神の詩
□ リクエスト「サカシル親子救済」
□ シルバーのお母さん、サカキ様の友人関係等模造注意
目が覚めて、いま初めて生まれたみたいな気分だ。ここはどこだろう。継ぎ目の目立つ木版の天井と壁、開け放された窓はカーテンひとつなく素っ気ない。窓枠の向こう側から風と一緒に流れこんでくるのは葉の匂い。土の匂い。もはや嗅ぎ慣れたはずのそれらが妙に真新しく肺を満たしていくのはなぜだろうとぼんやりと思った。わるくない気分だ。深く呼吸をしてもう一度目を閉じようとしたが、うまくいかなかった。しかたなく起き上がることにして、寝台にねかされていたことに気付く。生成色の分厚い綿のタオルケットにくるまっていたが、あまり温かくはなかった。肌寒くて目が醒めたのかもしれない。木製の寝台はらくらく寝返りが打てるほど広々としていた。敷かれているのは弾機いりのマットレスではなくて日本式の布団。空気をふくんで、触ってみるとふかふかとしているが、僅かに埃っぽい。においも石鹸のでなく、たぶん黴臭いとでもいうのだろうが、少しくらいならかえってそのほうが落ち着く。虫食いの目立つ窓枠を指でなぞってみると、指に何かが引っかかった。もう殆ど剥がれかけた、透明なコーティング材。おそらく腐敗防止のための。窓枠と壁に使われている木材は、たぶん白樺だろうと思う。
部屋は広々としていたが、それがかえって閑散として味気ない印象を際立たせていた。家具は少なく、俺がねかされていた寝台がひとつ、窓は寝台の横にひとつと、部屋の奥にひとつ。寝台のはす向かいの出入り口の近くに四つ足の机と背凭れのない椅子がひとつずつ、そのかたわらに腰くらいまでしかない小さな本棚がふたつ並んでいる。大きさは殆ど同じだけれど、同じ品というには違いがはっきり分かる程、どっちもどっちで歪な形をしている。どれも、たぶん白樺でつくられている。もしかしたら全て手製なのかもしれない、家も、家財も。布団の感じからして、たぶんこの布団は自分用にとくべつに手入れされたものなんだと分かる。けれどそうにしては、この家はあまりに古過ぎる。何もかもが朽ちかけて、古びている。かつてここにあったはずの生活感は重ねられた時間の向こうに遠ざかって、すっかりくたびれたままに忘れかけられている。窓の外では楠が葉をこすらせながら揺れている。
足を降ろして立ち上がる。床板が軋むが、床が抜けるほどには傷んでいない、ようだ。かろうじて。不思議な気分のまま、扉も金具もない、ただの出入り口に向かった。通り過ぎた一人用のちいさな机の上には、アルコール式のランタンが置かれている。部屋を見回しても、それ以外に灯りらしきものは見当たらなかった。火は明かりの代わりには余りに役不足だが、無いよりはよほどましだろう。火を点す綿の網紐の先は黒く焦げていて使い込まれた形跡はあるものの、ガラスの燃料入れともどもからからに乾いている。たぶん……、机にくっついた歪な引き出しの中には、使いかけのマッチがそのままに入っている。引き出しを開けてみようとして、躊躇いが生じたときには遅く、埋め込まれた鉄の取っ手を掴んで引っ張ろうとしていた。けれどすぐさま引っかかりに躓いて、うまくいなかった。素人目にもがたついているから、きっと引き出すのにはコツがいるんだろう。ほっとして手を離し、僅かばかり引いてしまったのを元通りに押し込んでおいた。
木枠をくぐった先は、ひとまわり小さな、だがやはり十分に広い部屋だった。すぐ横手に木製のキッチンカウンターがあって、そちら側にまわってみると、台の上にステンレスの四角いシンクが埋め込まれていた。四方を螺子でとめられていて、底には排水溝と思しき穴が開いているから多分そうなんだろう。ただし蛇口はなく、かわりにキッチンの片隅に水汲み桶がある。シンクの横には鉄製のガスコンロがある。きっとアルコールランプと同様、もうガスは残っていないだろうと思った。カウンターの下はラックになっていて、鉄製の片手鍋と、調理器具と思われるものが二、三。それに、きれいな檜の箱が一つ。たぶんこれは既製品だろう。それから、と横に視線を走らせると、端に置かれていたものが目に入った。
赤銅色に鈍く光るなだらかな曲線を描く、銅のドリップポット。キッチン裏手のガラス扉からの光を受けて、それはまるで呼吸をしているかのように静かに煌めいている。白樺の葉が揺れるたびに変化する光を受けて、同じように表面で光が揺れている。そのとき、何もかもが死んだはずの世界の中に、初めて生きているものを見つけたみたいな驚きがあった。おもわず手に取って、その理由がわかった。表面がでこぼこしている。そのせいで無数に繰り返される山から、光が谷にこぼれおちているみたいに見えるんだ。
「起きたのか」
不意の声に驚いて顔を上げる。カウンターの向こう側、この家の入り口の扉が開かれている。一瞬、開かれた扉の向こうから光が溢れて白く染め上げられた気がした。その中で影が立っている。サカキ、——幻かと。
「おまえと話がしたくてな」
それでようやく俺は、どういった経緯でここにいるのかを思い出した。修行のためにシロガネ山の樹海を移動していた途中、隣を歩いていたマニューラがいきなり飛び出したのに気をとられた、その後の記憶が不自然に途切れている、次に目覚めたのは、あの布団の上だった。
「……だからって拉致なんて」
ちゃんと言葉でいってくれたらよかったのに。
「俺がひとりだけでする必要があった」
「お前を見かけたからといってすぐに飛びかかるほど見境無しじゃない」
ロケット団首領としてでなく、お父さんとして言ってくれたら、警戒だってそんなにしない……と、思う。見くびられていたのかと、自然と声の調子も辛辣になった。するとサカキは思いもかけない言葉を聞いたと言いたげに目を丸くしてから、やがておかしそうに喉の奥で笑った。
「……分かっている。悪かった、そういう意味じゃないんだ。あえてお前に知らせなかったのは、俺がそうしたかっただけだ」
だから気にするなと笑われて顔が熱くなった。のを、自分で気付かないふりをした。恥ずかしい、なんて今更だって分かってる。何の意味もないってことも。なんでこんなにむしゃくしゃするんだろう、いつかクリスは心配するようなことじゃないって言った、のに。
「それで、話ってなに」
「……。まず、その話をするための準備がある」
言って、サカキは部屋の中に入ってきて、椅子の背凭れに引っ掛けてあった外套に袖を通し、帽子を目深に被った。それらは最後に見たときに身につけていたのと同じ品だとわかった。もう大分くたびれている……、人のことを言えた格好でないことはわかっているが。
「出かけるぞ」
飯は行きがけに食おう。その言葉が今まで見てきたサカキのイメージとは妙にちぐはぐだと思った。けれど、とりあえず頷いた。
きっと罠ではない。不思議な確信があった。例え、俺が無意識のうちにそう信じたいゆえの確信だったとしても、目の前の男を信じることができる、そのとき俺はそれだけのことに安心したんだ。
この家はトキワの森の奥深いところにあるのだ、とサカキの言ったとおりだ。森の中を一時間ほど歩き続けてようやく、両脇にロープの張られた山道らしきところに出た。ロープをまたぎ、十五分ほど道なりに下ってゆくと、舗装された車道と見覚えのある駐車場が見えてきて、それで俺はここがシロガネ山の登山コースの一つであることを知った。急勾配の階段の向こうに見える駐車場には、青灰色の小石が敷き詰められ、黄色と黒を寄り合わせたロープで一台分のスペースが区切られている。ちょうど十五台ほどの車が停められるスペースがあったが、いまそこにあるのは三台だけだ。赤と黒のが一台ずつ、それから深い緑色をして一回り小さいのが一台。石段を下り切ると、サカキは緑色の車に乗るように言った。まさか盗品じゃないだろうなと俺が反射的に感じるのを予期していたかのように、あいつは「俺の車だ」さらりと言った。
バスは乗ったことがあるけれど、自家用車?に乗るのははじめてだ。シートベルトをしろと言われて何のことか分からなかった。サカキはそれに気付いて、一度閉めた自分のシートベルトを外して、もう一回やってみせた。それで俺も同じようにした。かちっ、という小気味良い音とともにベルトは身体を背凭れに押さえつける。そして、車は走り出した。
(こんなに遠いなら、ポケモンで移動すればよかったのに)
わざわざ車を使うまでもない。サカキのことだ、移動用の鳥ポケモンを持ってないなんてことはないだろう。運転席の横顔を窺いながら思った。もっとも今更そんなふうに思うくらいなら、三十分かそこら歩いた時点でそう言っておけばよかったんだ。それでも沈黙に甘んじていた。これまで一時間以上にわたって、連れ立って歩いてきたというのに、その間、会話はほとんどしなかった。聞きたいことは山ほどあるはずだったのに、結局聞くことができたのは、あの家がトキワの森にあるということ、それだけだった。聞こうとしなかったわけじゃない……、ただ、準備が必要だとやんわり繰り返された。いったい何の準備なんだと問いつめてみようかとも思ったけれど、止めてしまった。浮かぶ問いはどれもなにか違うものばかりだった。実のところ俺だって、いったい何を話したいのやら、自分自身で分からないんだから。
山から降りて二十二番道路に出た後、車は高速道路のインターチェンジに向かった。サカキは発券機からチケットを抜き取ると、「持ってろ」と言って助手席の俺に放った。厚めの色紙に、「トキワシティ」と黒色の印字がある。再発車した車はぐんぐん速度を増して、やがて片側三車線ずつの大きな車道と合流した。広い道路の両側には高さ一メートルくらいのガードがあり、その向こうには痩せた木が植えられている。そしてどの車線にも、車が走っている。上から眺めたことはあったものの、実際のところこんな感じになっていたのか。
しばらく走っていると、ちょうど左側の車線が二叉にわかれていて、サカキは道を逸れる方向へハンドルを切った。車はどんどん速度を落としている。なにごとかと思っていたら、何百台分という巨大な駐車場と人が目の前に広がって、おもわず呆気にとられた。シロガネ山の登山者用のとは違って、きれいに舗装されているし、何よりその半分が埋まっている。二階建てバスがいくつも見える。奥のほうには飲食店があって、どうやら休憩所らしい。「混んでるな」とつぶやいて、サカキは隅のほうに車を停めた。
「……着いた、のか?」
ここが目的地だとは思い難いが。サカキはベルトを外しながら、首を横に振った。
「朝飯だ……少し遅いがな」
言いながら、サカキが俺のシートベルトの差し込み口に手を伸ばしたと思ったら、俺のベルトが外れていた。あんまり無造作だったので、何も言う間もなかった。外に出ると、高い建物がないせいか、空が妙に大きく見えた。
サカキに連れられるまま入ったのは複合型施設の端の店だった。通りに面して壁の上半分が窓ガラスで、席ごとにブラインドがひとつずつ。いまは、すべて上がっている。「知り合いがやってる店なんだ」とサカキは言って、入り口の自動ドアをくぐった。
「いらっしゃいませー!」
底抜けに楽しそうな女の声に出迎えられた。金髪の巻き毛、ショートヘア。肌が白くて薄青い目の、背の高い女——たぶんサカキより高い。カチューシャで髪を飾り、半袖の膨らんだ赤いワンピースの上からフリルつきのエプロンをしている。短い裾からストッキングに包まれた脚が伸びて、その先は赤いバレエシューズに包まれている。カウンターの向こうで肘をついて、カウンター客とおしゃべりをしていたものらしい。
「メニューは要る?」
「ああ」
カウンター席につきながら、ひらひらメニューを降る女に向かってサカキが頷く。女はきょとんとした顔をして、まじまじとサカキを見つめてから、「……あらあらあらあら」とちいさくつぶやいた。
「あらあ……旦那、お久しぶりじゃないの。男の子連れてるから分かんなかったわあ」
「息子だ」
サカキが言うと、女は心底驚いたようで、絶句して俺を見つめて来る。
俺は俺で心中穏やかでない。まさかそんなふうに言われるなんて思ってなかった。
「……も〜、恋人がいたなんて聞いてないわよ、ちぇ! ……だけど」
ちらと女は再度俺に視線を寄越して、
