イジュ1
□ ゴールドとイジュの第一章。
□ オリジナルキャラクターの「イジュ」中心の話となります。ご注意ください。
アサギシティの海沿いの通りに面した町並みを一つ奥に進んだ裏路地に、知る人ぞ知るカフェがある。こじんまりとしたアパートメントの一階に構えるかたちのその場所は、ゴールドのお気に入りの店の一つだった。一見粗暴そうに見えるゴールドだが、育ちの良さ故か、案外一人前に繊細な感覚を持ち合わせているところもあり、実はたいそうな美食家である。普通の食事も美味しく頂ける性格の彼であるけれども、たまにその肥えた舌を満足させるために、あちこちへ食い道楽の旅に出かけることも少なくなかった。カフェの名前は、WADATSUMI という。ここも、ゴールドがそうした目的の旅の途中で見つけた穴場のひとつだった。少し値段は張るものの、挽きたてのコーヒーは香りも絶品、中でも彼の気に入りなのが、上質な小麦と卵、それにコーヒーの花の蜂蜜がたっぷりかかった分厚いホットケーキ。今朝、ふっとこの店のコーヒーの香りが頭をかすめ、一二もなく彼は飛び出したというわけである。
表面はかりっとしていて、中はふわりとしたホットケーキをきれいに平らげて、ゴールドは何か思いついたようにナップザックの中身を漁る。そこには、つい一週間前、博士とクリスから孵化を頼まれたポケモンの卵がある。まだ外の世界も知らない、けれど確かにそこにある生命だ。既に時々動くようになっていて、いつ生まれてもおかしくはない。ここに来たのも何かの縁だ、上質なコーヒーの香りや、小さめの音量で流れるレゲエ、この何から何まで調和のとれた空間を、卵にも教えてやろうと思ったのだ。
「……それ、ポケモンの卵?」
隣から、やわらかなアルトボイス。
ゴールドの座っているカウンター席の端にいた女性が話しかけてきたのだ、と気付くまでそう時間はかからない。背が高く、全体的にすとんとした印象で、鎖骨のあたりで二つに束ねた長い黒髪を、胸に垂らしている。あからさまに美人というわけではなく、顔立ちは整ってはいるものの、どちらかといえば地味な部類に属すだろう。年齢は、二十代半ばといったところだろうか。スタイルよし、顔よし、そして声よし。多少年上だろうが、ゴールドのストライクゾーンには余裕だ。
「そうっスよ。おねーさん、もしかしてポケモンの卵見るの初めてっスか?」
「うん。実物は初めて見た」
「よかったら触ってみます?」
好機とばかりにゴールドは席を詰めて、すすすと女性の隣に移動する。クリスが見たら、この卵から生まれたポケモンは女好きになるのかしら、なんて呆れて言いそうだ。しかし、幸か不幸かこの場にクリスは居ない。女性は、不思議そうな顔でゴールドから差し出された卵に手を伸ばして、触れて、間の抜けた声を上げて手を引っ込めた。
「うわあぁ、」
「ど、どうしました?」
「……あ、いや。あったかいんだね、卵って。びっくりしちゃった」
「はは、なんだ、こっちがびっくりしちゃいましたよ。抱いてみます?」
うん、と女性はどこか意を決したようにつぶやき、両手でゴールドから卵を受け取る。落とさないように気をつけてくださいね、とゴールドが釘を刺すと、女性は神妙な表情で、もういちど、うん、と頷いた。なんだか見た目よりあどけない女性だなあ、とゴールドは思う。まあいいけど。こういうギャップにも燃えるってもんだぜ。
ぎこちない仕草で両腕に卵を抱えた女性は、うっすらと微笑む。
「……ふふふ、ほんとうにあったかいね」
「そりゃそうっスよ、こんなでもちゃんと生きてんスから」
「……生きてる?」
「あっ、ひょっとしておねーさんもポケモンは卵から生まれるまでは生きてないって思ってるクチっスかあ?」
ちっちっち、とゴールドは難しげな顔をつくってみせる。
「卵は硬いし動かねえけど、殻のなかじゃちゃんと動いてるし、もう生きてるんスよ。俺らのやり取りとか、おねーさんの声も、こいつにはもう聞こえてんだ」
