ジュ6
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□ ゴールドとイジュの第六章。
□ オリジナルキャラクターの「イジュ」中心の話となります。ご注意ください。
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 作戦決行一時間前、ゴールドはクリスの手伝いとして、並んだボールを鞄に詰め込んでいた。クリスは机について、真剣な面持ちでゼロについての資料を読み込んでいる。ゼロは、人間のつくったポケモンである。もちろん、そこに捕獲のノウハウなどが記されているはずもない。けれどもクリス曰く、捕獲に関係のない情報なんてない、らしい。
 研究所内は表向きいつもどおりだが、図鑑所有者とナナミは多忙この上なかった。どこかの馬鹿共の勝手な行動のお陰で、とグリーンの嫌味付きで通達された決定事項は、この一連の事件を公表しないこと、だった。その馬鹿共に自分も含まれていることはゴールドもさすがに察することができたが、それでもグリーンの判断は有り難かった。あんな化け物、警察が対応したところで無駄骨を折るだけだ。せめてジムリーダーでも動かせれば別だが、グリーンはそれを良しとしなかった。シルバーを守るために、彼は既に小さなルール違反を犯していたからである。ポケモン協会や他のジムリーダーを巻き込むことはできなかった。
「そういえば、ゴールド。トゲたろうの抜けた穴はどうするの?」
 ふとクリスが顔を上げ、ゴールドはそれなんだよなあ、と後頭部を掻く。
「控えのポケモンもいねえし、どうすっかと」
「グリーンさんに相談して、ポケモンを貸してもらったらどうかしら……あ」
 クリスの視線がゴールドの後方に向かい、ほぼ同時にその表情が曇った。ゴールドもつられるように振り返ると、部屋の入り口でルリリが立ち尽くしていた。黒目をぱちぱちと瞬いて、クリスをじっと見つめていたかと思うと、部屋の中に入って来て、クリスの机の上に飛び乗って何かを訴えかけている。
「リル?」
「……イジュさんは、いま居ないのよ」
「ルリリ? リル。リル?」
「ごめんね。今は何も教えてあげられないの。分かってちょうだい」
 ルリリは不思議そうにクリスを見つめていたが、やがてぴょんと机から飛び降り、ゴールドの傍まで駈けて来た。
「リル! リル!」
 繰り返し呼んでいるのは、イジュの呼び名だろうか。どうやらルリリはクリスからは情報を得られないとみて、ターゲットをゴールドに切り替えたらしい。クリスは苦々しい思いで目線を逸らしたが、ゴールドはまるで新しい発見でもあったかのように、全身でイジュを探しているルリリをまじまじと凝視していた。
「…………おし」
 この場にそぐわない力強い呟きが洩れたことに、クリスは思わず再びゴールドに視線を戻す。彼は両手でルリリを抱き上げて視線を合わせると、軽い調子で言ってのけた。
「一緒に来るか、なあ?」
「……!? ちょっと、ゴールド!?」
「あんだよ、何か問題でもあんのか?」
「グリーンさんの話聞いてたの? イジュさんは、……!」
 言葉を失ったクリスとは対照的に、ルリリは全身をばたつかせて気概を表現している。ゴールドはそれを見て笑った。
「決まり! お前の名前は、リルたろうだな!」
 一頻りじゃれあって、ようやくルリリをモンスターボールに収めてから、ゴールドはようやくクリスに向き直る。彼女はとても複雑な表情をしていた。
「……ゴールド。分かってるの? 最悪の場合、私たちは、イジュさんを倒すことになるのよ」
「そんなこと、俺がさせねぇよ。クリスだってそうだろ」
 クリスは表情を歪めて、かぶりを振った。
「保障できないことを、軽々しく言わないで」
 どんなに望んでも、どんなに努力しても、救いようのない結果に終わることはある。そうした都合の悪い現実から、悲しみから、小さいものの目を覆ってしまうのは容易い。知らないほうが幸せなことは、知らないほうがいい、とクリスは主張する、けれどゴールドには分からなかった――否、分からなくなっていた。