「旦那に似てなかなか良い男になりそうな面構えじゃなーい。ね、アナタあと二年くらいしたらおねえさんの若い燕にならない?」
わかい……つばめ? って何だ。何と答えるべきか考えていると、サカキが溜息まじりにそれを制した。
「気にするな、シルバー。キャリー、お前既婚者だろう」
「関係ありませーん。旦那はいつものミートパイとコーヒー? 坊やは?」
渡されたメニューを見ても、別段食べたいと思うようなものはなかったから、俺も同じで、と言ったら、視界の端でサカキが意外そうな顔をした。なに、と聞いてみたら、いや、とサカキは小さく笑いながら、悪くない選択だ、と言った。
「ここのミートパイは旨いんだ」
声を潜めてささやいたサカキの前で、キャリーが「ベリ、旦那とご子息にミートパイ一個ずつね」と厨房に向かって声を上げる。厨房はカウンターの従業員スペースと繫がって、仕切りもなく同じフロア内にある。手元までは見えないが、料理人の顔は見ることができた。コック帽を被った男は黒髪で、顔立ちの目立たない、東洋風の男だった。「わかった」と愛想のない声で答え、黙々と仕事をはじめた。
運ばれてきたのは、直径二十センチほどの丸いパイだった。ふちがプレスされていて、シルクハットを逆さにしたようなかたちをしている。見た目はゴールドの家でおやつの時間に出てきたものと似ているが、名前からして多分肉詰めなんだろう。ナイフを入れると思った以上に手応えがあって、赤色の煮汁が滲み出した。断面を覗くとミンチ肉がぎっしり詰まっている。一口大に切り分けて口にいれるとさくっと音を立ててパイ生地が割れて、トマトで味付けされたたっぷりの肉の味がした。ゴールドの家でよく食べたハンバーグと似た料理のはず、だけどどこか違った。肉が固くて、味も素っ気ない気がする。うまく言えないが、単純で粗暴で、なにかしら欠けていると思う。
「旨いだろう」
サカキがそう尋ねて、俺は自然と首肯いていた。
欠けている、のが悪いとは思わない。それに俺はゴールドの家の何もかもを持て余すことがたびたびあったから、むしろこのくらい単純なほうが性にあってるのかもしれない。もしゴールドがこれを口にしたら、えらく駄目出しするのに違いないだろうが。
「……やっぱり父子なんだねえ」
キャリーがそれをみとめてつぶやいた。彼女はいつの間にかいなくなっていて、またいつの間にか目の前にきているのに驚いた。
「こういうの流行らないのよ。あたしとベリが店をはじめる前に考えたレシピだけど、美味しいなんて言うのはアンタが二人目」
「二人目?」
それって。
「一人目はあんたのお父さん。メニューにもないのよ、旦那が来たときだけ特別ね。旦那が食べてるのを見て注文する客もいるけど、みんな一回きりでおしまい」
あんたたち父子揃って味音痴なんじゃないの、とキャリーはころころ笑った。
人に言うと決まっておかしな顔をされるのだが、常に金銭はある程度持ち歩くようにしている。だがサカキは「お前は拉致された先で出されたものを食べただけだ」と言って俺の食べたぶんの支払いについて取り合わなかった。それは確かなので、大人しく従うことにした。ドライブインを出てからは長かった。けど、短かったとも思う。わかったのは、カーエアコンはひどい代物だってこと。常時窓を開けておかないと臭いだけで参ってしまいそうだった。ようやく高速道路を降りるというときになって車内のデジタル時計を見ると、だいたい二時間と少しが経過していた。タマムシのインターチェンジで降りてタマムシの街中を突っ切り、近郊のこじんまりとした商店街の店のひとつにとまった。
サカキについて店の中に入ると、どうやら寝具を取り扱っているらしく、狭い店内に数々の布団や枕が重ねられている。奥のレジカウンターのむこうの年老いた店主がめずらしそうに俺たちをながめていたが、サカキは頓着せず、敷き布団の列に入ると、俺に向き直って訊いた。
「どれがいい」
「……………………え?」
「おまえの布団だ」
何かの聞き違いかと思った。だが、サカキはおおまじめな顔をしている。
それで、ようやく思い出した。俺はただのドライブに来たわけじゃない、サカキが俺に話があって、準備が必要だというから——
「待て。準備というのは……」
「”準備”だ」
と言い切って、サカキは布団を指し示した。
ふざけるな、と大声を出しそうになったが、店内の静けさがそれを押しとどめた。俺は開きかけた口を閉じ、そのかわりにサカキを思い切り睨みつけた。どういうつもりなのかなんて分からない。だけど、サカキの言うことを聞かないことには問い質すことすらできないのが腹立たしい。
「……なんでもいいよ」
「良くはないな。お前の寝床なんだから」
溜息が漏れる。申し訳程度に目の前の敷き布団をいくつか触ってみて、よさそうな気のしたものを選んだ。それから枕と掛け布団も選んだ。
最後に、サカキは俺を店先のワゴンの前に連れていって、それらのカバーを選ぶように言った。俺は当然ながらあまり気乗りしていなかったが、片っ端からカバーをめくっているうちに、ふと変わった感触のものを見つけた。思わず手に取ってみると、それはグレーがかった生成り色で、固くざらざらしている。横で黙ってみていたサカキが「リネンだ」とつぶやいた。
「それが気に入ったのか?」
気に入った? 思わず言葉を失って、サカキを見上げた。
そうかも知れないと思う。これがいい、と思った。綿よりも粗く、絹よりも固く、麻よりは滑らかな。ゴールドの家のシーツは真っ白な綿。枕も掛け布団カバーも綿だったはず。けれどどこかで……
「落ち葉の中に寝たときの感じに似ている」
ようやく気付いて、思わず声に出していた。サカキは目を瞠って俺を見て、「……面白いことを言うな」とだけ言って、店の奥のほうへ遠ざかっていった。店主とサカキと協力して、勝った布団の一式を車に詰め込んだ。小さな車だからすぐにいっぱいになってしまうと思ったのに、布団はトランクにぴったり収まった。これでようやくサカキを問い質すことができると思ったのに、サカキは車には戻らず別の店に入ったの叶わず、そんなことを繰り返して、ようやく車に戻ったころにはトランクと後部座席は荷物でいっぱいになり、西の空は赤くなりはじめていた。
「帰る頃にはすっかり遅くなる。夕食を食べておいたほうがよさそうだな」
車に乗り込みながらサカキは呟いたが、夕食どころじゃない。俺がじれったがってるのは知っているに違いないのに、なぜこんなに飄々とした態度をとるんだ。トランクには布団の一式。後部座席にはマグカップが二つ、皿が二枚、フォーク、箸、スプーンが二組。ゆったりとした寝間着が一着、それからタオルが数枚。
「サカキ……、お前は俺と話す準備をするために来たと言った。だが、俺にはこれが話す準備とは思えない、これじゃまるで——」
その先は勢いに任せても出てこなかった。その先にある言葉、その言葉の孕んだ意味の大きさ、その言葉を続けるということの恐ろしさに、喉が詰まる。我に返って身震いした。
「”二人で暮らす準備”みたいだと?」
わけもなく突きつけられた言葉に、口の中がからからに乾いた。
フロントガラスからの光は赤く、ハンドルと、サカキの黒いコートを薄い橙色に照らし出す。おそろしくて顔が上げられない——何が? わからない、俺はいったい何がおそろしいのか。サカキと敵として対峙したときさえ、恐怖など微塵も感じなかった。そんなものはなかった。けれど今俺は確かにこわがっている。それが分かる。じかに触っているみたいに。そして思い知らされている。泣き出したいほどに。
「……話したいこととは、何だ」
声はみっともなくふるえていた。まともにサカキの顔を見られない。どうして。どうして。おれはなにをこわがっている。
「お前がそんな調子では、話せないことだ」
「答えになっていない!」
かっとなった勢いで顔を上げて、息を呑んだ。そこに、斜陽に半分が照らし出された男の顔があった。ガラスごしの空は青と赤が半分ずつ、車内の影の中にくっきりと浮かび上がっている。暗い水のように車内に満ちた黒い影のなかに佇んでいる。俺には、それが何なのかよく分からなかった。彫像のように動かない表情。顔に半分だけ落ちた影が少しずつ、もう半分を浸食する。かれは老いている。黒い目の中でひかりが踊っている。そのとき、銅のドリップポットを思い出した。光を転がしていた表面、けれどこの光は赤い。燃えているみたいだった。
ふ、と気付いたら目の前に手があった。突然あらわれた。手。手だ、と思う。それは暗く陰っていて、だけど大きいと思った。その手は静かに俺の頭の上に置かれるのを、ふしぎな気持で眺めていた。
それからタマムシのステーキの店で夕食を摂って、高速道路のインターチェンジに向かった。もう外は真っ暗だった。冷えてきたな、と言って、カーエアコンがつけられた。車があたたかくなるまでいくらもかからなかった。インターチェンジでは、行きと同じように色紙を渡された。今度は「タマムシシティ」。
「失くすなよ」
笑ってるみたいな声で、言った。でも俺は眠かった。すっかり満腹だったし、それに今日はずいぶん慣れないこともたくさんし、何よりもきっと、もう眠ってしまいたい気持だったんだ。俺はうとうとしていた、でもそれに気付かないみたいで、こう続いた。
「お前はずいぶん失くすからな」
もう目を閉じていた。胸が勝手に呼吸をしはじめる。空気を吸い込むたびに顎が自然と僅かに浮かんで、吐き出すのといっしょにまた沈む。少し遅れた俺の頭がその台詞を連れてきた。お前はずいぶん失くすからな。
「……うん……お父さん」
古いエンジンの排気音。振動。窓の外を埋め尽くす街の灯。たくさんのものを積めこんだ小さな車。エアコンの温度設定が、すこしあたたかすぎるかな。
そんなことを思いながら眠った。明日のことも、一緒に乗っている男のことも考えずに。
陽射しを浴びて銅のポットがきらきらしていた。表面のへこみに沿って、桃色から赤銅色、赤銅色から焦茶色へと映り変わる光の色が、風が吹くたびにざわめく枝葉に変化する外光に合わせて揺らいでいる。鉄製の三脚の上、アルコールバーナーに炙られて、細く一定の太さを保ちながら緩やかにS字を描く注ぎ口。湯気が立ちのぼり、蓋がかたかた音を立てて揺れる。「布巾を買うのを忘れたな」と言いながら、銅の取手は格子模様のハンカチで包まれて傾けられ、斜の注ぎ口は細く湯を流し落とし挽いた豆の上に円を描く。豆に浸透しフィルターに磨かれた抽出液がガラスのサーバーに落ちる。熱く香り立つそれは生きている。眺めていたら、「じぶんのカップを持ってこい」と言われて、すぐには何のことだか分からず黙っていた。分からないから一緒に行ってやろうかなんて揶揄われて、ようやく大丈夫だって言った。俺は寝室に戻って、昨日の大荷物の中から食器を買った店の紙袋を探し出し、その中から両の掌大の新聞紙のかたまりを取り出した。そういえば食器なんて買ったのは初めてで、包みをほどく手つきもしぜん慎重になって、妙に時間を食った。真っ白な陶器。両手に持ったまま指でなぞるとひんやり冷たい。そのままキッチンに持って行ったら、マグカップはガラスのサーバーから注がれる濃褐色の液体で満たされた。「熱いから気をつけなさい」と言った声の静かな丸さに、思わず顔を上げていた。こんなふうな物の言い方をするのだったか。この人は。カップはすっかり熱くて、取っ手を掴んで口をつけた。熱くて飲めそうにないと思いながら、マグの向こうを窺ったら、さもうまそうに飲んでいて、俺も啜るようにしてやっと舌を濡らした。ほんの僅かに口腔にふくんだだけだったのに、豊かな香りが鼻を掠め、白い湯気が喉を湿らせる。手にしたカップは驚くほど重く、淹れたてに相応しく熱過ぎるくらい。その熱さは香ばしいコーヒーの液といっしょに体内に染み込んで、心臓を温めた。
底の深い器、満たされるがゆえにあるもの。これは俺のもの、俺の器。満たされることができるためにあるもの。いきもののように光の揺れる銅のポットから注がれたものが、マグカップを満たしているのと同じように。静けさと香り。空気とざわめき。光と影と、声の円みと。呼吸、鼓動。巡る血と心の色。空と夜と、温度。すべて、俺の器を満たす。
