イジュ9
□ ゴールドとイジュの最終章。
□ オリジナルキャラクターの「イジュ」中心の話となります。ご注意ください。
□ 最後です。ありがとうございました。
戦いが行われているのは、研究所の中心にある、二階分を突き抜けるようにして建築された大講義室だった。全体的にグレートーンの、うすぐらい印象のぬぐい去れなかった他の部屋や廊下とは違い、高い天井には欧風の豪奢なつくりの自動点灯式の電灯がつり下げられ、床や机はかつてはニスでつやつや光っていたであろうことが窺える、明るい色味の木目調で統一され、最奥の壇上は深い臙脂色をしたびろうどの垂れ幕が左右に開け放しにされている。正面の入り口に立つと壇上で喋っている人は豆粒ほどになってしまうほど、講堂内は広く、そのうえ二階席まで存在していた。ブルーは囮役のゴールドを壇上に残し、合流したクリスとともに捕獲の打ち合わせをするために二階席に身を隠したのだが、開口一番、クリスによって思いもかけない事実を告げられることになった。
「……ごめんなさい。わたし、ブルーさんから預かった光線銃、落としてしまったんです」
だが、ブルーはそれ以上の釈明は不要と判断した。単純に時間がなかったのもあったが、一番の理由が、クリスの表情が暗いものではなく、むしろ前よりも活き活きとしているように見えたからだった。
「それにしては、いい顔してるじゃない? ……なにか掴んだのね?」
揶揄うような調子の後、急に声を潜めるようにして早口にブルーはささやいた。その言葉にクリスは不意をつかれたように息を呑んでから、わずかに顔を赤くした。それはその言葉が思いのほか彼女の内心の気持ちを言い当てていたからであり、また、そうして日の目を見るところに晒されたことによって、改めて緊張の波が押し寄せてきて、心臓を揺さぶられたような気がしたからだった。何か答えようとはしてみたものの言葉にならず、クリスは無言で頷くだけで精一杯で、ブルーもその仕草を見ただけですべて分かったように、頷きかえした。まだ言葉にする段階でないものを、無理に言葉にする必要もないのだ。
階下で戦いが始まったのは、その直後だった。二人が、息を殺すようにしてやりとりを交わしていたあいだに、崩落の音は遠くから徐徐に近付いて来ていたのだった。むろん、一人壇上で待ち構えていたゴールドは、二階席の二人よりも遥かに早い段階からその音を聞きつけていた。それは彼が予期していたよりも遥かに静かで素っ気ない音のように感じられた。耳につくのは喧噪というよりも単純な破壊音、床の砕ける音や瓦礫のぶつかる音が、ときおり思い出したように、二、三続けざまに響いてくる。最初はとても小さなもので、ゴールドは聴覚に意識を集中しなければならなかったが、最後のほうになると音は否が応でも耳の中になだれ込み、それに従って講堂の入り口から、緊迫した空気がゴールドの立つ場所まで押し寄せてきた。視界に変化があらわれたのは、講堂のすぐ間近なところで、一際大きな、派手な崩落音が聞こえたその直後だった。講堂の入り口を体当たりで突き破ったトゲキッスがそのまま一直線にゴールドのほうへ飛んできて、彼はゴールドに気付くとその傍らで急停止した。背中にマニューラを乗せている。
「トゲたろう!? なんでお前ここに……」
驚きのあまり、状況も忘れてつぶやいたゴールドに構わず、トゲたろうは吃とした目つきでぶちやぶってきた講堂の入り口を睨みつけている。ゴールドも我に返って顔を上げて入り口を見つめるが、入り口付近は影も形も見えず、嘘のように静まり返っていた。
だがそれから間もなくして、レッド――イジュが姿を現した。遠くから見ても分かるほどに、彼の健康な肌色はぞっとするほど青みがかって病的な感じを醸し出しており、身体は疲れ果てて、絶望に濡れそぼっているような様子だった。その全体の陰鬱な雰囲気とは裏腹に、燃え立つような色の瞳だけが不釣り合いに浮き上がって、しかしくすぶっているように見えた。彼はひとりきりで講堂の入り口から入ってくると、まっすぐに歩いてきた。ゴールドは固唾を呑んで、壇上でそれを待ち受けていた。イジュは壇から五メートル手前で立ち止まって、ゴールドを見上げ、不意に語り始めた。
「…………君の言う通りだったよ。シルバーは拒んだ。けれど僕は彼を殺すこともできなかった……でも今となってはそんなことはどうでもいいんだ。僕はいったい何者なんだろう? 君を見ていると、なんだか僕が僕でないような……不思議な気持ちになるんだ。僕は是非ともシルバーを最初に殺すために躍起になっていたはずだったのに、こうして君を前にすると、そんなことどうでもいいような気がするんだよ。そして、いますぐこんなことは止めて、この研究所のことなんかすっかり忘れてしまって、一からあたらしくやりなおそう、旅をして、みんなと笑いながら生きていこうって気がするんだよ…………」
イジュの姿はほとほと疲れ果てているように見えた。ゴールドは語られた内容の思いもかけなさに拍子抜けして、その姿を凝視した。イジュはよわよわしく微笑んだ。
