ジュ8
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□ ゴールドとイジュの第八章。
□ オリジナルキャラクターの「イジュ」中心の話となります。ご注意ください。
□ ポケモンのわざ「よこどり」の使い方がゲーム本編と異なっています。
43
 地下、研究所まわりを張り巡らされた、使われなくなって久しい配管の内側は、錆び付いてところどころが落盤事故の際に破損していた。手入れもされず、地下水に浸されっぱなしで数年越しに捨て置かれたにも関わらず、その配管の中には未練がましくも科学薬品の臭いが染み込んでおり、まともな嗅覚を持つものであれば誰しもがひどく顔をしかめ、すこしでも優れているものなどはもんどりうって倒れるかもしれない、それほどの臭気が籠っていた。いまこの配管の中を這って移動しているゼロに嗅覚はない、先程までのように人間の姿になれば備わる感覚ではあるが、ともかくいまの、生み出されたままの姿をしているゼロには、下水管を満たす臭気などまったく問題にもならない問題だった、幸か不幸か。
 なぜならばゼロは嗅覚はなくても、情という致命的な欠陥を持っていたからである。ゼロは非常に論理的なものの考え方をする思考回路をうまれついて与えられていた。ほんとうならそれがゼロの全てになるはずだったと、イジュでさえそう考えていた。けれども当のイジュは無意識のうちに、ゼロをそのようには理解せず、まるでゼロを自分のただひとつの希望のように扱った、わたしのこども、ボーイ、わたしのすべて。イジュのなかでは、ゼロを論理の集合体として見なす科学者としての自分と、ゼロを唯一の光明、希望、しいてはこどもとして見なした母親としての自分が、奇妙なことに、衝突することなく共存していたのである。だがゼロは違った、彼はこれまで、ただ与えられた基盤の上、論理の中で生きていたので、突如として湧き出して来た情というものが許せなかったのである。数だけで構成された箱の内側へ情を引き入れることはできない、いいかえれば、ゼロは情を解する思想や言語を持っていなかった。情は嵐のようなもので、ゼロをひどく困惑させ、消耗させたのは想像に難くない。なによりも恐ろしかったのは、それまでゼロのすべてを支配していた、すばらしく効率的な論理的思考は、「生きるのに意味はないのだから、死ぬほかありません」と頑なに主張していたのに、ある日とつぜん現れた、ぽっと出のちっぽけな、イジュの最期の願いが込められた言葉が、覆せはせずとも抵抗し、論理的思考の出した結論を抑制し、何の希望もないままにゼロを生へと向かわせ、各地を放浪させ、ゴールドと出会わせ……、いま生まれついた研究所の下水管の中まで導き続けていることである。いまやイジュは、生に傾倒し、生のために東奔西走しているのだ、それは殆ど出口のない洞窟の中にいるのに、外があることを知っていて、外はどうなっているのかしらと想像せずにはいられないくせに、真っ暗闇の中にいるために、自分の想像した外光に目をやられてしまう、そのくらいに痛々しい、惨めなことだった。ゼロ自身もそれをうっすらと自覚していたが、最早彼は獣だった、血眼になって、己を構築する論理と理不尽な生への欲求が共存するやりかたを探している。いまや取り込んだイジュの意識はほとんど混沌と混じり合って、自身でイジュの意識で動いているのか、ゼロの意識で動いているのか判別できないほどだったが、少なくともゼロは自分自身の論理的思考を納得させるための、生きるための理屈を探していただけだったのだ。
 いまやその衝動だけがゼロを突き動かして、導いている、ゼロはある場所へ向かっていた、すなわちシルバーのもとへ。彼は根本的にはゼロと同じ問題を抱えて、なお都合の良いことに、彼はひじょうに揺すぶり易かった。自分自身が何も持っていないのかもしれないという恐れはつねに彼の心底にこびりついていた、かもしれない、と思い出したらそれはほとんど肯定を自分に差し向けているのと同じことで、シルバーもその例に洩れなかっただけのことだ。もし世界でひとりでも、同じ穴の狢でいてくれさえするならば、世界など滅ぼさなくてもいいかもしれない、とゼロはちらと思った。そうすれば、おたがいにおたがいの生きる理由となり、存在意義を証明し合うのである。目的地に近付くにつれて、ゼロの聴覚はかすかな会話をとらえた。
「大丈夫なの? まだふらふらしているんじゃないの」
「……大丈夫。少し、眠気が残っているだけだよ……」
 ゼロが朽ちかけた部屋の隅のひび割れからこっそりとイジュの研究室へ入り込んだ、ほとんどその瞬間に、シルバーの銀色のまなざしがゼロを捉えたが、ゼロはさして驚きもしなかった。ゼロが彼に会わなければならないのと同じように、シルバーもまた、ゼロを待っていたのだ。ゼロは音も無くイジュの姿へと変身した。一瞬にしてその場にあらわれた人の気配に、背を向けていたブルーがすばやく振り返った。けれども、イジュは彼女の存在など無きにも等しいように二歩、歩み寄って、まっすぐにシルバーを見据えたまま、意外なほどおとなしい、すなおな調子で切り出した。
「さあ、君の答えは出たのかい。シルバー」
 シルバーはじっとイジュの目を見つめていたが、まもなくして口を開こうとした、それを遮るようにイジュは再び口を開いた。
「おっと、待った……ひとつ言い忘れていたよ。もしも君までもが僕を拒むようなら、僕はだれよりもまっさきに……ほかでもないシルバー、君を、殺さなけりゃならない……そんなに睨まないでほしいな、これは本当のことだけど、脅しのつもりなんかで言ったんじゃないんだよ、無邪気な悪戯だ。君がことによっては、自分の命さえも投げうってでも、信念を貫き通さずはいられない人物だってことは僕だってよくよく知っている。だからすっかり安心して、君が罪もない御巫山戯に屈したりせずに本当のことを言うものだと安心して、つい言ってしまったに過ぎないんだ…………」
 まるで熱に浮かされたようにまくしたてたかと思うと、その声はだんだんと尻窄みになって、やがてふつりと途切れた。それからは沈黙が続き、イジュはふいに場違いな、こどもらしい、おどおどとした表情になって、窺うようにシルバーを目線だけで見上げた。そのしぐさで、ようやくシルバーは口を開こうとする素振りを見せたかと思うと、ほとんどまわりを驚かせるほど突然に、しずかな、けれども強い口調で呟いた。
