星の涙(未完)
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□ ゴークリ←エメ
□ 「屋根の上のブルース」の前身のようなそうでないような。いろいろと駄目でした
序章
 ある夜、塵一つなく磨かれたオスミウムのような空を、ひとつぶの星がゆるやかに流れ去ろうとしていた。そのからだは燃え立ってしろくかがやき、地球のどこの水よりも冷たく透きとおった水で満たされている夜空の中にさざなみを引き起こしながら、後には光の波紋を残して流れてゆくのだった。燃えているもの、そうでないもの、見渡す限りの無数の星がもっとも巨大な恒星と一定の距離を保ち、規則正しく取り巻いているなかを通り過ぎてゆくかれから見た太陽系の惑星群は、いずれも闇の水に半分ほど浸かった、がらすだまのように見えるのだ。星はゆっくりしたひといきの間に、目下遠い地球の山を越え、ふたいきの間には海を越えるのを、かの惑星の闇の中に、光苔のような弱々しい輝きが瞬いているのもわかった。そのとき星はふと、誰かに見られているような感じをうけ、のちにすっかり地球を通り過ぎて、見えなくなってしまった後にさえ、星はずっと見られつづけているようだと思ったが、かれのなかで、そうした考えは気まぐれな旅人のように、気付けば忘れ去られてしまっているのだった。
 同じ刻、闇に浸かった地球の半分は、山や岩や人工の建造物などがすっかり水底に沈んで、ものというものが互いに溶け合っているようにすら思われた。梟や虫の声、運送トラックの排気音、電車の走る音、それら夜行性のいきものたちの息遣いが反響するとろとろした暗がりのなかで、クリスタルは流れ星を見た。彼女の目には、空が天高くはりつけられた一枚の板というよりも、地上からずっと階層的に続いている、くらい海であるような気がした。じぶんが水底に這い、息をひそめて暮らしているいきもので、炎に燃えてぼやける星は、水面をへだてたその上のほんとうの空を滑る鳥のような気がした。きっと星は、こっちのようすなんてぜんぜん分かんないんだわ。と彼女は心の中で洩らした。コンクリートの街並や、地をはう生き物のことなど、見てあざ笑うどころか、ちっとも気にしやしないんだわ。と。
「ポケモン塾のしごとを手伝って欲しいの」
 眠る前、とはいっても零時を過ぎたころ、クリスタルは同い年の少年と電話をした。明日は、彼女が親しんでいる塾の壁紙の貼り替えがあるのだ。眠り鎮まった彼女の街のなか、スピーカーの向こうだけ、別世界のように騒がしい。男女問わない絶え間ない話し声、断片的に聞こえるエレキギターの掠れた音色はどこかのロック・ミュージシャンの演奏だろうか。よる一つ隔てて、昼の世界にいるかのように目の覚めた彼の、つまらなそうな、渋るような声色がここちよく耳を打つ。
『なんでオレ? つうか当日に言うなよ、今日オールの予定なんだけど』
「ごめんなさい、声をかけるのを忘れていたのよ」
 彼の言うことはもっともで、わたしは声をひそめた。真摯に言いさえすれば、電話の向こうですこし態度の軟化する気配が感じられる。あいからわず、かんたんにウンとは言ってくれないけれど。
「前来てくれたときに、みんなずいぶんあなたに懐いてたじゃない? うっかりあなたの名前を出したら、みんな大喜びで、断りきれなくなっちゃって。どうにか都合してもらえないかしら……?」
 それから二言三言かわして、電話を切った。
 しょうがねえな、と、かれはいらだっているのと同時に、わずかに喜色の見え隠れする声色で言い、その次に、何時?と尋ねたその言い方だけは一応の格好をつけていても、声の温度は既にまるく、温順だった。時間を伝えると、わかった、と返ってきたけれど、どうせ遅刻するだろう。それともわたしよりも早く到着して、寝ないで来た、と言って、隈のふかい目元で笑うかしら? 想像して、クリスタルはひとりほほえんだ。
 微笑の合間、嘘にも充たないほんの少しの誤魔化しが、緩やかに心を刺す。さざなみのように押し寄せて、粒子の細かい砂がからだの表面をここちよく洗いざらす。ああ、言うのを忘れていたということは、嘘だ、と彼女は自分自身に対して、陶酔にも似たあまやかな気分で告白した。昨日の昼間、子供たちから彼のことをせがまれたときから、事柄は絶えずクリスタルの意識の表面まで浮かんできて、むしろ彼女自身で忘れようと努めたほどである。しかしひょっとしたら自分でそう思い込んでいるだけで、本当に忘れていたのかもしれない、記憶違いというのはよくあることだから、とも彼女はすぐに言って聞かしてみる、あるいは、これは心の内のできごとであって、嘘と呼ぶにはあまりにも隠匿されているから嘘にはなり得ないという結論を下す。クリスタル自身、そのひとりごとのやりとりが魔術によるものであること、魔術によって導き出されるものなど高が知れていることを自覚していながら、なおもそれを快く受け容れられるのはおそらく、長年の習慣のためだろう。善良であるべしと過去の彼女は命じ、現在の彼女はそのためにさまざまなものを押し殺すことが多々あった。
 そうして通話を終えた後、クリスタルは一度ねむったのだったが、わずかに二時間後に彼女は再び目を覚ました。眠気も起き抜けの怠さもまるで感じられず、彼女は自室の木綿のカーテンを開けて、ベランダに出たのだった。夜風はずっと傍にいたかのような温度で、寒さに身震いするようなこともなかった。星がみっつよっつ静かに光っているほか、空は一面の紺碧に塗りつぶされていたが、ずっと眺めていると吸い込まれそうなほどに透き通っていた。そして、誰に誘われるともなく、感情をなぞるように、彼女は自分の身辺のことを思い返し始めたのだった。