たくさん眠ったせいか、気分はとても落ち着いていた。結局、真意は聞き出せなかったけれど、それならそれでいいと思える。目の前の男が何を語ろうと何を語るまいと、結局この男がなにものであるのかを見極めるのは俺だ。目で見て、耳で聞いて、触れてみればいい。悪の首領としての、あるいは父親としての。この男を知りたいと思う。いずれ分かるだろう、”お前がそんな調子では話せないこと”も。
「今日は、お前のベッドを作るための木材の準備をしよう」
俺のベッド、と胸の中だけでくりかえしてみると、その響きだけで心臓がつんとする。それはほかのものとは異色で、すべてにおいて異様で、不気味で、どこかしらこわいような気がした。脳髄を走る電気信号の残り滓が、幽霊みたいに響いている、”俺の”とはいったいどういうことなんだろう? それで気付いた、俺が寝かされていたあのベッド。あれが俺のものでなかったとするなら、その以前にはきっと誰かが寝ていたはずだ。そう思いつつも、すぐには聞けなかった。あまり頭の中がまとまっていなくて、言葉が出てこなかった。だから俺は何も聞かずに頷いた。数枚のビスケットを胃に収めたあと、すぐに出発した。
木を採りに行くための道のりは、途中までは昨日と同じだったけれど、不意に違う道に入った。それで違う道なのかと聞いたら、「よく気付いたな」と言って楽しそうに笑っていた。今日は初めから鳥ポケモンでいけば早いのにと思っていたけれど口には出さなかった。そのまま暫く歩いていると、昨日と同じように、ある一線を超えた時点で樹々が茂らせる葉の色が緑から橙に変わる。昨日は何も言わなかったのに、今日は口を開いて、「シロガネ山の樹海に入った」と言った。すこし遅れて、どうしてと聞いてみたら、こう答えた。
「常磐の森だからな」
長い道程だった。山の中腹よりやや下のほうをぐるりとまわるようにして、登山コースの反対側に出て、それから山を下った。更に暫く行くと、森の緑の中では非情に目立つ、赤や黄色の機械や、トラックが伐採と運搬に励んでいた。無数の切り株を後に残して、トラックは二台に詰めるだけの丸太を積んで山を下りて行く。働いているのは作業服を着た人間と、怪力をもつポケモン達だ。モンスターボールからスピアーがあらわれて、何かを指示されたのを視界の箸でとらえたが、俺は赤や黄色の機械や、どこからか湧いてきてどこかへと去っていくトラックを眺めていてあまり気にとめることをしなかった。丸太を積んだやつと何も積んでいないやつ。スピアーは俺たちが歩いてきた道を戻っていって姿を消した。「ここで暫く待機だ」と言われた。それが何を意図されてのことだったのか、わかったのは間もなく十五分後のことだった。
最初の異変は些細なことだった。俺は、目下の伐採現場の端になにか黄色いものが過ったような気がした。森の黄色や赤は好きじゃない。警告色だ。だから思わず眉をしかめた、その一瞬の間に、その黄色が風船のように膨れ上がった。咄嗟に、何がどうしたのかまるっきり分からなくなった。けれど、よく見て、その黄色はスピアーの群れだと知ったとたん、目下で何が起こっているのかがあまりに分かりすぎた。
耳の中を劈くけたたましい羽音とともに、集団でターゲットに猛毒の針を向ける。警戒すべきは足先に備わった一対の針よりも、腹部の後端についた針の毒だ。その針を突き刺した相手を死に至らしめることができなかった場合、あまりにも無防備な態勢を晒すことになる。彼らはまるで機械のよう正確さと躊躇いのなさをもって向かっていく。スピアーの群れは波のように伐採地に押し寄せた。前足の針を突き出すものもあれば、例の後端の針で突っ込んで行くものもいた。仕事を手伝っていたポケモン達の中には倒れるものもあった。ゴールドが持っていたダーツの矢のを思い出した。尾羽のついた矢は指先を離れると、僅かな弧を描いて的に突き立ち、受け止められなかった衝撃に素早く細動して、そして静かになる。遠目から見て、後端の針を突き出し、目にも留まらぬ早さで飛び出して行くスピアーは、尾羽が透明で黄色と黒色の縞模様の、おそろしく綺麗なダーツの矢だった。
「……何を……」
ようやく我に返っても、それを声にするだけで精一杯だった。伐採地ではまだ、人間と彼らのポケモン達の阿鼻叫喚が続いている。頭がくらくらした。俺がそのときに思い出していたのは何故か、昨日あたたかい空気を吐き出していたカーエアコンのことだった。一対の目が俺をまじめな表情で見返した。眠りに落ちる寸前に聞こえてきたラジオのコメンテーターが言っていたことを思い出した。いやあやはり……美男美女は……絵になりますね……皆さんにお見せできないのが……残念です。
「木を採りに行くと言っただろう」
言いながら、伐採地に向かい、木や岩でごつごつした坂を下り始める。目下の襲撃は収束しつつあった。作業服を着ていた人々はポケモンともども逃げだしはじめていたが、スピアー達は最後の一人も残すまいと執拗に伐採地を探しまわっている。自分でも意外だったが、捨て台詞を吐いてここから立ち去れるほどに逆上してはいなかった。むしろ冷静なほうだと思う。ただ腹は立てていた。驚きのあまりその場から動けず、ただ見守っていただけの自分の体たらくに。俺は後に続いた。ゴールドやクリスだったらここで断罪しようとするだけの憤りを感じただろう、と思いながら。無論俺とてあの行為を容認しているつもりはないが……、二人ほどの憤りを感じることができない事実に、失望した。それでも流石に、何か苦言をこぼさないというわけにはいられなかった。
「他人のものを盗るのは、駄目だ」
他人のもの、と前を歩く後ろ姿が呟いた。
「お前にとって、誰かのものというのはどういう意味なんだ?」
それが特定の個人のものだ、という証文に書かれたとおりというわけか。この土地はだれだれのものだと紙に書いてあるから、その通りとでもいうわけか。
声の調子は意外にも穏やかで、とがったところが無かった。けれどそれは確かに俺の痛い所を突いていて、何も言えずに黙って歩いていたら、伐採地に着いていた。切り倒されて無造作に転がされていた、積み上げられる直前の丸太のひとつをさして、これにしようと呟きながら、ふいにつづけた。
「分からないのなら、お前の言葉も誰かからの借り物というわけだな」
そのときにグリーン先輩の顔が浮かんで、俺は黙っていた。辺りを見回してみて、ふいに死体がひとつもないことに気がついて、俺は言った。
「殺さなかったんだね」
丸太を運び出すためのポケモン達を出しながら、答えた。
「いろいろと面倒だからな」
期待してたわけじゃなかったから、別によかった。俺は何も言わずに、その作業を見ていた。帰りはポケモン達と木材を運ぶのを手伝った。リングマもマニューラも、何も気にしていないようだった。帰り道の途中は誰にも会いそうにないと思った。登山道から大きく離れたルートだからだ。けれど目論みに反して俺たちは一人の老嬢とすれ違った。けれど彼女はにこにこして、木こりごっこかしらと言っただけだった。俺がどうするだろうと成り行きを見守っていたが、「木こりですよ」と事も無げに言った。冗談ととったか、老嬢はにこやかに会釈をして通り過ぎた。
散歩というにはハードな行程には違いなかった。適宜休憩を挟みながらとはいえ、まる半日以上歩き続けることになった。買ったほうがよかったんじゃないか、と俺は仄めかした。
「最初だからだ」
何が最初なのだろう、と思った。俺の思考を置き去りにしたまま、樹の切り方も運び方も分かっただろう。と言う。面食らって、分かった、でもそれが何になるんだと俺は反論した。小さく笑われた。それ以上何も言わなかった。次からは買うさ。数秒おくれてそう付け足された。
家に戻ってから、またあの銅のポットでコーヒーがいれられた。テーブルごし向かい合って、俺はまた自分のカップでコーヒーを飲んだ。
「そのカップはお前のものか?」
すぐには答えられなかった。俺のポケットを指し示して、言った。そのポケットに入っているものはお前のものか?
ポケットに手を差し込むと、やわらかい布の感触がして、ハンカチが入っていたのだと思い出した。俺のものだ、と思ったので頷きながら、卓のうえに出した。するとゆっくりと伸びてきた手が、それに触れながらしみじみとつぶやいた。
「使い込んでいるにしては、傷んでいないな」
石鹸で洗っていなかっただろうと言い当てられて、頷いた。あまり意識したことはなかったが、何かと入り用なときは使っていたから、血を拭ったあとや、泥を拭いたあとなんかは残っているだろうと思いながら。
「……小さなお前を連れて一度だけ、旅行に行ったことがある。旅行先である露店を通り過ぎようとしたとき、おまえがこのハンカチを掴んで口に入れてしまったので購入した品だ。それまでお前に持たせたものは悉く無くなったが、このハンカチだけは気に入ったらしくてなかなか無くさなかった。しかし、まさかいまだに無くさずにいたとはな」
俺が、家族といっしょに暮らしていた頃の話。まさか聞くとは思わなくて、驚いて、言葉を失っていたら、また笑われた。ただ、こんどは驚くほどやさしく、ハンカチを俺に差し出しながら、言った。
「おまえのものだ」
受け取ったハンカチを広げてみると、まっしろな布地は、うっすらとした血のあとや、部分的な変色が見えた。ここしばらく横着して放っておいたから、くしゃくしゃになっている。地図みたいだ。最初、俺はこのハンカチを掴んで口にいれて、それで、お父さんがこのハンカチを買った。それから攫われて、いろいろなことがあって、傷ついたとき、汚れたとき、疲れたとき、ねえさんが泣いたとき。いろいろに使った。その全部が刻まれてる。俺のこれまでの生活がここにある。これは俺のもの。俺のためだけに用意されて、俺のためだけに触ったり使われたりして、今も俺のためだけに存在しつづけるもの。
これは、おれのもの。
「…………あのベッドは誰のものだったの?」
言葉が自然と流れ出した。そうしたらちらとこっちに視線を流して、それから素っ気ない調子で、「お前の母親のものだ」と言った。
もう何年も前のこと、まだ俺がよくゴールドのことを知らなかった頃に、あいつの屋敷に滞在したことがあった。一月か二月、もしかしたら三月もの間。よく憶えていない。ただ、庭先の若葉がまだ青々と瑞々しいころだったから、きっと春から夏にかけてのことだったのだと思う。ただ、初めて訪れたときが、あいつの家での滞在最長記録だ。それだけは断言できる。
初めてあいつの家で過ごした日々は希薄だ。ずいぶん長い期間を過ごしていた気はするのに、いざ思い出そうとしてみるとほんの僅かなことしか記憶にない。時機がわるかったのかもしれない。何せ仮面の男が死んだと思っていた矢先だ。記憶も思考も、大体においてぼんやりしていた。だがある日突然、目が開いたようになった。今まで見えなかったものが見えるようになった。それでようやく、いろいろなことを考えられるようになった。主に自分に関するいろいろなこと、自分のためだけのいろいろなことを。俺は家の灯を見ながら暗がりに眠ることの意味を見つけた。ねえさんの孤独の意味を見つけた。それから、あいつが俺を家から追い出そうとしない意味も見つけた。だから、あいつの家に必要以上の滞在をしないことを決めた。それから、家と聞くたびに、ゴールドの家のイメージが頭の中にあらわれるようになった。触れない、届かない。それなのに、そこに在るものだと信じている。幽霊みたいだ。俺にとっては失われたものであることにかわりないから、ぴったりかもしれない。思考がふと、家という言葉の先に触れるたびに、幽霊の存在を感じるようになっていた。決して少なくない頻度だったのに、ここ数日というもの、あんなにこびり付いていた家という意味が頭の中からさっぱり消えていたことに気付いた。
今朝方、ゴールドから連絡が来ているのに気付いた。昨日の昼十二時、内容は、"お前今日うちに来ねえの"。そういえばちょうど昨日、あいつの家に行く約束をしていたんだった、タウリナーΩの再放送(しかも、六時間スペシャル)のために。一気に現実に引き戻された気分で、何と返事をするべきか持て余して、保留のつもりで放っておこうと決めた矢先にポケギアが鳴った。少しの逡巡のあと、躊躇いつつも通話ボタンを押した。ら、第一声は怒号だった。
『おいテメー来るっつっといて来ねーとはどーゆー了見だ!!』