「よこどり」
「え」
 呆気にとられた声を上げたのはブルーだった。直後、彼女の身体は光に包まれる。彼女はまっさおになって、悲痛な表情でシルバーを見つめて、力無い声で、止めて、とささやいた。あまりにも驚いたために、彼女はそれっきり声すら出すことができずに、彼女はシルバーへ向かって手を伸ばそうとした、その仕草は弱々しく、指の先は絶えず震えていて、絶望の様相を醸し出していた。抵抗も虚しく、やがて彼女はデスクの影に忍んでいたケーシィを残して、どこかへと「テレポート」させられた。シルバーは落ちたボールを拾い上げてケーシィを戻すと、ポケットに突っ込んだ。
 ことの一部始終を黙って眺めていたイジュは、シルバーがマニューラとともに再び顔を上げたなり、ほんの一瞬ではあったが、優しい、安らいだ微笑を浮かべた。そう、二人の間にはいまや、何者も入り込むことが禁じられたのである。
「…………見ての通りだ」
 やがてシルバーが不意にささやいた。
「俺は、誰にも俺の邪魔だてをさせはしない。罪悪も苦悩も空虚も、それらいっさいに関しての権利は俺だけにある。俺は誰にも理解されないし、誰かを理解することもない。哀れまれる理由はないし、哀れむ理由もない。俺の空虚をどうするかは俺が決める……、お前と分かち合うものはひとかけらだって存在しない」
 イジュはしばらく何も言わず、物静かにシルバーの言葉に耳を傾けて何事かを考え込んでいたようだったが、そう、とゆっくりと首肯いた。シルバーが、この対峙に際してブルーを遠ざけた瞬間に、イジュはなんとなく、その答えを予想していたのだった。
「君は……否といったんだね」
「そうだ」
 とっくりと、語尾をひきのばしがちに呟いたイジュに、シルバーははっきりと肯定を返した。
「……なぜ、僕が『まっさきに』君を殺さなければならないか、君には分かるかい。一番先に君を片付けてしまうために、いままで誰一人として手にかけることのないように、細心の注意すら払っていたんだよ……あるときはすっかり逆上して、危うく殺してしまいそうになった場面もあったけれど……それでも何とか穏便に、ここまでやってきたのさ」
 含み笑いを洩らして、イジュは意味ありげに声を潜めた。まるでそれが一番肝心な点なのだと言いたげに、もったいをつけているようだった。不意にイジュは小刻みに低く笑い出したが、それは卑しんでいるというよりは神経的でヒステリックな感じのする笑い方だった。
「もう何もかもに飽き飽きしたよ! だってそうだろう、僕は君を、それこそ君が生まれる前から君の、お父さんの子供という堅固とした立ち位置を羨んでいたのに、当の本人が自分をまったくの空虚だ、無意味なからっぽだなんて、そんなふうに思っていたんだからねえ……!」
「お父さんの子供?」
 シルバーは剣呑な様子で聞き返した。イジュは一瞬、驚いたように笑いを止めたが、やがて合点がゆくと、目を細めて口端を上げた。
「…………そうか、まだ、話していなかったんだっけ。イジュが愛したたった一人の人間、そして僕を認めるべきたった一人のお父さん、それは君の父親でもあるサカキその人なんだよ。……どうだい、これで僕がなぜまっさきに君を殺さなければならないか、その理由も分かろうというものだろう? 君は僕にとって間違いの象徴的な存在でありつづけているんだ、イジュはお父さんを愛していたさ、愛していたのに、イジュはお父さんと家庭を築くことができなかったんだ、ということは、イジュの愛は間違っていたと、そういうことになるだろう。ところがそんなことは僕が許さない、イジュの愛は間違いにはしないさ、それを正しいものだと証明できない限り、子たる僕の存在も間違いつづけているということになるんだ…………ただね、しあわせなことには、過去は変えられるのさ、なぜなら僕たちは現在に存在するのみで、過去には存在しないから、つまり現在の僕たちが自認する過去を変えてしまえば、つまり君をここで殺してしまえば、君が死んだその瞬間に、過去に君が存在していたかどうかは誰にも証明されなくなるんだ! 君がいなくなれば、イジュの愛を否定するものはいなくなる…………だからこそ見定めたかったんだ、君か……あるいは全世界の破滅か? 僕は選ばなければいけなかったんだからね……そして僕は後者を選んだ……つまり何が言いたいかっていうと、いまとなっては、君を殺すことが、僕が第一歩を踏み出すための象徴的な儀式なんだ」
「……殺せやしないさ」
 シルバーはほとんど独り言のように囁き、この場にそぐわぬもの柔らかな微笑を浮かべた。だが、それはイジュの述べている観点とはまた違った観点からの呟きだった。というのも、シルバーは自分自身が未来永劫、肉体の死すらも突き抜けて、永久に在り続けるというような感覚、不思議な高揚感に浸されていたからだ。しかし図らずして自らが発したその言葉は、シルバーの生存本能を煽り、彼はとつぜんに我に返った。それと同時にイジュもまた、ふと醒めたような顔つきになって、つまらなそうにシルバーを眺めた。
「……ところで君は、自分のしでかしたことを分かっているのかい? お姉さんと一緒なら、なんとか逃げ果せる可能性も――ましてやお姉さんは君を逃がそうとしていたんだから――あったというのに、君はなんだってわざわざ一人になったの? 君のポケモンは僕が持っているのだし……まさか僕が返すなんてことをあてにしていたわけじゃないよね……僕は君を殺せればなんだっていいんだから」
「……言っただろう。この問題に関しては、誰にも邪魔はさせないと。勿論お前にもだ」
「ふうん? ずいぶん自信があるんだね……?」
「マニューラ!」
 言うが早いか、マニューラはイジュに飛びかかっていった、だが、イジュはたやすくそれを払いのける。
「……一度僕から鍵を奪えたから、見込みありとでも思ったのかな? 残念……、このくらいのこと、何でもないよ」