「……だったらおめぇは、シルバーが親父のことを知らないままのほうが良かったって言うのか?」
「それは……!」
 知らない不幸を、わざわざ知る必要はない。けれどもシルバーから彼の父親の話を聞いたとき、ゴールドはその考えを見失った。シルバーは父親のことを知って後悔した素振りなど何一つとして見せなかったし、それどころか一回り大きく成長したような雰囲気すら漂わせていたのだ。それがゴールドを戸惑わせた。そして今でも。
「正直言って、俺もどっちが正しいかなんて分かんねーんだわ。……でもさ、それはこいつが決めることだ」
 ルリリの入ったボールを指し示すと、クリスは沈黙した。
 時計の指し示す時刻は作戦決行まで残り四十五分。二人はどちらからともなく会話を中断し、お互いの仕事を黙々と片付け始めた。
32
(レッドさん……)
 マニューラの助力もあって牢から抜け出したシルバーは、空っぽになった向かいの牢を苦々しい思いで見つめる。鍵を咥えたマニューラだけが大急ぎで戻って来た、その事実からレッドが捕まったか、あるいは何らかの原因で動けなくなっていることを推測するのは難くない。
「マニューラ、ポケモン達の場所は?」
 こくり、とマニューラはもの言わず頷いた。知っているらしい。
 シルバーは考えを巡らせる。まず、イジュは人間離れした運動神経を持ち合わせている、ということ。図鑑所有者随一の身の軽さを誇るシルバーですら、その動きにはついていけなかった。タイマンを張るにはあまりにも無謀な相手だ。付け入る隙があるとすれば、彼女の言う「不調」だろうが、それを持ってしてもその身体能力はシルバーのそれを凌駕していた。期待はできないだろう。
 そして白衣と思われる白い切れ端とともに鍵を咥えて来たマニューラ、場所を知っているにも関わらず、モンスターボールを持って来れなかった、これらの情報を統合して考えると、おそらくレッドはその現場をイジュに取り押さえられた可能性が考えられる。ならば当然、イジュはシルバーがポケモンを取り戻そうと、その場所を訪れることを予期しているだろう。
 だが、それが分かったところで選択肢など無かった。イジュはおそらくシルバーのポケモンを質と考える。何せ六匹もいるのだ。シルバーが来なければ、一匹ずつ処分されていくという事態も十分に考えられた。確実に、一匹も洩らさずに救うには、いますぐに行く必要がある。それに、ポケモンを手にすることさえできれば、勝機はあるのではないか。
(……最も、ボールの開閉スイッチが壊されていなければ、だが)
 差し込んだ希望のあまりにも微弱なことに、シルバーは溜息をつく。それでも、やらなければならない。
「……。行くぞ。マニューラ」
 マニューラを先導させて辿り着いた部屋は、つい先ほど捕われる前に、ゴールドと立て篭った部屋だ。一度入ってしまえば、逃げ場はないということか。神経を尖らせながら、シルバーは部屋に足を踏み入れ、広がった光景に息を呑んだ。
 レッドが床の上に倒れている。この状況でなければ、喉まで迫り上がって来た声を飲み込んだ自分に、賞賛を贈るところだっただろう。シルバーは足早に駆け寄って、跪いて脈を取る。やや速いが、正常の範囲内だ。
「ぐっ……ああ、」
 おもむろにレッドが身を捩らせて苦しげに呻きだしたので、シルバーは咄嗟に身を引く。しかし、思い直したように再び乗り出して、レッドの身体を揺すった。
「……レッドさん、何が」
 うつぶせに倒れていたレッドが首を傾け、生理的な涙の滲んだ目を開いてシルバーを見たその瞬間、危険を感じたときには遅く、手首を強い力で掴まれたと知覚したと同時にシルバーは空になった培養槽に叩き付けられていた。目の前が一瞬白く染まり、息ができない。
「…………ぁっ、……」
 衝撃に背中が軋んだ。受け身も取らないまま受けたダメージの大きさに、そのまま床に転がった主人を守るように、咄嗟にマニューラが立ちふさがる。