スピーカーがびりびりいうくらいの音量に思わずポケギアを遠ざける。あいかわらずの喧しさにむっとしたが、どんな事情であれそもそも俺が約束を忘れていたのがいけなかったのだと思い直して、すまない忘れていた、と謝罪をしたのだったが、数秒の沈黙の後に、忘れたで済むかバカ! と再度怒られた。その頭ごなしな調子に理不尽さを感じながらも、あいつの文句を聞き流し、そろそろいいかげん切ってやろうかと思いはじめた矢先に、『まア前置きはこのくらいにして』とあいつが溜息といっしょに吐き出して、いつもの調子で言った。
『母さんが昨日の再放送録画したんだよ。今日、これからウチ来ねえ?』
それがあんまりにも聞き慣れた響きだったので、条件反射的に「行く」と言いかけて、慌てて口を噤んだ。シルバー? けげんな声がスピーカー越しに聞こえる、ええと。
「……すぐ、かけなおす」
やっとのことでそれだけ言って通話を切った。寝室からキッチンのほうを仰ぎ見る。パンの焼ける匂いと、コーヒーの香りが漂ってきていた。もう、驚かない。
こうして暮らしはじめてから、どのくらい経ったんだろう。自分の仕事をこなしていた人やポケモンがスピアーの群れにに追い回される代わりに、俺たちは必要なぶんだけの白樺を手に入れた。ガスの準備もして、後は足りないと思う家具をつくったり、家の傷んだところの補修なんかをしていた。その材料は、街のホームセンターで買った。それから、ポケモン達を森で遊ばせたりした。誰も俺に問うたりはしなかった。俺もポケモン達も、この暮らしに慣れつつあった。日々の中で、忘れていたのは、時間の感覚だけじゃなかった。ゴールドのことやねえさんのこと。図鑑所有者のことも、忘れていた。さらに悪いことには、俺はただ忘れていたんじゃない、恐ろしいことは、無邪気に忘れていたってこと。
いつも通り向かい合って座り、俺は表面でバターの溶けるトーストの耳を齧りながら、いつ切り出したものかと迷っていた。そのまま咀嚼しながら考え込んでいたら、ふいに笑われて、行ってきたらいいんじゃないかって言われてびっくりした。聞いてたの、と思わず尋ねたら、聞こえたんだ、とかえってくる。それから、なにも監禁してるわけじゃないんだからって更に笑われた。朝食を食べ終わってから、俺はいったん断って寝室に戻って、ゴールドに折り返しの電話をかけた。遅いと文句を言われたが、これから行く旨告げると、やや間があって、わかった、とそれだけ言われた。声色からは毒が抜けて、とげとげしたところがなくなっていて、あいつじゃないみたいに思った。
「あの金目のトレーナーの家か。名前は……」
「ゴールド」
「世話になっているようだな」
「……ん、まあ」
会話しながら上着を着込む。荷物らしい荷物もないから、そのまま出ようとする。
「どういうやつなんだ」
言われて、咄嗟に答えられなかった。ゴールドは、ゴールドだ。それ以上を考えたことは、ない。けど、答えなければいけない。ゴールドのことをちゃんと伝える言葉を必要とするときが来たのだと、そんなふうに感じた。もうこんなふうに誰かに訊かれることがあるのだから。ゴールドは、俺のいないところで、街の人や家の人やポケモン達に、俺のことをどんなふうに言っていたのだろう。俺があの家にはじめて訪れたときよりもずっと前から、自分の知る何かを誰かに伝える言葉を必要としてきたであろうあいつは。
あいつは”特別"だ。ねえさんと同じ、それだけは分かる、でも、正の感情と同じくらい、負の感情も向けていた相手でもある。こればっかりは、好き、なんて言葉では言い表せない。嫌いなわけでもない。そういう物差しで測るべき相手でもない。だからといって共感できるような存在であるはずもない。最初は言葉すらうまく通じ合わない、今だってそれほど大差はない。ただ言えることがあれば、”特別”で。
俺はそんなようなことを、しどろもどろになりながら喋った。言葉にすることの難しさを知った。こんなこと投げ出して、いっそもう押し黙ってしまおうかとすら思いながら。だが結果として俺はしゃべりつづけた。どうしてだろう、けど、ようやく喋り終わって、思いがけず、最後に転がり落ちた言葉。あいつは——
「…………友達なんだ」
ようやく胸の支えが取れたような気がして、肩で息をしながら見上げた。笑っていた。
「そうか」
それだけだった。俺は黙って頷いた。だけど嬉しかった。「そうか」って言われて嬉しかった。そうして頷けるってこと、嬉しかった。
暗くなるまえに帰ってこい、と言われた、変な感覚を持て余しながらゴールドの屋敷に到着した。呼び出しベルを鳴らして待つあいだ、見渡した屋敷の庭先は一面鮮やかな緑色だった。このあいだは、桜の蕾が見えていた。それで、最後に訪れたのは春のはじめだったかと思い至った。まだ蝉の声は聞こえない。だけど、もう初夏か。そんなことを考えていたら、ゴールドに出迎えられた。ゴールドは最初びっくりしたような顔をしたが、何も言わないで、入れよっていつもみたく言った。こいつはたまに、こうして含ませるみたいなやり方をする。まどろっこしいことをしなくても、言いたい事があるなら言えばいいのに、と思ったことも一度や二度ではない。でも、たぶんこいつなりの理由があるんだろうと思う。
通された居間ではポケモン達の盛大な出迎えが待っていて、揉みくちゃにされた。何事かと思って目を白黒させていたら、ゴールドが聞こえよがしに「こいつが来るの楽しみにしてたんだもんなあ」と大きな声で言った。それからポケモン達に急かされて、みんなでタウリナーΩを観た。録画しておいてくれた彼らには悪いと思いつつも、あまり鑑賞に身が入らなかった。集中しようとして視界の中をテレビ画面で埋め尽くしてみても、違うことばかりが頭の中に浮かんで、考えが逸れる。気がついたら、場面がすっかり変わっている。タウリナーΩに関しては全話すっかり見尽くして、どの話も冒頭からすっかり覚えているから、場面が飛んでいるからといってどうということもないのだが、二時間見て、休憩を差し挟むころには疲れていた。いつもとはすこし違う意味で。
スペシャルを観終わってからは、ポケモン達に誘われて外へ遊びに出た。居間から廊下に出て、開け放されたいくつかの扉を通り過ぎて玄関、そして庭へ。久々に見たゴールドの家は、前に見たときとはまた違った感じがする。ポケモン達の声もゴールドとの会話も、その母親の雰囲気も。俺にとってここは唯一の場所で、この景色は唯一のもので、空気、声、会話、どれをとっても、”家”のすべてだった。けれどいまは、少し離れたところから眺めているような感じがした。ゴールドの家の騒がしさや、ポケモン達のあたたかさとは別に、銅のポットや白樺の匂いを、もう俺は知っている。ゴールドの屋敷のベッドのあたたかさと、あの家の粗末なベッドのさむさは同種のものだった。この賑やかさとあの静けさも、等しく大切に扱うことのできるものだと、そんなふうに感じている。
時を過ごすにつれて、俺の家はやはりここではないのだという確信が、しずかに降りてきた。それは今まで、自分自身に向かって必死に言い聞かせるようにしてきたのとは違う、確固たる事実として、俺の中にその存在を主張した。この場所のあたたかさは決して嫌いではない。けれど肌に馴染むと思うのは、騒がしさよりは静けさ。良き一市民としての安穏よりも、雨風に晒されているということ。確信が次第に強まっていく感覚は心地よく、同時に、俺の中から家の幽霊が消えて行くのを感じていた。
ようやくポケモン達から解放され、再び掴まるまでの僅かな間に、ゴールドにのらりくらりとした調子で人気のない裏庭に連れ出された。
「……なんかあったのか?」
何かと思った矢先、神妙な顔をして尋ねたゴールドに、何もない、と答えた。嘘付け、と苦い顔をされた。
「分かりやすいんだよ。痩せたみてーだし、テレビ見てても上の空だし、そもそも六時間スペシャルの日を忘れる時点でおかしいっつうの……まあ無事みてーだから良いけどよ。ウチのモン揃って心配してたんだぜ」
溜息と一緒に自棄のように吐き出された言葉は、怒るのに疲れたといった様子。あのゴールドが、誤摩化しも取り繕いも茶化しもしないほど疲れている。それで、俺はようやくスピーカー越しの怒号の意味を察して、罪悪感のようなものを感じた。
「…………悪かった」
お前にも、お前の家族にも。もう一度謝った。そうしたら、ゴールドはすこしばつの悪そうな顔をして言った。
「……いいって。おめーが何も言わねえのは今にはじまったことじゃねえしな」
「いつもそんなことを考えていたのか?」
「悪いかよ」
「……いや」
伝える言葉が、また必要になったのを感じた。けれど、まだ早い。もう少し時間が欲しい。考えなければならないことがまだ残っているんだ。
ゴールドにはそのうち、話すかもしれない。ゴールドが俺にしたのと同じように、俺も、俺のことを話すときが来るのかもしれない。いまは言葉も出てこないけど。過去に残してきた沈黙を、俺の言葉で埋めるときが来るのかもしれない。
二週間をかけて、俺たちはずいぶんいろいろな仕事をした。「やろうと思えば、一週間でできるが」ちらりとこっちを見て、言った。「まあ、いいだろう」布団や食器を買ったり、ベッドや食器棚を作ったり。たぶん、これらは何かの準備なのだろう、とは薄々感じていた。何の準備なのかはてんで見当がつかない、けれどもう一つ気になることは、俺はおそらくその準備の仕方を教えられているらしいということだ。言葉の端々やちょっとした仕草から感じとれるのは、目上のものから目下のものに対する寛大さと少しばかりの傲慢。そういえばワタルさんもこんな感じだったなと今更になって気付いた。あの人は、大体において楽しそうだったが、ときたま仕方のない子供を見るように俺に接していたように思う。ただ、目の前の男はまた少し毛色のちがう感じがした。そして今日、損傷が酷くて使えなくなっていた食器棚を捨てて、新しく作り直したものを代わりに置いた。これで、家の準備はすっかり整ったらしい。ガスの準備もして、排水の仕組みもまだ使えることを確認した。水道はもちろん繫がっていないが、幸いにしてトキワの水は飲用にも適しているし、シロガネ山の麓まで歩けば古い井戸がある。もう殆ど利用するものもないが、埋められもせずに忘れ去られている井戸のひとつらしい。暮らし向きには困らないだろう、最も今までの俺の生活レベルからすると、少々恵まれすぎている程はある。
新しく作った食器棚は、厚い木材を組み合わせただけの簡素なもの。けれど、木材はホームセンターで買ってきたものだったから、他の家具よりもずっと家具らしい感じになった。平に整えられた切口。滑らかな表面。こんなに整っている必要はないのに。と思いのままに呟いたら、同意がかえってきたっけ。多分、それ相応の不格好さよりも寧ろ精巧さをとるほうが、楽なこともあるってことだと思う。ゴールドの家にあるものより遥かに小さい、だが、前にあったものより二周りは大きい。
「前の食器棚は、ずいぶん小さかったな」
キッチンの隅に、置き換わった食器棚を眺めて呟いた。損傷は激しかったものの、見る限りでは、前にこの場所に置いてあった食器棚は腰の高さまでも無かったと思う。実用に値する食器棚というよりは、飾り棚みたいにちょっとしたものだった。それに残されていた他の家具同様、相応に不格好だった。
「……あの”飾り棚”は、もともと作るつもりじゃなかったからな」
ちょうど思っていたのと同じ単語が飛び出してきたので少し驚いた。心を読まれたのかと思った。
なぜ、と尋ねてみたら、必要ないと判断していた。と答えられた。それから続けて、両手で器の形をつくりながら、これくらいの、と言う。
「……椀がひとつ、陶器のな。白色の丸い、取っ手のないやつだ……分厚くて、こうして持っても、あまり熱くなかった。ふちは特に熱くて、口あたりのところが丸くなっていた。それから金属製のスプーンがひとつ、これは確か有名なブランドの……忘れたが、質の良いやつだった。スープ用だったが、柄の先には模様が施されていた。ティースプーンをそのまま大きくしたようなやつだったな。全部でそれだけだった。だから、専用の棚なんてわざわざ要らないと言ったんだが、あんまり強情に必要だと言い張るものだから、辟易して作ったんだ」
一度言葉を切って、出来上がってみたら、と続けた。
