ。しかしグリーンの言葉を黙って聞いていたシルバーは、暫く黙った後、素っ気なく視線を逸らす。それはどう答えてよいのか分からないための仕草にも見えた。
「もともとそんなに深く寝ていないんだ……」
 歯切れのよくない返答ではあったものの、シルバーは平常、たいていのことなら驚くほど妥当な判断をする(とグリーンは見ている)から、おそらく問題はないのだろう。
「……お前が大丈夫ならいいが」
「先輩こそ」
 引き下がったグリーンに、シルバーは控えめに笑った。いつの間にか闇に目が慣れてきたらしく、彼の表情まで見えるまでになっていたが、すっかり目は覚めてしまった。グリーンはしっかり眠れているつもりでいたが、やはり急激に変化した環境に、身体のほうが緊張しているのかもしれない。寝直す気にもなれず、焚き火の傍に転がっていた点火棒で固形燃料に火をつけ、薪の中心に置いた。
 それに比べて、とグリーンは空の寝袋の隣を見る。ゴールドはぐっすりと眠り込んでいて、起こしたって起きそうにない。寝袋の合わせ目から、ピチュの尻尾の先だけぴょこんと飛び出している。ピカとブイはレッドについていったのだろうか。
「ゴールドはよく寝ているな」
「あいつはいつもあんな感じだ」
 語尾にこころなしか呆れの滲んだグリーンの声に、シルバーがフォローなのかそうでないのか曖昧なコメントをする。投げやりにも聞こえるその言葉の響きが意外で、グリーンは思わず尋ね返していた。
「ゴールドとはよく会っているのか?」
 え、とシルバーは目を丸くした。グリーンがよもやそんなことを尋ねるとは思わなかったとでも言いたげな顔だが、彼は答だけを淡々と口にした。
「以前、あいつの家に暫く厄介になったことがあって、それで今もたまに」
 そのときグリーンの脳裏に、いつかのレッドとの他愛のないやりとりが思い起こされてきた。
 いつものように休日のトキワジムに訪れたレッドが、そういえば俺たちって一緒に遊びに行ったりしないよなあ。そう言った。なんだいきなり、と答えたグリーンに、うーんとレッドは煮え切らなさそうに唸って、言い訳のように口にした。いやゴールドに言われてさ。何を。あいつ、シルバーと遊びに行ったり、シルバーを家に泊めたりするんだってさ。その言葉を聞いたときに、グリーンは殆ど無意識に、何で、と尋ねていた。レッドは困ったように、俺もそう言ったんだ、と一拍おいて、急にまじめな顔になって答えた。そしたら逆にゴールドがすげえ驚いてた。と。
 それからこんな話をした、レッドが、お前俺と遊びに行きたいとか思う? と言って、グリーンは、別に思わない、と答えた。なんだよそれ傷つくなー、と形ばかりの文句を言ったレッドは少し置いて、俺も、とこころなしか嬉しそうに同意した。
 違うんだ、あのときの言葉はそうじゃなくて。思わない、というよりは、想像できない、のほうが正しい。グリーンにとってのレッドは、そういう存在ではなかった。そうしょっちゅう会うわけでもない。互いの家や遊びに行くわけでもない。好きな料理や、趣味や、家族のことも殆ど知りもしない。なのに、グリーンにとってレッドは誰よりも近しい存在だった。唯一無二、彼がいなくなればグリーンもまた、グリーンではいられなくなるように感じていた。
 ふとシルバーが顔を上げたことに、グリーンもつられて入り口に視線をやると、ちょうどレッドが戻って来たところだった。防寒着の襟元にピカを突っ込んだ姿で洞穴内に足を踏み入れ、あったけーと小さな歓声を上げた。
「お、グリーンも起きてたのか」
「どこに行ってたんだ」
「散歩がてら、今日どこで修行するか下見にさ。あー寒かった!」
 シルバー留守番ありがとな、と笑うレッドに、シルバーは短く、いえ、と答えるのみで相変わらず素っ気ない。こいついつもこんなですけど悪い奴じゃないっスよホント! というのはゴールドの弁。特にレッドはゴールド経由でシルバーのことを図らずも聞く機会が多かったらしいので、無愛想な後輩の扱いも手慣れたものらしい。
「な、朝飯前にちょっと身体動かしてこないか?」
「……お前は……」
 昨日の今日で、流石に呆れてグリーンは溜息をつくが、レッドはきょとんと首を傾げる。
「? なんだよ?」
「……なんでもない。行くぞ」
 レッドは歓声を上げて再び外へ逆戻りした。残されたシルバーが、続こうとしたグリーンを引き止める。
「グリーン先輩、ゴールドがまだ寝ている」
「……ああ。そうだったな……」
 どうしたものかとグリーンが思案するのと同時に、もしよければ俺がレッドさんに付き合います、とシルバーが言ったが、グリーンは一瞬、その言葉の真意が分からずに沈黙し、それから昨日、レッドとグリーンがバトルに出たばかりなので気遣っているのかとも思った、が。
「グリーン先輩は、その間にレポートを」
 それでようやく納得がいった。今回提出するレポートを纏め上げるために助力を求めていた関係で、シルバーはあの調査に関してよく知っている。研究内容だけでなく、あのレポートがコミュニティにもたらすであろう効果を、また、あのレポートにかけるグリーンの情熱も。だがシロガネ山の自然の中にいるグリーンは、レポートのことなど今はすっかり頭からなくなって、あれほど力を注いだ研究活動も今やこれっぽっちの意味もなくなってしまって、むしろ全く余計な汚点のように思われていたから、その申し出は不要だった。それよりも、レッドが修行を積んでいる間に、自分が同じ修行をしていないということのほうがずっと重要だった。
「……気にするな。それより、朝食の後にはゴールドも含めて身体を解すだろうから、お前が身体を休めておけ——あまりよく眠れていないんだろう」
 その言い訳はグリーン自身にも最もらしく聞こえ、彼は満足した。