 手始めにクリスタルは、ゴールドにあえて前もって連絡をしなかったのは、とはじめた。「わたしが彼に連絡をしなかったのは、彼の不機嫌な声が聞きたかったからだ」普段の彼女であれば、思いもよらなかったに違いない考えが、ふいにこぼれおち、それがおかしくて彼女はひとり笑う。だが、それではただの意地悪じゃないか? 普段の彼女はそれを、ゴールドが彼女によって不機嫌をおさめ、彼女のわがままを聞いてくれるのを望んでいたのだと冷静な分析のうえで結論づけた。「どうやらわたしはゴールドのことを好きらしいので」というわけだ。けれども理由がなんであれ、わたしがゴールドを不機嫌にしたかったというのは、むしろそれだけが動かしようもなくほんとうじゃないかしら? と少しばかり意地悪な気持で呟いた。彼女らしくもない奔放な夜更かしにか、今夜の彼女はふしぎに高揚していて、しごく常識に則った結論に唾をひっかけるのが楽しくて仕方のないように感じていたのである。
 ゴールドが、好き、だと。気付いたのはつい二年前、夏の土曜日のことだった。ふと、暗く透き通った大気を溜めたような空の向こうに、そのときの光景が、待ち受けていたように浮かび上がってきた。
 これまでに幾度となく経験してきたのと同じ夏、同じ土曜日、まぶしい焼け付くような日射しがやわらかな土の地面にうけとめられていくらか和らいだ暑さのなか、ひとごとのように涼しげに葉を揺らしているポプラの枝葉のしたの道を通って、クリスタルはオーキド研究所の扉を開けた。彼女が休日に研究所をおとずれた目的はふたつ、終わらせきることのできなかった事務仕事を片付けてしまうためと、ついでに、ゴールドの図鑑のメンテナンスをすることだった。ちかごろ、ゴールドは平日に研究所に来ることを妙に渋っていた。普段であれば、クリスタルはそれでも平日に来なさいの一点張りで譲らなかっただろうが、その日はたまたま彼女も出勤することになっており、まあいいじゃろうと博士に宥められたのもあって、あくまでついでにという名目で引き受けたのだ。
「ちょっと待ったあ!」
 研究所の入り口自動ドアの前に立ったちょうどそのとき後ろから聞こえてきた声に、クリスタルが驚いて振り返ると、ちょうど研究所の正面階段前にゴールドがいつものスケボーで乗り付けようとしているところだった。かれが地面を蹴るほうの足で進行方向側の先端を踏んづけると、シーソーの要領でスケボーは後ろ側から跳ね上げられたと思ったら、空で待ち受けていたゴールドの片手に吸い付き、つぎの瞬間にはきれいに直立していた。
 ボードを抱えて敷石の階段を駆けあがってくるゴールドに、クリスタルは背を向けて関係者用の扉の鍵をあけながら、ためいきをつく。
「危ないわよ。子供が真似したらどうするの」
「あーん? ったく委員長は口を開けばこれだから」
「平日出直してもらっても構わないのよ?」
「……。気にすんなって、冗談だよ冗談!」
 妙な間があったことが気になったものの、ひとまずクリスタルは矛をおさめ、静まり返った所内を歩きながら、とりあえずゴールドをいつもの応接室に案内して、オフィスに……と思ったところで、いまさらになって、この状況の不自然さに気付いた。夏の土曜日、がらんどうの研究所、いつものポプラと通り道、いつもの日射しと、ふいに跳ね上げられて掌に吸い付いたスケートボード。休日、所内にふたりきり、それもメンテナンスが終わるまでのまるまる一時間ものあいだ。クリスタルは急に落ち着きが失われ、高揚のような不安のようなものに妙な予感を感じ、その不快な感じをぬぐい去るように軽く頭を振り、メンテナンス・ルームの前で立ち止まった。
「図鑑をちょうだい、ゴールド」
「はいよ」
 少しごそごそして、図鑑が掌の上に乗せられたとき、彼女はそれが機械に反してなまあたたかいのに思わず心臓を掴まれたような心持ちになった。吐き気を催すような嫌悪感にも似ていたが、そうと言い切れない躊躇いのようなものがあった。彼女はほぼ反射的に目線を上げてゴールドを窺い見、彼が汗をかいていて、あつそうにパーカーの襟元をくつろげていることにはじめて気付いた。
「いつもの応接室で待ってて。エアコン、勝手につけていいから」
「麦茶は?」
「ありません」
 休日なのだ。研究所に作り置きの麦茶は、金曜日できっちり空になっている。ちぇっと舌打ちをしながらぶらぶら歩き出したゴールドを横目で見送りながらメンテナンス・ルームに足を踏み入れると、今更、心臓がさわぎはじめた。不審に思われなかっただろうか。五本の指先で掴んださきから伝わってくる人肌のぬくもりにわけもなく胸がざわつく。ゴールドの体温。まるで、彼の臓器をちょくせつさわっているような気がしてくらくらした。はやく手放したいと願いながら、そのくせこの体温が薄れるのを怖がってもいる。マシンに図鑑をセット、メンテナンス・プログラムを起動して図鑑が視界から見えなくなったことで、クリスタルはようやく不快感から解放されてほっと息をついたが、心に不自然な喪失感が残るのを自覚しないではいられなかった。「なんなのかしら?」クリスタルは胸の中だけで戸惑いがちにつぶやいた。「いままで同年代やそれ以上の男の人に触ったりする経験はあまりなかったけど、あの気持の悪いこわいような感じは普通の反応なの?」
 ともあれ彼女は胸を撫で下ろしながらオフィスにもどり、飲み物の準備をしようと思った。冷蔵庫を開けても思ったとおり、麦茶のボトルは空になっていたが、ミネラルウォーターのボトルは冷えていた。あの汗では熱いお茶やコーヒーが喜ばれるわけもないから、水で我慢してもらおうかと思った矢先、ふと彼女は家を出る前、自分用に用意したサーモス水筒に氷入りの麦茶を入れてきていたのを思い出し、数秒の逡巡のあと、来客用のグラスに水筒から麦茶を注いだ。それをゴールドに持っていったら、なんだあったんじゃんと無邪気に笑いながらいっきに飲み干した。
 そして彼女は自分の仕事を片付けてしまおうとオフィスに戻った。表計算ソフトに数値を打ち込みながら、金曜日に博士から聞かされた話を思い返しながら、月曜日の仕事の段取りを考えはじめた。
「ひま」
 ようやく集中しはじめた矢先の声に、クリスタルが驚いて顔を上げると、向かいの机にゴールドが座っていた。まったく気付かなかった、と彼女は戦慄しつつも、気をとりなおして、テンキーを叩く作業を再開する。デスクトップの右下の時計を見やると、まだ三十分と経っていない。
「わたしは暇じゃないの」
「俺が暇なんだっつーの」
「いつもどうやって時間をつぶしてたのよ?」
「そのへんにいる研究員のおねーちゃんを引っ掛けて」