 薄ら笑いを浮かべながら、イジュはじりじりとシルバーを壁際まで追いつめた。シルバーは最期の瞬間まで、機会を逃すものかとイジュを睨め付けていた。死に直面した、こうした場合に彼の精神力は驚嘆に値するところを見せつけるのである。イジュはほとんど恍惚とした思いでそれを眺めていた、その眼差しが、父親に瓜二つであることが、目の前の少年が父親と血を分けた子供であるということを、改めて確信させるものに至るからだ。
「君を……お父さんのこどもをこうして殺す日を、お父さんの家庭の全てを消してしまう日を、僕はずっと待ちこがれていたんだ…………君が僕に何もしていないとしても、やはり君は罪だよ……その生まれは呪わしいものだ。…………さようなら、シルバー」
 イジュが白衣のポケットに手を潜り込ませた瞬間だった、そのときに不意にシルバーから光が発されたように彼は思ったが、実際には真っ白な身体をしたポケモン、トゲキッスがシルバーの背後から飛び出して来たのだった。
「しんそく!」
 トゲキッスに向かって叫んだシルバーが、マニューラに目で合図するより早く、彼の賢い知己の友は意図を察して、トゲキッスの体当たりに怯んだイジュの白衣のポケットを引き裂いて「どろぼう」する。飛び散ったボールをマニューラと手分けをして受け止めると、シルバーは素早く壁際から脱出し、距離をとって、ぐにゃりと歪んだイジュを油断なく見張っていると、イジュは彼の目の前でレッドに変身しようとした。シルバーはこの問題に決着をつけてしまうつもりだったために、逃げだそうとはしなかった。互いに再びにらみ合ったそのとき、不意に、シルバーのポケギアが鳴りだした。
44
 クリスは捕獲に関しては英才教育を施されてきた。いかにポケモンを弱らせるか、逃がさないか、またそれに留まらず、ボールの扱いや種類などを徹底的に叩き込まれ、技術・知識ともに何の不足もなく、しかも彼女は今も驕らず日々進歩する捕獲技術の情報収集に余念がない。それでも彼女の根本にあるものは、そうした技術や知識ではなかった。ポケモン捕獲は素晴らしく人の役に立つことのできる仕事であるというのには、彼女の中では既に疑問を差し挟む余地もない事実だけれども、クリスタルは捕獲した事実そのものよりも、捕獲の過程により価値を見出さずにはいられないのである。
 人とポケモンを結ぶものは決してモンスターボールではない、このことは、クリスタルがそれこそほんの幼い頃から、約束のように言い聞かされつづけたことである。そのため、彼女がそれを能動的に理解しているというよりは、はじめから超自然的な掟としてその約束事が存在していて、その上で彼女がかたちづくられているといったほうが近い。クリスタルにとってモンスターボールでの捕獲は、ほんの形式的なもの、捕獲するトレーナーと捕獲されるポケモンが既に認め合っているということの裏付けに過ぎない。
 ブルーと別れた後、グリーン、ゴールド、クリスタルは二手に別れた。というのも、クリスタルにはもう一度、一人で確認しなければならないことがあったからだ。グリーンを通してマニューラから渡されたノート、あれがイジュを、ひいてはゼロを捕獲するための糸口になると彼女は確信していた。クリスタルは一瞬、そのノートをゴールドに見せようかとも思ったが(イジュがゴールドに懐いていたのは彼女も知っていたからだ)すぐに思い直して止めた。漠然と、だが強く、イジュを腕の中に招き入れるのはゴールドの役ではなく自分の役目なのだと彼女は感じていたのである。そもそもゴールドに誰かを愛せよだなんて、あんまりにも無茶な欲求ではないか。
 確認しなければならないこと、とはいっても、それはクリスタルにとってその使命感と同じように漠然としたものに過ぎなかった。ノートには緻密にゼロの思考が記されていたが、それを読んだところで到底理解に及ばないことを彼女は分かっていた。彼女自身の中で、まだ捕獲できるという確信に至っていないために、その確信を一人で探さなければならないのだと、そう思っていたのである。
(大事なのは認めること、でももっと大事なのは愛することだわ)
 彼女はまず空き部屋に入り込んで、自分に言い聞かせながらノートを最後まで読み終えた。中身を理解するのではなくて、そのノートによって、イジュ、そしてゼロをどれだけ愛するかが全てだった。ノートは半分も書かれておらず、さして時間をかけずに読み終えた。ノートを仕舞ったあと、ふとある場所に行ってみようかという考えが浮かんだ。
 クリスタルが向かったのは、団員寮だった。彼女はポケギアに保存してある見取り図を確認して、非常階段を下りて寮に向かい、間もなくしてノートに書いてあったイジュの部屋番号を探し当て、部屋の中に入った。八畳ほどの広さに、パイプベッドと粗末な椅子と机があるほか家具などはなかったが、隅には専門書の山が埃をかぶって直に床に積み上げられ、机の上にはノートの他に化学式や図がざっくらばんに書かれたB4サイズの大判の紙が幾枚も重ねられており、小さな灰皿に溢れるほどの吸い殻が崩れ掛かった山を作っているあたり、ノートのある通りのイジュの人となりを顕著に表しているようにみえた。ずいぶんとだらしのない、と思わず状況も忘れてクリスタルも眉根を下げたほどである。
 デスクは底の浅い広い引き出しが一つだけついただけの簡素なもので、それを開けると細かい埃がもうと舞い、クリスは思わず身を引きながら埃を払う。引き出しには仕切りの一つもなく、ボールペンや消しゴムなどの筆記用具が散らばっていたが、引き出しの隅にいくつか転がっている、紫色のボールを目にして、クリスは息を呑んだ。その中から恐る恐るボールを一つ手に取ってみると、その中には、すっかり衰弱しきったメタモンが見えた。そのときポケギアが鳴りだしたかと思うと、ほぼ同時に激しい地響きがクリスを襲った。
「えっ!?」
 バランスを崩しそうになるのを咄嗟にその場に踏みとどまり、クリスは反射的に天井を見上げ、上の階で激しい衝撃が床へ加えられていることを悟った。しかしほとんど考える間もないままに、ところどころくすんだ白い天井に斜に皹が走る。彼女はほとんど反射的に、引き出しの中のボールをありったけつかみ取りはじめた。ボールは全部で六つあった。鞄に入れる暇もなく両腕に抱えるなり走り出した。団員寮の廊下を非常階段へ向かって走り抜けながら天井を見ると、階段に近付けば近付くほど罅割れは深くなっている。
(もし階段に辿り着くより先に崩れだしたら……閉じ込められる!)
