イジュ5
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□ ゴールドとイジュの第五章。
□ オリジナルキャラクターの「イジュ」中心の話となります。ご注意ください。
25
 気付いたときには、レッドは固いコンクリートの上に折り畳まれたように横になっていた。鈍く頭の奥が痛み、身体の節々が痛むものの、外傷はせいぜいがかすり傷くらいのようだ。身を起こそうとすると目の前が眩む。
 俺、どうしたんだっけ……。
 痛むこめかみを押さえながら、レッドは気を失う前の記憶を思い出そうとする。ロケット団遺伝子科学研究所ハナダ支部に、グリーン率いる調査部隊として入って、それから、ポケモンの大群に襲われて皆バラバラになってしまった。それで、逃げているうちにゴールドと会って、一通りの敵を一掃して油断した隙に、再び大量のポケモンが天井から落ちてきて、ゴールドと分断されてしまった。ここはどこなのだろう。
「くそ、痛ってえ」
「………………さん……!」
 すっかり凝り固まってしまった身体を解しながらぼやいたとき、ふと、聞き覚えのある声がしたことに顔を上げる。目眩はなんとかおさまってきたが、真っ先に目に入って来たものにレッドは息を呑んだ。鉄格子。そして廊下を挟んで向かいにも同じような牢屋があり、鉄格子ギリギリまで身を乗り出すようにして何かを叫んでいるのは、
「……シルバー……!?」
「レッドさん……気が、ついたのか」
「こんなところにいたのか? みんな心配して、」
「その話は後にして、早く逃げてくれ。あいつが来る前に」
「あいつ? ……俺たちをここに閉じ込めた奴のことか?」
「あいつの狙いは本当は俺じゃなく、」
「おはよう、目が覚めた?」
 足音もなく、不意に声だけが聞こえたことに、シルバーは息を呑んで素早く顔をそちらに向け、レッドも一瞬遅れて声のしたほうを見やる。ひとりの女が立っていた。ストライプのシャツに膝丈のタイトスカートの上から白衣を羽織り、四センチヒールの黒い靴を履いている。それは、シルバーもレッドも同じように知っている――イジュだ。
 にっこり笑った笑顔はいつもの彼女のままで、しかしシルバーは剣呑な眼差しを彼女に向けている。異常な光景に、さすがのレッドもいぶかしげに眉を寄せた。イジュはヒールの音を響かせながら牢の近くまで廊下を進み、シルバーに視線を流し、ふと、目を細めた。
 一瞬だった。イジュの腕が鉄格子の中に突き通る。反射的に身を引こうとしたシルバーだったが遅く、彼女の指は少年の細い首を鷲掴みにした。
「……気に入らないな」
 表情は読み取れない。イジュは見開いた目でじっとシルバーを見つめる。瞳に映る金属のような鋭い光が、喉をかき切らんとばかりに閃く。首を取られているにも関わらず、シルバーも負けじと睨め付ける。やがてその足が床から離れ、彼が苦悶の表情を浮かべて空気のかたまりを吐き出したことで、レッドはようやく我に返った。
「やめろ!」
 咄嗟にモンスターボールに手を伸ばしたはずが、腰には一つもボールが無かった。片手ではシルバーを絞め上げたまま、イジュはゆっくりと視線をレッドに向ける。
「……まさか君が来てくれるなんてね。嬉しいよ」
「シルバーを離せ!」
「言われなくても、今はまだ殺しはしないさ」
 おもむろに、イジュはシルバーを解放した。床に落ちた少年は俯いて咳き込んでいる。シルバーの剣呑な表情の意味を理解したレッドが、眉を寄せ、表情を顰めた。
「シルバーと俺を閉じ込めて、何を企んでる?」
「企むなんて、大袈裟だなあ」
「ロケット団の差し金か?」
「ふふ。ご想像にお任せするよ。どうせ僕が何を言っても信じられない、そうでしょ……っ?」
 不意にふらり、とイジュの足元がおぼつかなくなる。
「……ああ、全く調子が悪くてイヤになっちゃうよ。レッドは、あとちょっとそこで待っててね」
 イジュは踵を返した。足音が遠ざかって行くのを聞き届けてから、レッドは向かいのシルバーの様子をうかがう。彼はなんとか持ち直したらしく、喉を押さえながら体を起こしたところだった。
「大丈夫か?」
「……ああ。それよりあなたのほうが危ないんだ、まだあいつの不調が戻ってないみたいだから良かったが」
「どういう意味だ?」
「あいつは自分が作ったポケモンの素材として、あなたを使うつもりだ」
 ここに捕まる前に読んだ資料にそう記されてあった、とシルバーが神妙な顔で呟く。おそらくそれを伝えるために、シルバーをポケギアでブルーと連絡を取ろうと試みたのだろう。しかし電波が悪いせいで、逆に更なる事態の悪化を招いてしまったというわけだが。『ゼロ』のことか。レッドは表情を顰める。あまりいい気分ではない。