「僕の声も?」
「そうっス」
女性はしばらく卵の感触を確かめるように繰り返しそれを撫でていたが、しばらくして、ゴールドに向かって微笑んでみせた。
「……君は、この子を大切にしているんだね」
「勿論っスよ! ポケモントレーナーたるもの、全てのポケモンに平等に愛情を注げなくっちゃあ」
「……。……ポケモン、トレーナー……そう、君、ポケモントレーナーなんだ?」
「はい! もしかしておねーさんも?」
これも何かの運命っスねー今度一緒にダブルバトルでも、とゴールドの中では次の台詞がしっかりと決まっていたのだが、予想に反して女性は視線を伏せ、首を横に振った。
「……ううん。僕は、ちがうんだ」
その様子があまりに悲しそうだったので、きっと何か複雑な事情があるのだろうと、ゴールドは思った。イジュは落ち込んだ気分を払拭するように顔を上げ、ありがとうと声の調子もワントーン高めに、抱いていた卵をそっとゴールドに返そうとした、そのときだった。
「う、うわっ?」
「わ、! お、お姉さんしっかり持って!」
女性が両の掌で持っていた卵が、急に暴れだしたのだ。咄嗟のことに驚いた彼女が取り落としそうになるのを叱咤して、ゴールドは慌てて自らの掌で卵を下から支える。う、うん、と動揺しながらも力強く返事をした彼女は卵を離さず、四つの手で支えられた卵はなんとか宙で安定する。殻の内側から掌に、衝撃。生まれる、とゴールドは直感した。
今まで幾多のポケモンの孵化に立ち会ってきたとはいえ、それは卵を平らな場所に置いてのことだ。掌に直に伝わる、誕生の気配。息を呑んで、ゴールドは女性を上目に窺った。彼女は瞬きもせずに卵を見下ろしている。
「……うわああー!?」
その直後、音を立てて卵が割れたと同時に、生まれたばかりのルリリがその勢いのまま女性の顔めがけて飛びついた。動揺のあまり身体ごと後ろにのけぞった彼女は、座っていたカウンターチェアごとひっくり返る。コップの一つも巻き込まなかったことが奇跡的な大惨事である。
「お、おねーさん大丈夫っスか!?」
店内の客がいっぺんに集まるなか、椅子もろとも仰向けにひっくり返った女性はしばらくじたばたしていた。そんな彼女をルリリがひょっこりと覗き込む。途端、わー!? と再び声を上げてパニックに陥りかけ、ゴールドは慌ててルリリをひょいと抱き上げた。もう片方の手で女性を助け起こす。
「ったくもー、ヤンチャにもほどがあるだろーが。誰に似たんだテメー」
ゴールドはぼやいた。どこぞの学級委員がこの場にいたら、間違いなく突っ込まれたであろう台詞である。大丈夫ですか、とカウンターをまわって定員が駆けつけてきて、ゴールドと女性はカウンター席を二つほど移動した。店員はもといた場所の席に散らばった殻の欠片を掃除し、椅子を直してくれていた。すみません、と恐縮した女性に、店員はにっこりと笑って、いいんですよ、おめでとうございますと返した。
普段は静けさを求めてやってくるだろう店内の客も、このカフェでの一連の騒動を、新たな命の誕生というイレギュラー・ケースとして受け入れたらしかった。向けられる表情は仕方ないなあという苦笑もあれば、むしろ嬉しそうな笑顔もあった。ほんのりとあたたかい、ほほえましいような空気が店に満ちる。席を変わった女性は戸惑ったように周囲を見回して、ぽそりと呟く。
「うるさくしたのに、なんだか、みんなうれしそうだ……」
「そりゃそうっスよ。新しい命が生まれたんだから」
「それってそんなに大変なことなの?」
「当たり前じゃないっスか」
おねーさんも面白い冗談いいますねーとゴールドは笑う。
そう。そうだね。面白かった? 女性は微笑み、半ば溶けかけたフロスティに埋もれるコーヒーゼリーをスプーンで掬いながら、ふっと真顔になる。半端に開けられた窓から、すうと一筋の海風が流れ込んできた。