 レッドがゆらりと立ち上がるが、肩で息をしている。咳き込みながら、ようやく意識のはっきりしてきたシルバーがレッドを観察する。明らかに様子がおかしい、薬でも盛られているのか。
「……ま、ちがって……、間違ってるのは…………おレ、じゃ、ない……」
 何かをブツブツ呟いている。よく分からないが、おそらくチャンスだ。シルバーはモンスターボールの位置を確認する。今彼がいるのと丁度部屋の反対側、安っぽいデスクの上。シルバーはそっとマニューラに耳打ちをした。
(……あれを持ってこい。ボールを散らすだけでも構わない)
「…………まち……がってるのは、お……おま、えだぁ!」
 シルバーの指示とほとんど重なるようにしてレッドは叫んだ、同時にほとんど野生じみた動きでシルバーに襲いかかってくる。シルバーは横に飛び退って避けようとしたが、レッドは直前で動きをぴたりと止めた。
「……」
 しばしの沈黙の後、ぐにゃり、と突然レッドの身体が歪んだ。思わず声を失ったシルバーの目の前で、その身体は変成され、やがてそこに現れたのはイジュの姿だった。
 彼女はすくとその場に立つと、溜息混じりに、自分の身体が正常であることを確かめるように、腕や腹に掌で触れた。
「ふー……危なかった。まだ、殺したらいけないのに」
 安心したように息をついて、にんまりと笑い、驚愕のあまり固まっているシルバーに視線を流す。
「ふふふ。ごめん、びっくりしたよね?」
「…………」
「聞きたいこと、いっぱいあるって顔、してるね。いいよ、話そうか。僕も君のことをもっと知りたい」
 マニューラは忠実だった。先ほど、シルバーにレッドが襲いかかった隙に、デスクの足元まで移動していた。その目は、どうしますか、とシルバーに問いかけている。
「……。……分かった」
 例え自分たちが八方塞がりでも、グリーンやゴールド達は次の手を考えてくれているはずだ。時間を稼いでおくに越したことはない。シルバーは頷いた。
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「さっきので分かったと思うけど、僕は人間じゃない。ロケット団につくられたポケモンだ」
 イジュはそう口火を切った。
 ゼロ、それが彼女――否、彼の名前だという。この研究室で生まれ育った遺伝子ポケモン。ロケット団は巨大な力を欲していた。その筆頭となったのが十年前、カツラの先導するプロジェクトにて生み出されたミュウツーのプロトタイプ、科学者達はそれに続くように新種ポケモンの開発に没頭し、次々に新たなポケモンを生み出そうとした。けれどもその多くは試験段階でふるいにかけられ、またはインプットされた無理な遺伝子情報に身体に負荷がかかりすぎ、その数を減らしていった。その中でもまだ見込みありと判断され、培養槽のなかでの保存を許された個体、そのなかの一つがゼロだった。けれども、あくまでその評価は実践レベルには届かず、いわば非常食扱いに過ぎなかった。
「僕はロケット団の役に立つために生み出されたんだ。けれど実際は違った。何のために生きているのか分からなくなった僕を助けてくれたのが、僕を作った科学者、イジュだった」
 イジュはゼロに新しい意味を与えた。すなわち、彼女の子供という役。彼女のためにゼロは生き、子供としての役割を全うしていた。けれども、それも間もなく奪われることになる。八年前のハナダの落盤事故の際に、イジュはゼロを培養槽から解放した。それと一緒に、彼を子供としての役割からも解放したのだ。
「けれど……君には分かるかな。突然、今まで暮らしてきた場所から放り出されて、自由だって言われたときの絶望感。途方に暮れたさ。どうすればいいのか、何一つ分からなかった。でも、イジュは僕に生きることを望んでいた。何をしたらいいのか、指標が必要だった。だから僕は、イジュになったんだ」
「……馬鹿げてる」
 シルバーは苛立たしそうに溜息をついた。けれどもそんな彼の冷たい反応に対しても、イジュは微笑んだだけだ。
「怖がっているの?」
「何?」