「……あれ? だったら、シルバーはなんで捕まってるんだ?」
 もしレッドをおびき寄せるための餌とするならば、目の付けどころが少々ずれている気がしてならない。レッドとシルバーの繋がりは割と疎遠である。ゴールドやグリーン、ブルー、イエロー辺りならまだしも。
「さあ。だがあいつは、少なくとも今は殺すつもりはない、と言っていた。……心当たりといえば、……サカキのこと、くらいだが」
 彼の父親であるサカキは、今は病気を患い、姿をくらましているはずだ。もしサカキを利用しようとする意図があるならばシルバーは妥当な選択だが、いったい何のためにそんな危険を冒そうというのだろう、皆目見当もつかない。それ以前に、シルバーを餌にしたところで病身のサカキが出てくるかどうかも微妙なところである。
 あるいは、純粋な人質の可能性もあった。レッドを素材として使うならば、その時点で彼の命は保証されず、人質としての価値はない。生かしても殺してもいい、そんなどうでもいい存在がもう一人欲しかったのかもしれない。今は殺さない。逆に言えば、シルバーは今時点で命の保証があるわけである。しかしレッドは、イジュの『調子』が良くなり次第、即刻材料として使われるだろう。
「とにかく、なんとかして逃げないと……ああでもポケモン取り上げられてるし」
「……レッドさん」
 名前を呼ばれ、レッドは考え込んでいた顔を上げ、一瞬固まる。鉄格子の向こうのシルバーが摘むようにして持っているなにかがひらりと光る――鍵、だった。
「この牢か、レッドさんのほうの牢か……全く違う場所の鍵である可能性もあるが」
「……いつの間に」
 こんなこと前にも無かったか。レッドの脳裏に浮かんだのは、彼のバッジを見るも鮮やかな手腕で抜き取っていったブルーの姿である。まさか、先ほど吊るし上げられたときに掏っていたのだろうか。転んでもただでは起きないというやつか、流石にブルーの義弟だけはある。シルバーはレッドの心境など我関せずとばかりに自分の鉄格子にかけられた錠前にその鍵を差し込もうとしたが、
「駄目だ、合わない。そっちでも試してみてくれ」
 鉄格子の隙間から投げられた鍵は、跳ね返ることなくレッドの牢の中に放り込まれる。それを片手でキャッチして、レッドも同じように錠前に鍵を差し込んだ。鉄格子の中からではいささか作業しにくいが、どうにか届きそうだ。錠前は素直に鍵を受けいれる。唾を飲み込んで指先で鍵を廻すと、かちゃりという音とともに錠前が外れた。
「ビンゴ」
 音を立てて牢の扉が開く。
「……それにしても緩いロックだな。内側から錠前を弄れるんだから」
「ポケモン用の檻だったんだろう。……レッドさん、こいつを」
 シルバーは更に、牢の隙間からモンスターボールを渡してきた。中にはマニューラが入っている。レッドは再び目を丸くした。
「取り上げられたんじゃなかったのか?」
「一匹多く持ってたから。なんとか誤摩化せた」
「そしたら、お前が危ないだろ」
「少なくとも、俺は今殺される心配はない。レッドさんが鍵とポケモンを探して直ぐに戻ってきてくれれば、大丈夫だ」
「…………なんていうか、お前ら姉弟ってつくづく敵に回したくないな」
 抜け目のなさは義姉譲りだろうか。呆れ半分感心半分でレッドが呟くと、シルバーは口角を僅かに上げて笑ってみせた。
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 ふくよかに豆の香るコーヒーを前にして、グリーンはようやく人心地がついたように溜息をつく。隣のブルーも緊張の面持ちこそ崩さなかったものの、少しずつ頭も冷えてきて、普段の聡明さを取り戻しつつあるのが感じられた。ふたりの向かいにはグリーンの姉であるナナミが、印刷した数枚の資料を手にソファに腰掛けた。
 研究所に足を踏み入れてしばらくも経たないうちに、彼らは大量のポケモンに襲われて散り散りになってしまった。各々それなりに奮闘したものの、倒しても倒しても彼らは湧いて出てくる。断続的な戦闘における疲労が蓄積し、ふと頭上への注意が薄れたところで降ってきたラッタやコラッタの群れに押し流された挙げ句、グリーンは研究所から締め出された。そこには、既にクリスとブルー、それにゴールドの姿があった。何故ここにゴールドがいるのかという疑問はさておき、再び進入を試みようとしたところで、研究所の扉はうんともすんともいわなくなっていた。どちらにしろ、彼らのポケモンは疲弊していたし、ゴールドに至ってはトゲたろうを無くしていた。そこにナナミから連絡があり、彼らはオーキド研究所まで一時撤退を決めた。