「……このカフェの名前。WADATSUMIって、何のことだか知ってる?」
「へ? いや。変な名前とは思ってましたけど」
「ワダツミ。海の神って書いて、ワダツミって読むんだ。意味もそのまま、海の神様のことなんだよ。同時に、海そのものを指す場合もある」
「へえー、物知りっスねえ」
「海は全ての命の源流ともいわれている。単細胞生物から多細胞生物へ。もとは海で生まれた微生物が、環境に適合するために進化して人間やポケモンになった、と言われているという説が有力だね。その一番の素は、地球を訪れたミュウが落としていったとか、諸説あるけれど、ポケモンも人間も海で発生し、進化の道をたどってきたという点は、ほぼ確定的になっている」
女性はそっとルリリに手を伸ばす。ルリリはゴールドの手から離れ、女性の膝の上に飛び移った。
「キミも海から生まれたんだよ?」
「うーん、まあそう言われればそうかもっスね」
「だから……ええと。海の神様を冠する店でこの子が生まれたのは、素敵なことだって、そう言いたかったんだ」
それとほぼ同時に、ゴールドの鞄の中にあるポケギアが震えた。女性に断って店の外に出て通話ボタンを押すと、クリスからだった。預けた卵の様子を尋ねるために連絡したらしいが、あいにく今さっき生まれたばかりだ。
『博士が、明後日には仕事で研究所を空けちゃうのよ。だから、できれば今日中に連れてきてくれないかしら?』
と、そういうことだった。今は女性を待たせてある身だ。一応は渋ってみたものの、何か用事があるの? とクリスに冷静な声で問われて、グッと詰まった。このまま暫くあの女性とデートと洒落込みたいところだが、いかんせん動機が不純過ぎる。だからといってここで嘘を巧みに扱う気になるほど、ゴールドは良心を失ってはいなかった。
あの人のポケギアの番号をゲットするだけで良しとするか。そう思いながら店内に戻ったゴールドが、女性に事の次第を伝えると、彼女はたいそう驚いた顔をして、言った。
「オーキド博士の知り合いなの、キミ?」
「そうっスよ。なんてったって俺、図鑑所有者っスから!」
ここはアピールポイントだと、すかさず判断したゴールドは鞄からポケモン図鑑を取り出してみせる。女性の目がまるまると大きくなる・
「ずかん、しょゆうしゃ……? それって……オーキド博士に図鑑を託された少年少女のうちの一人、ってこと? キミの名前は?」
「そーゆーこと! 俺はゴールドっス」
急に矢継ぎ早になった女性の口調を内心でいぶかしく思いつつ、ゴールドは胸を張る。しかし女性のほうは、そんなことなど気にも留めた様子を見せずに、ゴールド、とつぶやく。その声色の真剣さに、ゴールドは思わず状況も忘れて息を呑む。
「僕も、一緒に行っていいかな? オーキド博士に話したいことがあるんだ」
「……ある人を、探しているんだ」
彼女は、イジュと名乗った。
トゲキッスに二人乗りをしながら色々と話をしているうちに、簡単ではあるが彼女の事情もうっすらと分かってきた。なんでも、昔に生き別れた恋人を探して、各地を転々としているのだという。それをあっさり言ってしまうところを見るに、ゴールドには脈無しと見て良さそうだ。内心ちょっと項垂れながらも、ゴールドはイジュの話を聞いた。こんなんでいちいち凹んでたらナンパなんてやってられねえし。でも久々にいい感じの流れに持ち込めたと思ったのになあ。しかも結構年上のお姉さんとかさ、久々なわけよ。うーん、くそう。と思いながらも、ゴールドとてナンパ相手の恋路を邪魔するほど物好きではないし、それほど本気なわけでもない。ここは、大人しく引き下がることにする。
「それで、なんでオーキド博士に? ……まさか博士が恋人、とか」
「いや。それは別件」
あっさりとイジュは首を横に振る。
「オーキド博士に伝えたいことがあるんだ。今までも何度か、連絡をしてみようと思ったんだけどね。なかなか取り次いでもらえなくて」