「君だって同じ、そうでしょ。自分の姿が分からなくて、いつだって怯えてる。常に何かに振り回されていないと気が済まないんだ。心の中が静かになってしまえば、自分自身の空虚を直視せざるを得ないから」
 イジュはゆっくりと手を伸ばす。シルバーはその場に縫い止められたように動くことができなかった。向こうで、主人の危機を察知したマニューラが音もなく机の上に飛び乗り、臨戦態勢を取ったことが分かったが、シルバーは視線だけでそれを押しとどめた。まだ、時間は稼げる。少なくとも、今のイジュから敵意は感じられない、はずだった。
「!?」
 何が起こったのか、シルバーには咄嗟に判断できなかった。伸ばされた手が一瞬にして透明なゲル状に変化したかと思うと、耳の奥がひやりと冷たくなった。イジュの手首から迸ったその流動体が、耳から進入してきたのだと気づいたのは、マニューラがイジュに飛びかかったそのときだった。けれどもイジュの反応速度は彼の瞬発力を凌駕していた。細腕に払われ、マニューラはべしゃりと地面に転がされる。
「大丈夫、僕は君のご主人のことが知りたいだけだ。……少なくとも今はね」
「ぐっ……あ!」
 異物が進入して来たことをようやく思い出したかのように、耳の奥から頭にかけて鋭い痛みが走る。ごめん、もう少し我慢してね。膝をついたシルバーに、イジュは困ったように微笑んだ。シルバーは限界まで眉間に皺を寄せ、顔を上げ、イジュを睨め付ける。彼は何かを考え込んでいるようだった。
「……そう。君には、お姉さんと呼べる人がいたんだね。そして、彼女に生きる意味を求めたのか」
 呟いて、くすりと笑うと、イジュはシルバーを解放した。透明な流動体は彼女の手元に戻り、再び人間の女の手を象る。耳の奥のひやりとした感触はなくなっていたが、尾をひく痛みに、シルバーは肩で息をしていた。溺れたときのようだ。
「辛かったんでしょ。だって、誰も君にはなれないんだから。それとも、自分の存在にすら疑問を持てなかった? だって君は気づいたらここにいたんだものね。ある日突然、記憶も何もなく、そのくせ全く知らない場所で目覚めたみたいにさ」
「……煩い、お前に何が分かる……!」
「僕も同じだ。目が覚めたとき、親も家族も何もかもいなかった。イジュが僕に意味を与えるまでは、僕は僕自身すら認識できなかったんだから。…………ねえ。君だって知りたいんでしょ、自分の形を。だからお父さんの姿になった僕を追ってきたんだ。『罠でもいい』って。お父さんは、大事な、君の一部だからね。イジュとして生きる中で、僕は長いこと探していたんだよ。あまりに巨大なイジュという人格、その存在に押しつぶされそうになりながら、ゼロのことを忘れかけながら、僕はずっと、僕になれるモノを捜してた。いろいろなポケモンを食らったよ、僕はポケモンなんだから、ポケモンになることこそ相応しいと思った。君も見たっけ。ラッタやコラッタや、アーボック。でもみんな僕を拒絶する。みんな僕じゃなかった。レッドも僕を拒絶する、でも、君はどうかな」
 レッドが、『食われた』。
 けれども、愕然としている暇はない。シルバーはようやく呼吸を整え、いまだ頭の奥に走る鈍痛をやり過ごしながら、イジュを見上げる。
「俺を『食らう』つもりか?」
「違うよ。君は僕にとって新しいイジュになれるかもしれない。そして僕は君にとって新しいお姉さんになれるかもしれない。それを期待してる」
「……馬鹿な」
「考えてみなよ。君のお姉さんがいつか、イジュが僕にしたような仕打ちをしないなんて言える?」
 沈黙。なぜならその瞬間、シルバーの脳裏に過ったのはポケモンリーグ会場、最愛の義姉によって、自分だけ、安全な場所に飛ばされた記憶だった。次に、両親と再会した彼女が満面の笑顔で去って行った後ろ姿が浮かんだ。いままでありがとう、シルバー。無論、現実に彼ら姉弟の絆が切れることはなかったのだけれども、これからはどうなるのだろう。ブルーが家族と過ごす時間が多くなるにつれて、シルバーと疎遠になっていくのは自然の流れのような気がした。それはきっと眠るようにゆっくりと、シルバーの意味を薄れさせる。