 グリーンは内密に、実姉ナナミにイジュの経歴の調査を依頼していた。ブルーの悪い予感のこともあったし、彼には疑わしきを内密かつ徹底的に調べ上げるだけの慎重さと根気があった。ナナミの眼差しはいつになく強く、真剣な光を湛えている。その意味が分からぬグリーンではない。彼女はソファに座り、一拍おいてから口火を切った。
「ロケット団遺伝子科学研究所ハナダ支部に所属していたイジュという名前の女性だけど、現在は死亡が確認されているわ。十二年前のハナダ岩盤崩落事故の死亡者リストに名前を見つけたの」
 これがその新聞記事、とナナミは切り抜きのコピーを二人に手渡した。記事の隅に、死亡者一覧が蛍光ペンで四角くマークされている。その中には確かに、「イジュ(23)」と記載されているのを見つけることができる。確かに、彼女本人から聞いた現在の彼女との年齢は一致するが、
「……おかしいわ。万一この記事が何かの間違いだとしても、十二年前なら、彼女はいま35歳のはず」
「とてもそうは見えないな」
 イジュはどちらかといえば年齢よりも老けて見えるほうだったが、それでも二十代の後半がいいところだろう。
「同名の可能性は?」
「イジュという名前自体が珍しいから、可能性は低いだろうが無いことも無い。同名かどうかを調べるには警察に問い合わせれば分かるだろう。だが、その代わり警察やポケモン協会が介入してくるだろうな」
 グリーンが苦い顔をした理由に思い至って、ブルーは思わずこめかみを押さえた。
「…………ゴールド、ね」
 シルバーといいゴールドといい、全く世話の焼ける。あいつらは何で勝手な行動ばかりするんだとグリーンは今日こそ本気で頭を抱えたくなった。グリーンの報告した調査人数はシルバーを含め六人。無論、ゴールドは含まれていない。万一上手く誤摩化せたところで、聞いたところによると、ゴールドはハナダシティの町外れのビルから研究所に入り込んだらしい――ドアノブを破壊して。地下通路の中で髪の毛一本でも見つけられようものなら、グリーンにはシラを切り続けられる自信がない。当然、調査が緻密になればなるほど、追求は厳しくなる。しかも、こちらにしてみれば既にシルバーを救うために調査人数を偽った後ろめたさが余計に痛かった。
 こうなればいっその事、警察に任せるべきかと思考が過る。だが、果たして公共機関に手に追える問題だろうか。屈強なポケモン達の巣窟のなかに隠された研究所、無限に湧いて出てくる大量のポケモン。ポケモンリーグの表彰台を飾った三人が揃ってしても、数の暴力ともいえるそれに対抗する術は見つけられなかったのだ。いたずらに時間を消費するだけではないのか。そうしている間にも、あの研究所に閉じ込められたであろうレッドとシルバーはどうなる?
「…………。この記事が本当だとしたら、俺たちが見ていたイジュは誰だ?」
「名前を借りた他人、かしら」
 ナナミが妥当なところを指摘するが、ただし、とブルーが付け加える。
「ロケット団の残党は、彼女のことをイジュだと認識していたって、クリスが言ってたわ。顔や体型が全く違うとは思えない」
「とするなら、血縁関係にある何者かという線が濃厚か」
「それか、メタモンのへんしんかもしれないわ」
「……イジュはメタモンが変身した偽者で、操っている誰かがいる、か……」
 ふと、グリーンは思考を止めた。いま、覚えのあることを言ったような、気がする。思わずブルーをまじまじと見れば、彼女も神妙そうな顔をして見つめ返してきた。
「研究所に入ってすぐは、ポケモンの気配なんて無かったのに、突然湧いて出て来たのよね。覚えてる?」
「ああ」
「倒したら、なんだかへんしんが解けたメタモンみたいだった」
「だが、メタモンとは違って、床や壁の隙間に帰っていった」
「ねえ、馬鹿なこと言うみたいだけど……あれが全部一匹のポケモンだったとしたら、どう?」
「…………」
「更に言うなら、ポケモンの大群が出てきたのは、あたしたちがイジュを見失ってからだったわ」
 グリーンは無言でコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「……姉さん。ゼロに関する資料の調査は?」
「分類だけは終わっているはず。調査班に、データを貰えないか問い合わせてみるわ」
 ナナミが素早く退室したあと、グリーンは改まってブルーに向き直った。
「ブルー」
 嫌な予感を察知したのか、彼女の表情は心持ち険しい。
「レッドとシルバーの安否が分からない以上、モタモタしている訳にもいかない。俺とクリスとゴールドで、ゴールドが進入したという正面入り口を目指す。その間、ここに残ってゼロの調査を進めてくれ」