「よっしゃー!!」
 青空に歓声が響き渡る。やるじゃねーかシルこう、ニューラもな! ゴールドのハイタッチに応えるシルバーに表情は無かったが、満更でもなさそうだ。
 後輩達の微笑ましい光景を遠目に眺めながら、唖然とした状態からようやく立ち直りかけていたところだった。穴だらけの雪原には、彼らの最後のポケモンだったカビゴンが伸びている。一方その向こうにはニューラと、ほとんど体力の尽きかけているトゲたろう。バトルフィールドを眺め渡すと、半ば呆然としたままのレッドが小さく呟いた。
「参ったな」
 グリーンはちらとその横顔を窺う。目の焦点が一点を見据えてぶれない。
「まさか負けるなんて」
 ゴールドとシルバーが組んだときの戦い方は、一言で表すならかなり無茶だ。オーキド博士に、無茶加減はレッド以上だと言わしめるゴールドは生粋のギャンブラーでもあり、一見無謀にも思える賭けにも果敢に挑んでくるし、究極技を一瞬で習得する並外れたセンスを持つシルバーはシルバーで、元々の実力が高いために力押しをすることにも怯まない傾向がある。加えて厄介なことには、とにかく勝負強いのだ。ゴールドは無謀にすら勝機を見出し、シルバーはとにかく勘が鋭く、おまけに二人とも純粋な実力差ではレッドとグリーンに勝つのは難しいと分かっているから……、更に拍車がかかるわけである。
 トゲたろうがゆびをふって、たまたまかえんほうしゃがハッサムに当たり、ニューラのきりさくが、手負いのカビゴンの急所に当たった。おそらくはたまたま運が良かったに過ぎない。しかし、先輩二人からしてみれば、不覚。その一言に尽きる。
 それだけならまだしも、ふと、グリーンの頭を嫌な考えが掠めた。今更になって、タッグバトルの間に、何かしらの違和感を感じていたような気がしはじめた。レッドの声。轟音、雪しぶき。何も変わったことなどなかったはずだ。何かが引っかかっているのに、その正体は雪景色の向こうにぼやけて掴めない。なんとか目を細め、手を伸ばそうとした矢先に目の前の光景が風に攫われた。
「もう一戦。次は負けないさ、なっ、グリーン!」
 底抜けに明るいレッドの声だった。顔を上げれば、レッドその人、それから、少し離れて立っている、ゴールドとシルバー。今日も、よく晴れている。先ほどまで感じていた不透明な靄はどこにも見えない——止めよう。だいいち気のせいかもしれないんだ。
「ああ。休憩と作戦会議、三十分、その後再開でいいな」
 望むところっスよー! ゴールドが手振りを交えて叫ぶが早いか、シルバーの肩に腕をまわして体重をかけつつ何か言っている。すっかり順応したらしいシルバーは反応らしい反応もなく応えている。その光景を一言であらわすなら、意外。グリーンが不意に視線を感じて首だけで振り向くと、目の合ったレッドはすこし肩をすくめるしぐさをして、遠く後輩たちを仰いだ。
「仲いいよな、あいつら」
 仲がいい。何かあるごとに距離の近いあの様子は、確かにその言葉がぴったり嵌るような気がする。
「ゴールドはともかくさ。シルバーは、あんまりゴールドのことライバルって意識してないみたいだし、だからなのかな。なあグリーン、おまえシルバーからゴールドの話、聞いたことある?」
「無いが……もともとシルバーは口数が少ないだろ。それに俺とゴールドじゃ、接点が少な過ぎる」
 そうかあ、俺はよくゴールドからシルバーのこと聞かされたんだけどなあ。とレッドが呑気に言う。最も彼らの後輩達が、彼らとはまた毛色の違ったトレーナーであることも確かなのだが。
 レッドが電話したとき、ゴールドはジョウト小旅行中で、ちょうどチョウジにいるらしかった。彼はたまに、宛もなくあちこちをふらふらしている。その目的はポケモンを強くするためでも、自分を鍛えるためでもなくて、単に楽しみのためだった。遠出して野っ原で夜を明かしたり、久しぶりに訪れた土地の変化に驚いたり、あるいはまったく変わっていないことを笑ったりするのが彼の楽しみらしい。純粋に強さを求めることよりも、そうして他愛もない毎日をポケモン達と過ごすことを重要に考えている彼は、何かの目的でもなければ修行しようとも思わない性質のようだが、今のところ、ライバル視しているシルバーの存在が彼のやる気の原動力となっているのもあって、かつて一緒に修行したこともある先輩に誘われ、しかもシルバーも誘うつもりだと告げられれば、一二もなく食いついた。
 一方、グリーンの連絡したシルバーのほうはといえば、相変わらず一所に留まらない生活をしている。街中にいることもあるが、人気のない森や山に籠っていることも多く、ひょっとすると電波の届かないところにいるので、メールを送信しておいた。彼が何を考えて、いま何をしようとしているのか、比較的懇意にしているグリーンすらも、あまりよく知らない。ただ確実なのは、かつてカントー最強と謳われたトキワの先代ジムリーダーであり、同時にカントー全土を恐怖と混乱に陥れたロケット団の首領であるサカキが父親と分かってからというもの、ひたすら修練を積んでいるということだ。
 二人にはいつも何かの目標があって、修行や数々の戦いは手段の意味合いを多く持つ。ライバル意識や、強くなることを純粋に楽しむ側面もあるものの、おそらくそれが手段を超えることはない。きっと、バトルや修行のこと以外でも、彼らはお互いを知っている。
「……俺らもああする?」
「なぜ」
「やっぱイヤか?」
 めずらしく食い下がるふうのレッドに驚いてふたたび顔を向ける。レッドは驚くほどまじめな顔をしていて、グリーンは、嫌に決まっているだろうと言いかけた台詞を呑み込んだ。
「嫌、……というか……何か違うだろ」
「うん、違うよな。わかるけど」
 レッドはいったん言葉を切った。
「……俺さ、わけもなくグリーンってずっと傍にいるもんだと思ってたよ。でも今考えると、ホントなんの根拠も無かったんだよな。考えてみればさ、最初の旅が終わって以来、お前と会うのなんて何かの事件にあったときと、数ヶ月に一回、俺がジムに行くときくらいだ」
 それはグリーンがここ数日考えていたことと寸分違うところがなかったが、グリーンは驚きはしなかった。むしろ、その次の言葉が分かったくらいだ。
「今になって、どうしてだろうって考えるんだ。いつも、考えるより先に——」
「せんぱーい!!」
 レッドの独白はゴールドの呼び声によって中断される。反射的に二人が顔を上げると、いつの間にかゴールドとシルバーが先ほど立っていた場所よりも向こうの岸壁の前で、大きく手を振っていた。レッドとグリーンは思わず顔を見合わせて、無言のうちに歩き出した。
 踝あたりまでを雪の中に埋めながら、二人が後輩たちのところにたどり着いたとき、背を向けて胡座をかいたゴールドのかわりに、彼を見下ろしていたらしいシルバーが振り返った。ゴールドの丸まった背中の向こうに見える影を、レッドは覗き込んだ。
「……そいつは」
 ゴールドの前には、ゴマゾウの子供が五匹、散らばるように倒れこんでいた。彼らは一様に弱り切っていて、雪の上で細い息を繰り返している。
「モンスターボールを持って来てませんか」
「ああ」
 シルバーの言葉にグリーンは頷いて、ボールに彼らを収めた。少なくともこの雪山の気候よりは、はるかに快適だろう。
「あと一匹は?」
 ふと気づいて、レッドが言った。ゴールドがもう一匹のゴマゾウの手当てをしているらしい。ゴールドはむつかしい顔をしたまま、視線を離さず、わかんねえ、とひくく呟いて、やがて手を離した。
「……後は、お天道さんに祈るばっかりさ」
 ゴールドは息をつき、それから大きく息を吸い込むと同時に、顔を上げた。彼のズボンは微かに血でよごれていた。組み合わせた膝の中には、ぐったりしたゴマゾウのこどもが埋れている。その子は、決して幼すぎはしなかった。後ろ足の爪は強く鋭く伸び始め、皮膚は硬くなりつつあり、あどけなさの残る顔立ちに、決してわざとらしくない精悍な色が垣間見えはじめる、大人になろうとする年の頃。これから彼は分厚い皮を纏い太い足で地面を蹴り、勢いをつけて丸まって転がったり、あの頑強なドンファンの子らしいことをしてゆくのだという希望と不安とともに、生涯でもっとも美しい時候の一つを迎えたばかりのこどもの、いくらか彫りの深くなったその顔の真ん中には、彼らが生活するのにもっとも重きを置く器官——鼻が無かった。顔の中心部には、ずんぐりした膨らみが綺麗に巻かれた清潔な布につつまれているばかりだった。
 レッドは無言でしゃがみこむと、最後の一匹にモンスターボールの開閉スイッチを押し当てた。


