君のはじまる日
| Prologue | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | Epilogue | Extra Edition |
□ 揺籃詩、God bless you! の没版
□ グリブル←シルバー前提
Prologue
 氷の注がれ満たされた寒い海の中を、ふたり寄り添い合うように彷徨っていた。取り巻くものは宇宙の闇のように深くくろぐろとして、冷たい温度は幼い柔肌を切るほどに鋭かった。行く手には道など無い。果てのない暗がりの中を、手をつなぎ、励まし合いながら進み続けた。どこに行こうとしていたのかなんて分からなかった。歩き続けていた理由も。ただ幼心に、このまま進んでいけば、どこかしらに辿り着けると信じていたのかもしれない。
 手を伸ばせば指先から闇に呑まれ、その輪郭を見失ってしまう。だから繋いだ手はずっと離さないと約束した。あるとき彼女は、違う世界で違う景色を見ていても、心はずっと一緒だと言って笑った。またあるときは、あんたさえいてくれれば他に何も要らないと言って泣いた。それでも、迷い子たちに道は見えない。このままではずっと、ふたり迷ったままだ。
 あの日、彼女はひとりで旅立った。流氷の群れを抜け、あたたかな南の海へ。いっしょに行きましょう、と彼女は手をひいたけれど、一緒には行けなかった。なぜなら、彼女が光のあふれる場所といって指し示した先には同じ闇が広がるばかりで、なにひとつだって形のあるものは見えなかったから。約束は終わり、そして手を離した。
 小さな頃から、ずっとここで生きてきた。冷たい水は生き物の活動を鈍らせ、深い暗がりはそこに潜むものの輪郭を溶かしてしまう。けれど同時に、慣れ親しんだ氷の海は身を守ってくれるものでもあることを知っていたから、少なくともその場所は苦痛ではなかった。ひとりになって、やがて彷徨うことをしなくなった。どこかへ辿り着く必要も、歩き続ける理由も分からなかった。かつて繋いでいた手を伸ばせば指の先から闇に吸い込まれ、息ができなくなる。
 確かなものは何一つとして見えないまま、言葉だけが横暴に溢れていた。ひとつひとつの重さに窒息しそうになりながら、全ての言葉を嚥下して消化して、それから決まってその無益な行為を嗤うことになる。言葉のなかに真実などありはしないことは、最初から分かっていたはずだったのに、そうせずにはいられない。自身を闇に囚われたまま、ただ必死に言葉を貪り尽くし、それから。
 もう他の誰とも繋がらない手。見失ったままの存在の輪郭。霞む視界と歪む世界。取り囲む闇と自分の境界線も曖昧に、迫り来る眠気に逆らうことなく目を閉じた。どこにいるのだろう、どこへいくのだろう。いまならどこにだっていける。だって繋ぐものはもうなにもない。
1
「……ったく、無視すんなっての。何のためのポケギアだよ」
 何度目かの留守電のあと、ゴールドは大きく溜息をついて通話を切った。
 本日、十二月二十二日。ゴールドは、シルバーまで誕生会の知らせをもっていくように、というブルーからの依頼を引き受けた。彼は常日頃から居所が知れたものではなく、朝からポケギアに連絡を入れているにも関わらず反応はない。結局、ゴールドは知る限りのシルバーの隠れ家を片っ端からまわる羽目に陥っていた。先輩が直接言えばいいじゃないっすか。ブルーからの通話をシルバーが無視するはずがないと踏んでいるゴールドがそう提案したものの、ブルーは譲らなかった。
 ゴールドが目的の人物を見つけたのは、全国各地の隠れ家をまわって三件目のことだった。外から様子をうかがうと、彼は寝床に横になっていた。夜のほうが身を隠しやすいという理由から、彼は夜中に活動することが少なくない。ゴールドは、別段疑問に思うことなく隠れ家にそっと足を踏み入れる。
 異変に気付いた切っ掛けは、ゴールドがその枕元に立ったとき、足元から聞こえてきた微かな音だった。見下ろせば、無造作に床に転がされたままのボールに入ったマニューラがボールを揺らし、何かをゴールドに訴えようとしていた。
「……シルバー?」
 名前を呼んだにも関わらず反応がないことに、ゴールドはいぶかしげに眉を寄せる。これまでの人生の大半を野宿で過ごしてきたシルバーは、人一倍他の気配に敏感だったはずだ。ゴールドがかがみこんで、背を向けて横たわっている彼の肩を掴んだところで、息を呑む。さ、と音を立てて頭から血の気が退いて行く感覚。ざわざわと遠く針葉樹林の揺れる音の中に紛れて、弱々しい呼吸音がひゅうひゅうと鳴いていた。掴んだ肩の尋常でない熱さ、息をする体力すら残っていないような細い呼吸、紙のように白い顔色。それを見た瞬間、理屈もなく、ゴールドの直感がかつてないほどの警鐘を鳴らした。
(やべえ)
 一瞬で乾いた喉を唾を呑み込むことで湿らせる。そのまま目の前の身体を抱え上げようとしてよろめく。重い。相手は意識を失った人間なのだから、当たり前だ。落ち着け、とゴールドは息を吸い込もうとしたものの、幾分も吸った気にならなかった。膝はひっきりなしに震え、腕には力が入らない。ゴールドは今にもこぼれおちそうになる嗚咽を、奥歯を噛み締めることで喉の奥へと押し込んだ。
「…………ちっくしょう! ざけんな!!」
 自らを奮い立たせるために叫んだ。それは臆する自分への叱責だったのか、シルバーへの罵倒だったのか。兎にも角にも、死にものぐるいで張り上げた声は、今にもくじけそうだったゴールドの背中を打ち、一瞬のうちに血が昇ったためにくらくらする頭を少しだけ冷やしてくれた。す、とひとつ呼吸をすると、ゴールドはモンスターボールからバクたろうを出し、シルバーを任せた。バクたろうは主人よりもずっと落ち着いていて、シルバーを両手で包み込むように抱える。ゴールドはシルバーの荷物と、鞄から落ちて床に一つだけ転がっていたモンスターボールを拾ってから、ワカバタウンの自宅へと向かった。

「シルバー?」
 鈴の転がる声に弾かれたように顔を上げた。
 目の前には、少しだけ驚いたような顔をしたクリスが、じ、とこちらを見つめている。風のような海のような虹彩の縹色、夜の影を切り抜いたようなひとみの黒、波間に漂う星のような無数の光。吸い込まれたかのように一瞬、言葉を失う。つと俯いた視線の先で、たったいま来たばかりのコーヒーから、細く湯気が香る。
 季節は冬。久しぶりに三人集合したジョウト地方の図鑑所有者たちは、十二月の冷たい風から逃れるべく、早々とカフェに移動していた。そこはクリスがずっと行きたいと思っていた隠れ家的カフェで、けれどもその奥まった入り口に一人では少々気が引けるというので、折角だしそこに行こう、という話になった。外は秋の名残の枯れ葉がからからと転がっていかにも寒そうな体を醸し出しているが、煉瓦作りを模したカフェの中はそれなりにあたたかかった。
「気分でも悪いの?」
「……いや」
「どうせタウリナーΩの新シリーズのことでも考えてたんだろー」
 ボックス席の隣に座るゴールドが揶揄う。その様子が妙に浮かれたものだったからだろう、クリスはちょっと笑った。嬉しいような、少し困ったような、独特な表情だったように思う。おおかた、仲違いばかりしていた不良二人も随分仲良くなったものだと、そんなふうにでも思ったのだろう。
「ゴールドまで。いったいどうしたの?」
「どうしたもこうしたも、今日の最終回にはクルミちゃんがゲスト出演するからな!」
 クリスの和やかな表情はゴールドの一言で呆れを多分に含んだものに一転した。思わず溜息を吐き出したクリスにゴールドがいかにクルミちゃんが良いものかを語りだそうとして、どちらからともなく今日も不毛な言い争いが始まる。にわかに騒がしくなりだす場の空気から逃れるように、シルバーは、信号が青になるとともに人や自転車がぽろぽろ流れ出した窓の景色に向けて、視線を投げ出した。
 あいかわらず、ゴールドとはデリカシーのない男である。レディの前で他の女の話は御法度、というブルーの教えを遵守しているシルバーには、彼の考えることがよく分からないことが多かった。女好きのわりにはクリスを怒らせるようなことを仕出かし、かといって女性の心理を分かっていないわけではなさそうなところがまた難しい。シルバーは、それがゴールド流の挨拶なのだと考えて納得している。当たらずとも遠からず、といったところではないだろうか。