 そのときに感じたものの正体は、クリスタル自身にもよくわからない。からからに乾いた口のなか、訊いたわたしが馬鹿だったわ。と声を引きずるようにして絞り出すのが精一杯だった。弱り切った彼女の声(そのように聞こえるはずだろうと、すくなくとも彼女は思っていた)にも気付かないのか、ゴールドは頬杖をついて、そういやさ、とあっけらかんとして再び口を開いた。
「シルバーの野郎はどうやって時間潰してんだ?」
 クリスタルは、予期していなかった人物の名前が出されたことに、いささか拍子抜けしながら。
「……応接室で本を読んでいるみたいよ」
「本。あいつが?」
「トキワジムに、お父様の蔵書がいくらか残っているんですって。知らなかったの? ゴールド」
 口にしてすぐに、クリスタルははっと後悔した。思った通り、ゴールドの表情は微妙に苦々しげな複雑な様相を帯びてきていた。そして彼は低い声で、「しらね」とつぶやいたっきり、口をとじた。最初こそ、苦虫をかみつぶしたようなゴールドの様子に同情したクリスタルだったが、それが過ぎると、にわかに苛立ちがふつふつと沸き立って来た。おそらく、ゴールドが女性と見るや誰彼構わず声をかけることや、彼女の胸の内など露知ることなく明るい様子であったゴールドの表情をくもらせたのが、彼女以外に拠ることだったことなどが、混ざり合った感情だったのだろう。
 シルバーというのは、二人と同じく、ジョウト地方の図鑑所有者のひとりだったが、生い立ちも複雑ならその半生も過酷であり、いまも家族も住所も持たず根無し草の生活を送っている。彼が最後のメンテナンスのためにここを訪れたのは、つい先週頭になる。例に違わず暑い日で、クリスタルが冷たい緑茶を持っていくと、彼は読んでいた本から目線をあげて、ありがとうと微笑んでみせたのだった。銀の虹彩がほんのすこし細められ、口角がゆるく弧を描いただけの変化だったが、いかにもすなおで、感情が心底からこぼれおちたように見えて、彼女は狼狽すると同時に少しばかり見蕩れたのを覚えている。それは、ここ数年のあいだに彼に怒っている、めざましい変化のためでもあった。実際のところシルバーといえば、最初のうちは礼儀を弁えないにもほどがあった。それでもクリスタルの好感が損なわれたことがないのは、そもそも彼がいろいろなことを知らなかったからだし、なにより彼は素直で、言って聞かせさえすれば不器用ながらも努力を見てとれるという所が大きい。その甲斐あってか最近は、挨拶もするし目上の人に対しても敬って話をしているようだ。かずかずの犯歴にもかかわらず、博士や先輩やまわりの人々からの信頼を得るのに、さほど時間を必要としなかったことが、その人柄をよくよく証明している。
 一方で、同じく素行の悪いゴールドの始末の悪さといったらクリスタルの手に負えるものではなかった。彼は礼儀や作法をすっかり承知していながら、あえて捻くれた言動をしたり、道をはずそうとしているように、彼女の目にうつるのだった。ふたりの道の外し方には決定的な違いがあって、それは、シルバーが道というものを認識できずに結果的に外れているのに対し、ゴールドは、道がいやというほど見えているから避けて歩いているらしいのだった。意外にもクリスタルは、シルバーの気持よりもゴールドの気持のほうがわかるように思うことがままあった。そのことがいまの彼女の苛立ちをさらに煽る。
「……まあ、ゴールドには無理ね」
 クリスタルの口から、普段では考えられない刺々しい言葉がついて出たのは、いらいらのためだろう。直接的に言葉を向けたのはゴールドに対してだったが、彼女はその言葉を通して、自分自身やシルバーに対しても辛辣に当たっているのに気付いていた。彼女はゴールドが憤ると予見していたのだが、反して彼は溜息といっしょに、まあな、と吐き出しただけで終わった。拍子抜けして、今日はちょっとへこんでいるのかしら? と考えて、彼女は罪悪感を覚えた。
 しばらくのあいだ、テンキーを叩くリズミカルな音だけが続いていた。元より頭を使う仕事ではないから、クリスタルはその間もゴールドを注視している余裕があった。ゴールドはなにやら考え込んでいるようすだったが、ふいにクリスタルのほうに視線をやった。光の加減か、黄金色の瞳が、目の中でちらっときらめいた。
「なあクリス、あとどれくらいでお前の仕事おわる?」
「……いきなり何なの?」
 面食らったクリスタルが聞き返せば、ゴールドは横柄に、いいから、といって顎をしゃくる。その表情のまじめなことに思わず呆気にとられて、クリスタルは、一時間半くらいとこたえた。
「じゃあ待ってるから。ちょっと付き合えよ」
「待ってるって……ゴールド!」
 ゴールドは何もこたえないで、手をひらひらさせながらオフィスから姿を消した。自分に、不遜な態度を注意する余裕もなかったことが、クリスタルにはとてつもなく衝撃的な出来事だったように思えた。呆然としながらも、三十分も待ってられなかったくせに何言ってるのかしら、とどこか冷静な感想を洩らす。その後、ゴールドはほんとうに静かになり、一時間半のあいだ、オフィスに顔を出すこともなく、外や廊下が騒がしいということもない。クリスのほうはといえば、打ち込み音の乱れさえなかったものの、その表情はへんにどぎまぎしていた。ゴールドと二人で出かけるのは初めてではない、緊張しているのは、いつになくまじめさを備えていた金の目の色のせいだろうと彼女は結論づけた。クリスタルはきっかり一時間半で仕事を終わらせ、戸締まりと後片付けを終え、トートバッグを持ってメンテナンスルームに図鑑を取りにいった。メンテナンス結果を確認し、手に取った図鑑は触れ慣れた冷たい機械の温度でほっとしたのと同時に、反射的につい二時間前まではあった人肌の温度を思い出して、クリスタルはぞくりとするのを堪えきれなかった。とっさに、図鑑をトートに滑り込ませて、彼女はひといきつくことができた。
 その足で応接室に入ると、ゴールドは二人がけのソファの上に寝転がっていたのから上体を起こした態勢でいた。クリスが無言で図鑑を差し出すと、サンキュー、といいながら、くわりと大欠伸をする。
「……寝てたの?」