 あるとき目覚め、塒の外へ出るたび、山は光で満ちている。朝だ、と感じる。雲が落ち、三日三晩続く吹雪の間、じっと闇の中に身を潜めている間、目は開いていても、手を動かしていても、光が射さないうちは、やっぱり眠っているんだろう。時間も規範も、遥か地上に置き去りにされて、一日は三日に、三日は一週に、一週は一月に、一月は一年に。そしてあるときに下山してみると、二週間ほどの滞在だったはずが、三日、遅れている。
 日めくりカレンダーをめくるのを、しばらく忘れるときがある。あるとき気付いたときには二週間が過ぎていて、明々後日くらいまでの日付が透けて見えるほど薄い一日分の紙を十四回ちぎりとる羽目になる。一枚一枚があまりにも極薄なので、こんなに一日というものは薄いものだろうかと疑問に思ったりもするものの、十四回ぶんの紙を一回目、二回目とちぎりとりながら、その日何をして、どんな気持でいたかなんて、まったく思い出せない。一日と十四日なんて、じつはそんなに変わらないんじゃないかとすら思ったりする。あの感覚と、おなじだ。
 山から降りる度、地上では何かが変わっている。子供の頃は気にも留めなかったものが、決定的に変化しているのを、今は感じ取ることができる。ただ、それは頭の中で理解できるだけの話で、それを羨ましく思ったりとは違う。ただ、かつてはすべて一面の大雪原だった世界が、ふたつに分かれてしまって、かつて自分のまわりにあったものの多くが、もうひとつの世界に吸い取られてしまって、寂しい。
 先を行く足跡。足の形にへこんだ雪に、うっすらとかかる青い影。顔を上げたとたんに大きく凪いだ風に赤い長髪が翻る。視線の先では、シルバーと、その従者のようなニューラが二つに分かれた山頂が雲海へ浮かぶ方向へ歩いている。ふ、とレッドは彼らの歩く先が崖であることを思い出した。
「ふたり共、そっちは崖だぞ」
 レッドがそう声をかけると、シルバーとニューラは殆ど同時に振り返った。きょとんとした表情が似ていた。やがて二人は連れ立って、すなおにもどってきた。
 ゴールドがゴマゾウの子供達を拾って二日、ひとりを除いて、彼らは一様に元気になった。勿論、まだ元気になっていないひとりというのは不具になった子のことで、彼女は昨日の夕頃から高熱にうなされていた。修行のために持ってきていた、市販のきずぐすりではどうにもならない。その矢先に、レッドはとある薬草のことを思い出した。ドラッグストアで売っている、桁外れて高価な薬の主成分となる薬草が、シロガネ山に自生している。レッドは何回目かの登山の際に、怪我をして倒れていた薬屋から聞いて、彼の怪我のためにその薬草を探しにいったことがあった。幸いにして一日で往復できそうな距離だった。
 四人はポケモントレーナーであるから、ポケモンの怪我や病気の治療は専門外だったが、グリーンはオーキド博士の孫だけあって、この場にいる中では、医者として一番ましな処置ができそうだったし、ポケモン屋敷で育ったゴールドは、弱ったポケモンへの食事もお手の物だった。消去法からいって、今朝方、レッドとシルバーが出発した。道のりの半分まで鳥ポケモンで飛んできたのだが、風が強くなって安定が立ち行かなくなり、二人は降りて歩き出した。
 シルバーは余計なことを言わない。それにニューラはもちろんのこと、ほとんど足音を立てない。沈黙を当然として受け止めるらしかった。足跡さえ残らなければ、その存在を忘れてしまうほどに。だからレッドは、普段は意識から遠ざけていることを深く考え込んだり、忘れようとしていたことを思い出したりしたのかもしれない。彼が戻って来て、ふたたび、少し違う方向へ歩き出す。シルバーはいつの間にか、レッドよりも少し前を歩いている。こおりタイプのニューラが、雪原の散歩に浮き足立っているのかもしれない。透明な風のように、彼らは軽く雪原を滑っている。
 誰にも言ったことがないことだが、レッドはシルバーと聞くと、サカキを連想する。大人でありながら、社会に反逆するあの男。レッドも、あの男が考えていることについてはよく分からない。ただ分かるのは、強さを愛し、戦いを楽しむことのできる男だということ。けれど、それだけ分かれば十分じゃないかとも思う。彼との戦いは熾烈を極め、ただただ恐ろしかったけれども、同時に毒々しいほどに鮮やかだった。今でもレッドの記憶に強く印象づいているあの男の息子が、ブルーの義弟で、ゴールドの友達で、今、レッドの少し前を歩いている、シルバー。
(……世間って狭いよな)
 何度そう思ったか分からない。
(でも、まあ…………確かに……似てる、のかもなあ)
 あくまでグリーンやゴールドや、他のまわりの人々と比較して、だが。どっちかといえば、サカキ寄りな気がする。
 シルバーは家を持っていない。各地に寝泊まりできるような場所を作っているのだという。そして今は、父親サカキを改心させるべく修行を——、と、そこまで考えて、微かに引っかかるものを感じた。
「シルバーってさ、修行するとき、どうしてんの?」
「…………どうしてるって」
 シルバーは軽く視線をこっちに向け、困ったように答えた。
「自主トレと、野生ポケモンと戦ったり、後は……勝ち抜き戦や修行の出来る施設に行くくらいだ」
「うん…………、だよな。俺も色んなとこ行ったけど、シロガネ山はかなり修行に向いてる場所だと思うんだ。でも、来たこと無かったんだろ。どうしてかと思ってさ」
 レッドのほうに視線を向けないまま、シルバーは同意した。
「そう思う。だが、ここは危険過ぎる」
「……まあ確かに、毎年何人か死んでるけど」
 すこしの沈黙があった。シルバーの歩く速度が、少し鈍った気がした。
「……。ねえさんと二人で旅をしている頃、明け方、寒さで路上死した人間を見た。酔っぱらって眠って、そのまま死んでしまったんだろうってねえさんが言ってた」
「ああ……毎年いるよな」
「俺は、あんな死体になるわけにはいかないから……寒い所には、行かないようにしてきた、だけだ」
 酔っぱらっているとはいえ、なぜあんなふうに死んでしまうんだろう、とみんな不思議がっていた。あるいは酔っぱらわないでさえいれば、とみんな口を揃えて言っていた。だが、今のレッドにはそうは思えなかった。酔っていただけだったのだ。彼はただ酔っていて、その結果たまたま死んだ、その人はそのとき酔わなければならなかったのだと、レッドには分かっていた。
「寝たら死ぬもんな」
「寝たら死ぬ」
 呟いたレッドに応えるように、シルバーも言って、ちらりとレッドを振り返った。その口元が小さく動いた気がして、レッドには、シルバーがこういったように思えた——あなたは、それでいいのかもしれないけど。そうかもしれない。レッドはひとり口の中で呟いた。
 件の薬草は、西南の方角へ真っ直ぐ。今年は冷夏だったらしいので、多くの雪が溶けずに残っていて、いくら歩いても、景色は変わり映えしない。白い丘陵が連なり、広がる雪原を渡り。レッドの少し前でうねり流れる赤い髪も、シュプールみたいになだらかな後端の足跡が織りなす影も、沈黙も、消え去った時間も。
(違うんだシルバー、俺にとっては、雪山での目覚めこそがほんとの目覚めなんだよ)
 彼にとって、父親との戦いが本当の目覚めであるのと同じように。
(旅立つよりもずっと前から、俺はここで目覚めてきたんだ)
 何もない真っ白な大地の上で、昨日のことのように思い出せる、マサラタウンを旅立った日の記憶。
 マサラはまっしろ。はじまりのいろ。


「ポケモンリーグの歴代チャンピオンは、悉くマサラ出身者、ねえ……そんなジンクスあったんスか」
 洞穴の中を走り回るゴマゾウの子供達をあやしながら言ったゴールドは、どことなく腑に落ちないふうだった。とても立ち上がれるほどの広さのない洞窟の中、巨体を横たえたリザードンの尻尾の炎のお陰で、室温はかつてなく快適だ。グリーンはボールの中の不具のゴマゾウを油断無く見守りながらも、後輩の呑気な言いように少しあきれた。
「聞くだけ聞くと、どうもきな臭いように感じるんスけど」
「気持はわからんでもないが。ポケモントレーナーなら常識だろう」
「シル公も絶対知らねえっスよ」
「クリスなら知っているだろうな」
「ぐっ」
 変な音を立てて何やら言い詰まったゴールド。確かに、人がポケモントレーナーになるのは大体が自分の夢を追うためであるから、ポケモン泥棒を追って旅に出たゴールドや、幼い頃に自らを虐げた存在への復讐を誓って旅をしていたシルバーはそれに当てはまらないのかもしれない……、と考え、きっとイエローも知らないだろうなとグリーンは思った。案外偏見だったかもしれない、と彼は密かに反省した。だが、ポケモントレーナー……というよりは、図鑑所有者として、知っているべきだろうというのも正直なところだった。
「……ゴー」
「とっところで先輩、レポートいいんスか!?」
 初日に出してた資料とかパソコンとか、例のレポートじゃないんスか? 咄嗟に話をそらされた。無駄に勘だけは良い後輩である。しかも無意識ではあるだろうが、グリーンの泣き所を適確に突いてきた。何とも答えかねたグリーンは、尋ね返す。
「シルバーに聞いたのか?」
「へ? ……いや、ウツギ博士から。クリス経由っスけど。なんでシルバー……もしかしてあいつも知ってたんスか?」
「……手伝いを頼んだからな」
 グリーンは素直に驚いた。ゴールドとシルバーは傍目にも仲が良さそうに見えて、ずっと会っていないわけでもなさそうだったのに。そんなグリーンの心を読んだかのように、ゴールドはちょっと気まずそうに頭を掻いた。
「……あんま、知らないんスよ。あいつのこと」
「……よく会ってるんじゃないのか」
「会ってはいますけど。いつも適当にバトルして遊んで終わりっつーか。近況報告とかする柄でもねーし。マジでヤバイときはそもそもあいつ、俺と会ったりしないだろうし」
 だから、それで十分事足りてるんス、とゴールドは言った。
「しっかし、あのシルバーがねえ…………そーいや、確かに妙に忙しそうな時期あったなあ、だいたい暇してる癖に、雨の日に泊めてくれって来たと思ったら部屋で調べものしてたり、これから用があるからってゲーセンさっさと切り上げて行っちまったり。調子よく勝っててこれからってときによぉ」
 ぶつぶつと呟いているゴールドの口調はまるでギャンブラーのようで、グリーンは再度呆れた。シルバーもよく付き合っているものだ——まあ、シルバーは路銀稼ぎのためのバトルや自主的な修行の他、これといってやることもないからかもしれないが。独り言のようにだらだらとゴールドが喋り続けるのを、話半分に聞いていたグリーンだったが、その締めくくりの言葉が彼を突き刺した。
「ウツギ博士もクリスも、先輩のレポート楽しみにしてるみたいっスよ」
 雪山では、何の意味も持たない言葉の羅列は、オーキド博士の孫として、トキワジムリーダーとして、確かに意味を持っていたには違いない。それは決して小さくはないもののはずだった、当初、このレポートのためにここに来る誘いを断ろうとしていたのだから。
 しかし、それは、レッドのライバルでいるために必要なことではない。言葉を書き記す必要はない。記憶することも、伝えることも重要ではないのだから。ただ想いを共有し、高みを目指しながら、同じ今を共有するだけでいい。その想いや感情は、グリーンだけのものであるべきだ。言葉にするには惜しく、紙にうつすにもあまりに相応しくない。レッドのライバルとしての想いも、ジムリーダーとしての想いも、きっとどちらも本物なのだということに気付いてしまった。
 地上で暮らすことを選べば、グリーンが地上人としての仕事、レポートや、ジムの業務をこなしている間も、レッドは雪山で修行をしているのだろう。であればレッドと対等の位置に留まることなどできやしない。逆も然りだ。
 選ばなくてはならない。想いが等しく真実だとしても。であればいっそのこと——
「…………。助かったとしても、野生では生きていけないだろう」
 モンスターボールの中、鼻のないゴマゾウ。
 彼女のように、いっそのことどちらかを容易く選べるようになればいいとさえ。
「なら、俺ん家に連れて帰ったっていい」
 何も知らず、穏やかな眼差しで呟いたゴールドの目に、彼女はどう映っているのだろう。
 強さを増しつつある風音に、光の差す入り口からそっと外の様子をうかがうと、相変わらず空は晴れ晴れとして雲ひとつない。だが山の天気はかわりやすいともいうし。この強風が、雨雲を運んでこないといいが。グリーンはひとり呟いた。まあそうっスねえ、とゴールドものんびりと頷く。
「ま、平気っスよ。ポケモンたちもついてるし、レッド先輩も強いし。シルバーの野郎だって簡単にくたばるようなタマじゃねえ」
「……おまえは……」
 楽観的過ぎる。言いかけた言葉を呑み込んで、グリーンは溜息をついた。
 結果的には、昼時を過ぎた頃に、レッドもシルバーも無事に帰ってきた。行きは少し手間取ったが、帰りは追い風だったので、レッドのプテに乗ってきたらしい。ふたりの採ってきた薬草は、ゴマゾウにてきめんの効果をもたらし、彼女は翌日の朝には少し歩けるまでに回復していた。