 ともかく、喧嘩仲裁のたぐいはシルバーの知るところではない。ゴールドとクリスはよく言い争いをするけれども、今のところ、それが深刻な仲違いになることは極めて稀だった。怒るクリスをゴールドが揶揄い、クリスがしようのない子供を目の前にしたように、憤然としたようすで溜息ひとつつけば、一区切りなのだ。熱くなりやすいように見えてもゴールドは基本的に、相手も自分も本気にならない線をきちんと弁えている。
「……話は逸れたけどシルバー、なにか気になることでもあったの?」
 いつの間にやら、喧嘩は終わっていたようだ。改めて視線をクリスに向けると、彼女は少しだけ心配そうに小首をかしげていた。世話好き、とはまた違う。クリスは、人のことについてまるで自分のことのように考える。厄介事を前にして、力になりたいの、仲間じゃない。と屈託なく笑える少女のこともまた、シルバーはよく分からないことのほうが多いと感じる。
 つ、とシルバーは視線をカフェのレジ前に動かす。クリスに声をかけられる前に、目を奪われていた光景は既にそこから消え去っていた。珍しく黙り込んで話の成り行きを見守っていたゴールドが、確信したように笑みを深くした。
「……女だろ」
 は? とクリスが呆気にとられたような顔をする。ゴールドはにやついた顔のまま続ける。
「さっき清算してた客、すげえ美人だったもんなあ。んだよ案外見るとこ見てんじゃねえか」
 ストイックな面してムッツリそうだもんなお前。下世話な揶揄いを仕掛けてくるゴールドを、シルバーはきっぱりと切り捨てる。
「お前と一緒にするな変態」
「そうよ変態」
「ひでえ」
 シルバーに続いてクリスにまで畳み掛けるように罵倒されるも、ゴールドは冗談混じりにそう訴えただけだった。だが、次の瞬間、すっとその金色の目が細められて一瞬だけ視線がシルバーをとらえる。
「……で? だったらなんで見てたんだよ」
 不躾だと思われてもおかしくないくらいに見つめていた自覚のあるシルバーは、その一言にすぐに答えることができなかった。なんだかんだクリスもその点は興味があるらしく、何も言わずにじっとシルバーの返事を待っている。
 なぜ、見ていたのだろう。その答えを探し出すのに、たっぷり十数秒を必要とした。たった数分前の記憶をなぞるものの、浮かんだのは曖昧なイメージばかりだった。長い髪の、すらりとした女だったような気がする。シルバーは慎重に口を開く。
「……分からない。ただ」
「…………ただ?」
「どこかで見たような、気がしただけだ」
 数秒の沈黙を置いて、ゴールドがどっと吹き出した。
 何かと思ってシルバーが目をぱちくりさせていると、いきなり笑い出したゴールドの意を察したらしいクリスが、口元に手を添えてくすくすと笑いながら助け舟を出した。
「それ、ナンパの常套句よ」
「……知るか」
 笑われるいわれもない。シルバーが苦々しく呟けば、それに煽られたようにゴールドはいっそう笑い出す。しばらく憮然としたままだったシルバーが、ふと思い出したように右手を左腕に重ねた。その仕草を目敏く見つけたクリスが笑うのを止め、どうしたの、と尋ねる。
「もしかして寒いの?」
「この店の中でか? 薄着なんじゃねえの」
「ああ……いや。たぶん気のせいだ」
 そうして話題は転換し、やがて流される。くだらない話が鎖のように続いていく。聞いたところで大して益になるわけでもなく、明日になれば忘れてしまうような些細な会話。それでも、シルバーは風のように押し流される毎日をそれなりに楽しんでいて、無意味な言葉の並べ立てられるだけの友人たちとの時間すら、それなりに幸せだと思うようになっていた。
 かつては、こんな時間など無駄としか思えなかった。復讐を遂げ自らの出生を求め、ただ生きていくことに必死だった。クリスやゴールドはそんな彼の変化を、良いことだ、と言う。確かに仮面の男とは決着をつけた、父親とも再会した。それでも何かが足りない。幼いころに失ったピースはまだ全て揃わない。それを気のせいや些細なこととして片付けようとする自分が顔を出すたびに、シルバーは背筋が寒くなる。友人たちやアニメによって埋め尽くされつつある日々を、心の底では、彼は恐ろしく思っていたのかもしれない。

 ブルーさん、いつごろ着くって? そう……。
 シルバーを慌ただしく屋敷に運び込んで母親に任せ、ゴールドは急いで医者を引っ張って来た。初老の医者は手際よく処置をした後に、何かあったらいつでも電話しなさい、とゴールドと母親に言い含めて帰って行った。その後、ゴールドが真っ先にしたことは、クリスとブルーに連絡を入れることだった。クリスはちょうどキキョウにいたらしく、連絡して十五分足らずでゴールドの屋敷までやってきた。ブルーは二日後に控えた誕生会の準備のために、グリーンとタマムシシティまで行っていたらしく、もう少しばかり到着まで時間がかかるということだった。
 シルバーのいる部屋から戻ってきたクリスは青ざめた顔色をしていた。ゴールドの母親は、彼女と自分の息子に温かいレモネードを用意して、クリスと入れ違うようにして廊下に出て行った。
「人って、びっくりするほど簡単に、死んじゃうものなのね」
 クリスはぽつりと呟いた。診断結果は肺炎。風邪を悪化させたのだろうということだった。たかが肺炎といえども、既に重篤に陥っている上に衰弱しきった状態であり、シルバーは死にかけていた。助かるかどうかは本人の体力次第らしい。そういえば、つい二週間前に会ったとき、暖房のききすぎだと思っていたカフェの中で、彼は寒そうだった。そのときから風邪をひきはじめていたのかもしれない。
 あと半日遅かったら、確実に間に合わなかったでしょう。
 シルバーを見つけた経緯を聞いた医者がそう呟いたとき、ゴールドは背筋が寒くなるのが分かった。全国各所に無数にあるシルバーの隠れ家のうち、僅か三件あたっただけで見つけられたというのは、相当な幸運だった。ゴールドが知っているいくつかの隠れ家のうちにシルバーが居るとは限らないし、そもそも隠れ家にいない可能性さえあった。誕生会の二日前からシルバーに招待状を届けようとしたのは、そうした見つからない場合も考慮したからだったのだ。もし、あと半日シルバーが見付かっていなかったら。もし、ゴールドが今日誕生日の招待状を彼に届けようとしていなかったら。もし、ブルーが彼のための誕生日会を企画していなかったら。ぞくり、ゴールドは身震いする。
「……あいつ、馬鹿じゃねえの」
 呟いた声はあまりにも震えていて情けなかったが、ゴールドにはそれを抑える術がなかった。
「風邪、こじらせて死にかけてやがるとか、」
 シルバーは強かだ。そうそう絶望するようなタマじゃない、それはゴールドが一番よく知っている。彼のポケギアは充電が切れていたから、おそらく、連絡をしたくてもできなかったのだ、と思う。少なくとも自暴自棄になったりして、あえて自分から連絡をとろうとしなかったわけではない。
 それでも、どこか危うげなところがあるのも確かだった。目を離したら、消えてしまいそうな。例えるならば諸刃の剣だった。静かでいて、愚直なほどにまっすぐな、ひらめく光のような強さ。一つのもののために他の全てを捨てられる、なによりも透き通った覚悟をもっていた。そして彼が消えた後は髪の毛一本残らない、そんな気がする。まるで最初からいなかったみたいに、驚くほど綺麗に消えてしまうだろうと。
 彼のそうした純粋過ぎるところが、はかなげな危うさとなって漂っていたのだろう。彼は自分の存在に対する認識の薄い少年だった。いつだって他の何かに吸い寄せられ、いつだって形振り構わず走り続けていた。目的のためなら自分すらも捨て続けてきた。いま、その代償が死という形をもって彼に忍び寄って来ている。この状況を招き寄せた原因として、彼の自らに対する無頓着さが多くを占めるだろう。
 シルバーとて、このような事態を想定していたわけでも、望んだわけでもないだろう。それでもゴールドの、彼に対する怒りは募るばかりだった。生きたくても生きられない奴はいっぱいいる。それなのに、こんなつまらない理由で死ななくてもいいのに死ぬなんて、ゴールドには許しがたい罪悪だった。