 おもわずといった様子で洩れたつぶやきに、ゴールドは軽くクリスタルに視線を投げかけてから、気まずさを誤摩化すように乱暴に頭を掻いた。
「しゃーねーだろ、ここすげえ快適なんだもんよ。そう目くじら立てんなって」
「目くじらなんて」
 言いかかって、クリスタルは言葉を呑む。ふいに見上げてきたゴールドの双眸はまじめで、否定すんのすっかり苛立っているくせに、とありありと語っているようで、まるっきり見透かされているようで不安になる、なぜなら彼女は確かに苛ついていたし怒っていた、「わたしはあんなに動揺してあくせくしていたのに、ゴールドは同じ所内で呑気に寝こけていたなんて?」ゴールドは口の開きっぱなしのボディバッグに図鑑を滑り込ませ、ジッパーをきっちりと閉め終わると、ソファに座り直して前屈みになり、ゆったりと落ち着いて靴を履く。クリスタルはその余裕を憎らしく感じた。
「どこに行くの?」
「決めてねえ」
 居心地悪そうにわずかに身をよじりながら尋ねても、ゴールドはあくまで悠然とした口ぶりでつぶやいて、言葉とは裏腹に、迷うことなく歩き出す。クリスタルは戸惑いながら、彼のすこし後ろをついてゆくしかできなかった。頭のてっぺんに細い縫い糸がついていて、クン、クン、と引かれていくようだ。彼女がすこし強情を張って踏みとどまれば切れてしまいそうなくらいだったが、彼女はむしろ望んで引かれていくのだった。
 戸締りをした所内から出て、目の前に道路が広がっていても、ゴールドは迷う素振りも見せず、そのうち一つの道を選んで歩いてゆく。真夏の太陽の下、車道と歩道の合間に規則正しく植えられた並木が輝く枝葉を揺らしてざわついているのも、クリスタルにはなんだかわざとらしく、そろいもそろって意地悪く冷やかされているような感じがした。
「どこに行くのよ」
 痺れを切らしたクリスタルが、先ほどよりも強い語調で前を歩く背中に向かって訴えると、ゴールドはちらっと後ろに視線を流してわらった。いかにも愉快そうで、どこか揶揄いの色を帯びてはいたが、それさえまるで小さな子供に向けるような親しみに満ちていた。彼らしくもない、それはとてもあまったるいわらいかただった。
「どこだっていいだろ?」
 かれは上機嫌に語尾をふるわせる。
「俺をだれだと思ってんだ? 楽しいことなら、この俺ほど知ってるやつはいねえぜ」
 後で思い返せば思い返すほど、そのときの彼の笑顔は写真のように、フラットに記憶に貼り付いている。光の加減で一点の陰りもなく笑っているようにも、落ち込んでいるようにも見えた。思い返すそのときの、いつもより半音ほど低い声は、調子づいているだけのようで、そのくせ内包する揶揄いさえ優しく、「彼は生活を愛している、無数を塵芥に塗れたわたしたちの領分を愛している。かれの愛情が、わたしたちの土地を媒介に、今はわたしに惜しみなく注がれる」
 そしてかれは変わらず同じように言う「しょうがねえなあ」、記憶のなかの声が、眠りにつくまえに耳にした声と重なったとき、クリスタルはちょうど、夜の空を流れ星が横切っていくのを見つけたのだ。
 硝子の水槽に満ちた夜の上澄みよりもっと遠い高みで、光の尾をひきながら滑る、光の鳥。水底の街、ごてごてしたいろんなもので溢れた人々の生活など素知らぬふうに、星はただ流れる。きっとあの星から見れば、たった今ベランダに出ているクリスタルや、彼女を取り巻く生活や、彼女の土地など、気付くにも値しないほど小さいだろうに、どうしてこちらがわからは、こんなにも明瞭に完成されたものとして見えるのだろう。こどもたちのわらいごえや、ポプラの若葉や、優しさや慈愛の感情や、彼の黄金色の瞳の色のあるこの場所をなによりも愛していてなお、どうしてあの天上の星が目に留り、ときには憧憬の感情さえ呼び起こすのだろう。
「……そういえば、流れ星が消える前に三回願い事を唱えると、願いが叶うんだったわね」
 そんなふうに呟いたのは、流れ星がとうに見えなくなってしまったあとだった。後になって、彼女はどうして自分がそのときにそんなふうに呟いたのか、どうしても分からなかった。クリスタルはその後すぐに、ふいに睡魔の訪れを感じ、ちいさく欠伸をしてベランダを後にし、ベッドにもぐりこむと、早々に寝入った。
一章
 太陽が登り、暗がりに沈んでいた街が、しだいに白みはじめる。果てしない海原や広大な大地や連綿と続く山脈の麓からはるか高峰、それよりもっと天高くに余す所なく照らし出し、都会の入り組んだ路地うらも、賽の目状の集合住宅の部屋という部屋のなかを、窓という窓、隙間という隙間から入り込んで、暗色の空気を薄めてまもなくすっかり透明にしてしまう。水彩絵の具を水で薄めるみたいに、夜の暗さだけがいなくなってしまうのだ。
 クリスタルがいつもどおりの時間に目覚め、薄緑色のカーテンの隙間から覗いた青さにつられて硝子戸を開けると、雲の一つもない晴天が視界に広がった。不思議とそのときの彼女の頭からは、昨夜このベランダに出て自分の身辺やゴールドについて思い巡らしたことが消え去っていた。動きやすい服装に着替え、いつもの習慣でニュースをみながら、トーストとミルクのかんたんな朝食をとった。テレビをつけるなりまっさきに目に入ったのは、昨晩ホウエン地方のある小島に隕石が落ちたという速報で、液晶の中にはヘリから見下ろした墜落現場がうつしだされた。いまだにもうもうと砂埃が立ちこめていて、レポーターが叫ぶようにして現場中継を行っていた。現場がホウエン地方のバトルフロンティアのある小島と聞いて、まっさきにクリスタルの頭に浮かんだのはホウエン地方の図鑑所有者だったが、間もなくしてそのなかの一人であるサファイアから、全員無事だというメールの一斉送信を受け、彼女は安堵の息をついた。隕石と耳にしてさえ、昨日の流れ星のことを思い出さなかったのは、彼らの無事が気にかかっていたからかもしれなかった。
 同日の十時のこと、何度目かの通話を試みて、クリスタルは溜息をついた。しみだらけの白色の壁紙のはられたがらんとした教室にひとり、開封したばかりのダンボール箱を見下ろして途方に暮れていた。庭からの子供たちが元気に遊び回る声を遠い出来事のように聞きながら、彼女の思考はひとつ、目の前のダンボール箱に収められた二部屋分の壁紙を、どうやって張り終えようかということだった。