 その日、グリーンはリザードンの背に乗り、山頂付近を一周した。ゴマゾウ達が仲間に入れる群れを探すためだ。そもそもトレーナーが野生のポケモンに干渉するべきではない、というのがグリーンの持論だったが、ここまで入れ込んでしまっては今更放り出す気にもなれない。六匹もの赤ん坊が一所に集まっていたことから、群れが何らかの自然災害に巻き込まれたのではないかと考えられるが、難を逃れて生き残ったものたちがいるかもしれないし、他の群れを見つけたにしても、仲間に入れてもらえるかもしれないと思ってのことだったが、収穫はゼロだった。出発した頃には快晴だった空はいつの間にやら薄く雲が落ち、細かな雪が吹雪いていた。思いのほか視界が悪くなっており、彼は天候の悪化する前に戻って来れたことに安堵した。
 出発点にあたる雪原は、洞窟から歩いて五分ほどのところで、相変わらず無数の足跡やバトルの痕跡ですっかり掘り返され、泥混じりの雪がひときわ目立っていた。東半分はなだらかな丘陵が続いているが、西半分は山頂へ続き、急勾配かつ至るところにクレバスが口を開け、不安定な足場の続く危険地帯となっている——のだが、なにやら様子がおかしい。というのも、リハビリがてらにゴールドと回復したゴマゾウ達が遊んでいると思われた雪原には、人影ひとつ見えなかった。
 内心首を傾げたグリーンがあたりを見渡すと、西側の雪原の終わりに人影を見つけた。それは、危険地帯と雪原のちょうど境目にあたる。修行場から西に向かって歩いて行くと、ある地点から雪原が僅かに盛り上がりを見せ、更に歩くとクレバスが雪原を分つ。それは雪原側と対岸とで渡り幅一メートル弱、高さにして二メートル近い乖離があり、裂け目は暗く底が見えないほど深かった。グリーンが双眼鏡で見ると、雪原側の岸の端で、ゴールドとポケモンたちが一列に繫がって、谷底から何かを引っ張り上げようとしているらしい。最後尾のバクたろう、ウーたろうがゴールドをしっかりつかまえ、ゴールドはエーたろうを抱えて、エーたろうは尻尾と前足後ろ足でゴマゾウを掴んでいる。ゴマゾウたちは長い鼻を前のゴマゾウの足に巻き付け、蔓のようにクレバスの中へ垂れ下がっている。レンズ越しの拡大された視界の中、谷底の暗闇が揺らいでいることをグリーンははっきりと見て取った——野生のゴルバットの群れだ。グリーンがただならぬ事態を察して双眼鏡を仕舞った丁度そのとき、バクたろうとウーたろうが思い切り列を引っ張った。ゴマゾウたちは繫がったまま勢い良く引き上げられ、縄のように宙でしなる。それと呼応するように、山頂側からヤミカラスが風を切り、ニューラが雪を蹴って飛び出した。二匹はクレバスの中に飛び込んで行ったが、数秒を置いて山頂側の岸の上へ登ってきた。いつの間にかシルバーが、山頂側の岸に立って、二匹を待っていた。引き上げられたときの勢いでひっくり返っていたゴールドが起き上がって、辺りを見回し、崖下のシルバーを覗き込み、何やら言葉を交わしたらしかったが、にわかに口論がはじまったのを、グリーンはその身振りで察した。空の上から、真っ白な雪の上に放り出された幼い子供の影はひとつ足りない。
 この件についてグリーンが見たものは、それだけだ。
 あとから聞いた話によると、レッドとグリーンがドンファンの群れ探しに出かけている間、空から探すことのできないゴールドとシルバー(ヤミカラスがいるものの、強風の中での長距離飛行はとても耐えられないだろう)は、ポケモン達と留守番をしていたのだったが、快晴だった空が陰り、風が強く、細雪が落ちはじめた矢先、鼻のないゴマゾウがいなくなっていることに気がついた。シルバーが空から探し、ゴールドと他のポケモン達が地上を探していた。こっちの事情などお構い無しとばかりに視界を塞ぐ雪と風にもめげず、懸命な捜索の甲斐あって、ゴマゾウ達が彼女を見つけた。彼女は例のクレバスに転落し、裂け目四メートルの深さのところにある小さな窪みで小さくなっていた。レッドもグリーンと同じく群れ探しに出かけている今、鳥ポケモンはいない。ゴールドとポケモン達はなんとか救い出そうとした矢先に、西の空からシルバーが滑り降りてきた。
 『一気に引きあげろ』と、シルバーはそう叫んだらしい。
 それを聞いたゴールドは、もう先頭のゴマゾウが彼女を救い出したものと思って、引き上げの号令をかけた。ウーたろうとバクたろうの渾身の力で引っ張られるのを感じ、間もなくして一列に繫がったゴマゾウ達が勢い余って雪の舞う中に浮かぶのを見た。だが、その中に鼻のない彼女の姿は無かった。ゴールドはそのとき、気のせいかと思って、自らもひっくり返ったその後に辺りを見回してみたのだが、やはり彼女の姿はなかった。ゴールドが崖の端に駆け寄って裂け目を見下ろすと、けたたましい羽ばたきの音が聞こえることに気付いたと思ったら、それはクレバスに反響を残してすぐさま遠ざかった。続いて、彼はシルバーが対岸にいて、クレバスをじっと眺めているのを見た。そのとき、クレバスの闇からヤミカラスの姿が浮き上がり、ニューラの鉤爪が対岸を捉えた。ただ『間に合わなかった』と、シルバーは言ったらしい。
 彼が言うには、クレバスの底からゴルバットの群れが、塞がりきっていない傷から滲む血の匂いを嗅ぎ付けた。このままでは鼻のないゴマゾウだけでなく、彼女を助けようとしているポケモン達、果てはゴールドまでもが谷底に引き摺り下ろされることを予期したがための行動だったらしいが、それはゴールドを酷く怒らせた。その怒りを、シルバーは甘んじて受け容れているように見えた。一足遅れて戻ってきたレッドが状況を呑み込む間もないままに、グリーンは彼らをまとめてキャンプに追い込んだ——一向に鎮まらないゴールドを眠らせて。
 彼らがキャンプへ戻るのを待ちかねていたかのように、風はいよいよ勢いを増し、横殴りの雪を山に吹き付けた。夜の半ばには、洞穴の入り口を雪が覆った。これじゃ何も見えないな、という何気ないグリーンの呟きに応えるように、『何も問題ないだろ?』とレッドは言った、『眠れば同じさ』。
 『寝たら死ぬんだろう』と意地悪く返せば、『生き返ればいい』と言って、レッドが目の奥で微かに微笑んだのがわかった。