 ここまでの事態になるまえに、シルバーと連絡をとろうとしていなかった自分に対しても同様に腹を立てていた。ゴールドやクリスと違い、普段誰かと一緒にいないということがどういうことなのか。分かったつもりでいて、少しだって分かっちゃいなかった。
「……死んだら赦さねえ」
 ゴールドが震える声で低くそう呟いた瞬間、ついに堪えきれなくなったように、クリスは片手で顔を覆い、涙に潤んだ目を伏せた。押し殺した細い嗚咽は絶望に濡れそぼって、閑静な午後の空気のなかを縫うように流れ出した。
2
「グリーンの誕生日、もうすぐでしょ。だから思いっきりお洒落して、あの朴念仁をびっくりさせてやろうと思ってるのよ」
 すっかり夏の名残も消え去る十月の終わり。義姉のブルーといつものカフェで待ち合わせをしたシルバーに対する彼女の第一声だった。もうすぐでしょ、と言いつつも、彼女の恋人の誕生日はあと一ヶ月も先だったはずである。シルバーは思いはしたものの口には出さなかった。嬉しそうな彼女の顔を見るのは吝かでもないし、わざわざ水を差すこともない。
 だが、義姉は弟のファッションセンスを過大評価しすぎている、というのは、つねづねシルバーが思うことだった。以前送った服がよほど彼女の気に入ったらしく、何か特別な行事のための洋服選びには、決まってシルバーは付き合わされている。
 特にその日は、ブルーもかつてないほど気合が入っており、結局買い物を終えると夜になっていて、二人でホテルに泊まった。取ったのはツインの部屋だった。ブルーにはグリーンという列記とした恋人がいて、シルバーは遠慮したのだけれども、久しぶりに姉弟水入らずで過ごしたいからというブルーに押し切られる形になったのだ。
「ねえ、シルバーは気になる娘とかいないの?」
「別に。いないよ」
「クリスとかいいんじゃない? あの子、いい娘だもの」
「そういうことじゃなくて……そういうの、興味ないし」
 そもそも、そうした話になったのが間違いだったのかもしれない。ブルーに深い意図などなかったのだろう。年頃の弟に気になる女の子がいないはずがない、だからちょっとポケギアの履歴を覗き見してからかっちゃえ、その程度の気持ちだったのだろう。何せ久々に二人でゆっくりして、シルバーはこれ以上ないほど気を抜いていたし、ブルーも酒に酔ったように浮かれていた。
 シルバーがシャワーからあがったあとに見たのは、ベッドの上でポケギアを手に座り込んでいるブルーの姿だった。
「…………姉さん?」
 怪訝に思ったシルバーが声をかけると、ブルーは大袈裟なほど肩を震わせた。彼女の手からポケギアが滑り落ちる。ふと見やったブルーの鞄からはポケギアがはみ出していて、シルバーは彼女が持っていたのが自分のポケギアであることに思い至った。息を呑む。履歴を見られてやましいことなど何一つしていないが、一つだけ。決してブルーに見られてはいけないメールがあった。
「……シルバー、……あたし……」
 紙のように真っ白な顔を歪め、ブルーは視線の先の弟の姿に縋る。
「あたし……あんたに……」
「……なにも言わないで、姉さん」
 気付いたら、シルバーは震える声を遮っていた。もう忘れていたはずの気持ちが頭をもたげてくるのを自覚する。傷ついた顔をした目の前の義姉を、シルバーはまだ抱き締めることができない。ただ弟として、それだけで抱き締められるのならいいのだけれど、彼は、まだ。
 シルバーはブルーに一声もかけず、一度着た寝間着を普段着に着替えて荷物を整えた。ブルーの落としたポケギアを拾い上げ、ホテル代の半分をテーブルに置いていくのも忘れない。
「……やっぱり、今日は一緒には泊まれない。気をつけて帰って」
「待って、シルバー!」
 待てないよ。
 ここで泊まってしまったら、ブルーにも、グリーンにも申し訳が立たなくなってしまう。シルバーは部屋を出る前に振り返る。ベッドの上、酷く傷ついたような義姉の顔がうつった。ごめん。彼は微笑んで、溜息のように呟いた。
「姉さん。……その、誤解、しないでほしい。俺が望んだんだ。姉さんとグリーン先輩のことも。今でも、姉さんが望んでくれるなら……俺はずっと、姉さんの弟で居たい、と思ってるよ」
 望んだことは本当だった。彼女がすべての世界だった。幼いころ、はじめて彼女にやさしくしてもらった瞬間から、なにより彼女の幸せを願うようになっていた。彼女はお嫁さんを夢見ていて、たくさんの家族や友達に囲まれることを望んでいた。だから、シルバーでは駄目だったのだ。かつてすべてを失った彼女から「弟」を奪うことなど、彼にできるはずもなかった。
 けれど今夜、あの瞬間。ブルーの目は弟を見る目ではなかった。一人の男を見る目になっていた。
 もう、取り戻せないかもしれない。シルバーは暗い気持ちでホテルを出て、すぐにポケギアを取り出した。触れた感触にまだブルーの体温が残っているような気がする。けれど、今ブルーの傍にいていいのは彼ではない。ほのかに香るその感触を殺すようにぎゅっと拳を握ってから、その指で、シルバーは彼女の恋人の連絡先を選んだ。

「休めるわけ、ないでしょ……!!」
 空気を切るほどに鋭い言葉が迸る。直後、ブルーは自らの発した言葉の鋭利さに怯んで息を呑んだ。昨日からずっとシルバーの傍についたまま、一時も身体を休めようとしないブルーに、休むように言ったのはグリーンだった。
 燃えるような身体と打って変わって、静かなほどに弱々しい呼吸。ずっと目を覚まさない弟を前にして、ブルーはどうしようもない悲しみと苛立ちの板挟みに遭っていた。今やささやかな呼吸の変化でしかシルバーを感じることができないのが辛かった。そして一晩。地獄のように長い一晩。ブルーは酷い顔をしているらしい。イエローは、そう言って心配した。
 あの日。グリーンの誕生日のために服を買いに行った日から、ずっとブルーはシルバーのことについて考えていた。気まずくなって、連絡もろくにとらないままに二月が過ぎようとして、彼女がようやく気持ちを落ち着けたのが一週間前のことだ。シルバーの誕生日にサプライズ・パーティを開いて、そこで彼に伝えよう、そう思っていた。彼女の中ではすっかり整理もついて、少しばかり緊張しながら、けれどもそれを上回る喜びでもって彼女は満たされていた。それだけにゴールドによる一報は、まさに晴天の霹靂だったのだ。
 ブルーは自らの言葉を悔いるように俯いた。
「……ごめん、そう……そう、ね。もうすこししたら、休むから……もう少しだけ、この子の傍にいさせて」
 グリーンはブルーの向こうで、ぐったりとしてベッドに埋もれている後輩を見やる。逸脱した人生を送ってきた割には常識もそこそこにあって真面目だが、どこか危なっかしい後輩だとは思っていた。彼の何一つ顧みることのない一途さは、きっとサカキに似ている。結局、溜息をひとつついただけで、グリーンは部屋を後にした。
 お互いの幸せを祈りあってた。だからあたしはずっと、あの子と一緒に幸せになれると思ってた。
 十月のある日、シルバーに呼び出されて行った先のホテルで、ブルーはそう言った。何があったのか、どうして泣いているのかも言わず、彼女は泣いていた。思えば電話の向こうのシルバーも、どこか傷ついたような声をしていた。
 シルバーとはそれから一度だけ会った。珍しくもない。父の情報を求めて、彼は時折トキワジムを訪れることがあったからだ。そのとき、シルバーはすっかりいつもの調子にもどっていた。思えばグリーンは、彼のあれほど傷ついた声を聞いたのは、あれが初めてだったように思う。
「ブルー、どうだって?」
 リビングに戻ると、レッドとイエロー、クリスの姿があった。ゴールドはなんやかんや理由をつけて席を外していることが多い。あれで意地っ張りなところがあるから、参っているところを見られたくないのだろうが。
「駄目だな。てこでも起きてるつもりらしい」
「そう、ですか……」
「ルビーたちは?」
「あと一時間で着くそうです。エメラルド君は、あと三十分で」
 沈んだ空気を振り払うように、レッドが立ち上がる。
「……俺、シルバーのポケモンを散歩にでもつれてくよ。外の空気を吸わせるのも大事だろうし」
「あ……僕も手伝います」
 レッドとイエローが席を立つのを見送りながら、グリーンはもう一度溜息をついた。
 姉さんを幸せにしろ、でなければ許さない。
 つい数ヶ月前に言われた言葉が思い返されて、呆れと苛立ちの中間のような心持ちになった。あんな脅迫まがいのことを言っておいて、いま、義姉どころかたくさんの人を不幸にしている。今度、よく言って聞かせなければならない。……生きていたならば。