「信じられないかもしれないけど、僕は君が好きなんだ、ゴールド。世界じゅうの誰よりも君が好きさ。だけど同時に……そんな殊勝な、はじめからやりなおそうなんて考えを、僕は本気で実行しやしないってことを、僕がいちばん知ってるんだ。そんなことができたらどんなに幸せだろう。そうしたら君は僕を拒まないだろうし……クリスもきっと、そうだろうね。シルバーや、彼のおねえさんだって、きっと受け入れてくれるかもしれない。だけどそんなことが何になる? 愛された、幸福な未来が何だっていうんだ?」
「おいイジュ、」
「ねえゴールド、もし僕が一からはじめることができたとして、それは結局のところ僕なんだろうか? 僕というのは、この『僕』だよ、いまから世界を破滅させようとするこの『僕』だ。聞くまでもないね。もう戻れないよ……僕が見つけた『僕』のためだけに僕は進む、やりなおしなんかするもんか! たとえ君が相手だとしても――否、君だからこそ、僕は退かない!! フッシー!!」
「っ、くそ、バクたろう!!」
ボールから飛び出したバクたろうと、舌打ち紛れに応戦しながら、壇上から身を乗り出す。
「てめえ、イジュ! 自分一人だけ好き勝手喋りやがって何様のつもりだ!」
「フッシー、はっぱカッター! 相性で勝ってるからって無駄口叩いてていいのかい?」
「かえんほうしゃ、先手必勝だ!」
バクたろうの発射した炎は波となって、はっぱカッターもろともフッシーを呑み込んだかに思われたが、直前に張られたらしいひかりのかべが火炎を吸収し、フッシーは身体のそこここが焦げ付いてはいたものの、ダメージはほとんど入っていないようである。ひかりのかべの効果もあるものの、何せレベル差がありすぎた。
「ニトロチャージ! 飛び込め!」
咄嗟に物理技に切り替えて応戦するゴールド、しかしその様子を二階席から見ていたブルーは、不安を隠しきれない様子だった。ゴールドにしてはあまりにも力押しすぎる戦法に見える。それに不安要素はそれ以外にもあった――レッドのポケモンだ。レッドの昔年の友である彼らは、おそらく今の主人がレッドではないことに気付いている、だが、彼らはイジュに対してあくまで従順、むしろ過ぎるくらいだった。まるで彼らのほうからイジュを庇っているような、そんな印象すら受けたのだ。ゼロがポケモンだというのならば、ポケモン同士、何か通ずるものがあるのかもしれない。
「……ブルーさん。お願いがあるんです」
ブルーが振り返ると、クリスが何かを決意したような表情で、まっすぐに彼女を見つめていた。
そうしたブルーの心配を他所に、ゴールドは善戦した。一つにイジュが、もう既にほとんどレッドとしてではなく、イジュとして戦いはじめていたというのがある。既にレッドの姿を取っているのは形式だけのことに過ぎなかった。そして彼もやはりゴールドと真っ向勝負をする姿勢を崩さなかった。
「フッシー、のろい!」
フッシーはその体躯でがっしりとバクたろうの一撃を受け止める。しかしバクたろうも退かなかった。互いに後ろ足を踏ん張ったその姿勢のままでにらみ合っている。ゴールドはその向こうで真っ青な顔色をしたレッドの姿、イジュを見据えて叫んだ。
「いいかイジュ! 俺がてめえがどう言おうと、てめえを止める……てめえのことなんざ知ったこっちゃねえさ、知ったこっちゃねえ。世界の破滅なんて糞食らえだ、そんなこと俺が許さねえ! ここは俺の世界だ……、お前の世界だ!!」
「僕に世界なんて無い!!」
イジュは悲鳴のように高く叫んだ。
「僕にあるのはただ自意識だけだ、世界なんて無い……、初めからなくてこれからもそうさ! 僕は『ゼロ』なんだから!!!」
「……そんなこと誰が決めた!!?」
ゴールドが絶叫する、それに呼応するようにバクたろうの身体を纏う炎が燃え滾る。バクたろうが前足のバネで一旦下がったかと思うと、間髪入れずに炎を纏ったまま突進した。
「てめえは自分が白でも、他人から言われたら黒になんのか!!」
「五月蝿い、お前に何が分かるものか!!」
「ごちゃごちゃうるせー、理屈じゃねえんだ……生きるってのは理屈じゃねえんだ! お前も俺も大して変わらねえさ、同じ土俵の上に立ってんだ!! そうじゃねえのか!?」
――お前も海から生まれたんだよ?
そのとき不意に、イジュの脳裏を声が掠った――やさしい、母の声だ。吸い殻が山積みにされた灰皿から残り滓のように漂う煙草の臭いが鼻孔の奥のほうでほのかにふくらんだ。初めに見えたのはそう、暗く小さな母の研究室で、橙色のランプの灯りに照らされてあたたかく浮かび上がった細く骨張った手、穏やかに弧を描いたくちびるが、歌うように昔話を語った、その時間。
そのときの母はめずらしく酒に酔っていた。持ち込み禁止のチューハイをどこからか仕入れてきて、机の上でだらしなく酔っぱらっていた。彼女はいつになく上機嫌で、こどもっぽくて、幸せそうにふわふわしていた。その瞬間、イジュは当時一度だけ聞いた話を不意に思い出したのである。酔っぱらいは微笑みながら、こんなふうに切り出したのだ。
幼い頃に、一度だけ……、海に行ったことがある。どこの海だったかは忘れてしまったし、どうして海へ行くことになったのかもよく憶えていない。お父さんが久しく開けていなかった車庫を開けて、簡単に車の点検をしてから、わたしたち家族はセダンに乗り込んで長い長い旅をした。