 沈黙をどう受け取ったのか、イジュは破れていないほうの白衣のポケットから手錠を取り出した。シルバーが思わず身を引いた拍子に、こつ、と手が何かに当たる。モンスターボール、だ。先ほどマニューラが飛び出したときに、机の上にあったのがいつの間にか転がってきていたのか。咄嗟にそのモンスターボールを掌に包み込んで袖の中に忍ばせる。その代わりに、空のマニューラのボールを代わりに床に転がす。
「考えておいて。また、話をしに来るから」
 ボールを拾い集めるイジュは無防備に見えた。やろうと思えばモンスターボールの開閉スイッチを押して反撃することだって、シルバーにはできたはずだった。けれども何故だか身動きができず、大人しくて両方の手に錠を嵌められる。極めてらしくない行動だった。一番驚いたのは、おそらく彼自身であったことだろう。イジュは再びレッドの姿に変化した。
「出ておいで、フッシー。あの子を培養槽のなかに入れておいて、ついでに、ねむりごな」
 開いたモンスターボールから現れたレッドのフッシーはその命令に従順だった。遺伝子レベルで変化した主人の姿に違和感を憶える様子はない。フッシーは長い蔓で、シルバーを空っぽの培養槽の中へ降ろす。と、みるみるうちに培養槽は閉ざされて行くと同時に、眠気で早くも目蓋が重くなる。
 ここで戦いを挑み、日常に戻ることに怯えていたのかもしれない。例えここでイジュを倒すことができたとして、彼の言葉は一生ついてまわることの確信があったからだ。果ても知れない自由よりは、不自由のほうがよほど良かった。何かに囚われていさえすれば、自分の姿など考えないで済む。その一方でどうしようもなく、自分の影に焦がれていた。イジュが影となってくれるならば、もう、考えずに済むのだろうか、そして自分もイジュの影になる。イジュはきっと裏切らない、その確信があった。だからこそ、迷った。
(……馬鹿なことを)
 睡魔と必死に戦いながらもシルバーは俯き、小さく舌打ちをする。たった一つ残ったボールを握ったままの右手が震えた。
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「……開かないな」
 グリーンはハナダシティ郊外と地下通路で繋がっている、ロケット団遺伝子化学研究所の出入り口の前に立ったが、扉は閉ざされたまま沈黙している。手を当てて調べてはみるものの、一向に作動する気配を見せない。ゴールドとクリスは彼に遅れること数歩、閉ざされたシャッターの前で立ち止まる。
「前来たときは普通に開いたんスけどね」
 呟きながら、無造作にゴールドが一歩踏み出す。グリーンが場所を譲ろうと避けたとき、まるでそのときを待っていたかのように、微かな作動音とともに自動扉が開いた。ゴールドに反応したのだろうか。グリーンは怪訝に思ったが、とにかく今は立ち止まっている時間も惜しい。三人は研究所内に足を踏み入れた。
「……どこにいるのかしら」
 研究所内は、先の騒動が嘘のように静まり返っていた。ポケモン一匹の気配もないことが逆に不気味である。ゴールドとクリスの図鑑の共鳴音もない。やはり、持ち物は取り上げられていると見るのが妥当か。前回調査に訪れたときに作成した見取り図を見て、人を隠しやすそうな場所に目星をつけて片っ端から探すしかないだろう。そう考えたグリーンがクリスとゴールドに向けて口を開こうとしたとき、あっ、とゴールドが声を上げた。
「そうだ俺、前に来たとき中央官制室ってとこに入ったんスけど」
「……中央官制室?」
 グリーンは眉を寄せる。コントロール・ルームだろうか。研究所にはいささか大仰な名前である。
 とにかくゴールドの話では、そこには所内の様子を映し出すモニタがあるらしい。上手く使えば確かにレッド達を探す有用な手がかりにはなりそうだが、いかにもロックがかかっていそうなふうでもある。上手く入れたところで逆に敵に感づかれる要素にはならないかと考えて、グリーンはかぶりを振った。逆に中央官制室を押さえることができれば、戦局はこちら側に傾くだろう。