 そう、生きていること、それがいちばん大事なことなのだ。シルバーにはその認識がそっくり欠落しているように見えてならない。悪人も善人も関係なく、それ自体に意味などなくても、生きているものすべての本分は生きることにある。誰も炎の中にある石ころなど取りにはいかない。けれど彼は躊躇いもせず、炎の中へ飛び込んでいく。生きているもののすべての本分が生きることにあるというのならば、死すら厭わずに彼が求めているものは、きっと。
 ただ意味だけを求めるならば、それは誰かが与えることができる。けれども彼が必要とするものは、きっと自分自身の力で勝ち取らなければならないものだ。先輩として、仲間として、彼には与えられるだけの意味を与えたのではないか、と思う。だが、彼にはそれらの意味を受け止めるための、器が必要だ。
 グリーンはふと顔を上げて庭を眺める。シルバーのポケモンたちも流石に主人の安否を気にして、散歩どころではないらしい。イエローが彼らに触れて、何かを伝えようとしているが、ポケモンたちは一様にだだをこねたり、沈んだりしている。同じく宥めようとしているレッドも忙しい。
 シルバーが小さな頃からいっしょにいたマニューラは、ひとり、視線を遠くに投げていた。何かを思い返すように。あきらめたように。
 そうだ、誰しもが、生きていてくれるだけで、きっと良かった。けれどそれは、シルバー自身にしかできないことだったのだ。
3
 タウリナーΩ? そう反芻したルビーの顔は、思えば随分と呆気にとられていたようであった。
 一年程前の、夏真っ盛りの時期だっただろうか。タウリナーΩの放送も二クール目に突入した頃のことである。その日、シルバーはゴールドの母親が作ってくれた一クール分のDVD数枚を手に、アサギシティのネットカフェに入ろうとしていた。偶然にもその現場を、ちょうどバトルタワーに挑戦中のルビー、サファイア、エメラルドに押さえられた形となる。
 三人は、数日前からバトルタワーに挑戦しているらしかった。初めはエメラルドだけが来ていたのだが、いつの間にかルビーとサファイアにそれが伝わって、今では三人仲良くアサギのホテルから毎日通っているらしい。エメラルドは迷惑そうな顔をしていたものの、なんだかんだで一緒にいるところを見ると、それなりに上手くやっているようである。
「シルバーさんもネットカフェなんかに入るんですね」
 意外そうに目を丸くして、最初に尋ねたのはルビーだった。漫画、読むんですか? 続けて尋ねて来た後輩に、シルバーが持ってきたDVDを指し示しながら、アニメを見にきた、と素直に事情を説明したときの三人の顔をいったらなかった。
 そして冒頭のルビーである。彼だけでなく、エメラルドは何とも言えないような引きつったような表情を浮かべ、サファイアに至っては驚きを隠そうともせず、シルバー先輩が? と目をぱちくりさせていた。そしてネットカフェにてみんなで一緒に鑑賞する運びとなり、その後もシルバーは後輩達に引きずられるようにしてバトルタワーに連れて行かれた。
 バトルもそこそこにシルバーが一階ロビーに戻ってくると、そこには既にルビーの姿があった。早いな、と思ったら、今日の目標は達成したので、とエネコロロを撫でながらルビーは笑う。
「すごいな、って思いました」
「?」
「あなたのそういうところ」
 タウリナーΩが好きだ。何の臆面もなくそう言えて、僕たちが驚いても引いても、不思議そうな顔をしていられるところが。そうだろうか、とシルバーはルビーを見る。だってそれは、当たり前のことで。
「好きなものを好きって言える。当たり前のようでいて、素直にそう言える人は多くないんですよ」
 ルビーは少しだけ悲しそうな顔で微笑み、すり寄ってくるエネコロロと戯れのキスをする。
 相手は、あまり話したこともないような少年で、けれど、その横顔の悲しさに息が詰まる。悲しみは喜びよりもずっと多くのことを包括している。何故だかその表情を見た瞬間に、シルバーは彼の多くを知ったような心持ちになった。
 後輩を、シルバーは知らない。先輩だってそうだ。先へ後へ連なって行く人の系譜。そうした連なりを、彼は相変わらず知らないままだ。図鑑所有者という括りはあまりにも杜撰だった。同じ図鑑を持つという理由だけで括られ、志も目的も何もかもが違う。だからシルバーは彼のことを何一つ知らない。けれどその瞬間だけはどうしてか、彼をすっかり分かったような気になったのだ。そして自分がどうすればいいのかも、考えるよりも先に理解する。俯く横顔を、前へと上げさせなければならない。シルバーの先輩が、シルバーにそうしたように。
「ルビー」
 名前を呼んで立ち上がり、モンスターボールを指し示す。ポケモントレーナーなら、それだけで意思疎通には十分だった。
 バトルタワーを出た所の海岸でバトルをした。ルールも条件も決めない。粒子の細かな砂や、ところどころ岩の隆起した海岸沿いの地形を思うがままに利用して、勝利することを考える。流石に両者のポケモンには実力差があり、それを十二分に弁えているルビーは地形と戦略を活かした戦い方をした。流石に勝利をもぎ取るまではいかなかったものの、結果的には、お互いに良い経験になるバトルになった。
「なんだか……どうでもよくなっちゃいました」
 ルビーはそう言って笑った。
 日常の雑多な悩み事の大部分は矮小なものに過ぎないのだということを、シルバーは知っていた。精神と身体を極限まで追い込むことで、それらの多くはエネルギーとなって霧散する。ルビーの横顔は影がなく凛として、夕刻の橙色の光に、白っぽい金色に光っていた。
「……ありがとうございました」
「別に、お前のためにやったわけじゃない」
「はい、わかってます」
 そんな甘っちょろい人じゃないってことくらい。
 ルビーは微笑んだ。誰かのために何かをするなんて献身的な行為は、シルバーには似合わない。シルバーはシルバーの思想でもってしか動かない。けれどルビーはこうも思う。分かってはいても、それがどれほど些細なことでも、救われたことに変わりしないのだ。
「でも、言わせてください。ありがとうございました、シルバー先輩」
 ルビーがそうして右手を差し出した、シルバーは一瞬の逡巡の後にその手を握った。手袋越しに固く握られた感触が、どうにも印象的だった。手をつなぐ、とは違う。少なくともシルバーはそのときまで、握手なんて知らなかった。
 一瞬だった、けれどそれは確かに、先輩と後輩の間に、彼が自分の居場所を見つけた瞬間だったのだ。
 
「……ルビー」
 振り返ったサファイアは、酷く傷ついたような顔をしていた。ポケギアを握った手が震えている。
 途端、嫌が感じがじわじわと胸の内から広がっていく、独特の感覚がした。噛んだ唇から血が滲むような、不吉なイメージが喉を詰まらせる。
 ルビーが思い出したのは、数年前、祖父が死んだときのことだった。離れて暮らしてはいたものの、小さな頃からルビーはよくよくかわいがってもらっており、ポケモンバトルの腕もピカ一の自慢の祖父だった。その日、朝からずっとルビーはそわそわとして落ち着かず、不安で仕方が無かった。死の直前までぴんぴんしていたらしい祖父は夕方頃に突然倒れてぽっくりと逝ってしまった。
 聞きたくない、サファイア。喉まで出掛かったはずの言葉は出てこない。サファイアはきゅっと両眉を寄せて、目を伏せたまま、口を開いた。
「……シルバー先輩……死ぬかもしれんけん、て」
 クリスタル先輩が。ルビーは大きく目を見開いた。
 ワカバタウンに向かいながら、ぽつぽつとサファイアがクリスから聞いた事の顛末をルビーに語った。昨日、ゴールドがシルバーを見つけたときには既に虫の息であり、今日に至るまでその病状は改善せず、今先ほど医者が、今夜が峠でしょう、と言ったという。彼の生死は今夜で決まる。明日の朝、彼は呼吸を続けているか、それとも。
 シルバーといえば、明日開催予定だった誕生日パーティの主役である。ルビーとサファイアは以前からその話を聞いていた。
 君のことだから、ドレスなんて持ってないだろ? ということで作ってあげました、仕上げをするから着てみてごらん。
 あんたは相変わらず鼻につくものん言い方ばするね!