「……イヤよ」
「弟が心配なのは分かるが」
「嫌よ。あたし」
 ゴールドは道案内、クリスは捕獲要員として必要だ。何より、これからやらなければならないのは法に背く行為でもあり、例えブルーが今までどれだけの軽犯罪を犯してきたとしても、寧ろだからこそ、その責務をブルーに負わせたくはなかった。行動を共にするゴールドとクリスを庇い、その責任を一身に背負うのは、自分でいい。グリーンはそう思っていた。
 いつも飄々としていながら、弟分の身に迫る危険に対しては、彼女は形振りを構わなくなる。長年の習慣がそうさせているのか。いかなる駆け引きも彼女の前から消えうせてしまう。
 だが、これがいま考えうる一番最良の方法なのだ。現在、彼らが所持している鳥ポケモンの中ではグリーンのリザードンが最速を誇るであろうし、大量のポケモンを相手にするならばまだブルーよりもグリーンのほうが技量が高い。一方で、ゼロに関する資料を読み解き、適切な弱点を見つけ出し、クリスが捕獲に乗り出しやすくするのはブルーに分があると言える。知識量では互角でも、頭の回転と判断に関して段違いに速いのが彼女である。グリーンはどちらかといえばじっくりと考えて結論を出すほうだが、ブルーは一瞬で比較的要領の良い方法を導きだすことができた。けれどそれを論理的に説明したところで、今のブルーは引き下がれないだろう。グリーンは目を細めた。
「俺たちを信じろ、ブルー。同じ図鑑所有者の仲間だろ」
 小さく息を呑んだ音がした。
「……………………ずるいわ。こういうときばっかり、らしくないこと言ったりして」
 たっぷりとした沈黙の後、頑なに唇を引き結んだ彼女が、ふと顔を上げて口元を綻ばせた。
27
 レッドは半ば途方に暮れていた。鍵とポケモンを探すとはいえ、この巨大な研究施設のいったいどこから。
 どうしようかマニューラ? 隣を歩く彼に問いかけてはみたものの、返事は期待していなかった。
 彼はちらりとレッドを見上げた後、不意に鼻を鳴らして立ち止まり、レッドのポケットの辺りを興味深げに眺めはじめた。ポケットの中に何か入ってたっけ。手を突っ込んで探ってみると、紙切れらしき感触があった。取り出して思い出す。ゴールドが落とした写真のコピーだ。そういえば、結局返すのを忘れていたなと思いながら広げてみると、それを覗き込んだマニューラが目を丸くした。それから、そのにおいを確かめるようにしきりに鼻を鳴らした。レッドも倣えば、古い紙のにおいの他に、独特の刺激臭がする。薬品の臭いでも染み付いているのだろうか。
 その後、レッドはマニューラにとある部屋まで連れてこられた。大量のポケモンに襲われたゴールドとシルバーが立て篭った、イジュの研究室である。マニューラは身軽に棚に取り憑くと、処狭しと並べられたファイルの中から一冊のノートを開き、そこに写真のコピーを重ねてみせた。
「これに挟まってたっていうのか?」
 こくりと頷かれる。
 ふと視線を流せば、部屋の隅に置かれているテーブルの上に、無造作に、ボールが転がっているのが見えた。レッドはほっとしてボールを腰につけなおし、シルバーの分と思われるそれも六つ揃っていることを確認した。
「……さて」
 問題は牢屋の鍵のほうだった。レッドの牢屋の鍵をイジュが持っていたことを考えると、おそらくはシルバーの牢も同様だろう。レッドは彼のように盗みの手技に長けているわけではないし、流石に二回目ともなればイジュも警戒しているはずである。ポケモンで奇襲をかければあるいは、まだ望みはあるように思われた。だが、イジュという相手はあまりにも未知数だった。
 少年とはいえ人間一人を首を掴み、そのまま宙に浮かせるだけの握力と腕力、それに殆ど猫のような、シルバーの野生じみた反射神経でも追いつかなかった、瞬発力。その時点で普通の人間とは言い難く、そのうえ彼女は特別鍛えているようすでもなかった。少なくとも、レッドの勘は警報を鳴らしていた。普通に奇襲をかけたところで、思い通りに事が運んでくれるかどうか。
 レッドは先ほどマニューラが取り出したノートを開いたまま、中身に目を通す。それも、先ほど一瞬、その紙面にイジュという単語を目にしたからだった。何か、有用な手がかりが見つかるかもしれない。一縷の希望を抱いて、レッドはページをめくり、ざっと目を通し始めた。
28
 どうして僕は生まれたのだろう、これは僕が僕自身を自覚したときからずっと付きまとっている疑問で、今に至るまで解決されない問題だ。物事は常に正しい方向に収束していかなくてはならず、それなのにその過程において僕という存在はあまりに例外的であり僕が生まれたという事象そのものすら無意味なファクタに他ならない。生まれた僕はやがて死ぬだろう、どうせ死んでしまうのならどうして生まれてきたのだろう。