ただでさえ多忙な博士である。タイミングが悪ければ繋がらないし、見ず知らずの他人からかかってきた電話を、助手や他の研究者たちがどう見るかは怪しいところだ。特にイジュの場合、酷く変わった物の言い方をして、変人扱いされていてもおかしくはないな、とゴールドは妙に納得してしまう。しかし、図鑑所有者であるゴールドからの紹介であれば、なんとか取り次いでもらえるかもしれない。クリスもいることだし。
「ま、今は博士も研究所にいるみたいだし、この俺の口利きがあれば問題ねえ。心配すんなって」
脈無しと分かるなり、ぞんざいな態度に出るゴールドである。年齢よりもずっと幼いような言動をするイジュが、年上と思えない所以だろうか。イジュは口調の崩れたゴールドを前にしても嫌な顔ひとつせずに、ありがとう、と微笑んだ。
「けどそのルリリ、随分とイジュに懐いてんな」
ちなみに、生まれたルリリはイジュの腕の中だ。ゴールドが孵したとはいえ、一応研究所からの預かりものであるから、許可なしにモンスターボールに入れることはできない。生まれて最初に見たのがイジュの顔だったからだろうか、ルリリはイジュによく懐いて片時すら離れようとしなかった。
「そうかな」
「ずっと抱いてやった俺には見向きもしないくせによぉ。イジュ、ポケモントレーナーの才能あるんじゃね?」
ゴールドが後ろに座るイジュを振り返りつつ言うと、イジュが俯いた気配がする。ルリリがきょとんとして、どうしたのというふうに鳴いた。
「なあ……。話したくないなら、別にいんだけどさ。イジュがポケモントレーナーじゃない理由って、なんかあるのか?」
「…………ない、けど」
消え入りそうな声で、イジュは答える。
「……ない……けど。……無理なんだ」
「無理……?」
そう、無理なんだ、と彼女は繰り返した。イジュが虐められていると見たらしいルリリがぽこぽこと尻尾でゴールドの背中を叩く。痛くはないが、極めてうっとおしい。これ以上問いつめる気もないゴールドは、わかったわかったとルリリを宥めつつ口を閉じた。
「ゴールド、ゴールドぉ!」
ゴールドの屋敷に全身濡れ鼠となったイジュが駆け込んできたのは、それから一月後のことだった。オーキド博士のお手伝いをすることになったんだよ、とにっこりと報告されて以来、連絡らしきものは一切取っていなかったのだが。しかし当のゴールドは例によって出かけており、彼女を迎えたのはゴールドの母親だった。
見知らぬ女が息子の名前を連呼しながら家に飛び込んできたという異常事態にも関わらず、彼女は目を丸くしただけで、少しも慌てたような素振りを見せなかった。
「いらっしゃい、ゴールドのお友達?」
「こ、この子が、この子たちが、ど、ど、どうしよう!」
不安げな顔をしたルリリを肩に乗せて泣きそうな顔をしているイジュの腕の中には、まだ卵の殻を半端に纏った生まれたてのヒトカゲ、四匹。どうやら雨ざらしにされていたものらしく、どの個体もぶるぶると震えて、尻尾の炎も消えかかっている。
「みんな、手伝って!」
それを見るなりゴールドの母親はおっとりとした表情を引き締め、後ろを振り返って強い口調で言う。するとすぐさまドタバタと、屋敷のポケモンたちが出てきて、イジュの腕からヒトカゲ達を受け取って奥の部屋に運んで行く。ゴールドの母親は、途方に暮れたような表情でそれを見送るイジュの肩に手を置いた。
「さあ、落ち着いて。私たちも行きましょう」
ゴールドの母親はイジュを連れて屋敷の奥、広いサロンに足を踏み入れた。ヒトカゲたちは毛布の敷かれたテーブルの上に寝かされており、屋敷のポケモン達が入れ替わり立ち代わり、甲斐甲斐しく面倒を見ている。