 そんなやり取りをしていた矢先だっただけに、クリスから連絡がきたときの衝撃は計り知れなかった。
 特別仲が良かったとかじゃない。それでもルビーは、かつてシルバーと話をしたこともあれば、バトルをしたこともあった。この目で、耳で。その存在を確かに覚えている。それが無くなるかもしれない。この世界から永久に、失われるかもしれない。それがどうしようもなく、堪えようのないことのように感じるんだ。
 ほらシルバーって、いつも一人で旅をしてるでしょ。それで風邪をこじらせた、みたいで。ポケギアも充電切らしてたみたいで。
 クリスがそう言ってた、と、サファイアはルビーに語った。不安で仕方がない、途方に暮れたように沈んでいるサファイアとは対照的に、その瞬間にルビーが感じたのは怒り以外のなにものでもなかった。ポケモンバトルは強いくせに、いくつもの死線を潜り抜けてきたくせに、そんなくだらない、つまらないことで死にかけている挙げ句に、皆が楽しみにしていた誕生日パーティを自らぶっ潰し、サファイアに、ルビーに、他の先輩達に、これほど不安を植え付けているという事実は、腹立たしい以外の何物でもない。
 気にいらなかったんだ、とルビーは胸の内だけで剣呑に吐き捨てる。
 かつては一人だったのかもしれない、けれど今に至ってまでずっと、一人きりで生きて行けるような顔をしているところが。目的のためなら、大事な人ですら切り捨てられるところが。好きなものは好きといって、頑なに意思を曲げないところが。
 選んだ道ならば何もかもを見捨てて進んで行けばいい。それなのに優しさを捨てきれないところが嫌いだ。そうして優しさを捨てないまま進んで行けるほど強いところが嫌いだ。
 本当に、救いようもないくらいに。
 もしもそれを強さと呼ぶならば、ルビーは何もかもを捨てて道をゆけるほど、強くはないと思う。それほどまでにその道に価値があるとも思えない。けれどシルバーにとっては、きっとそれが全てなのだ。
「……シルバー先輩が元気になったら、誕生日パーティ、しよう」
 年が明けたって、いくら遅くなったって構わない。湧き出したどす黒い怒りを、子供のような心細さを押し殺して、ルビーはサファイアを元気づけるために、ただ微笑む。
4
 ゴールドの家を初めて訪れたときのことだった。それは仮面の男事件が終わってからの、初めての春。五月の終わり、既に冬は遠く、少しばかり初夏の気配の香る、穏やかな時期だったことを今でもよく覚えている。
 目の前に鎮座する建造物の巨大さに、思わずぽかんとして見上げる。そうしたシルバーの様子にも気付かず、ゴールドは纏わり付くポケモンたちを慣れた様子でなだめつつ庭を横切って扉を開けるなり、ただいまかあさん、と大きな声で宣言した。それから家の中に入ろうとしてふと振り返り、呆気にとられたままのシルバーを見るや、入れよ、とその手首を取って笑った。その笑い方があんまり朗らかだったので、シルバーは返事も忘れて、引っ張られるがままに屋内に足を踏み入れた。
 驚くべきことに、庭だけでなく、屋内でもポケモンが平気で横切る。土足で侵入したらしいコラッタを追いかけて行く気性の荒そうなサンド、その足跡のついた廊下を磨いていくラッキーの姿などを見かけたとき、シルバーは思わず幻かと思ったほどだった。
 屋敷の中でも外でも、絶えず何かが動いている気配がする。忙しないテンポに乗って、ゴールドは時計の針のようにきりきり動く。どこがどうとは言えないけれども、彼の挙動はこの屋敷のリズムの裏拍のようだった。
「おかえりゴールド。お友達?」
 不意に横切ったダイニングキッチンで、ミトンをつけた女性の声がゴールドを捕まえた。ゴールドは足を止めず、
「おー、シルバーってんだ。こっちは俺の母さん」
「シルバー君」
 女性は薄く唇を開き、しっとりと反芻した。
 母さん。
 ゴールドの声で聞いた言葉の真新しさに、シルバーは失礼と知りつつも彼女の姿を凝視する。話だけは、ブルーからたくさん聞いていた。けれど彼女の話す母親は、いつだって彼女を抱き締められる距離にいた。三メートルの距離を空けて対峙する母親の姿を見て、なんだかちぐはぐするような印象を受けたのは、そのせいだったのだろう。
 それでも、名前を呼ばれた、それは一瞬のことだったはずなのに、それは酷く長い時間だったように思えた。伏せられた黒い睫毛の優しさ、笑みを浮かべる唇の悠然とした振る舞いに、シルバーが言葉に詰まるほどの衝撃を受けたのも確かだった。
 ゴールドと彼の母親は、口を閉ざしたままのシルバーに対して特に気にするような素振りも見せずに話を続けている。
「三時におやつが出来るから、降りていらっしゃい」
「今日のおやつは?」
「レモンパイよ」
 それから、ゴールドの部屋に行って、シルバーは彼と話をした。仲が良かった? 否、むしろ逆だった。顔を合わせるたび衝突を繰り返して、そして最後には、シルバーから因縁の相手との決着をそっくり奪っていった。
 それなのに、まるで何事もなかったように同じ部屋で、ぽつぽつと言葉を交わしているのが不思議だった。ゴールドはよく笑った。眩暈がするほどに。
「……母親と二人暮らしなのか?」
「ああ、父さんは俺が小さい頃どっか行っちまった。おまえは? なんか覚えてねえの?」
「何も」
「そっか」
 暫く黙ったあと、ゴールドは一瞬明後日の方向を向いた顔を再びシルバーへ向ける。
「見つかったらどうする?」
 ……分からなかった。
 第一に、両親と再会するという自分の想像ができなかったし、両親そのものが自分にとってどういうものなのかも分からなかった。一緒に、暮らしたいのだろうか。帰る家があって、ただいまと言える、そんな居場所がほしいのだろうか。シルバーは口を閉ざした。結局、彼にとって家族という存在はあまりに遠すぎた。会って何がしたいとか、具体的に希望があるわけでもない。
 けれどもただ一つ言えることは、おそらく彼は知りたかったのだ。自分に両親がいたということ、温かな家があったということ。それだけでよかった。それだけで十分だった。

 シルバーが死にかけていると聞いて、指定された場所はゴールドの家。
 エメラルドにはその意味を察することができた。シルバーは家がなくて、一緒に暮らすような家族もないと聞いていたからだ。彼が驚いたのは、屋敷の中にいる人間はゴールドと彼の母親、その他には見知った図鑑所有者しか居なかったことだった。
「……シルバーさんのご両親は?」
 エメラルドがそう尋ねたとき、クリスは淋しそうな顔をした。尋ねないほうが良かったのかもしれない、と思ったけれども、そうせずにはいられなかった。まだ、見つかっていないんですか? そう続けたエメラルドに、クリスは首を横に振った。
「ううん、見つかったんだけどね。今は、どこにいるのかも分からないのよ」
「………………は……、え? 連絡先は?」
 クリスは無言で首を横に振った。
 なぜ、どうして。エメラルドは聞きたかったが、続く言葉が見つからない。そうした彼の心境を察したクリスが、よわよわしく微笑む。
「シルバーが決めたの。お父さんとは一緒には暮らさない、連絡先も聞かないって」
「……どうして……!!」