わたしの両親はふたりとも無口だった。お父さんは車に乗り込んで、お母さんとわたしがシートベルトをちゃんとしているのを確認して、ラジオをかけたきりほとんど何も言わなかったし、お母さんも、出かけに後部座席のわたしを振り返って、水筒もってきた、と小さな声で尋ねただけだった。わたしは車の左側の後部座席に行儀良く座って、少し首を外側にかたむけて流れて行く景色を見ていた。最初のうちは見慣れたビルの雑然とした街並と、歩道を行き交う人に両側をはさまれ、赤信号の前でたびたび止まりながらじりじりと進むほかなかった。ラジオからは最近流行のポップスが流れていた。たまにテレビに出ていて、ステージのうえで丈の短いスカートで踊っている、わたしよりひとまわり年上の女の子のユニット。わたしは幼心に、それがひどく浮ついた恋の歌だということを知っていた。お父さんとお母さんは相変わらず前を向いて黙りこくっている。お父さんとお母さんはごくたまに短い、それもおそらくは仕事の会話を交わすだけだった。小さく流れている賑やかなBGMだけがぽっかり浮かんだ静寂、それにひさしぶりに乗り込んだ車の中は、埃臭さと、古いマイルドセブンの臭気がまじりあって、鼻の奥がきゅんと鳴くようだった。
それからわたしたちを乗せた銀色のセダンは間もなくして高速道路を走りはじめた。インターチェンジから間もなく長いトンネルに入り、わたしは等間隔で配置されたオレンジ色のランプが後ろへ流されて行くのをぼんやりと眺めていた。そのとき、安っぽいライターの音がして、もう、と車内にやわらかな紫煙が広がった。お母さんが退屈して煙草をはじめたのだ、と思った。わたしは子供だったけれど煙草の煙が嫌いではなかった。両親が二人とも喫煙者だったから、すっかり慣れ切ってしまっていたのかもしれないが、とにかくわたしは好きだった。雲のようにひろがる、ふうわりとやわらかい、シルクのような煙の塊と、どこか懐かしいような葉っぱの焼けていく臭い。両親は窓を開けようとすらしなかった。もっともめずらしいことに、その一本が終わったあとは、まるでやる気をなくしたかのように、お母さんもお父さんも煙草を吸わなかったのだが。お母さんはトンネルを出るころにちょうど煙草を吸い終わって、車に備え付けられている、引き出し式の灰皿のなかに先っぽを押し付けた。ずっと前にこの車に乗らなくなってからずっと掃除をしていなかったみたいで、後部座席のわたしから見えるほど、煙草で溢れかえっていた灰皿を、お母さんの痩せた手が無理矢理押し込む。銘柄はぜんぶマイルドセブンだった。お父さんもお母さんも、この煙草以外を吸っているのを見たことがない。
季節は春で、窓越しの日差しは強すぎも弱すぎもせず、空は薄水色に晴れていた。最初は車の高さの二倍も三倍もありそうな防音壁が道路の両側に反り立っていて、その向こうに小さくビル群が見えるようだったのが、先へ進むにつれていつのまにか防音壁は見えなくなり、高速道路と外側の街を隔てるのは背の低い鉄条網だけになって、その向こうには長閑な田園風景のなかにぽつぽつと民家の建っている風景が広がるようになった。わたしは前に座る両親のようすを窺った。お母さんのほうがお父さんに顔を向けて、車のエンジン音にかき消されてしまうくらいに小さな声で、なにかひそひそと喋っていた。お母さんがわたしに水筒を取るようにいいつけて、わたしは右側の座席に荷物といっしょに置かれた水筒を持って前の座席に差し出した。そのときわたしはまだほんの子供で、手足も短かく、身体もシートベルトでしっかりおさえつけられていたから、うまいこと届かなくて、お母さんが少し苦労して水筒を受け取った。ラジオはもう流行の歌番組は終わっていた。いまは歌ではなくて、誰かの会話が流れている。そのうち、わたしは車の揺れがきもちよくて、うとうとしはじめて、ついには眠ってしまった。あいだ、二、三度、夢うつつながら、お父さんとお母さんのいる前の座席を眺めてはすぐに再び眠りに落ちた。心地の良い静けさだった。
目を覚ましたのはお母さんが、もうすぐ着くよ、と言ったから。目を擦りながら窓の外を見ると、視界いっぱいの青が広がった。突き抜けるような濃い青色が、幾重にも絵の具を重ねたように深く陰り、それでいて全体的に余す所なく、波の先端が光って、きらきらと揺らいでいた。わたしは初めて見る海にすっかり吃驚してしまって、口を開けたまま、食い入るように景色を眺めていた。わたしたちを乗せたセダンは、海に面した崖沿いの道路を走っていた。ラジオは何か懐かしい、お父さんがよく聞く昔の歌が流れていた。ところどころ錆び付いて茶色くなっている、白いガードレールにぴったり吸い付いているかのように景色が流れて行った。不思議なことに、いくらはしってもはしっても、目の前の海は少しずつしか動かなかった。そのときはとにかく海をちょっとでも長く眺めていたかったわたしにとって、それは幸いだった。大きなカーブに沿って曲がって、トンネルを抜けると、海は見えなくなった。わたしはがっかりしたけれど、それは僅かな間のことで、それから五分も走ると、再びわたしたちは海沿いに出た。けれどさっきよりももっと近い。砂浜にはちらほら人影がいたけれど、それも本当に僅かなもので、お父さんは人気のない場所を選んで、がらがらに空いた駐車場に車を停めた。駐車場は、防波堤の上にあって、滑り止めの石で埋め尽くされていたけれど、その下は砂みたいだった。ついた、とお父さんが業務連絡のように淡々として呟き、車のエンジンを止めた。お母さんは胸ポケットのライターと煙草を確認しつつシートベルトを緩めた。わたしもはっとして、慌ててシートベルトを緩めようとしたけれど、手が震えていて、いつもより時間がかかってしまった。からみつくベルトを振りほどくようにして慌てて車の扉を開くと、ぶうわっ、と巨大な風がわたしの顔面に吹き付けられた。潮の匂いをいっぱいに孕んだ海風は一瞬で、わたしの洋服の中や髪の隙間を余さず通り抜け、そのまま勢いよくセダンの中へなだれこんで、わたしの開けた後部座席のドアから、お父さんの開けた運転席のドアへ吹き抜けて行った。