「……クリスタルさん。連絡、取れた?」
 教室の入り口から、気遣わしげにエメラルド少年が顔を出した。彼はホウエンの図鑑所有者のひとりでもあり、同時にこの塾の出身でもあり、今日は壁紙の張替え作業に駆けつけてくれたのだった。クリスタルはあわてて、呆けていた自分を叱咤して、振り返った。
「それが、まだ繋がらないのよ」
 わずかに声が上ずったが、エメラルドは気付いた様子もなく首を傾げた。
「寝坊でもしてるんじゃないですか?」
「そうね、昨夜遅くに無理言って頼んじゃったから、こっちも悪かったけど」
 エメラルドは、表向き真摯にしかたないですねと呟いたものの、「……ちぇ、ゴールドさんてばこれなんだもんな」とぼやいた。それはクリスタルの耳にも入ってきたものの、彼女はあえて反論しなかった。昨晩電話越しに聞いたばかりの笑声、しょうがねえな、あの親しげな言い方と情愛に富んだ声色がまだ耳にこびりついていて、彼女にはその声が裏切るなんて到底信じられなかったのに。おそらく不安を直視したくなかったのだろう、考えれば、かれに何かあったのではと勘ぐってしまいそうで。
 ともかく、ゴールドが来ないのであれば、子供達をポケモンたちとジョバンニ先生に任せて、クリスタルとエメラルドでやるほかない。ジョバンニ先生は手先が不器用だ。
「シルバーさんなら来てくれるんじゃない?」
「うーん……。シルバー、毎月第二土曜日はブルーさんに会いにカントーに行ってるのよね」
 それを聞くと、エメラルド少年はむつかしい顔をしたが、クリスタルの視線はすでに彼からは外れていて、角のよれた段ボール箱の中身に注がれていた。そこには、彼女がカタログで見初めた、艶やかなサンイエローの壁紙がいっさいのずれなく筒状にまとめられていた。機械的な精緻さではあったが、彼女から見るとその不自然に整えられすぎている感じが、かえってそのサンイエローを完全で神秘的な、全能のものにしているようなのだった。一目見た瞬間から、彼女はこのうすい山吹色の、晩春の陽だまりのような色合いにすっかり心を奪われていたので、いまはただただ、その壁紙が想像していた通りに今日のうちには張り終えられることがないということが、羽を広げることができない鳥を見ているようで、つらかったのだ。だから常に気配りを忘れないはずの彼女が、ほんの数分、エメラルド少年がいることも忘れて物思いに耽ってしまったのも無理はなかった。
 結局、クリスタルはエメラルドとともに壁紙の張り替えをはじめたのだったが、正午近くになっても、進捗は予定の半分程度にすぎなかった。エメラルド少年は精一杯がんばったが、何せ体が小さいので、古い壁紙を剥がすだけでも、人一倍身体を大きく動かさないといけないのだった。落ち込んでいる間も惜しいとばかりに作業をつづけるエメラルドは、お昼の合図にも気づかなかったので、クリスタルはこっそり抜け出して、子供達に見つからないようにこっそりと、自分と彼の分の昼食(クリスタルが昨夜つくって寝かせておいた豆のカレー)を冷蔵庫に確保してきた。子供達と食べられないのは残念だったが、クリスタルはなんとなくそのときのエメラルドの作業を中断させる気も起こらなかったし、彼を置いて昼食に出掛ける気も然りだった。子供達が食事を終える頃になって、ようやくエメラルドが我に返ったように空腹を訴え、二人でカレーを温めなおしての昼食となった。少年はしきりに申し訳なさそうに、はやく声をかけてくれればよかったのに、と口の中でもぐもぐいった。
「エメラルド君の邪魔をしたくなかったのよ」
 クリスタルがそう応えると、エメラルドはなぜかとたんに目つきをきっとさせた。
「ダメだよ! 塾のみんながどれだけクリスタルさんと一緒にご飯食べるのを楽しみにしているか……俺なんか放ってでも、クリスタルさんはみんなとご飯を食べなきゃいけなかったんだよ!」
 予期せず荒げられた声にクリスタルがあっけにとられると、エメラルドは我に返って、ごめんなさい、とつぶやいた。
「いいえ、エメラルド君の言うことも最もだと思うわ。夕ご飯はみんなで一緒に食べましょう。もちろん、エメラルドくんも一緒にね」
 ふたりが昼食の後片付けを終え、作業をしていた教室に戻る頃、にわかに庭の方が騒がしくなったのに気づいて、クリスタルは窓を開けて外の様子を見てみた。門のところにたむろした子供達に、見覚えのある影形が囲まれている。
「あれは……ルビー君とサファイアちゃん?」
 エメラルドと同じく、ホウエン地方の図鑑所有者のふたりである。クリスが目を丸くしてつぶやくが早いか、エメラルドが飛び上がって、遅いんだよ! と叫びながら笑った。どういうことかと問い詰める間もなくして、室内に二人がひょっこり顔を出した。
「先輩! エメラルドから聞いたけん、あたしたちに声ばかけんなんて水臭いったい!」
 底抜けに快活なサファイアの声にも、クリスタルはいまだ事態が飲み込めず、瞬きをするばかりである。
「……ふたりとも、まさかとは思うけどホウエンから来てくれたの?」
「なんね、このくらい、とろろでひとっ飛びばい」
「……クリスタルさんが困っているのに見て見ぬふりなんてできませんからね」
 ルビーがにこやかに締めくくって、クリスタルはようやく状況を理解して、ほっと息をついて微笑んだ。
「……ありがとう、サファイアちゃん、ルビー君。それから、エメラルド君」
 二人が加わってからの作業は、これまでの遅れを補って余り在る程順調に進み、予定の一時間前には、ふたつの教室にきれいに壁紙が張り終えられていた。要領のよいルビーはすぐさまこつを呑み込んで、サファイアやエメラルドの作業に停止をかけることもあったが、それもクリスタルと塾の皆のためだからとふたりが反発することもなく、気付いたときには部屋一面にあざやかなサンイエローが張り巡らされ、硝子戸から夕陽のあかさに縁を輝かしている。
 張りたての壁紙の上に、クリスタルとエメラルドのバリヤードが見えない壁を作った後、子供達を呼び戻してルビーとサファイアも加えた上での夕食となった。筋金入りの不器用のジョバンニ先生は皺一つない出来栄えにしきりに感心し、ルビーは得意げな顔つきをしながらも澄まして食事をつづけ、エメラルドも気恥ずかしそうに視線をそらしたが、二人の分もとばかりにサファイアが、そやろ? と顔を輝かせた。