 かつてクリスも、シルバーに同じ疑問をぶつけたことがある。彼が物心もつかないころから失われた家族と再会して、何故再び袂を分つのだと。せめて、連絡先だけでも聞いておいたらよかったのに、と。
 シルバーはこう答えた。
 父が志を貫く限り、自らがそれを阻もうとする限り、道は必ず重なるのだと。それはどちらかが負けるまで続いて行く。ちゃんと繋ぐものはある。だから大丈夫だ、と。
 けれども、どちらかが負ける日など来ないのではないかとクリスは素直に言った。そうかもしれない、とシルバーは笑った。そのときはそのときだ。
 なんだよ、それ。
 エメラルドは声を震わせる。
「訳が分からないよ。それじゃ、ここでシルバーさんが死んでもお父さんはそれを知る術がないってことじゃないか! そんなの酷過ぎる!」
 シルバーにとっても、彼の父親にとっても、これ以上に無惨なことがあるだろうか。それを覚悟してでも、シルバーが、彼の父親がお互いに道を違えたのは、いったい何のためだったのだろう。エメラルドにはそれが分からない。今、自分の家ではない場所で、誰一人として血の繋がった人がいない中で、病床に臥せっている。ましてや、父親がいるとわかっているのに。それは、あまりにも孤独な道を選んだように思えたのだ。
 少なくとも、家族のいないエメラルドの目にはそう映った。どんな理由であれ、その選択は愚かだったとすら思った。
「……私には、きっと彼と同じ選択はできない。でも、シルバーと彼のお父さんが選んだ道は、そうだったの」
 似た者親子よね。そうつぶやく声も力ない。
 シルバーはいつだって、形のないものを追いかける。目先の幸せよりも、彼には大事なものがある。それは他の人から見れば、どうでもいい、道端の雑草みたいなものかもしれない。けれど彼にとってはそれが全てだった。
 サカキが悪を貫くように、シルバーも決めた道を突き進む。孤独も死も、何もかも覚悟の上で、愚直なほどひたむきに、不器用なほど一途に。そういうひとなのよ、とクリスはどこか諦めたように呟く。
「そんなのはおかしいよ」
 ほとほと疲れたように頭を振った少年に、クリスは溜息をつくように微笑した。
5
 思えば、ブルーと二人で生きていた頃に、シルバーは、一度だけ攫われる前の夢を見たことがあった。もう、ほとんど覚えていないくらいの、遠い遠い昔の夢だったのだ、とシルバーは思っている。
 寒い、雪の日のことだった。幼いシルバーは熱を出して、ブルーがどこからか温かい缶のコーンポタージュを持ち込んで来て、何もない倉庫のなか、一枚しかない毛布に二人で包まった。ブルーよりも三つ年下のシルバーが体調を崩すのももう日常の一部となってしまっていて、ブルーもシルバーも落ち着いたものだった。それでも、熱にくたりとしている弟分の気を紛らわそうと考えたのか、ブルーは家族の話をした。クリスマスや誕生日、お花見に海開き。一年のめぼしい行事のことをすっかり話し終えてしまったブルーはその日、アップルパイの話をした。
「特別なことがあった日に、お母さんがおやつに作ってくれるの。あたしのお母さんはね、アップルパイがいちばん上手なの。アップルパイっていうのは、りんごのお菓子で、とっても甘くておいしいのよ」
「ふうん……おれのお母さんも、そうだったのかなあ」
「うん、もしかしたらシルバーのお母さんは、ブルーベリーパイやパンプキンパイかもしれないわね」
「そんなにいっぱいあるの?」
「いーっぱい、あるのよ。パイってね、不思議なのよ。お野菜だってパイにすればびっくりするほどおいしいの」
 そうして話をするうちに眠ってしまった、その晩に見た夢だった。
 小さな頃はよく熱を出した。夢のなかでも覚えていたのは、天井。素っ気も飾り気も何もない、けれども確かにシルバーの家の天井。そのときも彼は熱に浮かされ、熱い息を吐き出しながら、天井の木目を数えていた。ひとつ、ふたつ。ときどき木目の描く滑らかな線がどこへつながっているのかを目で追いながら、彼は時間が過ぎるのを待っていた。
 やがてかえってくる。誰が? おとうさんが。
 ただいま。淡々とした声にまどろんでいたシルバーが薄く目を開ける。大きな掌が額を包み込む。ほうと息を吐き出す。おとうさんは子供にお粥を食べさせたあと、すぐに出かけてしまう。
 けれど寂しくはなかった。それから間もなく、ひょっこりとニューラが顔を出す。ニューラは両手にきのみを抱えていた。彼はそれをベッドサイドに置いて、そっと幼い主人を覗き込む。それから彼は身を乗り出して、慈しむようにシルバーの頬を舐めた。
 ポケモンというには、それはあまりにも逸脱した感情だった。まるでそれが義務だとも言いたげに、懸命に、ニューラはシルバーに愛を示す。ときどきシルバーは幼心に何故か、ニューラがいつも悲しんでいるようにも見えたのだ。まだ慰めることを知らない子供は、そうしたときには大声を上げて泣いた。可哀想にニューラは、そうした幼い主人を前に、途方に暮れることしかできなかった。
 ニューラはいつだって、誰よりシルバーの傍にいた。そして多忙な父親のかわりに、よくよく世話を焼いた。
 この夢は、おそらく、シルバーが翌日目覚めたときにはうっすらとその目蓋の裏に漂っていたのだろう、と思う。けれどもすぐに忘れてしまった。今日の食べ物や移動計画、その他諸々雑多なものに押しのけられて、ブルーのアップルパイと一緒に彼の外側に捨て置かれて、そのまま、いつしか見失ってしまった。

 わたしの罪は、彼女が死んだことでした。
 彼女は病気で死にました。わたしの知るところでない、外的要因による彼女の死を、わたしの罪と称するのはいささかの違和感を禁じ得ないかもしれません。それでも彼女の死は、確固としてわたしの罪悪でした。
 わたしは贖罪に追い立てられるように、若君を愛しました。彼女のために、君のために、わたしはまるで人間のように、君をただ慈しんだのです。思えばわたしは悲しかったのかもしれない。彼女を失ったことが、彼女に取り残されたことが。その寂しさを埋めるように、わたしはただひたすら、君の傍にいたのです。
 もともと病弱だった彼女が命に代えてこの世界に産み落した若君は、彼女の命でした。
 うまれたこどもをやせ細った腕に抱き、なかば死にかけながら、彼女は微笑んでいました。それは背筋が寒くなるほどに神秘なうつくしさを孕んでいました。だからわたしは、いまでも思うのです。彼女はこどもを生んだ瞬間にその命をこどもに受け渡し、そして天使になったのだと。若君が生まれ、彼女が息をひきとるまでの数日は、天使となった彼女があのベッドの上にいたのだと。それほどまでに苦しみのない、静かで、穏やかなだけの日々でした。彼女が最期の呼吸を終えた瞬間ですら、泣きたくなるほどに優しく、うつくしい時間でした。
 ……勘違いは、しないでいただきたい。わたしがあなたにこうした告白をするのは、慰めてほしいからでも、同情が欲しいからでもないのです。ただ、若君に関することを、人間に知っておいてほしい、それだけです。