「……いくら小さく作ったとはいえ、思った通り、椀ひとつとスプーンひとつしかないのは不格好だった。見ていられなくて、ついに俺が私物のマグカップを置くようにして、なんとか見られるように体を整えたんだ。それ見たことかと言ってやろうと思って顔を見たら、先に言われたんだ。やっぱり必要だったでしょう、と。さも得意げにな」
「……誰の話?」
いつになく饒舌なのに驚きながらも尋ねた。すると、少し考えるふうな仕草を見せて、慎重そうな顔で答えた。
「……お前の母さんの話だ」
その一言で、俺はもっとこの話題に関心を持つべきだったと少し後悔した。正直なところ、話半分に聞いていたので、彼女についての言葉も聞き漏らしているかもしれない。だけど、はじめにそう言わない方も悪い——もっとも、伝えるつもりがあるなら、だが。なぜ、今更、そんな話をする。口にしかけた言葉は、強引な、「いいか」という言葉にかき消される。俺は口を閉じて、目の前の男が次の言葉を口にするのを待った。
「人の心は、器用に振る舞うことのできる性質を持ち得ない」
頭のようにはいかないのだ、と静かに言った。
「俺がお前に伝え、且つ、お前がそれを受け取るためには、時間や手間、何より機会が必要だった。いつかのお前達との日々を言葉にするのを、他でもない俺自身が恐れているというのもある。それは、未だに払拭できずにいる——だが」
一度言葉を切って、俺のほうへ顔を向け、目が、合う。
「近いうちに、また話すだろう」
今日はここまでだ。そう言った声色は珍しくばつが悪そうで、思わずその顔を見返した、そのときに、俺は初めてこの男の顔を見た気がした。真正面から、余す所なく。目の端の窪み、頬から顎にかけての線、浅い顎、固く引き締まった表情筋、薄らと陰りをつくる皺のひとつひとつまで微動だにしない、彫像のような顔に薄く浮かぶ表情の僅かな綻びを見つける。自ら告白した恐怖を払拭しきれないという苦々しさのためらしかった。右の眉が僅かに中央に寄っている、それだけのことに、俺は目の前の男の多くを覗き込んでいるような気持になって、居心地を悪く思った。それで、視線をそらした。知りたくない、わけがない。それは本心だったが、ただ心を、勝手に読み取るような真似は、不躾なような気がしたから。
「分かった。でも、一つだけ先に訊いておきたい」
「……なんだ」
訊いておきながら顔を上げることはできなかった。ただ、声色から感情は読み取れないことが幸いだった。もう何となく、予想はできている。知っている。あの寄せられた片眉の中に、俺は既に答を見つけている。……勘違いで、なければ、だが。
「お母さん、今、どこにいる?」
自分でも上手く言えなかったことに驚いた。最初の頃に、「お父さん」と呼んだときと同じ、しこりのような違和感があった。いよいよ視線を戻せない。どんな顔をしているのか、知るのが怖いと思った。もし万一にも、傷つけられたような顔でもしていたら、俺は——
「…………今は、どこにもいない」
何の覚悟かわからないが、とにかく俺は何かを凌ぐような心持ちで待っていたのに、降りてきたその声があまりにあっさりしているのに驚いた。ちょっとした忘れ物に、今しがた気付いたみたいな声だと思った。びっくりした拍子に顔を上げたら、驚いた顔とかちあった。俺はすこしほっとして、頷いた。
いろいろなものが少しずつ、変わって行くのを感じている。今まで見えなかったものが形をとって、意識の中に根を下ろして行く。寒いという感覚。痛いという感覚。憤り、それから。春と夏と秋と冬と、風、ひのひかり。夢、クリスマス、誕生日。ねえさんの言葉たち。絵に描いたみたいに実感のわかない、たくさんの素晴らしいものの数々。彼女の語る言葉の中で、手が届いて、じかに掴むことができると感じたもの——復讐。曜日の感覚は、タウリナーを観にゴールドの家に通い出してから自覚するようになった。テレビを観終わってゴールドの家を出る道すがら、またはそれから朝を迎えるたび、数える。火曜日、水曜日。あと五日、あと四日だとか思う。タウリナーは日曜日。それが曜日ってもの。言葉だけが反乱して、語られる現実味のない世界だけがぐんぐん広がって、置いていかれまいと唯一手の届いた復讐によって、世界と、ねえさんと繫がれていたあのころ、語られるがままにしていた言葉の代償に、口を開けたまま閉ざされることのなかった空虚は、すこしずつ埋められつつあって、それでもその多くが、未だ満たされることを求めて喘いでいた。コンプレックス。ある側面では、そう呼ぶべきものじゃないかと、グリーン先輩が言っていた。その俺の臓とも呼ぶことのできる空洞が、いまこの日々によって満たされつつある。いまになってこれほどたくさんのものを知らなければならなくなるなんて、思ってもみなかったけれど。
日々を重ねていくにつれて、口にする言葉の数が増えていく。言葉は着実に数を増し、日々の密度を濃くしていく。このまま進めば、埋め尽くすほどになるだろうか、とても想像はできないが。新しい言葉はいつも、閉ざしていたとばかり思っていた口からいつの間にかこぼれおちる。目の前に転がったそれを見つけてはじめて気がつく。何もないと思っていた場所に透き通ったがらすを見つけたり、夜の小径の暗がりの中でふいに虫が光り出し、細い葉が青く透かし出されているのに気付いたときに似ている。それらはあるときとつぜん形をとって、次第に、意識の中に根を下ろし、定着し、やがては同化する。
たぶんそんなふうに思っているのは、俺だけじゃなく、あの男にとっても同じことらしいことも分かってきた。ものごとから長いこと離れていると、だんだんと思い出せなくなるのだと言った。だからここに来てから少しずつ昔のことを思い出しているのだとも。
こんなことがあった。森で自由にさせている手持ちのうち、マニューラだけは夜九時ごろに戻ってきて、俺のベッドの下で丸くなって、大人しくしている。だが、それからマニューラは、俺が眠ってから一、二時間ほどしてようやく眠りにつく。そして朝は俺よりも遅い。これまで彼は俺に合わせて、昼間起きて夜眠る生活をしていたのだったが。俺ははじめ、その変化を、バトルもせず一所に定住するこの生活のうちに、本来の活動時間帯——マニューラは夜行性だ——に戻りつつあるのだと思っていた。だが、彼が深夜二時に眠るようになってから、それ以上遅くならないらしいことに気付いて不思議に思った。夜行性のポケモンからしてみれば、活動に最も適した時間帯には違いないのに、マニューラは二時にはきっかり眠り、昼十一時にのんびりと起き出してくる。夜、戻ってきたマニューラを撫でながら、俺がそのことを話したら、ちょっと驚いたような顔をしてしばらく、「ああ思い出した」と言って、続けた。俺のお母さんの話だった。
「あれも夜型だったんだ」
笑いを堪えるような顔で、そう口火を切った。
「眩しいからと言って、陽射しが嫌いでな。朝なんか布団を頭まで被って寝ていたものだ。身体も強くなかったものだから、たっぷり半日近くは寝ていたんだ。昼の一時ごろになってようやく目を覚ましたときの有様もまた酷かった、寝起きも相当悪かったんだ。ニューラはあれの世話係兼話し相手で、あれが眠ってから寝て、あれの起き出す一、二時間に起きて、食事の用意やらをしていた」
そのときの習慣がまだ残っているのかもしれないな、とか言っていたが、俺はあんまり驚いて、正直それどころじゃなかった。
「……え……、ニューラ、って」
ああ、まだ話していなかったか。と言う。
「今は、もうマニューラだったな……そうだ。あいつが唯一持っていたポケモンだった。最もあいつは、癇癪を起こしてボールから逃がして以来、ボールも持っていなかったので、友人といったほうが正しいのかもしれないが」
と、ついに堪えきれなくなったらしく、笑いをこぼしながら付け加えた。……癇癪だって?
ブルーねえさんから聞いていた母親や、ゴールドの母親のイメージとはずいぶんかけ離れたその単語に思わず言葉を失った。思わずマニューラを見たら、彼はふしぎそうに見返してきた。それは、何か含み笑いをしているようにも見えた。
「あいつはどうして、いつまでも十かそこらの子供のような気でいる」
それは、俺の母さんだという人を評して、あの男が決まって選ぶ言葉だ。日々の最中にちょっとした切っ掛けで思い出したことを、父として俺に話してくれる。それは単なる言葉の連なりではあったけれど、マニューラの習慣や、あの男の懐かしむような視線には、たまにぎくっとさせられる。この生活は、俺の心臓の一番近いところにあったもので、これまでもこれからもずっと変わらない過去の出来事であると暗に語られているようだった。
言葉で語られるものは、なぜか、少し余計に良いように見えて。知らない物語みたいに、俺からは遠く、そのぶん素敵に響く。ねえさんが語った噺や、ゴールドの噺と同じように、あの男の語る噺もまた、この世のものには思えないほど、美しいように思った。眼差しや発音はときに言葉よりも雄弁に物語った。途中、あの男の静かに伏せた目つきがじっと俺を見詰めることもあった。それは、どうやら俺に、在りし日の子どもの姿を探しているようなのだった。視線は、レースのカーテンごしの朝の陽射しみたいに、さっと射して、温度も残すことなく退いていく。俺を暴こうとはしない。やろうと思えば俺を解体して、見つけだしたいものを漁るくらいは訳ないだろう。光はさっと射して、ふいに我にかえったように、僅かばかり寂しいような余韻を残しながら退いていく。たぶんそれは真摯さゆえなんだろう。父としてというよりかは、あの男としての真摯さ。
窓から見える梅雨。庭に一本飢えた椿の濃い緑色の葉を伝った雫のこと。嵐の夜に揺れる窓硝子の音のこと。約束を破ったときの、お母さんだったという女の膨れっ面の愛らしいことと、機嫌を直すのは本当に大変だったということ。眠る彼女を起こさないように静かに降ろした足、質のよくない床の軋み。彼女が死んだ冬の朝の陽射し、春の日の木漏れ日のようにうつくしかったあの光のこと。彼女の居ない生活。残された子どもと送る時間。ポケモン達にずいぶん助けられて過ごしていた日々。そして三度目の春。彼女が死んだ朝のようにうつくしかった春の日の朝、外で遊んでいた子どもがいなくなった。ニューラもいなくなった。その瞬間の森の静けさ。すべて夢だったとすら錯覚するほどの静閑さ。すべて春の風に攫われて、見失った。
父が語った数々のことは、みんなこんなふうなことだった。言葉のひとつひとつは、砂糖を溶かしたあたたかいミルクみたいな静けさに満ちていた。父としてのあの男が見たもの。それは明らかにあの男にしては出来すぎた物語ではあったのに、俺はあえて疑おうとはしなかった。ただ、もっと知りたかった。あの男の言葉、かつて与えられるはずだった言葉のひとつひとつを。語られる世界は、あの男に似合わないほど優しい言葉で溢れているように見えていた。
「——ので、××したんだったが——」
あるとき、あの男がなにげなしに零したこと。ここでの生活のことを語るついでとして、何も大したことでないように話すので、俺は驚くことなくそのまま聞いていた。
「×××××てな。××んでいた××らに呼び出されて、約束を破ってしまったんだ。腕に××を受けていたが、まあそのまま直行してもよかった……が、流石に人に知られるのは出来る限り避けたかった。それで、翌々日にようやく顔を合わしたんだが大層ご立腹と見えて取りつく島もなかった……」
違和感を覚えたのはやっと、噺が暫く進んでからのことだった。俺はそれを押しとどめるように、慎重に口を開いた。
「××した?」
それは、俺にとってあまりに当然の整理されつくした言葉のようにも思えたし、かと思えば、意味も知らない遠い国の言葉のようにも思えた。父は俺の顔を見て、頷いた。
「ああ」
「…………変だ」
目の前の男がそういう人物であることは知っていたはずなのに、いつの間にか、父はそんなことをするはずがないと、俺の中で結論ができていたということが。あるいは、そういう言葉を手繰る男が、どんな顔をしてこの家で、妻と呼べる女や彼女が産んだ子どもと生活できたのかということが。変か、と少し笑いながら訊かれた。変だと思った、だけど。
「……じっさい、そうなんだから、変じゃないんだろ」