 僕たちが生まれ、死に、そして再び生まれる、このサイクルにいったい何の意味があるのか僕にはわからない。社会に出て認められたり、お金持ちになったり、はたまた優れた人間性を育み愛するひとびとに見守られて死んで行くことに……果たして何の意味があるのだろう。生きている間にできることなどすべて無意味だ、善人も悪人もさいごにはすべて死んでしまうのだし、世界に蔓延っているのは愛ではなくロジック、全ては数学に他ならないのだから。
 ゼロ、僕の名前は曖昧で、存在しないことを表す数字、けれどその概念として零が存在する。なにもないことをあらわすというのはとても難しい。言葉にしてしまえばあたかも零が存在するかのように思えるではないか、本当は存在しないのに……。
 晩春の風のうつくしさや、晩夏の夜空の澄んでいること、世界の解に心が震えるのはどうしてなのだろう。いのちの儚いこと、いのちの尊いこと、すべて計算の過程に過ぎないにも関わらず、涙が落ちるのはどうしてなのだろう。何にもなりはしないのに。
 ともかく、僕には理由が必要だった……。たったひとつでもいい、僕の心が打ち震えることを許してくれる理由が必要だった。僕は、ゼロではいけなかった。だって僕は零ではない。そうでなければ窒息死してしまうほうがよほどましで、そんな矛盾を抱えて生きていくよりは。だって世界はロジカルで、僕は何かしらのファクタでなければならないはずだ。
(どうしてあなたは生きているの?)
 あるとき僕はイジュに尋ねた。
 消毒液とリノリウムの臭いのする研究所内の六畳ばかりの小さな研究室にしか居場所を許されない存在、彼女が自らの境遇を嘆いていることは僕も知っている。幾度となく自殺を試みては踏みとどまっていることも。
「こっちが聞きたいよ、ボーイ」
 彼女はうすく笑って応えたきり、口をつぐんだ。それから僕の目をじっと見て、何かを思い直したように再び唇を開いて、
「……つまるところ、死ぬのが怖いんだよ」
(怖い? だって、イヤなことばっかりあるんだろう? 死んだほうがマシだと思えるくらいにはさ)
「まだまだ足りないんだろう、……その、『イヤなこと』が」
 イジュはやや投げやりに呟く合間に、煙草の煙を吐き出した。半年前にはじめた煙草は彼女の脳髄とこの小さな研究室にもうすっかり染み込んでいるらしい。
(……分からないな、イジュ。あなたには居場所があるじゃないか)
「こんなしみったれた六畳一間が? 冗談言っちゃいけない。今じゃわたしの居場所なんて、紫煙のなかがいいとこさ」
(じゃ、あなたが求める居場所ってなんなのさ)
「もう忘れた」
(思い出してみたらいいじゃない)
「……そうだね、」
 僕の言葉に、なぜかイジュは少しだけさみしそうな顔をして、それから話してくれた。イジュが、あるべきところにいた頃の、昔の話。
29
 イジュは普通の子供ではなかった。長い黒髪に黒い目、痩せた四肢と青白い肌色、とはいえ飛び抜けて容姿が醜いというわけでも、あからさまに意地が悪いというわけでもなかったのに、何故か好かれない子供だった。有り体に言えば、憎まれてすらいた。それは年齢にそぐわない生意気な頭脳のためだけではなかったようだ、と彼女は振り返る。どうやらわたしのなかには、人の嫌悪感を煽るなにかがあるようだよ。そう言って笑った。唯一の救いは、ポケモン研究者の間でもちょっと名の知れた存在だった優秀な科学者夫妻である両親だけが、彼女の特異性を理解し、愛してくれていた、そう彼女が今でも信じていることだろう。
 けれども、彼女の救いある生活は、火事によって家が焼け、両親を失ったことで崩壊してしまう。だから今でも火が怖いのだと、イジュがジッポを弄びながら言ったので、嘘つき、と僕は指摘した。嘘じゃないとイジュは言った。もっと大きい火が怖いんだ、だから炎タイプのポケモンは怖い。まじめな顔をしていたので、多分本当なんだろうと思う。
 もっとも、炎タイプに限らず、イジュはあまりポケモンが好きではなかった。それも、ポケモンのほうが彼女を拒むからだ。彼女は自分の特異性が彼らにも受け入れられなかったんだろうと考えていたし、そのときは僕も軽く流して考えてしまったけれど、ふつうポケモンにはそこまで細やかな感情の機微はないのではないだろうかと思う。だからおそらくポケモンが彼女に寄りつかなかった理由は他にあり、おおかた彼女の身体に染み付いた化学薬品の臭いのためだったというのがいいところだろう。何せ彼女の自宅は科学者夫妻の仕事道具であふれていたらしいし、彼女は生まれたときからずっとそこに棲んでいたのだから。優れた知能を持っていたイジュをしても、こんな単純なことが見抜けなかった。それだけ彼女は自分の特異性に酷いコンプレックスを抱いていたんだろう。