 今宵、もしも若君が死ぬならば、そう、それもわたしの罪にする。あなたはまだお若いですから、よくお分かりにならないかもしれませんが。罪は記憶。君までいなくなれば、わたしは贖いの機会を永久に失い、一生の罪人となるでしょう。けれどそれでいいのです。苦しみながら、悲しみながら、わたしはいつまでも罪を憶えている。
 辛いことも悲しいこともたくさんありました。けれど、いまとなってはどれをとっても愛おしい記憶なのです。わたしは罪を愛し、贖罪に生きました。後悔はしていません。ポケモンとしてのわたしは、いまや死にました。
 この話を他の方に洩らすかどうかは、どちらでも構いません。少なくともあなたは、悪いようにはなさらないでしょうから――。
「イエロー?」
 怪訝そうなレッドの声に、イエローはふ、と顔を上げた。マニューラはさっとイエローから離れる。ちょうど顔を上げた拍子に、イエローの頬をひとつぶ、涙がこぼれおちた。
 マニューラはそのまま屋敷を離れて、近辺の裏山へ向かった。何を思ったわけでもなかったが、彼は走り出した。すべての感情など、このまま風に溶けて、どこか遠くへいってしまえ。勢いまかせに走り尽くし、頂上付近の開けた場所に辿り着く。いくつもの木の棒や石が立ち並ぶここは、墓地だ。マニューラは、そこに見知った顔をみとめて足を止めた。
 墓地の真ん中に立ち尽くし、その男はじっとマニューラを見つめていた。一対の金の瞳。
 不意にその男がきゅっと唇を引き結び、歩き出した。迷いを振り切ったような、確固たる目つきをしていた。マニューラの横をすれ違いざまに、彼は少し姿勢をかがめ、意外なほど優しい手つきでその頭を撫でていった。そうして低く、怒ったような声で呟く。
「……決めた。あいつのこと、ぜってー殴るわ」
 その一言で、マニューラのなかの何かが壊れた。このひとは、諦めていないのだと。
 ずっと、失うことに慣れてきた。失っても生きていく術を身につけて来た。マニューラが諦めてなお、諦めないひとがいる。それが無性に嬉しかった。罪を背負い、購うことに追われた十七年のすべてが音を立てて壊れる。その瞬間、初めて赦された、そんな気がした。
6
 自分という存在に、実感が湧かなかった。どこで生まれ、どうして生きてきたのか。果たしてほんとうに、生まれてきたのか。あらゆる輪郭が希薄だった。
 ブルーはシルバーにすべてを与えた。姉弟としての家族、体温。命。それらは小さかったシルバーの血肉となり、いつしか彼は青年と呼ばれてもおかしくない年齢まで成長した。けれども、ブルーはついに彼がかつて失った空白を埋めきることができなかった。
 ぽっかりと口を開けた彼の空虚は、彼をかけずり回らせた。自身を埋めてくれるものを求めて、ひたすらに目の前のものを貪り続けた。いくら食べても満たされはしなかった。それでも、時は過ぎて行く。埋まらない空白は少しずつ身体に馴染んで行く。
 冷たく、暗い海の中で彼はひとり笑う。
 彷徨う意味すら知らないままこの場所で生きて、ずいぶん長い時間が経った。いつまでも子供のままではいられない。もうすぐ大人だ。この身体は空虚を抱えたまま成長を止める。息をすることも知らないまま、朽ちることの意味すらわからないまま、幽霊のように進んで行く。そしていつしか彼は立ち止まる。彼の身体は否応がなしに大人に向かう。迷子の彼を取り残して。
 出会う人のすべては、どこか遠い存在だった。薄ら氷ひとつ隔てて、光を知らない目が捉える姿はぼやけるように曖昧だった。駄目なんだ、手をつなげないから。自身の輪郭すらいまはわからない。かつて何よりも明瞭に見えていたブルーの姿すら、いまは見えない。
 水圧に逆らわず、薄ら氷遠く落ち行く。沈み、眠る、氷の海。
 慣れ親しんだ海の闇と冷たさは、大人になろうとする迷子を窒息死させる。
 目覚めと眠りの意識の狭間、シルバーは、こほり、最後の酸素を吐き出した。

 常闇を夕焼け色の電灯が微かに照らす部屋の中、ブルーは意識のない弟の前髪を掻き揚げるように、額に掌を滑らせる。汗ばんだ額の感触と体温。それは、幼い頃によく見知った感覚のはずだったのだけれども、あのときとは違うと、彼女の冷えきった心臓は囁く。身じろぐ体力すら尽きた彼の鼓動はどこまでも静かだった。僅かばかり上下する胸だけが、彼がまだ辛うじて生きていることを示していた。
 ねえ、あたしのせい?
 閉ざされた目蓋に問いかける。今夜が峠でしょう、医者の言葉を思い返すたび、ブルーは喉が詰まったようになる。あたしがもっと上手くやれていたら、もっといいお姉さんでいられたら。あんたにはあたしよりもっとお似合いな娘がいるわよ、とか、ごめんね、とか。いくらでも言いようはあったはずなのに、取り乱したりして、きっと傷つけてしまった。あのときちゃんと笑えてたら、姉の顔で笑えてたら、あんたもそんなに傷ついたりしなかったのかな。
 なんてね、とブルーは目を閉じる。
 本当はわかってる。あんたは何があったって、あたしを悲しませるようなことはしないって。
「あたしはあんたの幸せを望んでたし、あんたはあたしの幸せを望んでた」
 呪文のように言い聞かせる。
「あのときはどこか間違えて、あたしもあんたもきっと傷ついてしまったけれど、それで終わってしまうほど、あたしたちは弱くはないでしょう?」
 自分を責めてるわけじゃない。いまのシルバーの状態を招き寄せたのがすべて自分のせいだなんて、そう思ってるわけじゃない。その点はちゃんと怒らないといけないのは分かっていて、けれど、ただ悲しかった。
 本当なら、明日。まっすぐに目を見て、伝えるはずだったのに。
 弟としてでも、恋人としてでもなく、シルバーは大事な人なのだと。出会った瞬間から、初めて赤い髪のこどもが泣いているのを見た瞬間から、誰よりも幸せを祈っているのだと、そう。
 空気が軋むように蝶番の鳴いた音に、ブルーは伏せていた顔を僅かに上げる。
「……ブルーちゃん?」
 背中を抱くような穏やかな声に、ブルーは誘われるようにそっと首を傾けた。手持ちランプを持ったゴールドの母親が、片手に扉のノブを握ったまま部屋の入り口に立っている。彼女は後ろ手にそっと扉を閉めると、橙色の光の浮かび上がる室内に音もなく足を踏み入れ、椅子を引き寄せ、ブルーの隣に座った。
「……みんなは……?」
「リビングにいるわ。今夜はずっと起きてるって」
 ブルーはそっと溜息をつく。ゴールドの母親はその様子をやさしげな眼差しで見つめていたが、不意に、うすく唇を開いてひっそりと尋ねた。
「シルバー君と、何かあったの?」
 酷く優しい声だった。屋敷全体が絶望に濡れているような冷ややかな夜のなかですら、陽だまりのようにやわらかく、それでいて芯を失わない、落ち着いて凛とした声。その声に肩を抱かれたような気がした瞬間、ブルーは泣き出す準備を整えだした口元を、顔ごと両手で覆った。
「……あ、あたし……あたし、」
 言葉にならない。喉が痙攣して、まともに声が出ない。掌の内側でくしゃりと表情が溶けて行く。プライドも理性も何もかもが流されて、心は涙に溢れた。感情の波に呑まれるままに迸る言葉は、まるでこどものよう。悲しみをそのまま声にする稚拙さのままに、ブルーは縋るように言葉を紡ぐ。
「この子に、ひど、酷いことしちゃ、」