「……行ってみよう」
 ゴールドが案内した先には、確かに中央官制室と書かれたプレートが設置されていた。クリスはやや下がった位置にいる。グリーンがドアノブに手を伸ばしたとき、触れた指先に鋭い痛みが走り、咄嗟に手を離した。
「ど、どうしたんスか……ってうわ」
 指先が赤く腫れ、血が滲んでいる。電気だ、とグリーンが苦々しく呟いた。半ば予想していた事態でもある。
「ゴールド。やってみろ」
「…………」
 ゴールドが神妙な顔をして前に出て、ドアノブを握る。なんともない。グリーンとクリスはしばし妙な顔をしていた。その後、クリスもドアノブに触れようとしたが、結果はグリーンと同じだった。それを見越したグリーンによって手袋をつけろという指示があったため、傷には至らなかったが。
「警告かもしれない。ここに足を踏み入れるなら、黒焦げじゃ済まされないと」
「でもどうしてゴールドだけ平気なのかしら?」
「…………え、なんで見んだよ。何もしてねえって!」
 何も言っていないのに慌てた様子を見せるのは普段の行い故だろうか。ともかく、とゴールドは誤摩化すように咳払いをする。
「俺が行って見てくりゃいいんだろ」
「一人でなんて危険だわ!」
「こんな意味深なことをするってことは、良くも悪くもこの先になんかあるってこった。なんか分かれば連絡するし、俺が出て来れなくなりゃそれはそれで情報として価値があるんじゃねえの?」
「それは……!」
 眉尻を下げるクリスを、グリーンが無言で制した。
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 ゴールドが一歩踏み入れるなり、中央官制室は音を立てて閉ざされたが、それに気を取られている暇はなかった。彼の視線は中央官制室の真ん中奥、モニタの前で真っ直ぐに立っている少女に釘付けになっていた。つややかな黒髪を、二つに縛って胸に垂らした、ワンピース姿の、ほっそりとした少女は確かに、イジュの面影がある。
「やあ」
 目を細めて笑った彼女に、ゴールドは戸惑う。
「わたしはイジュ。君は、ゴールドだね。あの子が世話になっている……ああ、安心したまえ。今のところ、ここにあの子は入って来れないからね」
「……あの子? ……それにイジュって、なあ、あんたは誰なんだ」
「ふふん。そうだね。順を追って説明しようか?」
 イジュは自らの生い立ち、そしてゴールドと出会ったイジュのことについて一通り説明するべく、口を開いた。
 あの落盤事故の後、イジュはゼロを生かすために食らわれ、ゼロはイジュの願いに応えるために食らった。結果、瀕死の状態だったイジュは意識体としてゼロの内部で生かされ続けることになった。今、ゴールドの目の前に存在する少女のイジュは、ゼロに取り込まれた意識体そのものであり、その意識体がゼロの身体の一部を借りて、ゴールドの目の前で実体として居ると、そういうことらしい。イジュはすこし難しい顔をして、考え込むように呟く。
「ゼロには命が無い。自発的に死なずにいるのは生存本能が必要だ。だから、わたしを吸収すれば、わたしの命がそのままゼロに成り代われると考えたのだけれど……そう簡単にはいかなかったのさ。結論からすれば、ゼロには既に未完成ながら自我が芽生えていた。だから、ゼロは『わたし』を拒絶した。わたしと同化することができなかったゼロは、闇雲に別の命を吸収していったんだ。この研究所に溢れ返っていたポケモンたちは、みんなゼロが食らって、自分の一部としたものたちなのさ。ひとえに、わたしとの約束のためにね」
「ちょっと待てよ。あいつは、そのゼロと、約束したって言ってたんだぜ」
「そう、急くなよ。順に説明していくからさ」