 クリスタルは子供達とやりとりをする合間にちらりと壁紙を見るが、業者顔負けというのか、本当にみごとな出来だった。後輩たちが、ホウエンからわざわざ駆けつけてくれて、子供達のために一丸となって働いてくれて、その美しい感情に相応しい結果があらわれた、こんなに素晴らしいことはないはずなのに、一点のしみもないようなその仕事ぶりに、クリスタルはなぜか違和感をぬぐいきれずにいた。壁紙を見初めたときの彼女は、あのサンイエローの神秘が、部屋をすっかりくるんでしまうような想像をしてうっとりしていたのが、いまとなっては、真新しく鮮やかな部屋の中にただ空虚だけが残されているといった感じなのだった。
 おそらく、彼女はあまりにも、そのサンイエローはゴールドによってつくられるのだと信じすぎていたのだ。壁紙をひとめみたときから、これはゴールドにしか扱えないのだと直感し、無意識に、ゴールドによって張られるものと決め込んでいたからだ。彼であればこうはいかなかっただろう。クリスタルや塾のみんなのために頑張るというような殊勝な人柄でもないし、エメラルドと言い合いするのが関の山だったかもしれない。それでも最後には、「しょうがねえな」と言ってくれることを思うと、クリスタルはそれだけで十分すぎる、むしろ、それだけが肝心なもののように思っていたのだ。
 しかしクリスタルは、釈然としない失望感も、大して気に留めなかった。それは彼女の意識にのぼらなかったのだが、彼女自身もほとんど知らないような心のどこかで、そんなふうな気が掠めたのも確かだった。そのために一瞬、ゴールドはどうしたのかしらという疑問が浮かんだが、すぐにみずから疑問を打ち消した。
 しかしその翌日、翌々日になっても、ゴールドと連絡は取れなかった。普段の彼の素行から考えても明らかにおかしかった、彼は常にポケギアを持ち歩いているし、充電もかかさない。たまに切らして繋がらないことがあっても、その次の日にはきちんと折り返しの電話がかかってくるはずだった。クリスタルも、いよいよ何かあったのかもしれないと考え、これで繋がらなければ、彼と比較的親しいシルバーやレッドにも連絡をとってみようと思いながら、彼の電話番号に向けて発信した。五回のコール音の後、あきらめて通話終了ボタンを押そうとした矢先、相手先と繋がる音がして、咄嗟に心臓が跳ね上がった。
「…………あー、もしもし?」
 やや間を置いて聞こえてきたのは、確かにゴールドの声だった。しかしクリスタルは、その開口一番の台詞に違和感を感じた、というのも、彼の着信画面にはクリスタルの名前が表示されているはずで、相手がわかっているのに改まって、もしもし、なんて言うのは彼の振舞いと一致しないからだ。
「……ゴールド、なの?」
 クリスタルはおもわず、神妙な口調で呟いていた。
「そうだよ」
 おかしい。クリスタルのなかで、違和感が音を立てて這い上がってくる。受け答えとして何かがおかしいわけじゃない、ただ、ゴールドはこんなふうにはこたえないはずだ。ましてや、ゴールドは彼女との約束を破っている、であればこんなに平然として、何事もなかったみたいに素っ気ないはずがないのだ。彼女のなかでのゴールドは、何言ってんだよ俺に決まってるだろと、からかっているのに。そしてクリスタルが約束のことを持ち出せば、悪かったよとあっけらかんとして謝るのだったが、彼女にもはやそんなふうに尋ねてみるだけの疑いはなかった。あなたほんとにゴールドなの、と彼女がおもわず口にしようとしたやさき、さえぎるように、スピーカーの向こうの声は言った。
「えーと、悪い。あんた、俺の知り合い……だよな?」



 雲ひとつない青空の下、夏の陽射しにつやつや光る緑の絨毯が、勢いよく葉を伸ばし始めている。誰の私有地かもわからない林や原っぱに、ぽつりぽつり家々の点在するマサラの町の北方、瑞々しいポプラの並木のある一番道路を挟んでトキワと隣接し、容貌もいくらか町らしいところのある一角に、オーキド博士が居を構える研究所があった。正面には小さいながらも駐車場があり、研究所の一角を占める開放的なガラス張りのサロンからテラスに出ると、研究所のポケモンたちが暮らす、小さなサファリが広がっている。クリスタルはオーキド博士とサロンのソファに座って、ガラス越しに、庭でポケモンたちと遊ぶゴールドを眺めていた。
「こうして見ると、記憶がないとは信じられんのう」
 ええ、とクリスタルは溜息をついて同意した。ゴールドを憶えているポケモンは変わらずゴールドにじゃれついて、はじめてのポケモンにはお得意のやり口であっという間に仲良くなってしまう彼は、口癖やちょっとした仕草でさえ、記憶を失っているとは思えないくらいにゴールドのままなのに、話をしていると確かに記憶をなくしている。時の狭間から戻ってきたときのことも、シルバーやクリスタルたちに出会ったときのこともすっかり忘れてしまっているというのに、喋り方もキューの遊び方も、スケートボードが掌に吸い付く様さえ、この間会ったばかりのゴールドであるとしか思えない。何せ彼の母親でさえ、息子が記憶をなくしていると気づかなかったくらいだった。
 ポケモン研究の世界的な権威であり、ポケモン図鑑の開発者でもあり、図鑑所有者達に図鑑を渡した張本人でもあるオーキド博士だったが、その目で直接見るまで信じられない体だった。少なくとも、クリスタルが電話で連絡をとったときの博士の声は狼狽して、それでいていまいちぴんと来ていないようだった。それもそうだろう、記憶喪失なんてしょっちゅうあるものでもないしと溜息をつきながらクリスタルは、ならばいっそのこと会わせたほうが話がはやいと判断したのだった。他にも、彼女とゴールド共通の知人であり、ゴールドと親しい間柄にあるレッドには、少なくとも説明が必要になりそうだしと、クリスタルはカントー在住の知人たちと連絡を取り、そのついでに、塾の壁紙の張替えに居合わせたホウエンの所有者たちにもゴールドの状態についてメールを送った。そこでようやくクリスタルは、自分の気がどれだけ動転していたかを改めて思い知るのだった。