 その後は、何一つとして意味のある言葉にならなかった。ゴールドの母親に縋るようにして彼女は泣き喚いた。強がって、大人びて、些細なことではもう傷つかないような顔をして、それでも彼女はこっ酷く傷ついた。
 大事な子。ブルーが言葉を与え、命を分かち、存在を繋いできた、誰よりも傍にいた赤い髪のこども。いつまでだって弟でいてくれると思ってた。ブルーのものだけでいてくれると思ってた。思えばそれが間違っていた。あの子はブルーの与り知らぬところで恋を知り、優しいあの子はブルーのために、心の中に仕舞い込んだ。ブルーはそれを暴いてしまった。大した理由もなく、一時の浮かれた心持ちに呑まれて、あの子の虚勢と優しさに惨い仕打ちをしてしまった。
 穏やかなときばかりじゃなかった。お互いを大切に思うからこそ、辛いときも、悲しかったときも、怒りを感じたときもあった。そうして暗がりの中でふたりきり、小さな手に持てるだけの言葉、幼い心が訴える限りの想いを巡らせてきたけれど、ほんとうに伝えたい言葉はいつだって、ただひとつだけだったんだ。
(あたしは、世界で一番、あの子の幸せを祈ってる)
 離れていても、心は繋がっていた。想いは通じていた。祈りは、届いていたんだ。
 想いあいながら、すれ違って、傷つけあいながら、これまでもこれからも、いまこの瞬間だって。ずっと一緒に生きて来た。そしてこれからもずっと、一緒に生きて行く。今度はふたりきりじゃなくて、たくさんの大切なものたちも一緒に。
 もしあの子がまだ分からないのなら、自分と周りとの境界が見えないのなら、何度だって手を繋ごう。そのためならば、あの冷たく暗い海に戻ったって構わない。彼女は、あの水槽の少女はもう、帰り道を思い出したのだから。
 今なら分かる。かつて失ったもののすべては、ここにある。きらきら光るピアスも、パパやママの愛も、マサラタウンのブルーも、そしてシルバーも。
(だからあんたは、瞼を開くだけでいいの)
 どこで生まれて、どう育ったかなんて些細なこと。シルバーはここにいる、それが全て。いまはブルーだけではなく、たくさんの人がそれを知っている。
(…………目を開けて、シルバー)
 彼女は祈るように呟いた。

 揺蕩う手を、引かれた。
 その小さくてやわらかな感触はよく知っているもので、彼はすぐにそれが義姉のものだと気付いた。遅すぎず、速過ぎもしないペースで、沈みだした身体はそのまま、海の深くへと進んでいく。
 深い、深い海だった。ただひたすらに果てのない青が続いている。酸素を失ったはずの身体はまだ生きていた。四肢は力を失って眠りにつき、義姉の手に導かれるままに流されてはいても、一度は止まりかけた心臓が再び動き出そうとしているのが分かった。
(……へそのお?)
(赤ちゃんはお腹にいるときに、ママと臍の緒で繋がってるのよ)
(……それは?)
(うん、これ。あたしの臍の緒)
 へそのお、だ。
 彼は思った。義姉の手によって彼は生かされていた。目印のひとつもない海中を、彼女は迷うことなく真っ直ぐに進んで行く。やがて少しずつ、彼女の手の感触が薄れて行く。けれど、彼は一本の糸に引かれるように進む道が分かる。沈みゆく身体はやがて浮上する。地球の反対側に出たのだろうか。
 気付けば、明るい、あたたかな海だった。降り注ぐ日差しはきらきらと輝き、海のずっと深いところまで美しく照らし出した。海の静寂の中を、こぽりこぽり、楽器のようにうつくしい音だけが遠く響く。
 ざぱり、水音がしたと同時、彼は白いシーツのうえにいた。
 春のはじまりのようなそよ風が鼻先をゆるやかに掠める。うららかな日差し、少しだけ冷えた朝の空気。どこまでも静謐な、そこは満たされた場所だった。ゆっくりと目を開ける。

「…………おはよう、ぼうや」

 やせ細った指で幼い頬を撫で、口元を綻ばせて微笑んだ。ほそい喉、低くすこし掠れた声。流れる赤い髪にやわらかくほそめられた銀色の瞳。愛を紡ぐように囁いた彼女の名は――、




 12月24日、午前5時54分――。

 細く息をついて目を覚ました。ゆっくりと目蓋を持ち上げれば、見慣れない天井が目に入る。まだ薄暗い冬の朝に、部屋はひっそりと静まり返っていた。
「目が覚めたの?」
 囁くように優しい、けれど少し掠れた声に視線だけを向けると、ゴールドの母親が、慈しむような視線を向けていた。それを見た瞬間、つと涙が頬を伝った。
 長い夢を見ていたみたいだ、けれど、いまは、ただ。
「……生まれてきて、よかった」
 ほそり呟いて目を伏せた。
 母はしずかに微笑んで、そっと彼の前髪を撫でる。


「お誕生日おめでとう、シルバー君」
Epilogue
 十二月二十四日、朝。
 毎年、目覚めてその日付を確認するたびに、男はかつての冬の日のことを思い出す。病弱だった彼女のお産は難産を極めた。いまにも死にそうに見えながら、彼女は息絶えることなく朝を迎えた。そして早朝、ついにやり遂げた。全身を巡る血流のために桃色に染まって生まれてきた赤子は、まるで命そのもののように感じたことを覚えている。
 夢のような日だった。彼女の生気のない白い頬がよろこびに僅かに染まったさまや、やせ細った指が赤子の頬を撫でるその仕草、うすく開けた窓からなだれこんだ風が一瞬、春のようなあたたかさを香らせたことも。何もかもが現実味を失い、その時間だけが写真のように記憶から切り取られ、色褪せないままに目蓋の裏に焼き付いている。
 けれども彼女は自分に先がないことを理解していた。残る命を全て赤子に注ぎ込むように、一生分の愛を分かち合うように、彼女は赤子と一時たりとも離れようとしなかった。
「大きくなってこの子が寂しさを感じたときには、きっと憶えてはいないのでしょうね」
 母の祈りを、愛を。ただひたむきな命を。
「だからあなたが憶えていてね。今日この日、この子が生まれたとき、よろこびに輝いた世界のことを」
 悪の道をゆく。
 それは優先順位の問題ではなく、前提条件だった。彼はそのように生きていくことしかできない。息子が行方不明となったあとも、悪の首領である身内の存在をあえて知らせる必要もあるまいと、潔く探すのを止めた。けれど自らの身体が死に至る病に蝕まれたと知ったとき、ふと、彼女の言葉が脳裏によみがえった。
 もし、生きているのならば、彼女の祈りを伝えたい。
 形のある言葉で贈ってやりたいと思った。なぜならばここで自分が死んだならば、彼女の愛は、言葉は、命は、永久に失われてしまう。そうなれば息子は、一生、命のかたちを知らないままではないかと、そんなふうに思った。いざ成長した息子を目の前にして口にした言葉は、彼女の言葉ではなかった。けれど、片腕に支える確かな重みが、かつて抱いた命の重さだと気付いたとき、えも言われぬ郷愁のままにこみ上げて来た声は、彼女のありとあらゆる全てを包括していたのだ。
 一年に一度。決まったその日に男は父になる。彼を呪う悪の道すらも羽根となり、風花を孕んだ春の風にながされていくような夢の中で。母の面影を色濃く残し、父のように自分の道をゆく息子の姿を思い描き、瞼を閉じれば、あの日確かにこの腕に憶えた甘やかな命のかたちが浮かび上がる。
(2013/11/23)