 クリスが走る速度を上げようとするその間にも、地響きは絶え間なく聞こえてくる。やがて階段が視界に入って来たそのときに、クリスは横目で自分の鞄のジッパーが少し開いており、ブルーに託された光線銃が飛び出しているのに気付いて、愕然とした。このまま走り続ければ落としてしまうことは明白だったが、けれども六個のモンスターボールを両腕に抱えた状況では押し込み直すこともできない。或はモンスターボールをいくつか諦めれば、という考えがクリスの思考に過るが、彼女はすぐにその考えを打ち消した。クリスは光線銃のことを考えないようにして走り続け、間もなく後方で僅かに音がした。彼女は咄嗟に視界の端に鞄をとらえると、半端に開いたジッパーの隙間にはもはや何も引っかかってはいない。同時に背後から瓦礫が崩れて行く音が追いかけてくる。もう光線銃はないのだと確認したとき彼女は何故だか、ひどく気が晴れたような気がして、いまや真っ直ぐに非常階段を見据えて駆け出した。
「きゃ、っ!」
 階段を駆け上る途中、最後に落ちて来た瓦礫の衝撃でクリスはバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。その拍子に抱えていたモンスターボールが踊り場へ転がる。だが幸いに崩落は既に止んでいて、身を起こし様にクリスが振り返ると、団員寮の廊下は鉄筋と瓦礫でほとんど埋め尽くされていた。
 そして彼女は我に返ったようになって、這うように踊り場へ上がると、モンスターボールの数を数え始めた。六つ洩れなく拾い集めたのを確認して、ほっと息をついたのもつかの間、彼女はふとボールの中身を覗き込んで息が止まりそうになった。
「…………嘘……!」
 高く囁いて、クリスは開閉スイッチを押した。メタモンは出てきたには出て来たけれども、もうぴくりとも動かない。六つのうち五つは同じありさまで、残る一つは空のボールに過ぎなかった。一匹一匹、彼女は丁寧に確かめたけれども、生きているものは既に鳴く、屍が積み重なっているに過ぎなかった。
「そんな…………確かに、生きていたと思ったのに!」
 クリスが見たのが目の錯覚だったのか、それともここまで来る僅かな間に息絶えてしまったのか。クリスタルは呆然としてその場に座り込んでしまった。彼女は暫くメタモン達を見下ろしていたが、やがて後ろを振り返り、瓦礫に埋もれた光景を見つめ、不意に微笑んだ。そしてメタモン達を踊り場に丁寧に寝かせると、さきほど受信したポケギアのメールを確認して立ち上がった。
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 ゴールドにとってグリーンは、あまり馴染みの無い方の先輩だった。個人的に嫌いだとか恨みがあるわけでもないが、単に相性が悪いのだと、ゴールドは思っている。グリーンは(もしかしたらクリスタル以上に)真面目を絵に書いたような人柄で、ゴールドからすると何をするにしてもいささか窮屈に感じられる人物だった。そしておそらく相手方も少なからずそう思っているものだと、彼は認識していたのである。
「らしくない戦い方をしたようだな」
 だからこそ、ポケモンの傷を手当をしているところで、グリーンが突然そう呟いたことに、ゴールドは驚きを隠せなかったのである。
「……なんで、」
「ギャンブルじみた戦い方をするお前にしては大きなダメージが無い。時間を稼ごうとしたにしてもずいぶん下手な手だ。迷っていたな」
 冷静に指摘され、ゴールドは黙り込んだ。言い当てられたことが気まずくもあったが、それでも驚きのほうが勝っていた。まさかこのゴールドとは全く正反対の先輩が、ポケモンバトルのことであっても、ゴールドをのことを気にかけているとは彼自身思ってもみないことだったからだ。これはゴールド自身の卑屈な部分も手伝って、自分など歯牙にもかけられていない、そういうものだと決め込んでしまっていた。彼とずいぶん気が合って、才能のあるシルバーならともかく、と、まあ実際のところそこまで思い悩んだり自分を卑下していたわけでもないが、心の底ではそういった認識をしていたのである。グリーンは返事がないのを気にするようすもなく、黙々とゴールドが手を動かすのを眺めていた。
 ゴールドには、局面局面で自分を抑えられなくなるということがある。普段はそれほど不器用でもなく、むしろ何かと器用な部類といって違いないのに、何かの切っ掛けである線を超えて熱くなってしまうともう駄目で、理性も、理性を引き止めようとする努力も、すっかりどこかへ消え去ってしまうのだ。それはライバルでもあるシルバーにも言えることだったが、彼はその場の熱や勢いに呑まれていたとしても、またそうでなかったとしても同じ結論を下すために、無縁な悩みでもある。彼は愚直で、自分の成し遂げたいことのためであれば、何を犠牲にしようと構わない、ことによっては命の犠牲すら厭わない(彼自身はこのことでとても思い悩むのだけれども、その苦しみすらも義務として受け入れ、耐え忍んでしまう)ようなところがあるためである。同じ図鑑所有者であるクリスタルが口喧しく心配するのも、二人のそういったところを危ぶんでのことなのだろう。ともかくゴールドはそれを恐れていた、怖がる理性すら失ってしまって、誰かを犠牲にすることにはなりはしないか、そしてもしそうなったときに、果たして自分は耐えられるだろうかということを。ことにイジュに対しては、彼は理由もなくおそろしいほどの憤怒に襲われるのだった。
「……撹乱するだけとはいえ、相手はレッドだ。半端な覚悟では圧倒されて終わる。共に修行をしたことがあるなら、分かっているな?」
 グリーンが静かに呟いたその一言に、ゴールドの頭にはある一つの想念が過った。勝てない。どうやったってあの先輩に勝てる日は来ないのだ、という直感が閃いて、気付けばゴールドはほとんど呆然としてグリーンを見返していた。
 グリーンにはゴールドの感情が分かった、ゴールドはどうも自分のことを凡庸だと思っているようだが、利口な一面もあった、レッドやシルバーよりも遥かに、そしておそらくはグリーンよりも。彼は極めて要領よく、ほとんど直感のように自分の限界を見極めて相手との差を計ることができた。それは突っ走っている間は武器になる、しかしひとたび迷えば足を引っ張るものにしかなりえない。熱中すべき信念を持たなければ、後に残るのは敵わないという絶望ばかりだからだ。利口であればあるほど、一度居竦んだ足を再び前へ繰り出すのは並大抵な努力ではない。
「……センパイ、……」
 蚊の鳴くような声でゴールドは呟いたが、それきり、途方に暮れたように彼は口を噤んだ。あるいは、自分の声が助けを求めているようで余りにも情けなかったので、それを恥ずかしく思ってのことかもしれなかった。