どきどきしながらわたしは地面へと足を下ろした。わたしは七分袖のワンピースと、素足にサンダルだった。すこし寒い。でも平気。強風に髪が暴れるから、目に入らないように、できるだけ薄目に開けて車の扉を閉める。そしてわたしは海のほうへむかって駆け出した。あんまり遠くにいっちゃ駄目だよ、とうしろからお母さんの声がする。濃い青灰色の石の敷き詰められた駐車場を抜けて、ところどころ欠けたコンクリートの階段を下りると、すぐに砂浜。駆け下りた勢いのまま足を突っ込んだら片足がそのまま埋まってしまってびっくりした。けれど遠くに見える人影が砂浜を駆け回っているのを見て、思い切ってもう一方の足も階段から前へ踏み出す。指先が僅かに砂に埋もれた。けれど、歩けないわけじゃない。そのまま二、三歩歩いて、すぐにもう一度走り出した。
砂浜は思いのほか広くて、ずいぶん長いこと走ったような気がする。わたしは波打ち際から一メートル離れたところで立ち止まった。目の前には、海が広がっている。本でしか読んだことのない海、写真でしか知らない波、言葉でしか知らない潮風。こんなに水の音がして、こんなに風が強くて、こんな匂いがするんだってことを初めて知った。わたしはおそるおそる波打ち際に近付いていって、足先を波にひたしてみた、冷たい! わたしは俯いて、波が足元へむかって寄せては引いていくさまを食い入るように見つめていた。それからしばらくわたしは波打ち際で一人遊びをしていた。そのまま永遠に遊べるだろうとさえ思っていたのだけれど、不意に海鳥が鳴いた声にわたしは顔を上げた。大きく翼を広げた一羽のキャモメが、海から陸地のほうへ向かって風に乗って飛んでいくのにつられて、わたしは振り返る。少し離れたところで砂浜に座っている両親の姿が見えた。二人で雑誌を覗き込んでいるようだ。わたしが駈けて行くと、お父さんは無言で、わたしがのぞきやすいように、雑誌を水平にかたむけた。
「……なに、これ? わ……わだ……つみ……」
雑誌の端のほうに、飲食店の特集が組まれていて、その中の一つだった。わたしには聞いたことのない名前だったので、お父さんの顔を見る。お父さんは表情を変えずに頷いて、こう書くんだ、と呟くと、適当な枝を拾って砂に字を書き始めた。
「うみ……がみ……」
「そう。意味もそのまま、海の神様のことなんだよ。同時に、海そのものを指す場合もある」
続いて隣のお母さんも、わたしの顔をじっと見つめ、補足するように話しだした。
「海は全ての源流ともいわれている。単細胞生物から多細胞生物へ。もとは海で生まれた微生物が、環境に適合するために進化して人間やポケモンになった、という説がもっとも有力だね。その進化の素は、地球を訪れたミュウが落としていったとか、諸説あるけれど、ポケモンも人間も海で発生し、進化の道をたどってきたという点は、ほぼ確定的になっている」
お母さんは手を伸ばしてわたしの頭を撫でながら、
「お前も海から生まれたんだよ?」
と、笑った。
それから、わたしたちはそのお店にご飯をたべにいこう、ということになったけれど、そのお店は閉まっていた。なんでも、つい最近、お店をやっていた人が死んでしまったらしい。わたしははじめて、人が死んだという話を聞いた。生物はみんないつか死ぬものだって、知識の上だけでは知っていたけれど、わたしはまだ、どういうことなのかよくわからなくて、帰りの車の中で両親に聞いてみた。お父さんもお母さんも揃って首をかしげて、まだ死んだこともないから分からないな、というようなことを言った。
……透明な意識の水の中に――イジュはぽっかりと浮かんだ。もはや少女のイジュではなく、大人の、死の直前のままの姿をしたイジュの姿が。白衣に膝丈のスカート、それに仕事用の、臙脂色のフレームの眼鏡をかけた女が、ローヒールのパンプスを履いた足を伸ばして、まっすぐに立っていた。最早動かなくなったポケモンたちの死骸、意識体の墓場。
(ボーイ、ここは海だよ。聞こえるだろう、さざ波の音が?)
イジュは意地悪そうににやりと笑った。それはゼロもよく見知ったものだったけれども、今になってゼロはひどく裏切られたような気がした。というのも、ゼロには波の音のひとつも聞こえないばかりか、塩の味がするでもなく、水はどこまでも透き通っていて、ほんの少しも青みがかったところなど見られなかったからだ。ゼロは人間の何十倍も目が良いのだから、イジュに見えてゼロに見えないものなどあるはずがないのに。つまりイジュは、ゼロが求めているものを知って、面白半分に、わざと意地悪を言っているのだ。
(海なもんか! おまえは僕を揶揄っているんだろう!)