「いやあ、びっくりした」
 廊下と繋がる奥の自動ドアから入ってきて、博士とクリスタルのそばまで歩いてくるなり、真顔でつぶやいたのは、来て早々に他の研究員の手伝いに駆り出されたレッドだった。彼はむぞうさに他所から椅子を引き寄せながら座った。せっかく研究所に行くというので、クリスタルはカントー在住の知人たちにも声をかけておいたのだったが、同席できたのは彼だけだった。この単純で人のよさそうな顔をした青年は、第九回ポケモンリーグ優勝者であり、ゴールドが先輩とよく慕っていた人物で、ゴールドが記憶喪失と知るや、電話越しの声でさえひどく心配そうにして、こうして駆けつけてもくれたのである。
 クリスタルは持ち前の気遣いでつつがなく冷茶を用意し、レッドはありがとうと笑って、硝子製の透明な茶碗に入った氷の浮かぶ濁り茶をいっきに飲み干しておかわりをした。それから彼はいかにも純朴そうな明るいまなざしで、回想するようにガラス越しの屋外をながめたあとに、何か言い忘れに気づいたようにふと口を開いた。
「……俺が自己紹介して、ゴールドが、『じゃあレッド先輩っスね!』って言ったときさ。ぞっとしたよ。言い方がまんまゴールドなんだもん。どう見たってゴールドのそいつが、俺のことを知らないんだぜ。こんな違和感に殺されそうになったの、はじめてだ」
 クリスタルがゴールドを連れてオーキド博士とレッドのもとを訪れたとき、当然ゴールドはふたりのことも憶えていなかった。ふたりとも、ことの次第だけは事前に知っていたので、つつがなく自己紹介をしたのだったが、ゴールドはなんの屈託もなく、博士を「オーキドのじいさん」と呼んで、レッドを「レッド先輩」と呼んだ。それは以前のゴールドを知っている三人に、思いもかけない衝撃を引き起こしたのだった。
「くさってもゴールドだよなあ」
 そんなことをしみじみと呟いているレッドに、クリスは思わず苦笑をもらした。
「記憶がないだけですから」
「記憶がないから、ゴールドじゃないんじゃないの?」
 え? と互いに顔を見合わせたところで、クリスタルとレッドはへんな顔をした。オーキド博士はふたりのやり取りについてはさして気に掛けず、困り顔のまま、溜息をついた。
「しかし困ったの。ゴールドから図鑑を預かるべきじゃろうか」
「え。……なんで? 図鑑のことだけ説明して、とりあえずメンテナンスだけ顔を出せばいいんだろ?」
 不用意にそんなことを口走ったレッドは咄嗟にしまったという顔をしたが時既に遅く、オーキド博士のばっかもん! という怒声とともに拳固が落ち、クリスタルはおもわず両目を瞑った。
「おまえがそんな心構えでどうする!」
「おれの心構えじゃないって……ゴールドはいつもそんなかんじで……」
「後輩に教えるのも先輩の役目じゃろう」
「俺だってずいぶんゴールドとは喋ったけど、あいつの言う事にも一理あ……」
 そこでテラスへ繫がる扉が開く音がして、三人が揃って振り返ると、体中泥だらけ、草だらけになったゴールドがサロンに身を乗り出しながら、「じーさん、俺にも茶ー」などとけらけらと笑っていた。塵ひとつない木の床板に、こまかい埃が落ちている。それを見るなり、クリスタルはほとんど反射的に立ち上がった。
「ちょっと……! あなた、埃や草を落としてから入りなさい、床が汚れちゃうじゃないの。それに目上の方に向かってそういう口の利き方はよくないわ」
 クリスタルの叫ぶような注意には、ゴールドだけでなく、博士もレッドも予期していなかったようで、揃って言葉を失っていた。というのもここ最近の彼女はゴールドのそういう素行の悪さに対して諦め気味であり、注意すらどこか投げやりなものになりつつあったからだ。咄嗟のこととはいえクリスタル自身も、そのときゴールドに向かっていっているのではなく、だれか知らない無作法な若者を見かけて思わず声を上げたといった感じだった。ゴールドはじっとクリスタルを見つめていたが、ふいに眉をよせ、はあん、とどこか合点のいったように低くつぶやいた。
「なるほど、おめえ、俺の苦手な超〜マジメ学級委員タイプのギャルだな……?」
 品定めするようにじっとりした視線、挑みかかるような口調、拗ねたように細められた、睫毛の下の金の色彩。クリスタルは記憶の中の、彼よりもっとずっと幼い少年を思い出していた。彼と同じ言葉を発し、彼と同じ表情をし、彼と同じようにこちらを睨んでくる、あのころ同い年だった不良少年のことを。
 襲い来る二度目のデジャヴに歯を食いしばりながら、クリスタルは彼の次の言葉をまんじりとして待った。彼のその唇が歪んで、いままで幾度ともなく耳にしてきた、へそを曲げた憎まれ口を紡ぎ出すのを待ち構えていた。が。
「ま、そういうギャルも悪かねえってな」
 ふいに彼はさして興味もなさそうに小さな息をつくと、そう言っていたずらに口角を上げ、歯をわずかに見せて微笑んだのだった。毒気のない、すなおな、木漏れ日のような笑い方で、クリスタルはおもわず呆気にとられて絶句した。しかし、こんどの違和感は、クリスタルにしか感じ取れなかったようで、オーキド博士とレッドはたいして驚いたふうでもなかった。茶碗はどこじゃったかの、と博士の声に、クリスタルは我にかえって、慌てて給湯室へ向かった。先ほどレッドに出したので最後だったのだ。うしろのほうでレッドが、「これで拭けよ」と濡れタオルか何かを差し出しているような声がして、ゴールドが調子良く応じていた。
 クリスタルが戻って来たころには、ゴールドは既にきちんとオーキド博士の隣に掛けていて、目が合えば、ひらひらと愛想よく手を振った。そのしぐさにもどことない違和感を感じながら、クリスタルは憮然として、持って来た茶碗に茶を注いだ。ゴールドはいっぺんに二杯も飲み干してから、人心地がついたように大きく息をついた。近くで見ると、彼の前髪の付け根からは汗がしたたりおちている。彼はときおり、首にかけたタオルで顔や首回りを拭うのだが、拭った先から汗が吹き出してくるようなのだった。
「……ずかんしょゆーしゃとか、よく知らねえんスよ。そこの学級委員長からちょろっと聞きかじったくらいで」