「ゴールド。お前はイジュをどうしたいんだ」
「……俺は……。……」
 途中まで言いかけてやはり、恥じ入ったようにゴールドは言い淀んでしまう。眉根を寄せた表情には、にがにがしい苦悩がありありとあらわれていた。
「……分からねえ、ただ……ただ、俺はあいつが……許せねえんスよ…………多分……。……イジュが、いや……『ゼロ』が存在してるってことが、許せねえんだ……」
「……」
「……先輩! 誤解しないでくださいよ。あいつに罪はねえ、だからこそ許せねえんだ。ただあいつは苦しんでいるだけなんですよ。問題は、あいつが生きることに打ち拉がれているってことなんだ。こんなことは許されねえ。俺は、間違った命なんて無いと信じてた、今だってそう信じたいさ。けど実際、生きるってことは理屈じゃねえ。理解するもんじゃねえんだ。けど、あいつにどうやってそれを証明する? 論理でないとあいつには分からせることができないとしたら、それこそ悲劇じゃねえか、だってそんなことになったら、あいつは間違った命だってことになっちまうんだからな……!」
 ほとんど悲鳴のようにゴールドは吐き捨てたかとおもうと、打って変わって、呪わしいような表情で鬱屈として呟いた。
「……ただ許せないだけなんだ……間違った命があるってことを、俺は断固として否定したいだけなんスよ。そう思った瞬間……怖くなった……衝動に任せて、俺はイジュを殺そうとするんじゃないかって……そんなことしたら、破滅ですよ……俺は自分で、イジュを命として認めないと宣言したも同じになっちまうんですから」
 そして不意にゴールドはへらりと薄く笑った。次の瞬間、その頬は殴り飛ばされ、身体は横様に床に倒れた。
 けれどもゴールドもそのまま大人しくはしていなかった、彼はすばやくグリーンを屹度して睨み返した。その目は先程までの腑抜けた口調と裏腹に憤怒と苦悩に燃え、どこかしら泣き出しそうなほどの激情を孕んでいた。
「……あんたは……あんたは俺にどうしろって言うんだ!!」
「迷いを捨て、怒りの芯を見極めろ。そして研ぎ澄ませ。おのずと答えは見えてくる。雑念を捨てろ。おまえの身体はおまえの心に向かって真っ直ぐに進んで行く、そこに間違いは存在しない。そうなれば、身体が心を裏切って破滅させることは無い、それに」
 いっぽうでグリーンはあくまで横柄に命令した。それほどまでに威圧的な調子を含んだ声色だった。反抗的に燃え立つ瞳を真っ直ぐに見据えてグリーンはあくまで淡々と呟いていたが、いったん言葉を切ったかと思うと、不意に熱っぽい口調になって続けた。
「そんなことは、おまえが許しても俺が許さない」
 その瞬間のグリーンの両目はかつて見たことがないほど鋭利な光をぎらつかせており、ゴールドは思わず怯んで言葉を失った。グリーンの言葉は特にゴールドのような奔放な人格の持ち主にとっては束縛だった、が、それは愛情あってこその束縛であるということ、そして今まさにそれを自分が必要としているということを、ゴールドはほとんど直感的に悟った。その考えに辿り着いたとたん、ついさきほど殴られたばかりにも関わらず、麻痺していたかのようだった頬がずきずきと痛み始めた。しかしそれはどこか心地いい痛みだった。そのとき不意に部屋の中が光ったかと思うと、短く悲鳴を上げて、宙からブルーが落下して尻餅をついた。
「……先輩!?」
 ぎょっとしたゴールドが叫んで駆け寄ろうとするが、ブルーはその助けも待たずに若干ふらつきながら立ち上がると、少々茫然自失の体で辺りを不安そうに見回した。
「シルバーはどうした?」
「……、……シルバー! そうよ……大変なの、あの子、ポケモンも持っていないのに!」
 続いてグリーンがやや早口に問うた言葉に、ブルーはようやく自分を取り戻したように肩を震わせ、顔を真っ青にしたかと思うと身を乗り出さんばかりして叫んだ。息を継ぐ間もなく彼女が矢継ぎ早に語りだしたことの成り行きを、グリーンはやや苦いような表情で聞いていた。彼も後輩の無鉄砲さには危機感を抱いている節があった。いつもの悪い癖に取り憑かれていなければ勝算あっての行動と見ることもできるが、ロケット団関係施設において、彼に冷静さを要求するのはまだハードルが高いということも承知していた。だがもしもシルバーが冷静さを欠いていない、もしくは取り戻してくれたのならば、これは逆に好機ともとれる。
「……広間だ」
 グリーンはポケギアを取り出してメールを書きながら呟いた。イジュの撹乱と捕獲、そしてその援護を同時に行うには狭い部屋よりは開けた空間のほうが都合がいい。イジュがシルバーの殺害に臨んでいるというのならば、シルバーはイジュを誘導するための餌となる。
「ゴールド、ブルー、今シルバーに転送したのと同じ地図を送った。ロビーだ、そこで物陰に隠れて待機していろ」
「シルバーが、言うことききますかね」
 ふと自分を振り切ってエレベーターへ滑り込んでいった後ろ姿を思い出して、ゴールドは陰鬱な気持ちでつぶやいた。
「あいつ次第だ」
 短く答え、グリーンは怪我を押して立ち上がろうとする。
「グリーン?」
「シルバーの所へは俺が行く」
 ブルーは思い切り眉を寄せながらも、何も言わずに従った。そしてグリーンから転送された地図に記されたロビーへの方角を確認している。ゴールドは最後にキズぐすりを使ったニョたろうの両目をじっと見つめた。ニョたろうも、ゴールドを見つめ返してしばらく、ゴールドは立ち上がってポケモンをボールに戻した。
(……シル公……)
 そして柄にもなく祈るような心持ちで天井を煽いだ。
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 ポケギアが鳴って受信メールの本文が自動的に表示された、それを視界の端で捉えて理解した瞬間にシルバーはその直前まで堅固として保持していた決意が見当たらなくなったことに気がついた。彼は確かにほんの三秒前までは、誰にもこの対決を邪魔させてなるものか、自分が殺されるのでも、自分がイジュを殺すのでもいい、とにかくこれと自分一人で向き合って終わらせてしまわなければという強い衝動に燃えていて、実際にブルーさえこの場から追い出したというのに、メールを見てほとんど瞬間的に彼は、その指示に従おうとしていたのである。