(忘れてしまったのかい? お前にも一度だけ話したろう、海のことを)
(ああ、憶えているさ。でもやっぱりおまえは嘘つきか、でなきゃ幻覚をやったんだ、僕は海を見たよ、本物の海を――ほんの一回こっきりのおまえと違って――何度もね。けれどおまえが言うようなことは何も無かった、僕にはおとうさんもおかあさんもいなかった……、そしておまえも……いなかった……)
(……ああ、そうかもしれない。でもね、おまえだって海から生まれたんだよ)
イジュはふいに目を伏せた。
(わたしもおまえも、そして他のあらゆる生き物も……みんなおなじように)
「………………嘘だッ!!!!!」
はじけるように響いた。大きく口を開いて、力いっぱいにイジュは絶叫した。その怒気に呼応するように、押され気味だったフッシーが唸りを上げ、激しく身体を振ってバクたろうとの距離を取る。
「捨て身タックル!」
「かえんぐるまだ! バクたろう!」
ゴールドも負けじと応戦する、しかし相性でいえば彼のほうが有利といえども、元々の重量差とのろいの効果によって弾き飛ばされたのはバクたろうのほうだった。バクたろうはその一撃で床に伏したが、ダメージ量とすれば今までの累積もあって同等程度だろう。ゴールドはバクたろうをボールに戻しながら、
「トゲたろう! バクたろうの頑張りを無駄にすんじゃねえぞ、しんそくだ!!」
最も、トゲたろうはゴールドの指示があるかないかのうちに既に目に見えないような速さで飛び出しており、防御の余地を与えないまま渾身の一撃が入り、フッシーは倒れた。
イジュは次の手としてプテを繰り出しながら、必死の思いでゴールドの言葉を、姿を、振り払おうともがいた。今にも自分の身を大地に投げ出して、泣き出して赦しを請いたいような病的な衝動は絶えずイジュの頭の片隅に浮かんだ。だがそうしてしまえば、イジュが今まで生きるために考え、思い悩んできたことの全てを、イジュ自身が否定してしまうことになる。彼は油断すれば浮かんできそうになる涙を堪えながら声を張り上げる、誰よりも大好きなゴールド、だからこそ、その手を振り払わなければいけないのだ。
――俺は、誰にも俺の邪魔だてをさせはしない。罪悪感も苦悩も空虚も、それらいっさいに関しての権利は俺だけにある。俺は誰にも理解されないし、誰かを理解することもない。哀れまれる理由もないし、哀れむ理由もない。俺の空虚をどうするかは俺が決める……お前と分かち合うものはひとかけらだって存在しない。
不意にシルバーの言葉が脳裏を掠めた、同時にイジュは自分でもそうと知らないままに叫びだしていた。
「そうだ、僕、僕は…………僕がどうするかは僕が決める、僕だけにその権利があるんだ!! 例え僕の魂を君が救ってくれるとしても、僕は君の手をひっぱたいてやるんだ……目の前で振り払って、そして踏みにじってやる!!!」
「…………上等じゃねえか……!! かかってこいオラァ!」
ゴールドはイジュに応えるように、負けじと声を張り上げた。
「一度だけ、チャンスをください」
ブルーはクリスと二階席から連れ立って降りた後、そっと一階席の隅のほうに、二手に別れて身を隠した。クリスがブルーに告げた作戦は驚くべきものだった。彼女は、自分のポケモンを使わず、一対一でゼロを捕獲したいと言ったのだ。その一度が失敗したら、後はポケモンの助けを借りて何が何でもゼロを捕らえる。
「それは、どうして?」
慎重な口調で尋ねたブルーに対して、クリスは緊張した面持ちで微笑んだ。
「……分かってしまったんです。どんなときだって、誰かを救える望みがあるなら、そうせずにはいられないんだって」
ついにその機会がやってきたその瞬間、ブルーは思わず、嘘、と口の中で呟いていた。
壇上とその周囲は酷い有様になっていた。無数の瓦礫がごった返しにされて、びろうどの垂れ幕はところどころが引き裂かれたり焦げ付いたりしていた。ゴールドとイジュの最後の一体、ニョたろうとニョロは刺し違え、先に倒れたのはニョロのほうだったが、ニョたろうもそれから一分とたたない内に倒れ臥した――ゴールドが、レッドの手持ちに、僅差ではあったが、勝ったのである。
クリスが動いたのは、そのときだった。彼女は不意に立ち上がって、ゴールドとイジュの前に姿を現したかと思うと、おもむろに歩を進め始めた。その間、まるで時が凍ったかのように、ゴールドも、イジュも身動き一つしなかった。彼女は壇上に上がる階段の手前まで来ると、破壊しつくされた机や椅子の残骸を挟んで、まっすぐにイジュと対峙した。
「……捕獲します。あなたを救うために」
凛とした声が響く。更に驚いたことには、彼女が構えたのはマスターボールではなく、何の変哲もないモンスターボールだったのだ。
「……どういうつもりだい、クリス。僕はそんなことは望んでないんだ、分かるだろ」
「違うわ。これはわたしの意志」
「君は御節介だ」
非難するようにイジュは冷たくささやいた。
「……わたしは、あなたが何者であるかなんて、教えてあげられないし……あなたの日記を見ても、やっぱりあなたのことは分からなかった。でも、これだけは言えるわ、わたしはあなたを知っている。あなたのことが好きなの。だからまた、研究所で一緒に働きたい、ううん、そうでなくても、たまに会ってお話したり、お茶を飲んだりしたい。あなたのことがもっと知りたい」
クリスはそこで一旦言葉を切って、気を落ち着けるように深く呼吸をした。
「あなたが誰だとしてもいいわ、わたしはあなたを知っているんだもの。……今度はあなたの言葉で、教えてほしいの」
「……僕は、君のことなんて知らないよ……」
「教えてあげる」
「…………」
不意にこの場に似つかわしくなく、にっこりと微笑んだクリスタルに、イジュは斜下に視線をそらすようにして、子供のように拗ねているように見えた。
もし、あの中に入ったら?