目の前の男は二、三瞬きをして、そうかと言いながら笑みを深くした。
付け加えると、その笑みの理由は、後になってねえさんと話しているときに気付いた。俺はそのときに、父としての側面が欺瞞だと指摘してもよかったわけで、あの男もそれを予期していたように思う。ところが、俺の頭の中には疑いなど欠片も浮かばなかった。それであの男は笑ったんだ。あの男は、自分の予想しないことを余興にしてしまうみたいだから。
ふと、そうして受け流してしまうことが、正しいことだろうかという思いが過った。俺は全てを承知でここにいるんだ。もしゴールドだったら怒っただろうか。このくそおやじ、とか言うのだろうか。そもそもこの男がこういう人物であるということをまるっきり分かっていて、自分がここにいるという状況下であっても、遥か昔に××された人物に、或は今どうなっているかもわからない彼と関わった人々のために怒るのだろうか。”どうすべき”かなんてのは、俺にはいつもわからない。
もしかしたら、” ××”は俺の中にあって、俺はそれを知っている。血になって身体じゅうを巡っている。なんの感慨ももたずに静かに見下ろせるくらいには、俺はこの言葉を知っている。そうかもしれない。けれど俺を俺たらしめるものは、それは間違いだといっている気がした。グリーン先輩は、何をせずとも眉を顰めてしかるべきだと言うだろうし、ブルーねえさんでさえ、何をせずとも一回くらいはその人たちのことを想って沈むべきだと言うだろう。けれど俺の心には今の所、波風ひとつと立ちはしない。俺が見つけた俺でいるためには、ここで苦い感情をのぞかせてみるべきだと分かっているのに、何もしなかった。義務感に晒される傍ら、何か重要なものを見逃しているような感じもしていた。どっちが正しいのか、わからなくて、黙っていることにした。答えはまだ出ない。もう少しでいいから、待っていてほしい、その一心で。
切っ掛けはそんなことだった。まだ、見つけていないものが残っている。父のことだけじゃなく、自分自身のことについて。それで、俺も思い出そうとしたんだ。俺の過去について、俺が今まで理解したものや感じたものを、言葉にしてみようと思い至った。だが、それはなかなか上手くいかなかった。というのも、日記をつけていたわけでもなく、記憶を呼び起こすような品が残っているわけでもなく、過去俺が何をしていたのかさえも、ろくに思い出せなかったからだ。
夜、戻ってきたマニューラを前に、どうしようかとつい零すと、マニューラはベッドに放り出してあったポケギアを爪先でつついた。何かと思って身を乗り出して覗き込むと、マニューラが指している場所は丁度タウンマップのところ。
「……今まで行った場所を訪ねればいいって?」
尋ねれば、マニューラは小さく二回ほどうなずいたみたいだった。理由はわからないけれど、おもわず笑ってしまった。そうだな。少しの間、また旅に出てみてもいいかもしれない。そんなことを考えながら、仰向けに寝転がったとき、急に纏う空気の変わったマニューラが素早く身を翻した。マニューラ、と思わず名を呼んでも振り向きもせず、彼は一目散に母のものだったという寝台のほうへ駆けていった。そんなことははじめてで、何事かと起き上がってみれば、彼が寝台の下に滑り込んだと思ったら、ビードルが二匹、叩き出されて転がり出た。驚いた。こんなに必死になっているところを、初めて見たかもしれない。
ただ事ではなさそうだと感じ取って、近付いて膝を折り、マニューラが潜り込んでいるベッド下を覗き込んだ。薄暗がりの中にぎらぎら光っていた真っ赤な双眸が、ふいに一瞬、弱々しい、泣き出しそうな色を湛えた気がした。俺が僅かに近付いただけで、彼が怯えたように身を縮めるのがわかった。
「マニューラ……、どうした?」
流石にけげんに思ってそう尋ねてみると、マニューラは小さく身体を震わせ、とつぜん我に返ったかのように先ほどまでの怯えが消え失せた。マニューラはそれから数秒ほど息を潜めて身を固くしていたが、まもなくして、いつものように落ち着き払った所作でゆっくりと俺のほうに近付いて、寝台の下から顔を出した。そうして立ち上がったとき、マニューラは両腕に平べったい箱を抱えており、それを静かに俺に差し出した。俺が受け取ってからも、マニューラは俺の顔からじっと視線をはなさない。
箱は小説本くらいの大きさで、木製で、表面が赤く塗装されていた。金具も装飾もなく、蓋があるだけのただの箱。マニューラの視線を受け、釈然としないながらも俺が蓋を開けると、深い緑色をした表紙の本が、無言のままそこに収まっていた。
「一週間で戻ってくる、だから……ここで待ってて」
すこしの間、旅に出る。そう言ったときに、いきなりどうした、と至極まっとうな反応をされたことには驚いた。そういうことに対しては無頓着だと思っていたから。理由を尋ねられてうまく答える自信はない。どういう言葉を選べば正しく伝えられるのか、咄嗟に思いつかなくて、黙って首を振った。
ただ、ひとつだけ。待っていてほしい、と思う。他でもないこの場所で、俺が帰るのを待っていてほしいと。俺はきっと感傷的になっているんだろうと思ったけれど、これからの旅をした上で、俺が得たもののひとつひとつを、一番知ってほしいのはきっと父としてのこの男なんだ。忘れ去られ朽ちかけたこの場所に帰ることを許してもらえるなら。祈るような気持で顔をあげると、わかった、とあの男はものものしく答えた。
「シルバー」
ポケモン達を揃えて背を向けたら、ふと後ろから、声。
振り返りかけたのを押しとどめられるように、頭上に手が降りてきた。
「行っておいで」
そのまま振り返ることはできなかった。どんな表情をしているのか、知るのが怖くて。穏やかに語られた風の強い春の日、彼が息子を失ったその瞬間と同じ顔をしているのじゃないかという疑念を拭い去れない。笑っているのか悲しんでいるのか想像すらできないのに、頭から手が退いたその後もついに振り返らないまま、俺はその場所を後にした。
家を出発してすぐの小川沿いに歩いて、トキワシティに辿り着くと、まずはフレンドリィ・ショップに寄って、ノートとペンをひとつずつ、少し迷って、大判のタウンマップを買った。二百二十五円になります。店員の声がいつもより明瞭に聞こえる気がして僅かに目線を上げたら、十代の学生らしい青年と目があった。眉目のはっきりした、黒目がちの。それを思わずまじまじと見てしまいそうになったのを押しとどめて俯いた。街を歩きながら、街にはこんなにいろんな人がいるものだったかと思った。いままで見えなかった表情が、いまは見える。ざわつきに過ぎなかった声が、言葉となって聞こえる。そういうことの意味が、いまはわかる。そして町外れまでようやく辿り着いたら、ドンカラスをボールから出して、それからひとりきりで、色んな場所を巡った。
ポケモン達と一緒にぴかぴかのタウンマップを広げて、どこへ行こうかと思案した。ドンカラスで移動、街をぶらついて、腹がすいたら何か食べて、眠くなったら寝る。そんなことは、今までずっと繰り返しやってきたことだ。日々とはこんなものなんだと理解して、この感じは死ぬまで続くんだろうと思っていた、だけど、今は違った。俺はいままで大体ひとりで過ごしてきた、だけど、いまは本当にひとりきりで旅をしているんだ。楽しそうな話し声が聞こえてくるたび、俺はゴールドやお父さんのことを想った。雑踏と喧噪に過ぎないはずの中に、友達や家族を見つけだしていた。たまに立ち止まって、ペンを持ってノートを前に、言葉を探した。
夜。森の中の隠れ家に行って腰を落ち着け、鞄の中を探していたら、俄に腰のモンスターボールがそわそわしだした。どうしたのだろうと思って上着の裾を捲ってみると、ポケモン達と一瞬目があって、彼らは慌てて視線をそらした。わけが分からずにそのまま見ていたら、おそるおそるドンカラスがこっちを見て、目が合ったと知るやびっくりして後ろを向いてしまった。埒が明かないので、直接きいてみようとポケモン達をボールから出して、どうした? といったら、彼らは遠慮がちに、俺の手元を見詰めた。これのことを知っているのか。いつの間に。おもわずマニューラを見たら、めずらしく、彼は気まずそうに俯いてしまった。どうしてか笑いを誘われながら、べつにいいよ、と言った。一緒に読もう。おあつらえ向きに月の明るい夜で、俺たちは、光がよく差し込む場所を探して少し歩いた。マニューラ、ドンカラスあたりなら樹の上でよいのだが、流石にこの大所帯で十分な広さが必要だ。暫く歩くと、樹も少なく、空がよく見えるところで、雑草でうっすら覆われた地面が青白く照らし出されているのを見つけた。俺たちはそこに腰を落ち着けて、箱を開いた。
表紙の厚い深緑色の本。中身は、まだ少ししか見ていない。ぱらぱらと捲ってみて、それが母の日記だと気付いたときに、反射的に閉じてしまった。その後、あの男の足音が聞こえて、俺は咄嗟にそれを布団の下に隠してしまった。理由は、自分でもよく分からなかったが。ともかく、俺とマニューラはあの男の前ではおくびにも出さなかった。でも、あの男はこれのことを多分知らないのだろうと思う。或は、もうとうに忘れているのでないかと。
その後、箱を開けて手に取ってみた。本は鍵つきで、よく見てみると、表紙の右下に小さく”一年日記帳”と金の印字がはいっている。箱の中には、厚さの違う複数の日記帳が重なって、残った隙間に鍵が三つ。上から、一年が四冊続いてから、三年が二冊、五年が一冊、そして最後に十年が一冊。すべて鍵穴がついていたが、鍵がかかっていなかったのは上から三冊だけで、一緒に入っていた三つの鍵もこの三冊に対応するものだった。残り一冊の一年日記帳と、三年、五年、十年のは、鍵がかかったままだ。とりあえず、開ける三冊のうち、一番日付の古いものを選んだ。一日一ページの割当らしく、ページの端に日付をいれるところがある。その日記はしばらく真っ白なページが続いていて、突然、堰を切ったように始まった。最初のページは、インクで埋め尽くされるほどにたくさんのことが書いてあった。
“家を出る日、新しい日記帳を買った。日記をつけているってことはあの人には秘密。自由に書いてこそだもの。知っているのは昔なじみのマニューラだけ。…"
そんなふうに始まって、始終こんな調子で、他愛もない話題が続いていた。それを目にしたとき、内容がどうこうというよりも、ほんとうにいたんだ、と変な衝撃を受けた。母と呼べる人のことは、あの男から聞いていながら、俺自身では、どこか信じきれていないようなところがあったんだと思う。俺はポケモン達と一緒に、改めて日記帳を開いた。日記にはむらがあって、欄外に溢れるほど書きこまれていることもあれば、一行しかなかったり、曜日と天気しか書き込まれていないときもあった。それでも一年分ともなれば結構な量だ。辛抱強くならなければならなかった。
俺が旅に出たのは、俺も、お父さんに伝えたいことがあるような気がしたから。ほんの小さな頃に俺があの家から離れ、どんなことがあったのか、どういうふうに感じたのか、そんなことを。それは今まで誰かに説明するたびに用いてきた、お定まりの文脈では駄目だと思った。お父さんがあの朽ちかけた家で生きた言葉を思い出しているように、俺は旅の中できっと思い出せる。どうしてこうなっているのかじゃなく、どんなことがあってどういうふうに感じたのか、話す準備が必要だ、俺の噺を。
それにもうひとつ。腰を据えて、この日記を読むためでもあった。母のことを知るため、というよりは、なんとなく、俺はこれを読むのが義務であるかのように思ったから。
ポケモン達はそんなことも知りもせずに、俺が日記帳を開くと、遠慮がちに集まって来る。彼らが何を期待しているのか、俺には分からなかった。俺は声に出して読み聞かせるようなことはしなかったのに、彼らは俺の傍でじっとして、頁を捲る音に耳を傾けている。
10月14日
“あの人がお土産を持ってきた。仕事仲間だっていう人の手作りらしいの。うまいから食ってみろだなんて言って、全くとんでもなかったわ! ミートパイなんだけど、肉はぱっさぱさで味付けも塩だけ。まずくはないけどその一歩手前じゃないの。言ったらとぼけた顔してた。味覚おかしいんじゃないかしら?”