ゴールドの母親はヒトカゲたちを触診した後、その場で薬箱を広げて、粉末の詰められた薬瓶をいくつか取り出した。木の実を挽いて粉にしたものだ。幾種類ものそれらを計量スプーンで二つに折られた薬紙に盛り、できあがった傍からそれをスリープがボウルに流し込み、ニョロゾがみずでっぽうで少しばかり水分を含ませる。スリープが手を入れてかき混ぜ、軟膏状になったそれをヒトカゲの身体に塗りこんでいく。
「あれは、くすり?」
「ええ、強いものではないけどね。少しずつ血行を良くしてくれるのよ」
「あんなに弱ってるのに、強い薬じゃなくて平気なの?」
「弱っていると、強過ぎる薬は逆に毒になるのよ。さ、これで出来るだけのことはしたわ。後はポケモンたちが見ていてくれるから、あなたはお風呂に入らないとね」
ゴールドの母親はイジュの背中側から肩を押しだすようにして歩かせて、廊下に出る。けれどもイジュはまだヒトカゲたちの安否が気になるようで、進みながらも必死に後ろを気にしている。心配そうにイジュを見つめるルリリの視線に構っている余裕もないようだ。
「あの子たち、大丈夫?」
「大丈夫よ」
「なんで? どうして大丈夫なの?」
「出来るだけのことはしたからよ」
「じゃあ、助かるの?」
「それは分からないわ」
「そしたら、大丈夫じゃないよ!」
「いいえ、大丈夫なの」
ゴールドの母親はイジュを脱衣所に押し込んだ。ふわふわした白いバスタオルを押し付けながら、言う。
「絶対に死なない、なんてことはないのよ。生き物なんだもの」
「でも、だったら、大丈夫なんてこと、ないよ!」
「どんな生き物も必ず、死ぬかもしれないというリスクを負って生まれてくるの。生きることも死ぬことも、表裏一体のことなのよ。死を持っているからこそ生きているの。だからね、だれかが死ぬということは、悲しいけれど、受け入れてあげるべきことでもあるの。絶対に死なない、なんてことはね、生きているということを否定するということでもあるのよ」
バスタオルを押し付けたままに、ゴールドの母親は真摯な表情を向ける。イジュの目から、不意にぼろりと涙がこぼれおちた。ほら、とゴールドの母親がその顔をバスタオルで拭う。
「さあ、お風呂にお入りなさいな。風邪をひいてしまうわよ。熱いお湯につかったら、きっと気分もよくなるわ。その間に、気分の落ち着くお茶を用意しておくからね」
イジュはわなわなと唇をふるわせていたけれども、やがてこくんと頷いて、大人しく服を脱ぎ始めたので、ゴールドの母親は脱衣所の扉を閉めた。扉の向こうから、ひっく、ひっくとしゃくり上げる声が聞こえてくる。ゴールドの母親は一度サロンまで戻って、オオタチに風呂場の番を頼んでからキッチンへ引き上げて行った。
雨の中ゴールドが帰宅すると、母親はキッチンでハーブを煮出していた。ただいま、と言うと、おかえり、と彼女は簡素な挨拶を返す。キッチンに置いてあるのはハーブの缶のほかに、緑色の瓶に入った炭酸水だ。後で飲もうと思いながらゴールドが自分の部屋に向かおうとしたとき、母親が振り返って声をかけてきた。
「今日、長い黒髪の女の人が訪ねてきたんだけど、あなたの友達?」
「へ? ……え、それって、」
ゴールドが答えようとしたとき、廊下に面した扉が開いて、母親に借りたらしいワンピース姿のイジュが入ってきた。全身から湯気を立ち上らせている。自然と目線をそちらに動かしたゴールドと、目が合う。両者一瞬固まったのち、ぶわ、と表情を崩したイジュがゴールドに突進してきた。
「わあああ、ゴールドぉー!」
「わー!? ど、どうしたんだよ!?」
びたん、と音を立ててイジュはゴールドを下敷きに押し倒す。わんわん泣き続けるイジュの下でゴールドがもがいている間に、ゴールドの母親があらあらと言いながらも呑気に飲み物の準備をしている。肩を掴んで引きはがそうとするものの、不利な態勢のためか、それともイジュの腕力がすごいのか、びくともしない。とん、とゴールドの母親がイジュの頭を撫でた。
「さ、立って。お茶が入ったわよ」