イジュはそう考えた。クリスの握っているモンスターボールは、ショップで二百円で売っている、ごく一般的なものだ。草むらから飛び出すポケモンたちが、トレーナーによって捕まえられるときのものだということを、イジュは知っていた。あの中に入る、まるで普通のポケモンのように。そうすれば他のポケモン達と同じように、何をするでもなく生きていけるだろうか。その考えに、イジュの心は動かされた。彼は困ったように顔を上げた。
「クリス、僕は…………」
喘ぐようにイジュは言葉を紡ごうとしたが、それっきり言葉は出なかった。彼は助けを求めるようにゴールドのほうを見たが、ゴールドは黙って成り行きを見守っているばかりで、口を出すつもりは全くないらしかった。イジュはそれから、クリスの手の中にあるモンスターボールを見つめたまま、ぎゅっと唇を噛み締めたかと思うと、不意にその姿が崩れた。みるみるうちにレッドの姿は小さくなり、次の瞬間には、透明なメタモンがその場で大人しくクリスを見上げていた。クリスは瓦礫を避けて壇に沿ってまわり込むように、無言で彼に近付いて、ボールの開閉スイッチをそっと押し当てた。
ボールの中にゼロが吸い込まれた、かと思ったが、すぐにはボールは閉じなかった。ゼロの身体から水分を抜かれて小さくなった大量のポケモンの死骸が溢れ出したのである。クリスはぎょっとしたが、気丈にもボールは離さなかった。そして最後にレッドを吐き出して、ようやくボールが閉ざされようとした。
「レッドさん……っ!!?」
クリスの手の中で突然、モンスターボールが暴れだして、再び蓋が開いた。
稲妻のような閃光とともに、イジュがボールから飛び出したのだ。彼はボールから出るなりへんしんして、見慣れた、イジュの姿になった。
「どうして」
「まだ終わりじゃない」
呆然として呟いたクリスを他所に、イジュは早口にささやいた。不意にその表情が、先程の子供のようなあどけない表情から一転、別人のように苦々しく歪んだ。
「分からないな……! いったいどうして僕は一瞬だって君なんかに捕まる気になったんだろう。君が僕のことを知ってそれが何になる、僕が君のことを知ってそれが何になる? ……幻想だよ!! 僕はそんなことしてもらったってちっとも嬉しくないんだ、君は僕に善を施してやったつもりかもしれない、そうならそれでいいさ、僕はそれに唾をひっかけてやったんだから!!」
イジュが無造作に両腕を広げると、周囲の瓦礫がふわりと浮き上がった。
「さあ、ポケモンを出すんだ、クリス。僕は戦う、まだ終わりじゃない、まだ『ゼロ』が残ってる!!」
クリスタルは息を呑んだ。彼女は震えていた、いったい何がイジュの意向をこうも変えてしまったのか。それはどこかしら泣き出しそうな仕草にも見えたが、彼女は吃と唇を一文字に結ぶと、腰のモンスターボールに手を伸ばす。
「ブルー、無駄だよ、君も出ておいでよ、二人同時だって構やしない!」
イジュがヒステリックに叫ぶと、宙に浮かんだ瓦礫の一つがブルーの隠れている机に向かって空を切る。ブルーは咄嗟に身を翻しながら、飛び散った机の破片に腕で顔を庇った。机は完膚無きまでに破壊され、ブルーの姿はゴールド達の位置から見えるほどになり、彼女は観念したようにその場で立ち上がり、クリスタルと同じようにボールに手を伸ばした。彼女は酷く厳しい表情をしているように見えた。
ゴールドは、傷ついた自分の手持ちとイジュを見比べて、歯を食いしばった。一つだけ、手にしてもいないボール、その中でルリリが暴れているのが分かっていたが、彼はそれを無視した。
(……ここは引き下がるしかねぇ……か)
そのとき、不意に服の裾を引かれて反射的に足元を見やると、いつの間に傍まで来ていたのか、トゲたろうと一緒にこの講堂に入って来たマニューラが、ゴールドを従順そうな目で見上げていた。
「シル公のマニューラ」
思わずゴールドは小さく呟く。
「……一緒に戦ってくれるのか?」
マニューラは頷いた。その仕草は淡々としていたが、どこかしらゴールドを主人として認めるような、力強いところがあった。ゴールドはそれに勇気づけられたような気がした。同時に、一個だけ暴れているボールを宥めるように掌で包んだ。今はまだそのときじゃねえ。ゴールドは言い聞かせるように呟く。
再び、戦いの火蓋が切られた。
もし、私たちの科学が示す通りに、原初の生命が海から生まれたというのならば、いったい『私』はどこから来たというのだろう? 人もその他の生き物も命あるもの全てが、その生(うまれ)を等しくしているというのならば、どうして純粋にその生命を全うできるものたちのなか、私たちだけが自意識にしがみついているのだろう。もし真実、生命が素晴らしきものだと云うのならば、どうして私たちは躍起になって生命を賛美し、死を遠ざけるのだろう。それこそ幻想ではないのか、それこそ暗示ではないのか?
私たちは既に全てを失ったのだ……、呪うべき自意識のために。何故生きるのか、高尚な脳がその問いを発したその瞬間に、私たちは生きる資質を失ったのだ。いったい幾千幾億の自意識が、雑踏の中を彷徨っているのだ? 朝から夕まで賃金を稼いでは、夜にはすっかり飲んだくれて一切を失ってしまう日雇い労働者のように、目に見える快楽の中に生きる理由を見出す者あれば、地べたを這いずりまわるような暮らしの中で自分の不幸を際限のない甘い蜜としてひたすら舐めつづける者すらある。だが一貫して、私たちを根本的に突き動かしているのは生きる理由を求める衝動である、幼年の時分は確かに幸福であった、右も左も分からず自分が生きているという意識すら無く、それでいて生きていたのだ。誰に教えられずとも生き方というものを知っていた時代だったのだ。華美に施された装飾を全て取り払ってしまえば、生というものは素朴な、味気ないものである。だが同時に、社会的な功績や名声など、その本質の前では全くの無意味なものに成り下がるのだ。何故ならば全ての虚栄心はただ生への欲求が自意識によって歪められた形に落ち着いて出来上がるものだからである。