 風の音が止んだ。ふっと瞬間的に浮上した意識のままにグリーンが目を開けると、眠る前に見たのと同じ天井が目に入った。起き上がってみると、キャンプをしていた洞穴は昨日の騒がしさが嘘のように静まり返っていたが、荷物はそのままだし、昨晩の焚き火の名残がそのままに残っている。留守番と思しきシルバーのニューラが片隅で丸くなっている。彼はグリーンが目覚めたのを知るや立ち上がって、入り口まで歩き、振り返って止まった。そのまま動く気配がないのを見てとると、グリーンは嘆息しながらダウンジャケットを着込むと、荷物の中からビスケットのパッケージをいくつかつかみ取ってポケットに突っ込み、ボールの数を確認。震え上がるような寒さだ。熱いコーヒーが飲みたい。後ろ髪ひかれる思いで、洞窟の入り口へ向かった。雪に閉ざされていた入り口は、人間一人が通れるくらいの穴が穿たれていた。
 外に出ると、一面が輝くような白で覆われていた。表面のなめらかな雪の絨毯に覆われている。雲は掻き消えて、空は目に痛いほどに青く、辺りのようすもすっかり様変わりしていた。昨夜の雪嵐が、荒らされて掘り返された大地をすっかり塗り替えていったものらしい。新品の雪の絨毯にはきずひとつなかった。
 暫し景色に圧倒されていたグリーンが我に返り、ニューラを探すと、役目は果たしたとばかりに彼は西の方角へ消えていった。人の足跡が二つ、西の方角に転々と続いている。グリーンはその足跡を辿って、黙々と歩を進めた。
 広がる景色。この場所にグリーンの一昨日があって、昨日があったのに、まるで全て幻だったかのように何もかもが素っ気なく平然としている。けれど、誰かの一昨日や昨日なんて、じっさい幻なのかもしれない。過ぎ去ってしまった日々に思いを馳せるなんてことは、まだ少年だったころには当然のようにしなかったことだ。まだ足を踏み入れていない土地だけが視界からあふれるほどに膨らんで、その場所に足跡をつけることだけ、それだけのことが生活の全てだった、否、今だって場合によれば、あの頃のように、それだけのことに熱中する自信は——
「落ちますよ」
 夢の外から来たような響きで、声が降ってきた。それはやさしくさめていて、耳元に直に囁きかけられるような感じがした。風の粒子と混ざり合った息遣いも、詰めた息の躊躇い、戸惑っているかのように最初と最後の消えかけた発音。足を止め、振り返れば、棒立ちのシルバーが不思議そうに彼をうかがっていた。
 そこでようやくグリーンは、自分が西のクレバスの手前まで来ていたことに気がついた。ニューラは、主人の足元に控えている。
「朝、ゴールドが抜け出した。レッド先輩は、それを追った」
 グリーンの視線の意味を察してか、シルバーはおのずと口を開いた。そうかと頷こうとしたのと同じタイミングで、シルバーの肩の向こうからヤミカラスが顔を出したのを見て、グリーンはひとり納得した。
「……飛んできたのか」
「……?」
「足跡が二つしか無かったからな」
 足跡はクレバスに沿って続いていたが、しばらくしたところで迷走し、そして途切れている。降りられる場所が見つからずにうろうろしていたゴールドをレッドが捕まえて、フッシーか誰かの力を借りて上手いことクレバスの中に降りていったというところだろう。こういった狭い場所こそシルバーのヤミカラスの出番なのだろうが、一方的とはいえ派手に言い争った手前、なかなかシルバーの力を借りる気にはなれないのも致し方ない。そこまで考え、ふとグリーンは疑問に思った。
「お前はここで何をしていたんだ」
 シルバーが、ゴールドの心情を察して残っていたのだとしても、わざわざこの場所で突っ立って待っているというのも妙な話。
「何も」
「ならば何故、ここにいる」
 返事は無かった。
 グリーンは何も言わず、崖のへりを蹴り、対岸へ飛び降りた。昨日、ヤミカラスとニューラを放ったシルバーが、彼らを待っていた場所。『一気に引きあげろ』シルバーはそう叫んだ、と。単に引きあげろ、ではない。引きあげの準備がすっかり整ったかのような紛らわしい表現であると同時に、危機感を煽るにはうってつけの文句だ。ゴールドに引き上げさせるにはあまりにも適確すぎる言い方だったことも、ゴールドの怒りを煽ったのだろう。空から見ていたグリーンは、ゴールドやポケモン達が引き上げたのとほぼ同時にゴルバットの群れが谷底から押し寄せてきたのを確認している。実際、危機的な状況だったわけだ。そしてシルバーはポケモン達を放ち、そして、『間に合わなかった』と言った。彼はゴールドに言い返しもしなかった。
「……シルバー。お前、間に合わないことを分かっていたのか?」
 はい、と。グリーンの言葉に、崖の上から返事が聞こえた。気のなさそうな声だった。だったら何故。グリーンが言葉を続けるべきかと考えあぐねている間に、対岸のへりまでシルバーが歩いてきて、姿が見えた。しゃがみ込んで、クレバスを見下ろす。
「あんなものを背負っては駄目だ——あいつは、」
 どこかしら虚ろな視線を下に投げかけながら、シルバーは独り言のようにつぶやいた。あんなものは、俺の所為になるほうがましだと。
 ゴールドはお前の思惑を知って? と尋ねれば、シルバーは黙って頷いた。グリーンは小さく嘆息した。シルバーが間に合わないことを知っていて引き上げさせたのだと、ゴールドも勘づいたのだとしたら、烈火のごとく怒るのも無理はない。
「あいつは、ああいう奴だから」
 あんなものを背負ったら駄目だ。繰り返されたその声に、仕草に、一瞬覚えた戦慄はすぐさま遠退いた。かわりに、グリーンの脳裏には平穏なトキワジムでの日々が思い出された。最初、リーダーは認めることが仕事なのだと諭された瞬間から、彼の目は大志を抱く無数のトレーナー達が、彼らと共に歩む無数のポケモン達を映し出すようになった。世界は人とポケモンで溢れた。この道を行くのが自分と、常に姿が見えずともその存在に確かな手応えを感じていた、もう一人の少年だけではないと知った。あらゆる人とあらゆるポケモンがそれぞれに違う想いで、誰も足跡をつけたことのないまっさらな大地を目指していることを知った。いままで無我夢中で歩き続けていた足跡を、はじめて振り返ってみた瞬間から、彼は道を知り、その後に続く多くの少年の姿を見た。それは誰もが各々に、もうひとりのグリーンで、もうひとりのレッドだった。
 あの日レッドが辞退しなければ、或はグリーンが替わらなければ、この景色はレッドが真っ先に目にしたはずだった。リーダーは認めることが仕事なのだと諭されるのもレッドのはずだった。休日のトキワジムで書類整理をするのも、あのレポートを書いているのもレッドで、グリーンのほうが来客となっていたかもしれない。『修行かあ、行きたいけどレポートの締め切りが……うーん……』と言って、本気で悩んでからレポートを放り出してしまうレッドをやすやすと想像したが、もし彼がジムリーダーになっていたのならグリーン同様、レポートを仕上げたいといって最後の最後まで渋っていたかもしれない。
 あんなもの。あんなものとは、何だ。トキワのジムリーダーか。認めることが仕事だということか。休日のトキワジムか。調査に熱中していたレポートか。少女との、約束か。
「——犠牲か」
 グリーンは唇が震えるのを堪えて唸った。声は噛み付くような辛辣な響きを孕んだ。まさか、とシルバーは短くささやいた。そして不意に地面を蹴り、グリーンの立つ岸のほうへ飛びおりた。その拍子、フードのなかのヤミカラスが畳んでいた羽を広げ、ふわりと浮かび上がった。彼は着地して、上着についた雪を払い落としながら立ち上がり、高くそびえる対岸を見上げた。
「あいつがあの場所にいれば、俺はここにいると分かる。あいつの家があたたかかったから、俺が自分のお父さんのことを考えることができたように」
 ゴールドはただいつまでも喚き続けてくれればいい。自分の望みは必ず勝ち取ることができると、愚直なほどに信じ続けてくれればいい。必要なものは求めるまでもなく傍にあった、全てが揃ったあの家の中で暮らしていた頃のままで。
 ゴールドはこう言ったんです。シルバーは見上げたまま、呟いて、それから眩しそうに目を細めた。