 何故だ、と自問する間もなかった。その文面が目に触れるのとほぼ同時に、彼は自分がこのときを待ちかねていたのだというふうに思った。本当に彼が求めていたのは、たった一人でイジュと対峙することで問題に取り組むことではなく、その先のこの瞬間だったのだ。後でシルバーはこのときのことを振り返って、もしメールなど来なくて、そのままなりゆきに任せてイジュに殺してしまったにしても、おそらく苦しみはしても後悔などしなかっただろうと思うのだった、それだけにこの瞬間にメールが来たということは彼に計り知れないほどの、運命的な感動を呼び起こしたのである。なぜなら自身の闘いはこの時既に、彼が一人でイジュと向き合って独立を宣誓したときから終結していたことを、彼はこのメールによって気付かされたからだ。いまやシルバーは自分の全てに打ち克ち、喜びに震える権利を得たのだということを知り、もはや物理的ななにものも彼を支配することはできなくなり、いま対面している存在は決して自分を脅かすことができないのだという強い確信を抱いていた。そしてその内面の変化はすぐさま外側にあらわれた。彼はまるで不意にすべての興味をなくしてしまったように、詰めていた息をついて、臨戦態勢を解いて、すぐさま踵をかえそうとした。降り掛かった歓喜の大きさに、彼は理性を失っていたのだ。
「……シルバー?」
 本来ならばイジュはこの隙をついて命を奪うことなど容易かったはずだった。しかし不意の無防備な行動に、彼はかぼそい、不安そうな声で相手を呼んだ。やはりこの後に至ってもイジュは救いを求めていたのである。彼が本当にシルバーを殺すつもりでいたということに関しては疑う余地はない、が、いまだにイジュは彼が歩み寄ってくれるかもしれないという希望を感じていた。声を掛けられたことでシルバーもまた、我に返った。彼は振り返って、イジュを真っ直ぐに見据えた。シルバーよりの背の高い、人間の女の顔に、ひどく情けない心細そうな表情が浮かんでいる。
「…………終わったんだ……、だが……」
 何を言い出していいのか分からず、シルバーはほとんど絞り出すようにささやいた。
「だがおまえは、まだだったな」
 その言葉のなにが逆鱗に触れたのかはわからない、ただイジュは殆どそれに触発されたような素早さでレッドへと姿を変えてモンスターボールを構えた。シルバーはろくに確認をしもしないままに走り出して廊下へ出た。
「プテ! はかいこうせん!」
 もはや理性に見放されてしまったようなありさまで、イジュは勢いのままに叫んだ。
「ひかりのかべ!」
 シルバーは一緒に駆け出したトゲたろうに指示を出しざま、マニューラともどもその背に飛び乗った。ひかりのかべによって幾分かは勢いを失った光線はトゲたろうの羽の先を掠めて床に直撃した。弱められていながら鉄筋入りのコンクリートをも砕いたその衝撃に、研究所がまるごと揺すられるのをシルバーはすぐ傍に感じた。風を切って飛んではいても、所内の空気が不自然に揺れているのを感じ取っていた。研究施設の廊下はプテラの巨体が飛行するにはあまりに狭い。しかし、レッドのプテはそれを少しも苦にすることなく、寸分の狂いもなく翼を動かしては、垂直の曲がり角すら擦りもしない。一方でトゲたろうはまるで峠の走り屋のような、速いが危なっかしい飛び方をしていたが、シルバーは冷静さを取り戻していた。この飛び方はゴールドのように機転の利く、やや運任せなところのあるトレーナーに育てられた故のものだろうが、シルバーにはそぐわない。
「高度を床擦れ擦れまで下げろ。大回りなコーナリングをするな」
 マニューラとトゲたろうの両方へ効果抜群となるいわなだれへの警戒、そして迎撃のしやすさを考慮した指示だったが、意外にもトゲたろうはシルバーに従順だった。重心を下へ安定させる。
「プテ、こうそくいどうだ!」
「こごえるかぜ!」
 レッドが指示を出し終わらないうちにシルバーが叫び、加速の態勢をとったプテラの両翼に向かって、マニューラは凍るような風を吹き付ける。しかしレッドはその時既に新たなボールに手を伸ばしていた。
「かわらわり!」
 動きの鈍ったプテの背を蹴るようにして、ニョロが一瞬でシルバーとの距離を詰めて手刀を叩きこんだことで、ひかりのかべが破壊された、が、ニョロはその反動で後ろへ流され、これ以上の追撃は無理かと思われたところで、すかさずレッドが声を上げる。
「ハイドロポンプだ!」
「れいとうビーム!」
 ニョロは後ろに流されながら水流を噴射し、不意をつかれた形となったシルバーも咄嗟にその水流を凍らせることで迎撃するが、一瞬反応が遅れたことでトゲたろうの尾先を水流が掠めて一瞬バランスが崩れた。その隙をついて翼に纏わり付いた氷を振り払ったプテがぐんと距離を縮めてきた。
「プテ、いわなだれ!」
 更に悪いことには、ハイドロポンプを避けようとしたトゲたろうは上昇の姿勢をとっており、いわなだれの格好の餌食となりつつあった。ハイドロポンプの猛攻はまだ続いている。シルバーはこのときほとんど神懸かり的な直感から、トゲたろうの背を飛び降りて廊下を転がった。そのすぐ真上を、風を切ってプテが通り過ぎる。シルバーの重量が除かれたことで、トゲたろうはぐっと速度を速めていわなだれを切り抜けたようだ。レッド達は戻っては来なかった。おそらくあの勢いであれば、彼らはそのままグリーンに指定された広間へ突っ込んでいって、今頃ゴールドやクリス達と対面していることだろう。シルバーは肩で息をしながら、自分がひとまずは役目を終えたことを実感していた。しかし問題は、目の前の通路がさきほどのいわなだれのために塞がれてしまったということだった。
(……流石は、レッドさんのポケモン……)
 不意にシルバーはふらついてその場に座り込んだ。度重なる疲弊と睡眠作用のために、彼の身体は本当であれば使い物にならないはずだったのだ。彼は自分がこんな状態でやり遂げたことに驚嘆しながら溜息をついた。この道が塞がれた、ということは、異なる道を探すか、強行突破か、と彼は思案しているうちに、ほとんど気を失うようにしてその場で眠り込んでしまった。
47
 操られるようにして手を伸ばし、そのポケモンに触れた瞬間、レッドには何が起こったのか分からなかった。ただ、彼は自分が水のなかにいることを知覚した。その水には温度もなく、色もなく、景色はどこまでも硝子のように透明ではあったが、身体の表面を圧迫するような感触は確かに水圧だった。ふと景色のなかにふと薄い影が差しこんで、反射的にそちらの方向へ顔を向けると、すぐそこにポケモンが浮かんでいた。ずんぐりとした体つきのラッタは髭の一本も動かすことなく、虚空を見つめたまま、水中を漂っている。それを合図にしたように、気付けばレッドは、多種多様なポケモンに取り巻かれていた。彼らはいずれも動くことなく、人形のように、ゆったりと流されていた。
「夢を見ていたんだよ」
 不意に聞こえた声にレッドは顔を上げる。すると、先程まで誰もいなかったはずの彼の正面に、イジュによく似た少女が佇んでいた。
「ほんの二、三時間くらい。ずっとここにいると、起きていられる時間よりも、眠っている時間のほうがうんと長くなるよ」