すると、ゴールドがあれだけ押しても離れようとしなかったイジュが自ら身を起こして、頷いた。床に残されたゴールドはぽかんとしながら、息子のことを少しも気にする素振りを見せない母親と、彼女の一言であっさりとゴールドを解放したイジュを見上げる。俺の存在って一体。
レモングラスと蜂蜜の香る紅茶の炭酸割り。イジュはそれを飲み終わると、泣きつかれたのかそのままルリリと一緒に眠ってしまった。
「彼女の名前は何ていうの?」
「……ああ、イジュっていうんだ」
「子供みたいなひとね」
「うん」
「ゴールドの小さい頃を思い出したわ」
ゴールドの母親はくすりと笑うが、一方のゴールドは何とも言えずに黙り込んだ。彼は、とても聞き分けの悪い子供だった。ことさらポケモンの死に関しては、その現象そのものが納得できず、よくよく両親に食ってかかったものだった。実のところ、今でもあまり納得しているとは言いがたい。死に直面したとき、ぐっと歯を食いしばって堪えることはできるようになっても、相変わらず彼は死というものを許せずにいる。彼の母親のようにある種の境地に達してそれを受け入れるのは、どうにもこの先望めそうになかった。
その後まもなくしてラッキーがキッチンまで三人を呼びにきた。元々深い眠りでなかったらしいイジュも、その鳴き声に目を覚まし、三人でサロンに向かった。テーブルに敷かれた毛布の上に横たわっている四つの身体。ふとゴールドの視線が、一番左側のヒトカゲで止まる。他の三体よりも一回り小さなその個体は、微動だにしなかった。視線を下に。尻尾の炎も消えている。
イジュがへなへなとその場に座り込んで泣き出した。迸る感情は、生き残った三体に向けた安堵所以だったのか、死に赴いた一体に向けた悲しみ所以だったのか。おそらくその両方だったのだろう。
「あのとき、確かに生きてたんだ」
イジュは悲痛な声で呟いた。
「僕の腕の中で、この子は生きてたんだ」
その翌日はよく晴れた日だった。昨晩は結局屋敷に泊まることになったイジュを誘って、ゴールドは私有地である裏山に出かけた。朝一番に、ゴールドとイジュでポケモンセンターに連れて行った三匹のヒトカゲも一緒だ。昨日あれほど弱っていたのが嘘のように、ヒトカゲたちは互いにじゃれつきながらゴールド達の後をついて歩く。同じく生まれたばかりで加減も知らないルリリも、三匹のヒトカゲに混じって山道を踊るように進んで行く。
ゴールドの腕には、布でくるまれたもう一匹のヒトカゲがある。既に息をしていない、ただの屍だ。イジュはそれを怖がった。無理もないと思う。ゴールドは、どちらかといえば死体に対する恐怖感は薄いほうだ。ポケモン屋敷と呼ばれるほどポケモンで溢れた我が家に、死は付き物だった。小さな頃から幾度となくそれを目にしてきたからだろうか。死んでしまったということに対する悔しさややり切れなさは昔から変わらず彼の中に存在するのだけれども、未知のものに対するような恐怖を抱くには、それは身近すぎていた。けれど本当の最初、初めて直面したときには、確かにそのものに対する恐怖を抱いていたのだ、とゴールドは何故か確信していた。
「この子たちは、悲しくないのかな?」
歩きながらイジュは、三匹のヒトカゲたちを見下ろして呟く。
「生まれたてだからだろ。兄弟がいたことすら、もう忘れちまってるかもな」
「そういうものなの?」
「そういうもんさ」
「……」
「……」
「……ゴールド」
平坦な声でイジュがつぶやく。
「この子たちね。道路の端っこで、箱に入ってた。……どうして?」
声に温度が無いことが、逆に不気味だった。しかし、イジュのその言葉を聞いた途端、ゴールドはすうっと頭が冷えて行くのを自覚した。落ち着いた、という意味ではない。霜のように怒りが降りてきて、文字通り冷たくなったのだ。
「げんせん」
知らずのうちに、ゴールドはそう口にしていた。自分の声のつめたさに驚く。