——てめえで勝手に諦めるんじゃねえ。俺が助けるっつったら助けるんだよ


「……って、言ってやったんスよ!! あのヤローに!!」
 熱に浮かされて語気を荒げるゴールドの声が、凍りついたクレバスに反響する。耳の片隅で野生のポケモン達が警戒を強める気配を感じ取ったレッドが慌てて、人差し指を唇に当てる仕草で後輩を諌めた。それを見てゴールドも、自分がずいぶん熱くなっていたのを自覚してか、スイマセン、とつぶやいて小さくなった。
「けど、あのタイミングで引き上げなきゃ、他のゴマゾウも危なかったんだろ?」
「かー! 分かってない、分かってないっスよレッド先輩! 数の問題じゃねえ、だってあのゴマゾウは一匹しかいねえんだ」
「ゴールド、こっち。ポケモンの声が聞こえる。シロガネ山の洞窟に繫がってるみたいだ」
 聞いてくださいよ先輩と大袈裟に嘆きながらも、ゴールドはレッドが示した横穴を覗き込む。それは横穴というよりは通り道といったほうがよさそうで、高さは五メートル以上、幅も三メートル程の大きさで、氷壁が縦に裂かれている。
「ここまで歩いて見つからなかったってことは、巣に運び込まれているのかもしれない。ゴルバットの巣だったら、俺も心当たりがある」
「巣まで行きます」
 即答したゴールドにレッドも頷き、二人はその横穴に足を踏み入れた。
 横穴の中は、天井も壁も床も雪と氷に覆われて真っ白く、ぼんやりとした青い影が雪の凹凸をうつしだす。こんなのテレビでしか見たことねえ、とゴールドが感嘆の声を洩らしたのもつかの間、進むにつれて洞窟の中は徐徐に暗くなり、影は薄青から灰色へ、そして黒へと変化していった。光量が減るにつれて、自分たちがいた場所からどんどん遠ざかっていって、戻るのが極めて困難になっていく気がした。暗闇に押し込まれ、凝縮される。もう、後ろを振り返っても闇がすぐそこに迫っている。
「……なんか、別の世界に来たみてえ」
 ぽつりとゴールドが、強がろうとして失敗したような声でつぶやいた。
「そうか?」
 答えるレッドは、能天気な声だった。実際、彼はいつもどおりだった。
 能天気だと、よく言われる。特に、洞窟や森に誰かと入ったときには。修行のために洞窟に来るポケモントレーナー達は、修行の間は洞窟で平然として過ごし、修行が終われば平然として洞窟から出て行く。その点はレッドも同様ではあったが、彼が他と違うのは、何の理由もなく洞窟に滞在しても別に構わない、と思える点だった。
「よくもまあレッド先輩は好き好んでこんなとこ来てますよね」
「へ? なんで」
「名物があるわけでもねえ、ゲーセンもねえ、何よりラジオの電波が届かねえ! 修行ならともかく、俺一人じゃぜってー来ねえっス」
「ああ……ゲーセンにラジオか……確かに。思いつかなかった」
「なんでんな平然としてるんスか。俺にとっちゃ死活問題っスよ」
「でも、ポケモンが一緒だし、グリーンだっているんだ」
「……え? グリーン先輩?」
「あ、いや。一緒にいなくても、グリーンも俺とおんなじように、強くなろうとしてるんだって思うとさ。負けられないだろ。ゴールドだって、シルバーが」
「もちろんっスよ! ……………と、言いたいとこなんスけど」
 ゴールドの言葉はどんどん小さくなって、尻窄みになる。不意に彼の表情から、調子の良い明るさが消えた。
「……マジな話、あいつには敵わねえ。最初会ったときからずっと。あいつは、俺がさんざん苦労した究極技だって一瞬でものにしやがった。バトルの強さだけじゃない、背負うもんの重さも、覚悟も、何もかも、あいつに勝ったと思えるものなんて一個もねえ」
 突然の告白に、言葉を失ったレッドに気付くと、ゴールドはにやりと笑ってみせた。
「驚いたっスか? へへ……、だけど、認めたわけじゃねえんスよ。あいつのこと。一目見たときから気に食わねえんで、絶対認めねー」
 その、ゴールドの言葉に、声の調子に、不意にレッドはある記憶が蘇るのを感じた。
——へえ、レッド先輩の旅立ちってそんなんだったんスねー
 以前一緒に修行したときに、ゴールドはレッドの旅立ちの動機を意外そうに聞いていた。その反応はレッドのほうとしても意外で(ポケモントレーナーとして技を磨く以外に旅に出る理由なんて思いつかなかったので)、彼もまた尋ね返すと、ゴールドは、たいした理由じゃねえっスよ、と笑った。
——最初は、まあ家のポケモンをシルバーのヤローに盗まれたと思ったから追いかけてったんスけど……、まあ要は、あのヤローが気に食わなかったんで。あいつに会わなきゃ俺、いまもワカバタウンであのまんま暮らしてたんじゃねえかな、それもそれできっと楽しかっただろうとは思うっスけどね
 事も無げにそう言ってのけることのできるゴールドが不思議だった。切っ掛けはどうあれ、気付いたら走り出してしまっていたのは同じだったはずなのに。一歩踏み出してみたら楽しくて、止まれなくなって、もう、戻れなくて。ゴールドみたいにあちこちを遊び回るかわりに、レッドはジムに、海に、洞窟に、草原に、森に、川に、そして山にいる。戦える場所にいる。人と喋り、ポケモンと歩き、美味しいものを食べる物見遊山、それだけのことに、楽しいじゃないっスか、と笑っていられるゴールドは不思議な存在だった。確かにレッドとて、そうして外遊することも少なくなかったし、素直に楽しいと感じる。けれどもずっとそれだけをしていられるというのには、まったく不思議だった。実際、彼は自分でも休息と戦場の境目が分からないことがままあったので。たまに、ひょっとしたら休息すらも戦いの中にあるのではないかと思うくらいだ。
 その点においてレッドとグリーンは似ていた。息切れするなど知らないまま、二人で、走り続けることができた。いつも、姿形が見えているわけじゃないけれど、世界のどこかでお互いが同じ場所を目指して歩き続けていることを知っていたから、代わり映えもしない景色の中で黙々と歩を進めることができた。夢をいっぱいに映し出す網膜の端には、いつも同じ夢を抱いた少年の姿があった。約束をするまでもなく、彼らはお互いに当たり前のように繫がれていた。
 想いの形は違えど、ゴールドとシルバーも同じように繫がれているなら。
 突然、レッドがぴたりと足を止めたので、ゴールドもその背にぶつかった。急に立ち止まらないでくださいよ、というゴールドのぼやきは無視して、レッドはまじめな顔で振り返る。
「……ゴールド。シルバーは、ヤミカラスとニューラが戻ってきて、『間に合わなかった』って言ったんだよな」
「へ? ……そうっスけど」
「……ヤミカラスかニューラが、ゴマゾウが止めをさされるのを、見たんじゃないのか?」
 ゴールドは一瞬黙った。そして苦々しい表情で頷いた。
「…………。あいつのヤミカラスもニューラも、多勢に無勢とはいえ野生のゴルバットの群れにひけをとるほど半端な育て方はされてねえ。戻ってきたあてことは、多分……そういうことじゃねーかと…………けど、俺はまだ、諦めてねえ。それだけっス」




 キャンプ地では、ゴマゾウやポケモン達が、遅い朝食にありついている。それは、人間であるグリーンとシルバーも例外ではなかった。シルバーは案外ポケモンに懐かれやすい性質らしく、その膝の上や周りにはゴマゾウの子供が甘えたそうに群がっている。
 朝、後ろ髪ひかれる思いで諦めた熱々のコーヒー。どうも、とカップを素っ気なく受け取って一口。後輩は無表情のまま、何も言わず、カップを口元からすっと離した。
「……先輩って、案外」
 シルバーはちいさく呟いて、後は何も言わずに飲み干した。
 言いかけたことは、最後まで言え。グリーンがそう促してようやく、シルバーは、ゆっくりと視線を上げた。
「こういうこと、下手ですね」
 呟きながら、シルバーは無造作に、グリーンのカップに手を伸ばした。ペーパーフィルターを取り替え、グリーンの分として新たに湯の沸いたポットを手に取ると、一度カップに湯を注いでからポットに戻し、ようやく湯を落としはじめた。最初の蒸らしを経て、湯は管を通って細くフィルターの中に円を描く。粉は湯をたっぷりと含み、膨らんでは、萎んでいく。その器用さが、グリーンには意外だった。
「上手いものだな」
「ねえさんが好きだったんで」
 どうぞ、と素っ気なく渡されたカップは熱い。口をつければコーヒーの香りがした。グリーンはあまり味に拘りがあるほうではないが、おそらく美味しいのだろう、と思う。ありがとう、と返すと、いえ、とこれまた気のなさそうな返事が返ってきた。
「あのゴマゾウは、本当に駄目だったんだろう」
 何気なくグリーンが口にした一言に、シルバーはちらりと視線を上げて、はい、と頷いた。
「ニューラとヤミカラスは、複数のゴルバットが同時に獲物に牙を突き立てたのを目にして深追いを止めたんだ」
 ゴルバットは一匹で、一度に三百シーシーもの血液を吸い取り、また、滅多なことでは一度突き立てた牙を離さないという。グリーンも、野生のゴルバットには本当にひやひやさせられるというレッドの話を聞いていた。
「だが、獲物がいなければ狩るものが飢えて死ぬ」
 助けられなかったことを悔いる必要はない。暗にそう示したグリーンの一言に、シルバーは空になったカップの底を見詰めながら、俺もそう思う、と応えた。
「論理としてはその時点で破綻している。だが、あいつの場合、理屈じゃない。あいつは、全てのポケモンが大事だとか、全ての人が大事だとか、考えてない。あいつはあいつの大事にしたいものを、失いたくないだけだ」
「……よく見てるな」
「見たくて見てるわけじゃない。ただ、どんなに手を伸ばしても、届かなかったから。だが、見極めれば見極めるほどに遠くなる、そういうこと……あるだろう」
 グリーンはふと、シルバーの表情に、切望するような影が過ったのを見つけた。それは、多分、おそらく彼自身も、もうひとりの少年——レッドに対して抱いたことのある感情のひとつに違いない。
「助けたかったのは、お前も一緒か」
 その言葉に、シルバーは目を丸くして、グリーンを見返した。
「……助けたかった——おれが?」
「違うのか」
 尋ね返したグリーンに、シルバーは暫く無言で考えて、やがて力なく項垂れた。膝の上から鼻を伸ばしてきたゴマゾウを、手袋越しに撫でてやりつつも。
 ゴールドは、どんな顔をして戻ってくるのだろうか。落ち込んでいるのか、それとも強がっているかもしれない。レッドはどうだろう。こっちからは見えないクレバスの底から。何にしろ、全身冷え切って戻って来るには違いないだろう。だから、熱いコーヒーの準備だけは、しておこうと思う。
 いっそう大きな風が吹いた後に、外から、荒い息遣いが聞こえた気がした。はじめ、グリーンは風の音かと思ったが、次の瞬間にシルバーが顔を上げた。帰ってきたのか、けれど、なぜこんなに息が上がっているんだろう。グリーンとシルバーは、思わず視線を見合わせる。息遣いだけではなく、やたらめったら騒がしい。何やらしきりに話し合う声まで聞こえてきた。
 ふたりが呆気にとられている間に、勢い良く入り口から、レッドが滑り込んできた。
「グリーン! 毛布! 早く!」
 ダウンの前をくつろげ、その中にぐったりしたゴマゾウを抱えている。鼻がない。驚愕を隠せないながらも、グリーンは咄嗟に我に返って腰を上げ、荷物の山から毛布を引っ手繰る。レッドは焚き火の前まで這いずってきて、俺もうすっかり冷えてるから、と言って、シルバーにゴマゾウを渡した。直後、グリーンが戻ってきて、シルバーに毛布を渡し、シルバーはしっかりとゴマゾウを包んだ。既に応急処置がなされているらしく、身体にはしっかりと布が巻きつけられていた。レッドに続いて降りてきたらしいゴールドは、いつの間にか火の近くで座っている。二人はようやくひと心地つけたとばかりに、大きな溜息をついた。
 そこでようやく我に返ったらしいシルバーが、驚いた表情のままおそるおそるゴマゾウを触ってみて、つぶやいた。
「…………生きてる……」
 心底絶句しているらしいシルバーの様子に、傷は噛み跡だけだから体力さえ回復すれば元気になると思う、と言って、ゴールドとレッドは顔を見合わせて含んだような笑い方をした。
「ゴルバットの巣から、少し離れたところで見つけたんだ」
「やけに勿体ぶるな。何か知ってるのか」
 尋ねたグリーンに、レッドは嬉しさを隠しきれない様子で、推測に過ぎないんだけどさ、と断りをいれてから、改めて口を開いた。
「おそらく、『こらえる』だと思う。それで、なんとか瀕死の状態で持ちこたえたんだ」
「ゴルバットの巣から離れたところで見つかった理由は?」
「それなんだけどさ。ゴールド」
 レッドが呼ぶと、示し合わせたようにゴールドがジャケットのポケットに手を突っ込んで、あるどうぐを取り出した。真っ先に息を呑んだのはシルバーだ。
「……『けむりだま』っス。ゴマゾウが咥えてたんスよ」
 ゴールドは訳知り顔でシルバーを見ると、にやりと笑った。
「その反応、わっかりやすいのな。やっぱお前のか? シルバー」
 シルバーはゴールドから放り投げられたけむりだまを片手に受け止めながら、頷いた。
「……俺がヤミカラスに持たせていたものだ。だが、何故……」
「シルバーはさ、ヤミカラスとニューラに追いかけさせたんだろ。多分、そのときに渡ったんじゃないか。ヤミカラスの判断か、ひょっとしたら、たまたまかもしれないけどさ」
 呆然としつつ呟いたシルバーに、レッドが助け舟を出した。しかしシルバーがそれに応えるよりもはやく、ゴールドがその肩にのしかかるように絡んだ。
「まーそんなんどっちでもいいっスよ! さっすが俺のダチ公とその相棒どもだぜ!」
「俺は何もしていない。そもそも、単なる偶然かもしれないだろう」
「またおめえはそういうつまんねえことを…………ン?」
 言い切ったシルバーの口調はまったくいつも通りで、思わず唇を尖らせたゴールドだったが、ふと何かに気付いた。シルバーは軽く目を伏せて、毛布に包まって息をついているゴマゾウをぼんやりと眺めている。口調も表情もいつも通り殆ど無表情でありながら、なぜだかゴールドには、彼がいまにも泣き出しそうでいることが分かった。
「……柄でもねえな、オイ」
 ゴールドは声を潜めて笑い、ぽんと軽くその肩を叩くと、するりと離れた。シルバーはそれすら不思議そうに、珍しくあっさり離れていったゴールドを視線だけで追った。
 彼の膝の中から、規則的で穏やかな呼吸が聞こえはじめた。他のゴマゾウ達が取り囲むように見守る中、鼻のないゴマゾウはひとり、平和な寝息を立てている。
「……眠ったのか」
「ん」
 グリーンが声を潜めて呟く。
 レッドはそれに応えて頷きながら、静かに囁いた。
「生き返るんだ」