 家を失い一人生き残ったイジュ、親戚もなく、世渡り下手な彼女が転がり込めるところなどあるはずもなく、彼女は孤児院へ入った。あそこは地獄さ。そう呟いたイジュは煙草を吸い殻の山のなかに突っ込んで揉み消す。何日も始末のされていない灰皿の上には吸い殻の小山が出来つつあった。彼女のこういうずぼらなところは、僕があまり好きでない要素のひとつ。一方で、吸い殻の山をつくること自体を楽しんでいるように見えるところは、割と嫌いではない。
「……時間が経つにつれて、外にいた頃の記憶は曖昧になってくる。外の世界にあったはずのわたしの足場がみるみるうちに削ぎ落とされていくのが分かるんだ」
 彼女が言うには、そのときに失われてしまったそこが、最初で最後の彼女のいるべき場所だった、らしい。孤児院のなかですらも彼女は厭われ、嫌われた。こう言う義理もないといえばないけど、お前のために教えておくと。と彼女は珍しく僕のためと前置きをして、
「わたしを憎む人は、必ずしも悪人ではないんだよ。むしろ、良い人のほうが圧倒的に多かった。ただ、きっと相容れないだけだ。おそらく、理由もなく虫を嫌う人が悪人とは限らないのと一緒で……まあ、お前にこの例えは難しいか」
 ともかく、孤児院での生活は長くは続かなかった。イジュは逃げだした。切っ掛けは些細なことだったと彼女は語る。あたたかな晩春のある日、イジュはこれといった理由もなく、朝の四時に目を覚ました。子供達はおろか、孤児院を切り盛りする大人たちですらまだ眠りに落ちている時間帯。彼女は何げなく外に出て、ポッポの群れが空を横切って行くのを見た。前を見ると、閉ざされた正門が見えたので近付いてみる。錆び付いた鉄製の門戸に触れた瞬間、彼女は自分がこの扉から外に出て行くことが出来るのだと悟った。空気は肌寒く、世界は清廉な朝の沈黙に満ちていた。素晴らしい孤独だった、あれはきっとわたしの人生で最上の日だった、とイジュはやや興奮気味に語った。
 人間というのはつくづく複雑な生き物だと思う。その気にさえなれば、イジュは機を待たずしていつでも、地獄のようと称したあの場所から逃げだすことができたのに、幸運な偶然によってその事実が目の前に突きつけられるまで、逃亡という選択肢が眼中になかったというのだから。肉体的な束縛よりも精神的な束縛のほうがよほど性質が悪い。ともかく、彼女はあの鉄柵のなかに閉じ込められることで、正気を失わされていた。彼女と外の世界を隔てるものは、内側から閂がかけられているだけのあの鉄の門戸ひとつだけだったというのに、彼女は、謂わば堅牢な鉄格子の中に閉じ込められているかのように錯覚していたのだ。
 それからしばらく、彼女は浮浪者となって各地をうろついた。ポケモンの力も借りずに、よくもまあ生き延びたものだとイジュは自分のことながら少し呆れていた。僕もそう思う。
 そしてやがて、彼女はある男と運命的な出会いをした。男はイジュを恐れなかった。憎みもしなかった。ただ衣食住を保障し、彼女を本の山の中に放り込んだ。彼がしたことはそれだけだった。たったそれだけのことだったのに、否、それだけだった故に、イジュは男を尊敬した。そしていつしか、親愛を寄せるようにすらなっていた。気付けば彼女は、ロケット団の研究施設のなかに放り込まれていた。騙されたのだろうか、と思わないでもなかったが、そうだとしてもよかった、らしい。それでも、イジュはまだ失った居場所を獲得したという結論には至らなかったようだ。もっとも、それは自然といえば自然で、彼女が求めた居場所は最初から最後まで一つの家の中にあった。だが、結局それも叶わなかった。なぜならイジュが想いを寄せはじめた頃には男は既に妻子持ちとなっていたし、男から彼らを奪うことも、イジュには出来なかった。結局、イジュは人並みには優しさも持ち合わせていたし、相変わらず、火事を恐れていた。
 ここで発生する問題が二点。
 まず第一に、イジュが彼を諦めることは毛頭出来なかったということ。彼女は自分の中に、人を不快にさせる素養があることを重々承知していたし、それを克服できた人間は、彼女の人生の中では両親と、それに彼だけだったということ。自らの居場所を獲得するために、ここにきて新たなる人材を探すにはあまりにも多大なエネルギーが必要だった。