犇めき合う不幸せな自意識が、己の姿を直視しないことは救いである、というのも、単純に無意味だからだ。繰り返すが、私たちは既に全てを失ったのだ、自分が何も持っていないということ、今更それに気付いたところで、失ったものが戻る訳でもないのだから。だが、生に対する無限の空虚に気付いてしまったならば、そしてそれを見て見ぬ振りをするだけの狡猾さと鈍感さを持ち得なかったとするならば、それは間違いなしの不幸といえるだろう。
「おいレッド、歩けるか」
「な、なんとか」
爆音の響く講堂の中、グリーンはレッドを支え、這々の体でその隅にまで退却した。遅れて駆けつけて来たグリーンの手持ちは惨惨たる有様だったが、彼はその理由を語らなかった。レッドの手持ちも、イジュとゴールドとの戦いで戦闘不能状態に陥っている。
二人は壁に背をもたせかけながら、繰り広げられる戦いを見守った。作戦は分かっている、強制的にゼロのへんしんを解く手立てがない以上、戦いによって消耗させ、ゼロがへんしんできないまでの状態に追い込むほかない。戦況は最初こそイジュが優勢だったものの、今となってはレッドとグリーンが黙って見守っていられるほどに、ブルー達三人が押していた。
「……何があったんだ?」
レッドは戦いから目を離さないままに尋ねる。グリーンは暫く黙ったまま表情を変えずにいたが、やがて口を開いた。
「サカキと会った」
「サカキと?」
「ああ」
しかしその場でレッドが仔細について尋ねることは叶わなかった。
空を切るようなブルーの声が響き、それに応じるようにクリスの蹴ったモンスターボールが飛ぶ。イジュはもうほとんど体をなしていなかった。必死にイジュの形を留めようとしているが、消耗が激しいのだろう、右足は崩れかけ、左頬は形こそ保ってはいるものの、一部メッキが剥がれたように透明な色をしていた。崩れかけた右足を狙ったボールを、イジュは右足を庇うように咄嗟に腰を落として腕で払う。その先からゴールドが指示するマニューラの追撃が入るが、イジュは払った腕の勢いをそのままに振り返りざま、念力でその体躯を突き返す。しかし彼は既に疲弊しきっており、辛うじて攻撃を凌いではいるが、このまま長期戦ともなれば勝負は見えていた。
「……愛、」
ぽつり、レッドは自分でも知らずのうちに呟いていた。怪訝に思ったグリーンが、そっと横目で彼をうかがう。
「愛に敗れただけの女だって、彼女は言ったんだ……」
瞬間、イジュの瞳は烈しく輝いていた。彼自身も気付いていないうちに、黒に近い、暗い鳶色の虹彩の上には薄く涙の膜が張り、身を翻し、二つに纏めた長い黒髪を振り乱すたびに、光の反射でぴかぴかと光った。彼はほぼ絶え間なく何かを叫んでいた。それは自分自身を奮い立たせるためだったのかもしれないし、それとも、この瞬間でさえ彼は、少しでも自分の存在をまわりに知らしめたかったのかもしれない。或はもしかしたら、心の奥底ではすっかり全てを理解して、ただ自分の存在を憐れみ悲しむためだけにむせび泣いていたのかもしれなかった。
「俺たちは、誰一人だって救えないのかもしれない」
レッドは淡々として呟いた。不自然なほど温度の感じられないその声色はどこかしら淋しそうで、グリーンは一瞬、言葉に詰まった。あまりにも素朴で、当たり前で、それでいてそっけない、何でもないような声で告げられた言葉は、確かに一つの絶望の形。それが他でもないレッドの口から出たということに、驚きを隠せなかったのだ。
「…………なんだ今更」
「冷たいなあ」
茶化すようにレッドは笑い声で返したが、そこに力は無い。グリーンは顔を上げ、まっすぐに戦いの様相を見つめる。だが、と、彼は小さく反駁した。
「希望はある。何処にでも」
ゴールドはほとんど前後不覚の状態に陥っていた。体力の限界を超えたマニューラは、既に立ち上がれなくなっていた。ゴールドは、このときのことをあまりよく覚えていない。ただ、気付いたときには、イジュはもう最後の力を振り絞るようにして地面に膝をついており、油断をすればすぐさまへんしんが解けてしまいそうなありさまで、自分たち三人に囲まれていた。
「……へんしんを解きなさい……!」
クリスが高い声で叫んでいた。それは、命令とも懇願ともつかないような声音だった。肩で息をしながら、ゆらりと顔を上げたイジュは、ほとほと疲れ果てたような顔をしていたが、不意にクリスを見て破顔した。
「……変なの……。なんで君が泣くんだい?」
「いいから! へんしんを解きなさいイジュ、今すぐに! ……お願い……!!」
イジュはそれには応えず、笑っていた。しかし笑いが止むとやがて、不意にまるで憑き物が落ちたような穏やかな表情になって、溜息をついた。
「敵わないな、君達には全く……」
その仕草にクリスが震えた。イジュは降参を示し、へんしんを解いて捕まえられるということに同意したのだ。遠巻きに見ていたレッドは、隣のグリーンが身を乗り出したことに不安を覚えて彼の名を呼んだ。しかしグリーンは険しい表情でイジュを真っ直ぐに見据えている。
「ゴールド。……最後に」
イジュは微笑んで、震えながらも立ち上がると、ゴールドに向かって手を差し出した。ゴールドは、イジュを数秒見つめてからその手を握ろうとした、それと同時にブルーが弾かれたように動いた。と、一瞬遅れてグリーンが、在らん限りの怒声を上げた。
「違う!! ブルー!!!」
ゴールドが握手に応じようとしたその瞬間に、イジュの身体の一部が鋭い槍状になってゴールドを貫こうとした。それを庇おうとブルーは咄嗟にその場に出ていたメタモンにへんしんを命じたのだが、予想と違ってイジュの槍はゴールドのフードを貫いて彼の後方、講堂の入り口へ。
そこに居たのは——
「シルバー!!」