 ふとした瞬間に、伝えようとして、口にできなかった想いがある。

先延ばしにして、忘れてしまって、行き場をなくした言葉だけが積もり積もって、この場所を白く塗り替える。

そしていつしかふたり、当然のように交わしていた約束さえ、雪に埋もれてしまって。



 気付けば、この場所に——ひとり。














 真っ暗闇の中に、四角に浮かび上がる人工の光。闇を切り取って、そこから光が覗いているみたいだ。断続的なタイプ音。すこし考えては書き、少し消しては表現を変えて書き直す。トキワジムリーダーの音。休日のジムの一室での音。来客用のソファに寝転んで、目を閉じると、聞こえてくる。グリーンの音。
 真夜中の一時だった。レッドはもぞりと身じろぎしつつ起き上がると、手近にあった毛布を引き寄せて包まり、裾を引きずりながら、光のほうへ向かって歩いた。気配も足音も殺さず、真後ろまで来て画面を覗き込んでも、グリーンは反応ひとつしない。つんつん頭が光を遮っている。
「……レポート、書いてるのか」
 出てきた声はすこし掠れていて、思いのほかねむそうだった。グリーンはタイプする両手を休めず、視線も画面に固定したまま、うなずいた。
「ああ。締め切りまで、時間がないからな」
「目、悪くするんじゃないの、こんな暗くちゃ」
「問題ない」
「ろくに聞いてないんだろどうせ」
「……コーヒー」
「……は?」
「暇なんだろ」
「あー……ハイハイ」
 眠る前に、俺はまだもう少し起きてるからそのままでいい、とグリーンが言った焚き火は、ほとんど燃え尽きかけてとろ火になっている。実際凍えるほどの温度になっているというのに、キータイプ音はトキワジムでよく聞いていたもののそれだ。よくかじかまないよなと半ば呆れながら、レッドは新しく薪をとってこようとして、はたと気付いた。薪がもう尽きかけている。
「……そっか。もう、明日が最後か」
 ひとり呟いて、レッドは薪を二、三本ひろいあげて火の傍に戻ると、薪をくべ、固形燃料に火をつけた。火は勢いよく燃えあがり、良い具合に薪にうつるのを待つついでに、金属製のポットに水を注ぐ。間もなく湯が沸いたのを見て、レッドはコーヒーをいれはじめた。出来る限りゴールドがやっていたのを思い出そうとしながら。
 インスタントでいいのに、とレッドがうっかり言ったときに、ゴールドは信じられないような顔をしていた。食事だって旅の一部、修行の一部じゃないっスかと憤るゴールドの言いたいことは、相変わらずレッドには分からなかった。修行としてのすべてのうち、どれか一個でも欠けたら、ぜんぶ台無しになっちまうんス。でも、きっとそれでいいのだと思う。
 グリーンはレッドからコーヒーを左手で受け取って、一口。
「……おまえも下手なんだな」
「な! 悪かったな……って、おまえもってどういう……」
「俺も下手らしい」
「らしい、て。え、おまえも誰かに淹れたの?」
「シルバーに言われた」
 確かに、シルバーならあっさりストレートに言いそうだ。思わずその現場を想像して吹き出したレッドに、グリーンは静かにしろと注意する。レッドは慌てて口を閉じて、ゆっくりと振り返り、後輩二人が眠っているのを確認して、ほっと息をついた。
 そして、ふと手元に持ったままだったコーヒーフィルターに目がいった。こんなもの、今まで殆ど手にしたことなんてない。レッドはぽつりと呟いた。
「ずっと、バトルばっかりだったもんな」
「……そうだな」
「ポケモンのこととか、戦略のこととか、そんなことばっか考えてた」
「そのわりにお前のポケモンは能天気過ぎて呆れたがな」
「んなっ、それを言うならグリーンのポケモンは真面目すぎだろ! 俺のポケモンまでこーんな目つきにするしさあ」
「お互いさまだ、俺のポケモンもお前の影響で危機感のかけらもなくなったんだからな」
「……そーか?」
「そうだよ」
 おっかしいなあ俺ふつーにしてたつもりだったんだけど、とのたまうレッドに、だったらそのふつーとやらが能天気すぎるんだろとグリーンは切り捨て、なにおう、真実を言ったまでだとそんなやりとりにまで発展したところで、どちらからともなく急に馬鹿馬鹿しくなって止めた。
「……そーだ、あと、次お前に会ったときどうやって勝つかとかも考えてたな」
「なんだお前もか」
「え、グリーンも? 俺だけかと思ってた」
「まあ、たまにはな……」
「けど、いざ会うとなったらぜんぶ吹っ飛んでさ」
「お前はそうだろうな」
「お前は違うのかよ」
「多少は覚えてた」
「そういうの五十歩百歩っていうんだぜ」
「うるさい」
 キータイプ音は続いている。つっかえて、考えては打ち直して、迷いさえ淀みない。振り返って覗いた液晶の中では、ワードプロセッサが起動している。薄黄色の背景に、少しずつ、けれども着実に、文字がひとつひとつ書き出されていく。
 レッドはこのときはじめて、キーボードというものをまじまじと見た。ずらりと並んだ正方形のキーの配置上で、グリーンの指が忙しなく動いている。
「なあグリーンって機械強いの?」
「ある程度はな」
「……へえ、ちょっと意外だな」
「俺を誰だと思ってるんだ?」
「誰って……」
 ていうか火のまわり来たらいいのに寒いだろ、というレッドの言葉に、グリーンは何も言わずに従った。ノートパソコンを両手に立ち上がり、焚き火を境にレッドの向かいに座った。腰を落ち着けるなり、彼は作業を再開した。
 レッドは何かを考え込むようにその様子を眺めていた。ぱちぱちと火の粉の爆ぜる音の向こうで、人工的なキータイプ音が続いている。グリーンの表情は平静で、落ち着いていて、とても冷めているように見えた。けれどその目の奥では炎が燃えている。そうとレッドが知っているからだ。
 続く呼吸のうちのひとつ。ふと、息を吸い込んだ瞬間。レッドはふいに、自分の心がいまとても平らで、気分がすっかり落ち着いていることに気がついた。
「なあ、グリーン」
 言葉は予期せずとも、するりと流れる。続く言葉への躊躇いすら、いまはなかった。
「おまえに言えなかったことがあるんだ」