 第二は、イジュが男を慕っているほど、男は彼女に対してそれほど執着していないことだ。何にせよイジュは、気付くのが遅過ぎた。天才的な頭脳を持って生まれながら、あまりに愚かだった。それを認めるには男の存在はあまりに彼女の中で大きくなりすぎて、彼女は恐れていた。
 いつしか、イジュは過去を模造するようになった。ニコチンをたっぷり吸い込んで吐き出した紫煙の中だけに夢を見て、煙の向こうの現実を見ないようになった。それからしばらくして、だ。彼女が自殺ごっこをするようになったのは。自分が死ぬことで、どれだけ世界に影響が出るかを夢想したいのか、それとも、夢と現実の乖離に精神が軋むことに耐えられなくなったのか。
(けれど、あいつは強いポケモンを求めているんだろう? 組織のために。だからあなたは僕を作ったんだ)
「そうだ。お前は切り札にして、最後のカードなんだよ」
(認めさせてやればいい。あなたがあいつの望みに必要不可欠な人材だってことを)
「……いやにやる気満々じゃないか」
(そういうあなたは随分やる気がないように見えるよ)
「良くも悪くも、最後のカードを出すのは勇気がいるもんだ」
(やってみなよ。僕も協力するからさ。……おかあさん)
 けれども愚かだったのは僕も同じだった。否、僕のほうがよりそうだったのかもしれない。僕は最後の最後まで気付くことができなかった。家を失って初めてその大切さに気付くように、僕も、培養槽の中にいることができなくなって初めて、僕が僕のことを何一つ知らないことに気付いた。しかも僕のことを知っているのは、世界でただ一人、イジュしかいないってことも。
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 確かに強い。だが、それだけだ。
 あの日のことを、僕は忘れない。イジュが研究成果を「あの人」に報告した日。あの人の反応は芳しいものではなかった。イジュはその回答を予期していたかのように、そっと視線を伏せただけだった。そういう意味ではむしろ僕のほうがショックが大きかったかもしれない。
「……強いだけなら、ミュウツーと同じだ。かつて作り出したものと同じものを作るだけで認めてくれるほど、甘い人じゃないことは分かってたんだ」
 あの人が帰ったあとにイジュが洩らした言葉に、僕はかっとなって噛み付いた。
(……じゃあ、あなたは何のために僕を生みだしたの!? どうして僕はここにいるのさ!?)
「すこし落ち着きなよ」
 イジュは笑いながら言った。いつにないその声の明るさに、僕は戸惑って口をつぐむ。
「誰が何と言おうと、わたしはおまえを愛してる。それだけじゃ不服だっていうのかい?」
(その言葉そっくり返すよ、ママ)
 思いっきり皮肉のつもりだったのだけれども、ふとイジュは真顔になって、ああそうだね、と笑った。
 それ以来、イジュは全てを失った。研究者仲間から向けられていた、畏怖のまなざしは再び嘲りに取って代わられ、彼女自身が夢中になっていた研究にも、それほど興味を示さなくなっていき、以前のように侮られながら与えられた課題をこなすだけになっていたらしい。それ以外は、ただ僕の「おかあさん」としてだけ、彼女は存在した。
 良くも悪くも、イジュはそれで安定を得たようだった。全てを失った一方で、全てを得た。けれど煙草の本数は増え続け、彼女は相変わらずのヘビー・スモーカだった。どんなにイジュが僕を自分の子供のようにかわいがっても、僕がおかあさんと彼女を呼ぼうとも、結局僕らは血が繋がった親子じゃないし、父の存在がなければ完璧じゃない。そうした理想との溝を埋めるために、彼女はたくさんのニコチンを必要とした、ようだ。
 僕らはまるで、おんぼろ馬車だった。ニコチンの力を借りて、がたがたと体中を軋ませながら、やっとこさでのろのろと走っていく。いつか破綻することは目に見えていた。彼女の自殺ごっこは、どんどん加速していった。僕が念力で手を貸さなかったら、死んでいたと思われる場面も何度かあった。それでも彼女は進み続けたんだ。ニコチンを食みながら、衝動的に自殺を試みながら、彼女は、生きていった。彼女は救いようのない人間だった。けれど、あのときの生へ向かう力、いっときでも死から立ち直るようにして仕事へ向かい、僕に母として接する彼女、それだけが網膜に焼き付いて離れない。身体を毒してまで生きようとした、イジュを突き動かしたものの正体は何だったのか。僕はいまだによくわからない。けれどそのことを思い返すと、胸が苦しくなった。
 ある日、僕らのいた研究所は落盤に襲われた。突然の地面の揺れに目を白黒させていると、僕のいる研究室にイジュが飛び込んで来た。彼女は僕と目を合わせようともせずに培養槽のロックを外しにかかった。
(イジュ? 何をするの?)