 彼女は目を細めてはにかむような笑みを浮かべ、それがどこか後ろめたいところを含んでいるようにも見えた。しかしレッドはたいしてその仕草には注意を払わなかった、というのも、目の前の少女が夢の中で、炎に喘いでいた少女そのひとだったからだ。
「君は、さっきの……」
「それは、夢を見ていたんだよ。なぜって、ゼロは取り込んだものの意識を自分のものにしようとしているのさ。胃液で食べ物を溶かすみたいにじっくりと――そうして溶かされている間に夢を見るんだ――、でもゼロはいくら溶かしたところでいっこうに吸収できず、飢餓状態にある、いわば垂れ流しってところだね……おっと、汚い例えだったことは謝ろうか、でも、なかなか的を射ているとは思わないかい?」
 呆気にとられたままのレッドを他所に少女は喋り続ける。
「そう、飢えだよ。ゼロは意識に飢えているのさ、ただし高尚な飢えだ、空腹よりも文明的で、主義よりも根本的だからね。ところが零は飢えていながら生き続けることができるんだ、そういうものだからね……本当なら、飢えも感じないはずだったんだが。そもそも零なのに飢えているなんて、大した矛盾だろう。ばかばかしいと思うかな、でもゼロに比べれば私たちのほうがよっぽど愚かなんだよ。だって私たちがほんとうに、利口で理性的な生き物だったならば、なぜ非道をゆくものがいる? あの人は、不幸に陥れることを分かっていながら所帯を持ち、傷つけあうことを予感しながら息子との再会を望んだ…………私たちがもし利口で理性的ならば、誰しもが自分の幸福を望むはずだ。そのくらいのことが分からないあの人ではないのに、あの人は幸福を遠ざける、そして私も……山と積み上げられた煙草がかさを増していくたび、ひそかにそれを喜んでいたんだ。慰みにしていたのさ、惨めったらしさを演出するために煙草をたんとやって、自分をますます虐げることが気晴らしになったんだ。こんなときでも出ずっぱりなんだから、虚栄心というものはどうしようもないな、全く。ゼロは数学に生まれついて、本来はとてつもなく利口なんだ、けれどやっぱり今は馬鹿だよ。つまりゼロは自分の吸った煙草で灰皿に山をつくってみたいし、薬品みたいな味のするウィスキーやビールの瓶の真ん中で自分が吐いた物に埋もれて眠りたいし、あるいは……、おとなしく群れているオドシシの集団をつまらなそうにながめて、あのなかで誰か喧嘩でもおっぱじめないものかと、期待してみたいんだよ」
「あの人って、サカキのことか? なんでシルバーのことを知ってる?」
 レッドはやや強引に口を入れた。というのも、彼女は黙っていれば永久にしゃべりつづけそうなものだったからだ。彼女はとたんにつまらなそうになって、胡散臭そうにレッドを見返した。
「そう、サカキ、あの男のこと。二つ目の問いに対する解答は……ここがゼロの内部だからだよ。君が取り込まれた後に、あれはシルバーの記憶を読み取ったんだ。私は長いことここにいるから……あれの思考や感情もずいぶんはっきりと感じられるようになっていてね……」
「……ゼロの内部? けど、俺が見たゼロは普通のメタモンみたいな大きさだったぞ。とてもこんな広さがあるようには……」
「それは君の脳がつくりだしたイメージなんだよ。ここはゼロの意識の海、いままでにあの子が取り込んだすべての意識体の墓場。君の意識もようこそいらっしゃいました吹きさらしの我が家へ、ってことなのさ」
「……。君は、『イジュ』なのか?」
 不意にレッドは、ゼロに襲われるまで読んでいた手記の内容を思い出して、しかめつらしい顔で問いかけた。炎のなかの少女に向かって叫んでいたときの高揚した気分も落ち着いて、いまになって、ようやく頭がはたらきだしてきたようだった。その問いに、イジュは愉快そうに目を細めた。
「イジュ? それは、誰のことかな? 生まれつき世間の誰にも好かれずにいじけていた、つまらない子供のこと? 居場所を炎に焼かれ、囚人のようにあの鉄柵のなかに閉じ込もっていた女の子のこと? 或は、乞食のように見苦しく、失った過去への贖罪に追われて地べたを這いずり回ってはあのひとにゆるしを請うた、愚かな女のこと? はたまた、この研究所の闇をまるごと飲み込んでそれでもなお飽き足らず、やがて君たちと出会った、可哀想なポケモンのこと?」
 イジュは一旦言葉を切り、答えを待つかのようににんまりと笑いながらレッドを真正面から見据えた。そのくせ、解答は期待していなかったようで、レッドが言葉に詰まっているうちに、不意に激情に駆られたようにくしゃりと表情を歪めた。
「…………わたしだって……こんなことを望んでたわけじゃない! いじけたり閉じこもったり、叶わないと知っていながらあのひとの言動に揺さぶられて、自分をよく見せようとしたり、へりくだったりしたのは……わたしはそのたびに酷く自己嫌悪したんだ、ああお前は、世にも下らない虚栄心のために、どうしていじけたり閉じこもったり見た目をよくしようとするのだと、自問自答しては、自分を虐げて、なお悪いことにそれを楽しんでいたんだから! 何が許せないって自分を罰することが快楽になってるってことがさ! それじゃ罰にならないじゃないか、結局わたしは自分の快楽のために自分をいじめているんだから、罰も糞もありゃしないじゃないか。そうした自分自身の下劣な根性が何より嫌いだった……、ゼロと出会ってからというもの、清廉な魂を持った生まれたばかりのあの子と会話するたび、自分の醜いところが浮かび上がるのが苦痛だったんだ……、だってわたしは本気であの人のことなんか愛しちゃいなかった、わたし自身が許せなかった火事という過去における間違いについて、その間違いを取り返すために、家庭が必要だっただけに過ぎないんだ、でもわたしの口からは出鱈目ばかり飛び出していくのさ、嘘も本当もまぜこぜになってね、いまだってこうしてしゃべっているのが本当だなんて保障はどこにもないさ! でもあの子は本気で信じているんだよ、愛というものをね! 愛だよ、愛、わたしはもうすぐ消えてしまうけれど、君! 覚えていてくれ、わたしは、イジュという女は、その生涯を通じてただ愛に敗れただけの女だったってことを! 愛に敗れただけだった女が、たまたま下劣な本性を持っていたという、不幸な偶然によって、とたんに卑怯な、罪深い人間に成り下がってしまっただけなんだ! それは認めよう、だが生まれながらの下劣な本性については、それほど責を負う必要はないんじゃないか? だからこそ肝に銘じて憶えていてくれ、イジュという女は、下劣な本性のために、全世界を恨んではいたけれど、ときたまはひどくやさしい気持ちになって、祈ったり、赦しを請うたり、すべての人々の幸福を望みさえしたってことを! ああ、そうさ……それさえあればきっと神様も憐憫の情をお感じになって、わたしをおゆるしになるだろうからね……」