 それから多種多様なポケモンを食らったゼロだったが、何一つとしてゼロが吸収し、完全に同化できる存在は見つからなかった。最後にはゼロは、この研究所中のポケモンや人間を食らいつくした。ロケット団遺伝子科学研究所に渦巻いていた、陰謀や怨念、嫉妬や憧憬。様々な感情をその身のうちに閉じ込めたゼロは、いつしかこの研究所そのものになった。それでも、彼は耐えられなかったのだ。行動原理も経験もなく、過去も未来もないままで、漠然とした生き続けるという目標に向かっていくということが。それでも、ゼロは生き続けることを望んだ。ゼロは、自らの唯一の生き物に関する記憶、すなわちイジュの記憶を自分の記憶とした。
 取り込んだイジュの遺伝子情報をコピーし、その姿を変え、イジュになりきった。所詮緻密なクローンに過ぎない。それでも、ゼロはイジュとなることで自分を騙し、どうにか生き繫いできたのである。それから時を経るに従って、ゼロは自分がゼロであることを忘れていった。ゼロに寿命はない。ゼロはそのままイジュとして、永久に生きてゆく筈だった。でもそれは叶わなかった。
 何故だか分かるかい? イジュは大人びた表情で微笑む。ゴールドは怪訝そうに眉を寄せただけだった。
「君と出会ったからさ」
 イジュはふと気付いたように、どこからか煙草を取り出した。ああ失敬。今はこんな姿だけれど、成人しているから問題ないよ。これがないと話し辛いな、どうも。イジュは独り言のようにぶつぶつと呟きながら先端に火をつけ、煙草を吹かした。
「どこまで話したかな、ああ、そうだ。そう、……とにかく君はとんでもないものを孵してしまったんだよ、ゴールド」
 幸か不幸か。ゴールドは無意識のうちに、イジュの中にポケモンの姿を見ていた。卵の中に確かにある命を夢想するのと同じように、イジュという張りぼての中のゼロという名の、ひとりのポケモンの姿を確かに見通していた。だからこそ、ゼロはイジュのままではいられなくなってしまった。
「ゼロは今や生まれたての赤ん坊、そのものだ。どんな手段を使ってでも、生きようとしている。生きるために必要な理由を、血眼になって探してる。ほら」
 不意にイジュはすぐ隣のモニタを示した。そこでは、今まさにレッドがスライム状のポケモンに襲われている様子が映し出されていた。
「っ、先輩!」
 ゴールドは思わず身を乗り出して叫んだ。
 レッドは咄嗟にピカを出して応戦しようとしたようだが、一瞬にしてふくれあがったスライムに飲み込まれた。それから映像は早送りされ、その場でうずくまったままのスライムは間もなくしてレッドの姿に変化する。やがてその部屋にシルバーが入ってきた。彼は咄嗟にレッドに駆け寄ったようだが、次の瞬間にはその身体は宙へ投げ出され、部屋の奥にある培養槽へまともに叩き付けられていた。
 咄嗟に息を呑んだゴールドの目の前で、更に追撃をかけようとしたレッドの動きがぴたりと止まり、やがてその姿が見覚えのある女の姿、イジュの容貌へ変化していく。映像はそこで途切れた。焦ったのはゴールドである。
「レッド先輩は、シルバーは無事なのか!?」
「幸いにも、レッドはわたしのように瀕死状態で取り込まれたわけではないから、あと四時間は保つだろう。シルバー、あの子も今のところは無事だ。ただ、彼はゼロにとって極めて危うい立ち位置にいる。一歩間違えばすぐさま殺されてもおかしくはない」
 ふと短くなった煙草を見て、イジュは眉を顰めた。
「……おっと、駄目だな、時間がない。そろそろわたしも、この姿を保てなくなる。いいかい、ゼロの精神は限界に近付いている。わたしや他の人間、いろいろなポケモン、それからレッド。あまりにも多くの自我を取り込みすぎて、あいつの中では抑えが利かなくなっているんだ。付け込むならそこだよ、分かるね、ゴールド?」
「……おい、ちょっと待てどういうこった、」
「ゼロとしての自我が急速に成長している。今まで、ゼロはわたしの存在、ひいては記憶によって生かされていた。だから、ゼロ自身のなかでわたしは幅を利かせることができたし、或はこの研究所内のわたしのテリトリーがあった。もう、わたしのいた研究室は既にわたしのものではなく、この管制室ももうすぐ、ゼロによって奪われてしまうだろう」