「厳選っつってな。トレーナーの中には大量の卵を孵して、生まれつき能力の高いポケモンだけを手元に置いて、残りはごっそり捨てちまう輩がいるんだ」
イジュは何も言わなかった。二人は黙々と山の中を進んで行った。
それから五分としないうちに、開けた場所に出る。ここは特別な場所だった。霊園、とゴールドと母親は呼んでいる。墓地といえばそうではあるのだが、その言葉の響きがあらわすような暗くおどろおどろしいイメージは似つかわしくない。確かに、ポケモンが死ねばここに埋められる。けれど、ここは時に墓が埋もれるほどの一面の向日葵畑であることもあるし、シロツメクサの絨毯が敷き詰められることもある。ゴールドの母親は、たまに思い出したようにそういうことをする。だってここで眠っている子たちが、会いに来てくれているような気がするんだもの。いつか満開の向日葵畑を前にして、ゴールドの母親は満足げに微笑んでいた。花々の季節の終わりとともに、木の棒や石ころでつくられた墓は、どこにあるかすら分からなくなってしまう。それが彼女にとっての供養だった。
いまは、二、三の墓がぽつりぽつりとあるだけで、後はまっさらなこの地を見渡す。
「どこがいい?」
ゴールドはイジュに向かって淡々と問うた。イジュも、感情のこもらない瞳で指さした。
「うん。……あそこがいい」
二人はその場所に跪く。膝が直に地面に当たる感触はいつだって変わらない。土が近くなり、草と地面のにおいが混ざり合ったような青臭さが鼻孔に入り込む。その瞬間に、ようやくゴールドは自分の一番奥深いところから外側に向かって、忍び寄った死が、体内を浸食していくのを自覚する。
イジュが選んだのは、日当りのよい霊園の中心近く。光の加減で白っぽく見える土はいかにもあたたかそうだった。ここに来る途中で拾ってきた手頃な枝で、ゴールドは土を削り始めた。イジュは無言でそれを見ている。
生まれて間もないうちから、雨に晒されたヒトカゲの屍は冷えきっていた。ざあざあ降りの雨に浸されて奪われた温度が、かれの身体に戻ることはなかった。雨は生まれたての炎をどこかに攫っていってしまった。いったいどこに?
「その子を、抱かせて」
不意にイジュがつぶやき、黙々と穴を掘り続けていたゴールドがゆっくりと顔を上げて、イジュにヒトカゲの屍を渡した。ゴールドは何も言わずに作業を再開する。イジュは両腕でしっかりとヒトカゲを包んだまま、音もなく細く長い溜息を吐き出した。その仕草は、彼女なりに目の前の死を理解しようと努めているようにも見えた。
おはかをつくろう。ゴールドが穴を掘り終えて暫くしてから、イジュはようやくそう言った。それは自分自身に言い聞かせているようでもあった。ヒトカゲをゴールドの掘った穴の中に横たえてやりながら、呟く。
「……僕、生まれることは嬉しいことで、死ぬことは悲しいことだと思ってた」
WADATSUMIでルリリが生まれたときはみんな嬉しそうな顔をしていたし、瀕死のポケモンを助けられなかったときは、みんな悲しそうな顔をしていたから。けれど、ゴールドのお母さんは、生まれることと死ぬことは表裏一体だって言ってた。僕、嘘だって思ったんだ。生まれることと死ぬことは、ぜんぜんちがう。でも。
「この子は、生まれた瞬間も死んだ瞬間も、悲しかったろうね。きっと生まれないほうがよかったんだ、って。そう思ったら、なんとなくだけど……ゴールドのお母さんが言ってること、わかった……気がした」
「……くそっ!」
イジュの言葉に重なるように、ゴールドが吠えた。
「ざけんなよ……ざけんなよ。ゲームじゃねえんだぞ、畜生!」
跪き、表情を隠すように俯いたゴールドの目から、次々に涙がこぼれおちる。添えられたままのイジュの指先ごと、熱い涙の粒はヒトカゲを濡らした。
ほら。
イジュは目をとじて呼びかける。あたたかい雨だよ。