「ここは危険だ、早く逃げろ」
(逃げるってどこに?)
「どこかにだ。今更お前を捜す奴もいないだろう、喜べ、お前はもう自由の身だよ」
(喜べ、って……イジュはどうするのさ?)
「避難指示を無視してきた。おそらく、わたしはもう助からない。だが、変幻自在なお前の体ならどこへでも逃げられるだろう」
(ちょっと……待って! 僕はそんなの望んでない! 自由なんて……どうしたらいいのさ!)
 排水溝が開き、培養液が下がって行く。
 自由。それは僕にとって持て余してしまうものに過ぎなかった。信じられなかった。何がって、イジュが僕に対してそんな仕打ちをすることが。この辛さは、彼女が一番知っているはずだったのに、どうして。イジュは笑った。
「おかあさん、というものはそういうものなんだよ」
(酷い!)
 間髪いれずに叫んだ僕にもイジュは動じなかった。培養液は排水溝にすべて吸い込まれ、水槽のロックが外れる。彼女は僕を両の掌ですくい、じっと見つめたかと思うと、不意に微笑んだ。
「どうか、生きてほしい。世界で一番愛しているよ。ボーイ、」
 図ったようなタイミングで、天井から瓦礫が落ちて来た。小さな、コンクリートと鉄骨の塊。人間の頭ほどもあるそれは、イジュの頭部を潰すには十分だった。僕はなにがおこったのか分からないまま、呆然と、床に倒れ臥した彼女をみつめた。
(……イジュ? ねえ、イジュ)
 彼女は動かなかった。
 ああ……確かに、僕は彼女を愛していた。愛さずにはおれなかった。なぜなら僕を知っているのは世界で彼女ただ一人で、彼女がいなくなってしまえば、僕は本当にここにいるのかさえ、誰にも証明してもらえなくなってしまう。僕がどういう生き物なのか、僕は何一つ知らない。僕には彼女が必要だった。他の何もなくても、彼女さえいればそれで良かったのに。
(イヤだいかないで、いかないで! 僕をひとりにしないで、ねえ!? イジュは僕のおかあさんなんでしょう!?)
 彼女はいってしまう。どうしよう、どうしよう。ぴくり、と彼女の指先が動いた。やがて顔を上げたイジュが何かを言う。僕はハッと息を呑んだ。
 ……ああ、そうだね。それがいい。そうしたら、本当の親子になれる。きっとこうなるのが正しい。だってイジュが一番最初から望んでいたことは、母親になることなんかじゃなかったんだ。僕は彼女を愛していたし、彼女だって僕を愛していた。例え僕自身が望んでいないとしても僕は彼女のために生きていきたいと思った、それにはそれなりの理由が必要だった、それを彼女が与えてくれるというなら、そうするよ。僕は生きる。僕はイジュに這い寄る。彼女が生きているうちに、終わらせないと。その遺伝子情報が僕の内部に流れ込んでくる。僕の能力。彼女が与えてくれた、僕のちから。良かったね、きっとこれで望みは叶うよ。

 ……本当は僕になりたかったんでしょう、おかあさんは?

「――そういう、ことだったのか、」
「……どう? 少しは僕のこと、分かってくれた?」
 レッドは勢いよく振り返る。音も無く、背後にはイジュが立っていた。彼女は微笑んだ。
「僕が知らないとでも思った? でも、きっとこれで良かったんだよ。君には僕のことを分かってもらわなくちゃ」
「なにを、」
「みんな僕のことを分かってくれない。みんな僕じゃない。でも、それは僕に必要なものじゃなかったからだね。ずっとずっと探してた。でもやっと見つけた、僕に足りなかったもの。おかあさんが望んだ、本当の僕になるんだ。これでおとうさんもきっと認めてくれる」
 何が何だか分からない、ただ、ヤバイ。それだけが明瞭に分かった。脳内の警報は鳴り続けている。咄嗟の判断でマニューラが飛び出し、鍵の入ったイジュの白衣のポケットを噛みちぎり、その勢いのまま部屋を飛び出していった。イジュは追おうとする素振りこそ見せなかったものの、一瞬怯んだ。その隙に、レッドは腰のボールに手を伸ばしていた。
「ピカ、でんじは!」
 遅かった。イジュは人間離れした瞬発力で、一瞬でレッドとの距離を詰めていた。彼女は笑みを浮かべてひとりつぶやいた。
「これでやっと――」
(2014/01/08)