「……! じゃあ、こないだ来たとき、あの小さな研究室にポケモン……いや、ゼロが入ってこれなかったのは、」
「むろんわたしのテリトリーだったからさ。おそらくはレッドを取り込んだことで、ゼロはわたしを必要としなくなりつつある」
「ちょっと待った、まだ聞きたいことは……!!」
「これ以上は、そうだな、わたしとゼロの部屋にある日記帳でも見たらいい。大したことは書いていないだろうが」
 少女のイジュが近付いてきて、なおも何かを言いたげなゴールドの唇に人差し指を寄せた。思わず閉口したゴールドに、イジュは悠然と微笑んだ。
「……『証明シテ』」
 ゴールドは息を呑む。その声は以前、管制室に入ったときに聞いた、少女の声だ。
「世界に蔓延るのは愛ではなくロジック、全ては数学に過ぎないのだから……証明してほしい。ゼロの意味を、ゼロという命題の解を……君は既に持っているだろう?」
「……『イジュ』、」
「わたしも君と出会いたかったよ。さようなら、——ゴールデン・ボーイ」
 少女のイジュの姿が消えた。ゴールドはしばし呆然としていたが、慌ててポケギアを取り出す。電波状態は問題ない。グリーンとクリスに、レッドがゼロに取り込まれてあと四時間で命が危ういこと、それにおそらくシルバーがいるであろう場所を連絡する。送信ボタンを押したその直後、すっと背後に現れた気配に、ゴールドは唇の端を上げる。額から冷や汗が流れるのを自覚しながらゆっくりと振り返る。口から、乾いた笑いが洩れた。
 閉ざされていた管制室の入り口は開け放され、そこには。
「……冗談きついっスよ、レッド先輩」
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「シルバー……!」
 狭い部屋の奥、円柱型の空っぽの培養槽の中で、膝を折り畳んで座り込んでいるシルバーの姿に、思わずクリスは声を上げた。
 近付いてみれば、彼は眠らされ、手は後ろで拘束されているようだが、とりあえず、目立った外傷はない。問題は培養槽がロックされていることくらいか。
「……ポケモンを保存しておくための水槽のようだ」
「壊せないでしょうか」
「可能だろうが……ロケット団の研究所だ。この中に入れられるのがまともなポケモンとは限らない。罠がある可能性がある」
「……罠?」
「例えば、破壊されたと同時に自動的に爆発するような」
 かたん。背後から聞こえてきた音に、グリーンとクリスが同時に振り返れば、ドアの影からマニューラが姿を現した。マニューラはさっとステンレス製のラックの傍に移動すると、そこに落ちていた一冊のノートを拾って、グリーンとクリスへ差し出した。
 無言で、グリーンは受け取ったノートを眺める。表紙にタイトルらしきものはなく、ノート自体も昔からあるメーカーの馴染み深いデザインで、古いものらしく、表紙や紙の端が茶色っぽく変色している。無造作にノートを開いて、グリーンはやや眉間に皺を寄せ、クリスに渡した。
「捕獲の役に立つかもしれない」
 その言葉に、クリスは表情を引き締めてノートを開く。黙々と読み始めたクリスを他所に、グリーンはラックを物色し始めた。
 ほんの十分前、分断されたゴールドから、レッドとシルバーについて連絡があった。シルバーは、何とか無事を確認できた——今直ぐに救い出すことは難しいとしても。だが、レッドはゼロに「食われた」らしい。ゼロについてある程度の予備知識を備えていた二人は、その表現が何を指すのかは嫌でも想像できた。ゼロは生命体を取り込んでその遺伝子情報を丸ごとコピーする。おそらくはレッドも同じように、吸収されたのだ。ゴールドの情報が正しければ、彼を救い出せるタイムリミットは四時間。だが、ポケモンに取り込まれた人間を救い出すなんてことが出来るのだろうか。
(……調べるしか無いな)
 ゴールドから受け取ったメッセージはブルーにも転送してある。おそらく彼女のほうでも、何かしら掴もうとしてくれているだろう。ぎっしりと資料の詰まったラックを前に、グリーンは手早く目ぼしい資料を探し始めた。
(2014/02/12)