もう凍えることはない。きっと暖まることもないのだろうけど。もう全ては手遅れだと分かっていた。それでもこのヒトカゲが墓になる前に、その肌に注がれた最後の雨が、あたたかいもので良かった、と思った。
「お帰りなさい」
屋敷はしんと静まり返っていた。ポケモンの声ひとつも聞こえない。まだ物の道理も分からない、生まれたてのヒトカゲとルリリたちも、その異様な空気に押し込められたように静かになった。
ゴールドの母親は整頓されたキッチンのダイニングテーブルに腰掛けて、布のブックカバーに包まれた文庫本を手にしていた。シンクの横にある食器立てには洗いたてのボウルや調理器具が水を滴らせながら静かに光っていて、電気式オーブンは赤く明滅している。おそらく今日のおやつだろう。彼女は悲しいことがあったときには、とても甘いおやつを作るのを習慣にしていた。
「ちゃんとお墓はつくれたかしら」
彼女の言葉は、ゴールドへというよりもむしろイジュに向けられたものだったのだろう。うん、とイジュはこくんと頷いた。
それがどんなに悲しいことだとしても、死ぬときは死ぬ。どれだけ多くの人やポケモンがどれだけ泣き叫ぼうとも、止まらない。世界はそれほど優しく出来てはいない。死ぬこと。あるいは、死なせること。それらは善でも悪でもない。それは世界の理として、絶対的な権力として、ただそこに横たわっている。それだけなんだ。
だれがあのヒトカゲを殺した、とか。そんなことは些細なことに過ぎない。だれがあのヒトカゲを殺していたっておかしくはない。そういうものだ。だから憎んだり恨んだりするのは、少し違う、とイジュは考えた。世界の中のひとりが殺したというのならば、他の全員だってだれかを殺すんだ。だからほんとうに憎むのならば、世界そのものを殺さなければ道理は通らない。
そして、世界中の人がだれかを殺すけれど、世界中の人は今生きている。ならば、世界中の人がだれかを生かしているという論理にはならないか。少なくともいまは、殺さずにいることで、殺されずにいることで、ここに生きているのだから。
「あの子は、この子達は……僕が拾ってからずっと、寒いって言ってた。抱える僕の腕がどんどん冷たくなっていって、頭がおかしくなりそうだった。ここに運び込んだときは、もう意識ももうろうとしていて、たぶん死ぬまでそうだった。死ぬまでずっと心細くて、でも、苦しんで死んだ訳じゃないって」
イジュは言葉を切った。それから、よわよわしく笑った。
「……やっぱり無理だね。あの子が死んだってことを、できるだけ優しいようにしたかったんだけど」
「死ぬことには温度がないから。しようがないわね」
ゴールドの母親が苦笑いする。悲しそうな表情だった。「でも、あなたの優しさは伝わったわ」
オーブンが電子音を立てて、赤い光が消えた。ゴールドの母親は、息子にお茶を淹れることを言いつけて、オーブンの蓋をあけて鉄板を取り出した。
やがてテーブルには蜂蜜のケーキとダージリンの紅茶が並ぶ。蜂蜜のケーキはとても甘い味がした。この異様な雰囲気にも慣れてきたのか、ルリリとヒトカゲ達ははしゃぎながら蜂蜜のケーキをほおばっていた。
「イジュさ、おまえ、ポケモンの気持ちが分かるのか?」
ゴールドはふと疑問を口にする。先ほどの彼女の物言いが、妙に感情移入したものだったことが気になったのだ。知り合いにそうした能力を持っている人がいるだけに、尚更。
「……そういえば、そうかも」
呆気にとられたような表情をしたイジュがつぶやく。もしかしてトキワ出身なのだろうか、とも思ったが、トキワで生まれるポケモンの意思を読み取る能力の持ち主が生まれるのは、確か十年に一度だったはずだ。イジュの世代では既にワタルという能力者が生まれている以上、年齢的につじつまが合わない。
「生まれつき?」
「……ううん……どうだろうね」
イジュは曖昧に微笑んだ。その表情は寂しそうだったので、ゴールドはそれ以上聞くのを止めた。
(2013/10/13)