12月17日
“昨日からあの人の仕事仲間だっていう女の人が泊まり込んでるの。赤ちゃんを産むのを手伝ってくれるんですって。しかも私のことを従妹だって言ってるらしいの。その人、あたしをひと目みるなり、「偏屈ね」って言ったのよ。嫌な目つきもつけてね。だから私が頼んだわけじゃないわよって言い返したの。仲良くはできなさそうだわ……”
12月20日
“今日もあの女と喧嘩しちゃった。だけど彼女、なかなか口がうまくって退屈しないわ。あたしが言ったことを二倍にしてやりかえしてくるの。あの人は、あたしもあの女も気が強くって似ているなんて言って笑った。冗談じゃないわね。”
12月24日
“ああ 神様 感謝します”
12月25日
“あの女、昨日私が眠っているうちにさっさと帰っちゃったらしいの。手紙を書きたいからって言って、私、あの人に名前を教えてくれるようにいったの。あの女、キャリーっていうんですって。素直に教えてくれたところをみると、私はもう長くないように見えているらしいわ……あの人にすらわかっちゃうのかしら。ああだけど、出来るから彼女から直接聞きたかった。最後まで憎まれ口ばかりだったけど、私なんかに気を使ったりしない率直なところは本当に好きだった。だからもし元気になったら、手紙を書くわね。もし元気になったら……”
12月27日
”今日は朝からとても気分がいいの。今日ばっかりは私、みんなが好きだわ。あの人も、キャリーも、病院も、私の両親や親戚の人たちも。私はよく腹を立てるし、気がかわりやすいし、人を見下して笑ったりもするけれど、いまは私が世界の中で一番悪い人間で、こんな私にみんなが優しくしてくれているような気持がするの。世の中のわるいことが、みんな私のせいにならないのはなぜなのかしら。私以外のだれかれもが責められるくらいだったら、私がぜんぶそれを受けたほうがよっぽど苦しくない、そういう気分なの。それでね、私……今日はとっても気分がよかったから、きっとよくなると信じてるけど、でもほんとうにもしものときのために、ニューラに坊やのことをお願いしたの。ニューラは誰よりも優しくて、私のことを好きでいてくれるから、きっと私のかわりにあの人を見ているだろうし、坊やのことも世話するだろうと思うの。あなたが、もう大丈夫って思えるまで、傍にいてあげてほしいって、あとそれから、坊やが大きくなったら、この日記のことを教えてほしいってことも……”
俺は思い出したことや思いついたこと、考えたり感じたりしたあらゆることを、ノートに書き留めた。俺はこのノートに関しては、そのときずいぶんいい気になっていたと思う。母の日記もちょうど読み終わったが、ちょっと緊急の用事ができて、俺は最後の日にある場所を訪れてから戻ろうと決めた。
七日目は、朝から雲ひとつない晴天だった。ウバメの森の樹上、陽が射すよりも早く目を覚まして、夜が明けるのを待っていた。磨き抜かれたいちめん群青色の空が、東からの光に少しずつ色を薄くして、針の穴のようだった星が、ひとつひとつ光に呑み込まれて見えなくなるのを眺めていた。滑らかな鋼鉄にも似た空が、天高くまで突き抜けるように明るく照らし出された頃、俺は東に向かって出発した。
目指したのは、高速道路沿いの、あの飲食店——“Carry and Beri ’s DELI”、キャリーとベリの店。日記の記述によれば、”キャリー”という名前の女は、昔のあの男の裏の顔を知っているように想える。よくある欧米風の名前であることは百も承知だが、実際にあの男と彼らは知己だった。時間がないし、搦め手は得意じゃない。単刀直入にカマをかけてみよう。何も知らないならいい、しかし少しでも疑わしい素振りを見せたり、庇立てするようなことがあるならば……そんなことを考えているうちに、高速道路から逸れた道の先にある、四角い建物が見えてきた。上空から見下ろす駐車場はがらがらだ。色の濃いコンクリートの上に白線が無数の格子を描いている。着地にはもってこいだと、俺はそのひとつに降り立って、マニューラを出し、店に向けて歩を進めた。
ブラインドの降ろされた硝子扉の向こうには、”AM 6:00 OPEN” と書かれた看板が吊り下がっている。ポケギアの時刻を確認すると、丁度開店十分前だった。悪くない頃合いと見て、俺は何も考えずに——他の店員がいるかもしれないということすら頭になく——扉を開けた。あらゆる窓がブラインドによって閉め切られた店内は薄暗く、しんと静まり返っていた。キャリー、あの派手な女の姿は見えない。静寂に溶け込むようにしてひっそりとカウンターの向こうで仕込みをしていたベリが軽く目線を上げてこっちを見た。そして奥の部屋を振り返って叫んだ。
「キャリー、お客さんだよ」
少し間があって、ええ、開店にはまだちょっと早いじゃないの等と遠く声がしたかと思ったら、とんとんと階段を駆け下りる音とともに、背が高く、丈のみじかいスカートを履いた、のっぽの女が姿をあらわした。彼女は俺を見るなり、目を丸くした。
「あら……、坊ちゃんじゃないの。どうしたの、こんな時間に……家出?」
「……この店……、ロケット団の首領の手配書がないんだな」
「そういう店じゃないからね」
キャリーはヘアピンを巻き毛にさしながらおっとりと微笑んだ。俺は続けた。
「十七年前のクリスマス・イブに、トキワの森である女の赤ん坊をとりあげたことがあるか?」
「あるわよ。どうして?」
「彼女の日記に書いてあった」
キャリーは目を細め、しばらく品定めするかのように俺を見て黙っていた。包丁が規則的に俎板を叩く音が響いている。いいわ、と彼女はそっけない調子で頷いて、俺の横をすり抜けて。扉にかけてあった札を、”臨時休業”にかえながら、言った。
「何が目的?」
「父の——あの男のことが聞きたい」
後ろから、「あたしの知ってることなら話してあげる」という声が聞こえるとともに、扉の内鍵が閉まった。
それからマニューラと俺は窓際のボックス席に通され、キャリーと向かい合う形になった。彼女は頬杖をついて、どこか冷めた視線をちらりと俺に向けた。
「それで? あの人の——サカキの何について知りたいのかしら」
「……まず、あの男がロケット団を結成した理由」
「……。悪いけど、あたしとベリはその頃もう足を洗っていたから、何も知らないの。あたしたちが話せるのは、それより前のことだけ」
「なら、あの男が悪事に手を染めた切っ掛けは?」
「それもわからないわ。あたしと知り合う前から、もう色々やってたみたいだったもの」
「だったら、あなたがあの男と一緒に仕事をはじめた理由」
「オーケイ」
キャリーは頷いて、それから思い出したように口を開いた。先ほどまでの素っ気なさとは相容れない、どこか窺うようなおずおずした目つきで、「煙草吸っても良い?」と尋ねた。構わないといったら、彼女は席から後ろに身を乗り出して、ベリに煙草を頼んだ。ベリは包丁を置いて、カウンターから灰皿と煙草の箱とマッチを持って、俺たちの机の上に置いて無言のまま戻っていった。キャリーは一服大きく吸って、煙を吐き出してから、話しはじめた。
「あたし、クォーターなの。母方の祖母がカントー出身で、後の親族は全員イッシュ。父は国際警察の一人で世界中を飛び回っていたから、私は祖母と、病身の母に、カントーで育てられた。だけど、父によって振り込まれる生活費は十分過ぎる額で、何不自由ない生活だったわ。父も休暇のときは帰ってきてくれた。厳しい人だったけど、ほんの子どもだったあたしにすら誠実で真剣だったわ。だからあたしは誰よりも父が好きだった。でも、あたしが大学生のときに父は死んだ」
祖母や母からは、自殺だったと知らされた。だが、彼女は祖母と母が、隠れるように話しているのを聞いた。「誰かがあの人を殺したのよ」と母は泣いていた。「自殺なんてするような人じゃないわ」そして病身だった母親は後を追うように、一年後に肺炎で死んでしまったという。
「いつも父が正しかった。あたしは、正義を信仰していた。だけど母の言葉がこびりついて離れなかった。真偽がどうであれ、その疑いで、あたしの信仰は殺されたのよ。正しいものを見失ったままで大学を卒業して、何をする気力もなくふらふらしていたときにサカキと再会したの——そう、言い忘れていたけど、中学の同級だったから——バーで向こうから先に気付いて、なんとなく話し込んでね。それが切っ掛け」
「話の内容は?」
「もう、細かいことは憶えてないけど……人はどう生きるべきかとか、世の中は斯くあるべきかっていう、そんな話。だけどね、あなたにとってはきっと聞く価値もない話よ」
どうしてと尋ねたら、キャリーは自嘲気味に微笑んだ。
「あたしはね、他の大勢の人たちと同様に……多分、あの人に憧れただけだと思うからよ。彼の言ってることは、なんとなくどこか掴めないところがあるのに、だけど彼の言葉はいつだって確りしている。だからきっと何かあるに違いない……深淵な意味とか、そういうものが。あたしは勝手にそんなふうに思ってただけ。この世界で生きていくことの意味を見失って、何でもいいから指針が欲しかっただけのような気がするの。その証拠にほら……あたし、もう足を洗っちゃってるでしょ」
キャリーの言っていることには、少し思い当たるところがあった。指針がほしいのは、わりと誰でも一緒だろうか。そのためか、打った相槌はおもいのほか優しいものになった、気がする。
「……そうか」
「無駄骨だったかしらね」
「もうひとつ、用がある」
「なにかしら」
「母から、あなたに伝言だ」
俺は封筒を彼女に渡した。それは最後の日記に挟まれていたものだった。キャリーは無言でそれを開き、一枚きりの便箋にしばらく読みふけったが、やがて何ともいえない表情で手を下ろし、「……彼女が大したへそまがりだってことはすぐ分かったのよ」とひとりごとのように呟いた。
「でもそれ以上に悔しくてね。あの人は従妹だなんて言ってたけど、なんとなく、大事な女なんだって分かったの。それが器量良しの性格美人だったら諦めもつくじゃない? なのによりにもよって何であんな天邪鬼と、って嫉妬してた。こないだあの人があなたを連れて、息子だって紹介したときにも、やっぱりって思ったわ。あの人、あたしに自分はひとりものだ、彼女は従妹だって言ってたのもきれいさっぱり忘れて、しゃあしゃあとあなたのことを息子だなんて言うんだから、まったくどうしようもないわよ」
殆ど個人的感情をぶちまけるようにキャリーは吐き捨てたが、そのあと思い出したように、話を本筋に戻した。
「あたしも最初は彼女が嫌いだったわ。でもあたしが好きになったのには、彼女は自分の感情や言葉を隠したり誤摩化したりしなかったってところにあるのよ」
あなたのすぐ顔に出るところはお母さん譲りかしらと言ってキャリーは微笑み、感慨深そうにつぶやく。でも…………そう、……そう。あなたがあのときの……赤ちゃんなのねえ。
「あたしからも聞いてもいい?」
二本目の煙草に火をつけながら、彼女はそう尋ねておいて、俺の返事を待たなかった。
「あなたはどうするつもりなの」
何を、と思う。口に出ていたのか、彼女は当然でしょうと言いたげに続けた。
「”お父さん”をよ」
お父さん。その言葉に雷に打たれたような気持で、顔を上げた。そうだ。あの男の一部がお父さんなんじゃない。あの男こそが、彼の全体が、”お父さん”なんだ。俺が何も言えないでいると、キャリーはどこかかなしそうに俺をじっと見た。
この女は思っていたよりもずっと、深いところまで見抜いていたのかもしれない。そうだ、わけもないことだ、俺だって今ならこの女の心がずいぶん分かる気がしている。彼女は信仰を失った人間だからだ、生きる指針を渇望した人間だからだ。俺が常に求めていたものを物心ついたときから当然のように備えていて、突如それを失ってしまった人間。
「……あなたの正義はあなたの愛情と相反することになるかもしれない。だけどどっちも殺してはいけないわ。あなたの言う”あの男”だけを殺すことはできないの」
「何を……」
言い出す、と言いかけたところでキャリーは少し呆れたような苦笑いをした。
「……あなた、もしあたしが喋らなかったらどうするつもりだった?」
その言葉に、咄嗟に答えられなかった。ああ確かに俺は考えたんだ、ここを訪れる前に。少しでも疑わしい素振りが見えたり庇立てするようであれば、そのときは——
「×××××」
俺の言葉にキャリーは泣きそうな顔で笑った。それはどこか嘲っているようでもあった。すぐに分かったわ、だってあなたすごく殺気立ってた。
「あなたたちは強すぎて、真を求め過ぎるのよ、そうじゃない? なんてかわいい、悲劇的で、あいらしくて、ふしあわせで、潔癖な、スウィート——生きるための言葉がなければ生きていけないくせに、虚構の言葉で食い繫げずに餓死してしまう」
その表情に、確かに彼女は悲しがっているのだと俺は思った。この瞬間、自分のことよりも何よりも、俺をあわれんでいるのだというふうに。
「……だけどだからこそ、あなたはきっと、あの”サカキ"を理解できる。そのとき、きっとあなたの正義と愛情は両立する。決して早まっては駄目、いい? あなたはあたしが取り上げたのよ」
言い切ってしまうと、キャリーは席を立った。
「……さあ。こんな噺はここまでよ、コーヒーとミートパイを御馳走するから、いまはお父さんのところへお帰り」
私のシルバーは元気かしら
お母さんがいなくて、寂しくて泣いていないかしら
あなたが泣いていると想像するだけで、お母さんは胸を張り裂かれたようです
お母さんはあなたを想って泣いています
これから大きくなっていくあなたと会うことができないからです
あなたに会いたい!