 こんどこそ、レッドに口を出す隙を与えまいとばかりに、あんまり激しくまくしたてたので、ほとんど息切れせんばかりになっていたものの、最後には、イジュはよわよわしく微笑んだ。
48
 何のために戦うか、と、レッドとそんな話をしたことがある。当時、ゴールドが持っていた彼についての情報といえば、ポケモンリーグチャンピオンで、ロケット団の首領を打ち負かした偉大な先輩、という漠然としたイメージしかなく、先入観に満ちた、少々暴力的な質問だったかもしれない。幸いにも、レッドは往々にして大らかな性質だったので、その質問に不躾なところを感じたようなようすはなかった。
「だって楽しいだろ? ニョロやピカや、ゴンたちを力を、どうやったら最大限に引き出せるかって考えてさ、勝利っていう形で目に見える結果がかえってくるんだ。自分がポケモンを勝たせてやるんだ、ポケモンも自分を勝たせてくれる、そんなふうに信じているトレーナーと戦うのは楽しい。あっもちろん、負けたって同じ、楽しいことには変わりないんだぜ」
「なるほど、さすがレッド先輩っスね……。けど、そういうバトルの楽しさっつーか、他にもあるんじゃないっスか? かわいいギャルにいいとこ見せたいとか!」
 なーんて冗談っスよ! ゴールドはレッドの返答を待たずに無邪気に笑いとばした。彼はそのときずいぶん陽気になっていたために、あまりレッドのようすを窺おうともせずに続けた。
「先輩って女っ気はあるのにそっち方面鈍感そうっスもんね! そういうことじゃなくて、例えば……ポケモンを悪事に使われるのが許せないから、それを止めるために戦う、とか、そういう理由っス」
 返答を期待して、ふと目を開けてレッドを見やると、彼はまるで思いもかけなかったことを言われたかのような顔をしていた。
 ゴールドは、悪を打ち倒したというような偉業はまず目的ありきであり、ポケモンバトルはその手段に過ぎないものだとそう思っていた。手段は他にも無数にあって、その中からポケモンバトルを選んだという理由は、単純にバトルが好きだからとでも納得できる。だがそのときのレッドの反応は、まるで心当たりがないようなありさまで、話を振ったゴールドのほうが困ってしまったくらいだった。
 しかし今になって、あのときのレッドの間の抜けた反応を思い返していたゴールドは、ふと恐ろしい想像が脳裏を掠めたことに表情を曇らせる。数年前のことのはずなのに、しかも修行とはいえ平穏な日々の一コマとして過ぎ去って行くはずのあのときのやりとり、レッドの間の抜けた表情や困ったような仕草を、彼は驚くほど鮮明に憶えていた。それは確かに予感だったのだろう。いまゴールドの頭を占めつつある恐ろしい考えは、いわば、当時レッドには巨悪を倒すような際立って強い信念など本当に無かったのだと、そういうことだった。少年が悪を認識してそれを打ち倒すために動いた、というよりかは、悪のほうが少年に引き寄せられ、それをたまたま認識した少年によって倒されたということなのではないか。もしそうだとしたら、そんな化け物と、どうやって戦えというのだ。ゴールドは身震いする。
(ダメだ……、俺にレッド先輩の真似はできねえ……!)
 どう足掻いたって、ゴールドには打ち負かすための理由が必要だった、更に言えば、否定することが必要だった。しかしそうした動機づけは、直感を鈍らせる。自然災害のような純粋の力の前では、全くの無力、それどころか足を引っ張ることさえなりかねないのだ。
「ゴールド? どうしたの?」
 我に返ってゴールドは顔を上げる。いつの間にか立ち止まっていたらしく、数メートル先で、ブルーが振り返ってこちらを見つめていた。彼女は凛とした表情をしていた、が、その表情は厳しいというよりは少しもぶれのない、穏やかともいえそうなものだった。それを真正面から見た途端、ゴールドは何かを考えるより早く、口を開いていた。
「ブルー先輩、俺…………」
 出だしの一言で何かを察したらしいブルーが、素早く指先を自らの唇に当ててその先を制した。
「……言葉にしたほうがいいこともあるけど、その先は言っちゃダメ。グリーンに何か言われでもしたのかしら?」
「言われたっつうか……激飛ばされたっつうか……精神論の無茶振りっスよ」
「ああ……アイツ意外と体育会系なとこあるのよねえ。言葉も硬いし」
 めずらしく同情するようにブルーは声のトーンを落とした。彼女はポケギアの画面を確認しながら、ゴールドのほうへ戻ってきて、ちょっと休憩しましょう、と呑気にも提案した。
「ねえ、どうしてグリーンがあんたを選んだか、分かる?」
 不意にブルーはそんなふうに口火を切った。ゴールドは思わず頓狂に瞬きする。そうだ、グリーンが怪我をしているというなら、ブルーでも良いはずだったのに、彼が指名したのはゴールドだった。ゴールドが何も言わないでいると、ブルーは驚く程おだやかに目を伏せて、少しだけさびしそうに唇の端を上げた。
「あたしがいるのにって……吃驚したし、ちょっと情けない気持ちにもなったわ。でも、ゼロと対峙したときのことを思い出して、分かったの……相手は『レッド』じゃなくて、『イジュ』だってことが」
「……」
「…………あのねゴールド。あたし、シルバーとはずいぶんこまめに連絡しているけど、いつも喋るのはあたしばかりで、あの子は話を聞いているだけだった。でも仮面の男事件が終わってから、暫くして、初めてあの子からあたしに電話が来たの。留守電で、ゴールドの家に遊びにいった、ってそれだけ。それからちょっとずつあの子の口からあんたのことを聞いたわ。仮面の男を倒したのは、あの子のためじゃなく、自分のためだったんだって言ってくれたこと、感謝してた。……優しさは時に人を惨めさを植え付けるわ。あんたはあの子の矜持を守ってくれた。あんたは優しくなくていいの。イジュや、レッドや、あたしたちのことなんか考えなくていい。もし失敗したら、なんて考えなくていい。それでもあたしたちは諦めない。だから、あんたは自分のことだけ考えていなさい」
「……先輩。こういうの慣れてます?」
「あら、だってあたし、こう見えてもお姉さんだもの」
 これからも弟をよろしくね、なーんて! ほほほとブルーは高い声で朗らかに笑った。が、ふいに真面目な顔になった。
「……そろそろ時間よ。答えを聞かせて、ゴールド……あんたは、イジュをどうしたいの?」
「……俺は——」
 間もなくしてグリーンからポケギアへ連絡が来た。シルバーは指示に従って、滞りなくゼロを誘導中。五分以内には目的地へ到着予定、とのことだった。
(2014/04/20)