ブルーが悲鳴のように叫んだ。しかし、シルバーはまるで射止められたように動かなかった。間に合わないと知りつつグリーンとレッドが駆け出すが、その鋭い切っ先は正確にシルバーの心臓を狙っていた。誰もがその死を予感したその瞬間、ゴールドの腰のボールからルリリが飛び出しかと思うと、尻尾のバネでイジュの肩を飛び越えるようにしてイジュの真ん前に飛び出した。途端、その小さな身体とイジュが青い光に包まれた。
シルバーの僅か三十センチ手前で、切っ先は止まっていた。我に返ったゴールドがイジュを見やれば、二階席から発射された光線がルリリとイジュを貫いた。
イジュの瞳はまっすぐに二階席で立っている人物を見つめていた。続けざまに照射される光線により、彼は自分の身体が溶け始めているということを理解していた。不意に二階席の人物が一歩踏み出したとき、光の加減で、イジュはその人物が誰であるかということを理解した。
( お と う さ ん )
イジュは感極まったように、唇を戦慄かせてその名を呼ぼうとしたが、既に声帯は壊れていた。彼女はほとんど泣き出しそうな、だが歓喜に溢れた表情でわずかに頭を振り、震えながら伸ばそうとした手は、青い光に飲み込まれ、やがて空を切って崩れ落ちた。
誰もが何をする間もないままに、光線は止んだ。イジュは蝋人形のように崩れ、ルリリも同じく原型を留めてはいなかった。ゴールドは不意に表情を歪め、耐えきれずに目を逸らした。
「……ねえ、これ……」
ふいに何かに気付いたブルーがささやいた。
溶けたイジュが、蒸発するように少しずつ小さくなっていくにつれて、その中からなにか白いものがあらわれた。
「……ゴールド、見て!」
続いてクリスが小さく叫んだことにゴールドは振り返る。イジュがいたその場所には、一個のポケモンのタマゴが残されていた。
「ああ。ここはね、創業五十年なんですけど、そのうち十三年はお休みしてたんですよ」
WADATSUMIのマスターは、照れくさそうに微笑んでそう教えてくれた。
この店を始めたのは彼の祖父で、創業したての頃にまだ小さな子供だったマスターは、夏休みに店に遊びに来ては、祖父のホットケーキを食べるのを楽しみにしていたという。しかし、祖父の急死により店は畳まれたが、土地を手放そうとする父親に彼は反対し、大きくなったらこの店を継ぐんだからと言って、土地を売らないように説き伏せた。幸いにも彼の父親は大らかな人柄だったので、子供のいうことと話半分に聞いていたらしく、再開業の際には、まさか本当に継ぐとは思っていなかった、と驚き半分に笑っていたらしい。
「へえ、そうだったんスか」
ゴールドはカウンター席で、表面はかりっとして、中はふわりとしたホットケーキを咀嚼しながら相槌を打った。
「お待たせしました」
言って、ホットケーキの皿の隣に、白いマグカップが提供される。カプチーノだ。ホットケーキを切り分けながら横目でうかがうと、その表面にはルリリが描かれていた。
「マスター、これ」
思わずゴールドが声を上げると、マスターは人なつこそうに笑った。
「今日もポケモンのタマゴですか?」
その言葉にゴールドは再び固まり、やがて破顔する。彼のナップザックから、まるまるとした白いタマゴが顔を出していたのだ。
「ポケモンのタマゴっス」
「頼まれたんですか?」
「いや、今日は自前で」
「そうですか」
「すいませんねえ、また騒がすことになるかもしれないっスけど」
「とんでもない、歓迎しますよ」
「……歓迎、してくれるんスか?」
「もちろん」
マスターはにこやかに答えたきり、仕事に戻った。
古びたカントリー調の四角い店内の片側の壁はテラス席に繫がる扉があり、一面が窓だった。以前訪れたときはその窓から穏やかな日差しがいっぱいに注がれていたが、今は薄いレモン色のサンシェードが半端に下ろされている。店内の話し声から離れて耳を澄ませば控えめな音量でかかっている、英語のドライブソングが聞こえてきた。アコースティック・ギターとドラムスの爽やかな伴奏に、やわらかな女性ヴォーカルが乗せられている。
エスプレッソを窓側席の客に運んだ後、帰りがけに空のカップを手に戻って来たマスターは、洗い場にカップを置くと、アイスクリームの用意をしはじめた。不意にゴールドは浮かれた気分になって、やや身を乗り出して再び話し出した。
「……実は、名前はもう決まってるんですよ」
「……どんなお名前をお考えなんですか?」
業務用のパックからディッシャーで盛りつけたアイスに、ホイップクリームを飾り付けながら、マスターは返した。ゴールドはその手つきを眺めながら、少し照れくさそうに目を伏せて、やがてそれを誤摩化すように笑った。
「この店の名前をつけようと思ってるんです」
流石に予想外だったらしいマスターは一瞬絞り袋を持つ手を止めたが、すぐに低く笑いながら、
「元気な子が生まれますよ、きっと」
とだけコメントして、カフェ・アフォガートの準備をはじめた。
ゴールドはその答に満足してタマゴを撫でる。と、不意にタマゴが揺れ、中から殻を叩くような音がしはじめた。
「うお!?」
思わず声を上げたゴールドに、マスターが再び顔を上げる。
「まさか、……生まれそうなんですか?」
店内にいる客も、ゴールドの声に何事かとカウンター席を窺い始め、マスターの声を聞き取った近辺の客から、ポケモンが生まれそうだということが、次々に伝搬していく。
「生まれるんだって?」
「ポケモンのタマゴ、生まれそうなんだって」
「なんのポケモン?」
「シーッ、しずかにしなさい」
喧噪は収まらなかったが、しかし誰もが息を潜めるようにして話しだした。近くの客はゴールドのほうに顔を向け、マスターも息を呑むようにしてゴールドの手元を見つめている。その瞬間にゴールドはようやく、何かから赦されたような気になった。
(大丈夫だ)
ゴールドは内心で呟いて、タマゴにまわした腕に力を込めた。
(みんな、おめえのことを待ってるからよ…………『イジュ』)
不意に泣きそうになって開いた腕でゴールドはぐっと両目を拭うと、あとは瞬きすら惜しんで、確かに近付いてくる生命の足音に耳を澄ませた。
Welcome home, IJU.(2014/04/29)