一週間後のあなた、一年後のあなた、十年後のあなたにひと目会いたい
だからあなたに手紙を書くことにしました
この手紙をあなたが読むのを想像すると、少しは慰められた気になるのです
そうなれば、きっと私たち、会えることになるんですからね……
ただひとつ、どうか憶えていてほしいの
いまこの手紙を書いているこの私、ただひとりの私がこれほどまでに、
苦しいほどにあなたを愛しているということを
P.S
お願いがあるの
キャリーに会ってください
お礼を伝えてほしいの、それに手紙も渡して
私が感謝してるってこと、あと、最後まで天邪鬼でごめんなさいって
きっとあなたも彼女を愛してね
短い間だったけど、彼女は私にとって親友だったから
七日目の夜が来た。俺はまだ帰らずに、トキワの森の端のほうでじっと座って考え込んでいる。
一週間で戻るから、そんなことを言っておきながら、俺は本当に帰るつもりがあったのだろうかと今更になってから思うんだ。自分の言葉を探したかったから、お父さんに伝えたかったからなんてのは建前に過ぎず、本当は、自分でも分かっていたんじゃないだろうか。俺は帰るのか、それとも帰らないのか、それだけのことを選ぶ余地を自分に与えるために、俺は旅に出たのじゃないだろうか。ノートに書き留めた言葉の羅列を見返せば見返すほど、そこは虚構で埋まっている。過ぎ去ってしまった日々のうちに、何一つ本当の感情を見つけ出すなんてことはできない、そうだとしても、俺の噺を誰かに伝えることの意味があるとでも言うのだろうか。俺は帰らないかもしれないと思いながら旅に出たんだという思いが強くなれば強くなるほどに、集めた言葉は薄っぺらい、中身のない虚しいもののように感じられた。一方で、罫線の中に書き留めた言葉を綴じた、買って一週間しか経っていないにも関わらず、ぞんざいに扱ったせいで端々の折れ曲がってしまったこのノートを、ひといきに捨ててしまうにも躊躇われるんだ。
もし今日中に俺が帰らなかったら、あいつはまたいなくなる。そんな気がした。ただここ暫くの日々を残し、そして俺は、あの家を燃やすだろう。火をつけたら、すっかり燃え尽きてしまうまで、或は森火事だと近辺の住民があわてて駆けつけるまで、きっとその場で見ているんだろう。家というものは全く、なんてものだろう! 痺れるような甘い憧れとともに、いざその中に閉じ込められてみれば、それはいっぽうで重苦しく、思考に、記憶に絡み付く。それは過去に似ている。母の手紙の一節、”いまこの手紙を書いている私、ただひとりの私がこれほどまでに、苦しいほどにあなたを愛しているということを”、その一節が、手足をからめとり、身動きできなくし、重くのしかかってくるのを、感じずにはいられなかった。その言葉、その瞬間の感情が真であることには違いないけれども、果たして彼女はもうこの世にいない。言葉だけが幽霊のように、過去からの交信を試みてくるようだ。俺はふとあの男とのある会話を思いだした。俺が母のものとわかる写真や持ち物がないことを指摘すると、あいつはこう言った、「おれも弱い人間だからな」「過去と現在を取り違えたくない。あいつはもういない」。そうだ、何にしたって俺の家庭はもう失われている、そんなものを今更になって求めるから、おかしくなるんだ。
本当であったならあの家で過ごすことのできた日々を取り戻そうなんて、そんなことは馬鹿げているだけでなく、勘定がすっかり狂ってしまうことになる。なぜなら俺の日々は欠落してなんかいない、人がどれだけそれを忌まわしげに、悲しげに見ていたとしても、それは欠落なんかじゃない。俺の日々はいままでもこれからも、常に一点の曇りもなく完成されているんだ。俺は、俺の日々を信じる。過去の俺が選んだ道の果てでの、現在の俺の選択を信じる。それだけのことだ。
そんなふうにすっかり決めてしまって、俺はどこかさっぱりとした快い気持で眠りについた。家には帰らなかった。明日になったらまた日常に戻ろう、あの男を倒すための日々の中に。
次の朝はやくに目を覚まして、支度を済ませて立ち上がり、軽く土埃をはらって森を出ようとしたときに、不意に耳の奥で声がした。
(さあ、こんな噺はここまでよ)
鼻にかかったようにあまったるい女の声。そう、こんな馬鹿げた噺はここまで、これ以上続ける気なんてはなっからないさ。
(コーヒーとミートパイを御馳走するから、いまはお父さんのところへお帰り)
足が止まった。”いまは”、”お父さんのところへ”、”お帰り”。
どういうことだろう、俺はたった今、背を向けることを確信していたのに、どうして今更になってこんな言葉を思い出すんだろう。俺は殆ど躊躇うことなく、返しかけた踵をもとに戻して、森の奥へ向かって歩き出したんだ。
そのときの心持を言うならば、まるで夢遊病者のようなとでもいうのだろうか。我をわすれ、殆ど前後不覚になって、歩き続けた。小石や雑草や、ちいさな枝の散乱した森の途を、まっすぐに歩き続けた。すこしして肌寒くなり、それは汗をかいているせいだと分かり、それでようやく、歩く速さが増していることに気付いた。どんどん歩幅は大きくなり、足を前に出すのもはやくなっていく。やがて、横のほうから、豊かに茂った枝葉をくぐりぬけて、白っぽい太陽の光が差し込んできた。思わず見上げると、うすむらさきの明け方の空から、光がしんしんしんと降りて来る。次第に密度を増してくる光に、俺ははじめて焦りのようなものを感じた。そしてそれからは殆ど飛ぶように、森の途を駆け抜けていった。
家が見えてきた。俺は足音も立てず、低木越しにそうっと家を伺い見た。朝の陽射しに照らされて、白っぽく染まった木造の家は、最後に見たときよりもずっと真新しく、いきいきとしているようだった。あたりは嘘のように静かだった。全力で走ってきていたせいで、絶え間なくどくどくいっている心臓の音がなんだか気詰まりで、苦痛だった。あがった呼吸をできるだけ押し殺して、ぐらぐらする頭でその光景を見ていた。全身から汗が吹き出して、服の中はぐっしょりと濡れ、早くも冷たくなりはじめていたが、そんなことは殆ど気にならなかった。白樺の家と、小さな庭。鳥の囀り。長閑さのあまりに、息がつまりそうだ。
まだ呼吸もろくに整わないうちに、お芝居かなにかのようにゆっくり、家の扉が開いた。そこから、色の褪せた緑の、すこし情けないセーターを着たままのひとりの男が出てきて、玄関のポーチに腰を下ろした。そして、暫くぼんやりと空を見上げていた。俺の目はその姿に釘付けになって、暫く動けずにいた。そのままどのくらい経ったのかわからない。だけど不意に、男はゆっくり立ち上がって、再び家の中にもどろうとした、そのときに、叫んでいた。
「お父さん!!」
憶えているのは、振り返った男の、びっくりしたような間の抜けた表情だけ。わけもわからないまま、涙が滲んできた。喜びか悲しみかもわからないくらいくらいに気が昂っていた。お父さん、お父さん。お父さんお父さんお父さんお父さん!
やっと彼を見つけた、白く輝く家のポーチに。
「結局、話ってなんだったの」
俺が訊いたらお父さんは、つまらないことだと前置きをしてから続けた。
着替えを済ませたお父さんは、白いワイシャツとスラックス姿で、あの美しいポットで淹れたコーヒーを飲んでいる。古く使い古された銅のポットは、憑き物が落ちでもしたみたいに、窓からの陽射しを反射して新品みたいに輝いた。
「……俺はお前が攫われたあとに、ろくに探そうともしなかった、それどころか普段は殆ど意識すらしなかった、……それでもときには、思い出すことだってあった。だがいつも、決まって夢みたいなものだった。だが、その瞬間にすらお前は俺を思い出して泣いていたのかもしれない。すっかり忘れていたにしろ、どっちにしろ同じことだ。俺はお前を大事におもっていたよ、だけど、大事におもいながら同時に、そんなふうに、お前に対してひどい裏切りをし続けてきた。俺はそれを償うつもりだった、本来お前が得るはずだったにも関わらず、俺の裏切りのために得られなかったものをすっかり清算してしまおうとおもったわけだ……」
お父さんはそこでいったん言葉を切って、それから少し気まずそうに、
「というのは、建前でな。ずいぶん長い間はなれていたので、話をしたくなっただけだ。ただ、そのとっかかりがどうしても掴めなかったので、そういうことにした」
あの晩、”準備”といったのはこのことだったんだと、俺はようやっとわかった、”お前がそんな状態では話せないようなこと”も。
「……怖かった」
あのときの心境を思い出して、思わず言葉を零したら、お父さんは促すように俺をじっと見て、口をつぐんでいた。
「いつも何のために、どんなふうに生きていればいいのか、よく分からなかったから。俺は自分自身で、それを見つけることができなかった。仮面の男が怖いから、ねえさんが泣くから、ゴールドの家があたたかかったから、ねえさんが両親に会ったから……いつもそんなのばっかりだ。だけどおまえのことだけは、俺だけのことだ。悪の総統と名高いおまえを父に持ったからこそ、言えることだ。おまえを倒す、これだけは、俺自身から出た俺だけの言葉だって、信じられるんだ。だからお前が父として現れたときに、自ら決意を台無しにしてしまいそうで怖かった……いまにもほだされて、俺は俺自身を裏切るんじゃないかと……」
自分で喋っておきながら、言葉は尻窄みになって、消える。直後、あまりに赤裸裸に胸中をさらけだしたことに気恥ずかしくなって、鞄の中からノートを取り出して、お父さんに渡した。口を綴じたままじっとそのノートの表紙を見つけたお父さんに向かって、口を開いた。少し気まずい。
「その……、お父さんと離れていた間の、俺のはなし……。思い出せた限りで、だけど」
結局一週間に渡っていろんなことを書き綴ったノートは、苦心のわりに全部で十頁にも満たなかった。それも実のところ、きっと建前や、後付けの記憶なんかを多く含んで。
「ああ、きっと読む」
お父さんはそう言って、俺のノートを受け取った。いま読まないのと思わず訊いたら、へんな感じがするだろう、といって複雑そうな顔をしたので、そういうものなのかと取り敢えず納得しておいた。
「ひょっとしたら、嘘を書いているかもしれない」
「嘘だって、お前の言葉には違いない」
飲み終わったカップを片付けたあと、辺りを見回して鞄をさがしたお父さんを見て、俺は椅子の上にかけてあった黒い外套をとった。重たくて、表面はこまやかな起毛におおわれている。
「もっと薄着にしたほうがいい、かえって目立つよ」
「あれみたいなことを言うな」
思わず呈した苦言を、お父さんはこう言って笑い飛ばした。
つま先立ちで外套をお父さんの肩にかけると、お父さんはじぶんで着たほうがはやいと笑いを堪えているような顔で袖を通した。そして前のボタンをとめているあいだに、俺はふと思って、腕を腹にまきつけるようにして、耳を背中に押し付けてみた。上等な生地の起毛がちくちくする。それに、僅かにあたたかい。硬い身体、探り出す骨の感触。耳を押し付けた向こうでは血が流れてる。どうした、と訊かれて、なんとなく、と答えたら、お父さんは暫く好きにさせておいてくれたけれど、まだ少ししたら、「着替えられない」と言って暗に解放を求めてきた。実のところ、それは少し助かったかもしれない。でなければ俺は何も考えずに、いつまでだってそうしていたかも分からないからだ。それでも身を離すのは、どこか悲痛な気持だった。悲劇的とさえ言っても大袈裟じゃないくらいだった。
お父さんは俺に背を向けたまま、裾のあたりの埃をきっちりチェックして、俺に後ろも見るように言った後に、ようやくボタンをつけるのかと思ったら、不意にこっちを振り返って、俺の肩は掴まれて引き寄せられた。前開きの外套の内側、白いシャツに頭ごと迎え入れられ、一、二回、押し付けるような強さで俺の頭をぐりぐりと撫でた。そして一等腕の力が強くなったと思ったら、お父さんは身をはなして、外套のボタンをとめた。そして鞄を手に取って、家を出た。
「いってらっしゃい」
俺はお父さんの後を追って家を出て、そう言った。お父さんは振り返ってちょっと笑って言った。
「お前も、気をつけてな」
そう言ってあっさりと向けられた背中に、ねえ、と声をかけた。
「……次は、きっと倒すよ」
「……」
「だけど、ずっと……」
なんだろう、言葉が出てこなくて。俺はいったい何を言おうとしているんだろう。
そう思って黙り込んでいたら、お父さんが不意に。
「愛しているよ、シルバー」
(永遠に。お前が俺を倒す、その瞬間でさえも)
それで思わず笑った。
そうだ、きっとそうなるね。
「俺も。ずっと、大切にする……愛してるよ」
お父さんが行ってしまったあとに、俺とマニューラはお母さんの日記を元の場所へ戻しておいた。結局、お父さんには言わずじまいだった。俺もお父さんも、今暫くは、まだこの日記を開くときじゃない。だけどいつか全てが終わったあとに、穏やかな日々が、ふたりで夢を見られるほど長閑な日々がやってきたら、そのときこそお父さんといっしょに、もう一度お母さんに会いに行こう、と思う。
「マニューラ。俺はあいつと——お父さんと戦う。だけど、お前まで無理に俺に付き合うことはないからな」
望むなら、彼も懐かしいはずのこの家で、森のポケモン達と一緒に暮らしたって構わない。マニューラはたぶん、俺が考えているのよりも多くのことを知っていて、彼は彼で色々に感じては考えている。マニューラは何も言わなかったけれど、俺が立ち上がると、いつものように付いてきた。
そして再び家を出るころ、ふと思い出してポケギアの電源をいれた。一週間前に切っておいたのを、いままで忘れていた。電源がつくなり画面に映し出された不在着信のリストに思わずぎょっとした……ねえさん、ゴールド、それからクリスと……。そしてどうすべきか悩んでいる間もなく、ポケギアが再び震え出した。おそるおそる、通話ボタンを推す。
『シルバー、』
聞こえてきた声で名前を呼ばれたことに、思わず安心して口元が緩んだ。
俺の旅をはじめよう。
そして、いつかきっと、俺の噺をしようと思う。
(2015/04/19)