 ぴた、とキータイプ音が止んだ。


 グリーンはゆっくりと顔を上げる。
 真正面から見るレッドは不思議な表情をしていた。いつになく真面目なそのくせ、瞳の紅玉は燃え立つようにかがやき、微かに綻んだ口元からはいまにも微笑がこぼれおちそうだ。息すら潜める静けさで、彼はその目の奥を燃やしている。全ての言葉は意味を失い、過去と未来は現在と融和する。
 一帯は闇。照らし出す炎と皮膚の上を踊る光。爆ぜる火の粉。巨大な闇と静寂に圧し潰される、その窒息の向こう、二人はそこにいた。
 そこに、社会はない。
 そこに、言葉はない。
 そこに、過去はない。
 そこに、未来はない。
 言葉は宙に浮き、風に攫われるだろう。刻み付けた足跡は、雪に塗り替えられるだろう。闇とともに眠れば、死んでしまうだろう。いつでも目が覚めれば、光に満ちているだろう。そこは雪山。ふたりが旅した道。空虚に吸い込まれそうなその場所で、ただ約束がふたりを繫いでいた。
 何より先に、いつもお前がいた。言葉よりはやく、お前がいた。俺とポケモンの前にはいつだって、お前とポケモンがいた。
「グリーンがジムリーダーになってからさ、正直驚いてた。公式戦をやったり、人に教えたり、書類仕事したりするお前なんて、ぜんぜん知らなかったから、どんどん知らない人になってくみたいだった」
「……そこではじめて、俺のことを全く知らないことに気付いたか?」
「そう、俺、お前の誕生日も血液型も知らないし、小さな頃に好きだった戦隊や、苦手な食べ物も知らない。普段、修行以外で何やってるのかも」
「知ってるのは、年齢と性別、それに家族構成くらいか。ちなみに、俺はお前の年齢と性別しか知らなかったぞ」
「あはは、そういえばそうか」
「……言葉で考えはじめたら、どんどんお前のことも分からなくなる。性格は明るいほうだろうとか、ポケモンも揃って呑気だとかな」
「……でも、そのどれも違った」
 レッドは不意に破顔した。
 そして無数の言葉は収束する。すべてはひとつになる。論理も、感情も、何もかもが、全体としてのひとつに。

「お前はグリーンだ」

 ただ、それだけ。

「……お前は、レッドだな」
 低く微笑しながら、グリーンが応える。
 必要なのはたったそれだけ。たったそれだけのことに、ずいぶん遠回りさせられた。何もない場所で、目を閉じれば、耳を塞げば、きっと驚くほどかんたんに分かったことなのに。
 何一つ知らなくても、分かってる。言葉でも記憶でも伝えられないことを、知っている。姿が見えずとも、声が聞こえずとも、そこにいるのが分かる。暗黙の約束に、つながれているのを感じている。





「……レッド」

 時を越えて。記憶を越えて。この名を呼べることを、幸いに思う。

 深呼吸する。伝えるべきものは、既にこの命の中にある。遥か昔、少年だったころ、出会ったその瞬間から在って、この血をもってあたためてきたもの。顔を上げる、燃える紅玉に対するこの目を誇らしく思う。

「おまえが此処で強くなると言うのなら、俺は彼方で強くなる」

 一瞬、見開いた目に覚えた愉悦。それを噛み締めながら、この言葉を。世界が一番、口にするのを待ちわびていた約束を。


「オレは、降りない」


 世界を結んだ楔は解かれた。

 いま、ひとつの約束だけで、ふたりはつながれている。










「まーーったく、レッド先輩にはかなわねーっスよ」
 トキワシティの街並に、緊張感のない声が響く。常であればゴールドの態度に眉をしかめていたであろうグリーンも、今度ばかりは同感だった。下山直後、ポケモンセンターで数日振りのシャワーを浴びて街に戻って来るなり、おれ物資調達してもっかい登ってくるから! を捨て台詞に、良い笑顔で走り去っていった後ろ姿を見送ったのは、ほんの十分前のことだ。
「……そういえば、あの鼻のないゴマゾウはどうした?」
 ふとグリーンは気付いて尋ねた。昨日、ようやく見つけたドンファンの群れに返してくる、とゴールドとシルバーが連れ立って行ったきり、その後を聞いていないことに気付いたのだ。
「置いてきたっスよ。あいつ、すっかり群れに溶け込んじまって、俺と一緒に来るよりいいって言うから」
 事も無げにゴールドは言い、きもちよさそうに伸びをした。
「やー、今回もよく修行したな。……時にシル公よ、折角カントーに来たんだしタマムシのゲームコーナー寄っていかね?」
 カントーといったって、シロガネ山とワカバタウンは目と鼻の先だろう、とグリーンは胸の内だけでつっこみを入れた。声をかけられたシルバーが答えかねたところで、図ったかのように彼の通信機が鳴る。シルバーは画面に映る人の名前を確認するなり、受信ボタンを押した。スピーカーごし、微かに聞こえるのは男の声。
「……誰から?」
「悪いゴールド、用事ができた。グリーン先輩、ありがとうございました。レッドさんにもよろしく」
 通信を切ったあとのゴールドの問いかけは鮮やかに無視される。
 言うが早いか、シルバーはいつの間にかボールから出していたらしいヤミカラスに掴まった。だいぶ急いでいるらしい。それを見たゴールドは咄嗟に叫んだ。
「おい、今度埋め合わせなー!!」
 あっという間に空へ舞い上がったシルバーは、軽く手を降って、やがて北の方角へ消えて行った。ゴールドは突っ立ったままでしばらくそれを見送っていたが、やがて、ったくもー、と鼻息あらくぼやきながら、がしがしと帽子の下の後頭部を掻いた、と思いきや。
「……で、さっきの誰っスか? グリーン先輩」
「なぜ俺に聞く」
「知らないんスか?」
 だから人の話を聞け、と言いたいのを呑み込んだ。ゴールドにこの手のことを言って、素直に聞いたためしがない。
「……。多分、あいつの師匠だろう」
「師匠……って、あいつそんなんいたんスか」
「……本当に、知らないんだな」
 微かに呆れの滲んだ溜息のあとに、ぽつりと呟いたグリーンの一言に、ゴールドはふと思うところがあったかのように真顔になって、グリーンの隣まで小走りに追いついて、顔を上げる。それから、ばつが悪そうな曖昧な笑みを浮かべながら言った。
「だってあいつ、自分のことすら性別と年齢と血液型しか知らなかったんスよ」
 その一言にグリーンは、ゴールドが最初シルバーと、決まりきったやり方に倣ってやりとりをしようと努めたことを知った。
 ゴールドはそれ以上を語ろうとはしなかったが、当時の彼がシルバーについて知っていたことといえば、仮面の男との忌まわしい関係や、軽犯罪を繰り返してきたということ。あたたかい食卓や、ふかふかのソファのうえで話し合うには似つかわしくないのには違いない。ただ、他愛のないだけの会話ができなかっただろう。
 けど、とゴールドはふいに北の空を見上げた。
「いま、俺が埋め合わせしろっつったら、あいつは手を振った。だからたぶん近いうち、俺たちはコガネのゲーセン行って、台の前に並んで座ってリールがまわるのを眺めながらくだらねー時間を過ごす。そーゆーことっス」
 ゴールドはリュックを背負い直して、街路を右に曲がって駆け出した。一瞬、何事かと思って立ち止まったグリーンに、既に姿の遠いゴールドは振り返り、笑いながら叫んだ。
「トキワジム、すぐそこっスよー!!」
 いつの間にか、ジム前の通りまで来ていたのだ。俺はマサラ経由で近道して帰るんで! というゴールドの声を耳にしながら、グリーンは微かに唇の端を上げ、手を振ってやった。気付いているのかいないのか、ゴールドはいつの間にか取り出したスケボーで、舗装された道の上を滑り出していた。
 皆、それぞれに、違う想いで歩き出す。ゴールドは故郷へ、シルバーは見知らぬ土地へ。レッドは雪山へ、そしてグリーンは此処へ、参考文献と筆記用具と茶色くなったコーヒーカップの中、技を磨くジムトレーナー達が業務の判断をあおぎにくる中、挑戦者との一対一の勝負の中、修業、そして祖父に対する誇りとコンプレックスの息苦しさの中へ。グリーンは最初から此処にいて、きっと最後まで此処にいる。
 違う場所にいながら、同じ夢を見ている。それだけだ、それだけでいい。いま改めて旅立った——きっと雪山ではなかった——あのなにもない場所で約束を確かめた。雪の上で、クレバスの淵と底で、炎と火の粉の爆ぜる音を隔てて、その向こうに同じ夢を見ていた。それだけが、レッドとグリーンの約束。
「……"そーゆーこと”、か」
 なかなか面白い言い回しをする、とグリーンは笑って、ひとり歩き出した。きっと今日から、何もかもがずっとよくなる。論文の行き詰まりも、もうすっかりよくなるだろう。
 レッドはいまどこにいるだろう。早くも物資を補給して、来た道を再び戻っているだろうか。そして間もなく、あの何もない場所で、強くなっていくのだろうか。そう考えても、心に波風は立たなくなっていた。
 姿が見えずとも、声が聞こえずとも、そこにいるのが分かる。誰より近くで、息づいているのを感じる。
 そしてまた会うだろう。何度でも、同じ夢の向こうで。
(2015/02/12)