「では一応訊くが、わしのことは知っておるか?」
 いぶかるように博士が尋ねると、ゴールドは急に調子よく、「そりゃもちろん!」と得意になって叫んだ。
「クルミちゃんと一緒にラジオに出てるじーさん! 俺としたことがすっかり忘れてたぜ。ここで会ったのも何かの縁っつーことで、俺にクルミちゃんのサインを——あでっ!」
 抜け目無く鞄から色紙を取り出そうとしたゴールドに、クリスタルの拳固が落ちた。オーキド博士はゴールドの要求にも動じることなく、ただ、変わっとらんのうと呆れの溜息を漏らした。見かねたレッドが苦笑いをしながら補足した。
「博士はポケモン研究で偉い人なんだ」
「俺、研究なんかに興味ねえっスもん」
「まあそんなこと言わずに」
「だったら一応聞きますけど、どこがどう偉いんスか」
「……。えーと」
「…………」
「あっ! 博士は第一回ポケモンリーグの優勝者でもあるんだぜ!」
 ひそひそ声のわりには筒抜けの会話に、オーキド博士とクリスタルは揃って溜息をついた。仕切り直しとばかりに、オーキド博士が大きく咳払いをした。
「……ともかく。キミは八年前、わしが図鑑を渡したトレーナーなんじゃ」
「…………俺が?」
 不意に伝えられた事実を、ゴールドは意外そうに目を丸くして受け止めたようだった。しかし間もなくして、いやあ才能っスかねと調子のいいことをのたまいはじめたのを無視しながら、オーキド博士は、これまでの鬱憤を晴らすかのように、所有者としての心構えをくどくどと続け、最後に定期的に図鑑のメンテナンスに来るようにと締めくくった。クリスタルは、先ほどまで図鑑をどうするかを迷っていた博士を思い出して、これほどまでに早く結論が出されたことに驚きながら、なぜだかほっとしてもいた。
 そしてその日の帰り際、クリスタルはオーキド博士に呼び止められ、ゴールドの様子を気をつけて見ていてほしいと言われたのだった。
「心根は真っ直ぐやつじゃが、何せ記憶がないというのが心配での。やつは軽薄なところがあるので、悪気なしに図鑑を悪しように使ったりしないかと」
 博士の心配ももっともだと思ったクリスタルが、じゃなぜゴールドに図鑑を預けたままにするんですかと尋ねると、博士は、いろいろあるんじゃよと濁し、付け加えるように、図鑑を持っていたら、何かの拍子で記憶が戻るかもしれんじゃろうと言った。たぶん、所有者から図鑑を取り上げるには、面倒な手続きやら理由やらが必要なのだろうとクリスタルは思いながら、口には出さず、真摯に頷いた。
「できれば、シルバーにも頼みたかったんじゃが……また連絡がつかんのじゃよ」
「……シルバーってば、また充電を切らしているのかしら?」
 クリスタルは本日何度めかの溜息をつきたい気持でつぶやいた。確かにシルバーはよくゴールドの屋敷に出入りしているから、何かと都合が良いはずだが、連絡がつかないのではどうしようもない。ポケギアの充電をこまめにしないというのは、彼に何度言ってもなかなか直らないくせのひとつで、屋外で生活しているから無理もないが、それにしても、繫がることよりも繫がらないことのほうが多いというのはいただけないと思う。
 しかし連絡がとれたとしても、引き受けるかどうかは微妙だろう。つい昨日会ったばかりの彼の口ぶりからするに、積極的にゴールドに会いたい気持でもなさそうだった。おそらく暫くのあいだは、彼自身、ゴールドの屋敷を訪れるようなこともないだろう。クリスタルはひとりそう結論づけて、オーキド博士に向き直った。
「じゃあ、わたしのムーぴょんをゴールドの家に預けます。悪いことをしようとしたら、ムーぴょんが止めますし、彼女を口実に、わたしもたまに様子を見に行けますから」
 博士はしばらく考え込んだあと、うむ、それがよいじゃろうと頷いた。
 その後、クリスタルとレッドはゴールドを連れて、ジムリーダーであるグリーンに会うべく、トキワジムを訪れた。グリーンはレッドと同郷のライバルであり、カントー地方の図鑑所有者である。クリスタルが連絡したとき、ジム戦の予約があるからジムを離れることができないというので、こちらから出向くことにしたのだ。
 関係者用の入り口から入ると、ちょうどジム戦中だということだったが、事務員がレッドと顔見知りであったので、特別にバトルを観戦しながら待てることになった。レッドは勝手知ったる他人の家といわんばかりに、すいすい進んでいく。バトルフィールドに出ると、レッドは隅のほうにあるベンチに見知った先客を見つけ、あっと声を上げた。
「ブルー! 来てたのか?」
 なめらかな素足を組んでバトルを見物していたのは、明るい茶色の髪をゆたかにたくわえた、見た目うつくしい若い女性である。彼女もまた、カントーの図鑑所有者で、クリスタルが声をかけたひとりだった。
「あらレッド。クリスに……噂のゴールドね」
 ひさしぶりね、と目を細めて笑いながら立ち上がった彼女に、ひょこっと後ろから顔を出したゴールドは驚いたようにまばたきをした。クリスはいやな予感がして、押さえておいたほうがいいかしらとゴールドを振り返ったときには既に遅く、彼はいつの間にかブルーの背後にまわっていた。
「……フェロモンムンムンのおねーさん、ブルーさんっていうんスかー」
 悪戯ごころ満載の笑顔を浮かべながらまるい腰を撫でているゴールド、どこかで見たような光景である。愕然とするクリスタルの隣で、レッドも「馬鹿なにやってんだよ」と言いたげに焦った表情をしていたが、言葉が出て来ないらしい。しかし、ブルーはまったくといっていいほど動じた様子もなく、むしろ余裕ありげに、にこやかな笑みを向けた。
「とんだご挨拶ねえ、ゴールド」
「いやーそれほどでも……ってソレ俺の財布!!?」
 言いながら、彼女が肩越しにちらつかせたものを目にしたゴールドが叫ぶ。
「ホホホ、おさわり代、いただいておくわね」
「あー!! さ、札抜くっスか普通!?」
 クリスタルはその光景を眺めながら、彼女にしてはめずらしく、自業自得だと思って口を出す気も起こらなかった。レッドも口を噤んでいたが、その視線はどっちかというと、言わんこっちゃない、と言いたげな感じだった。「可愛い後輩のお茶目じゃないっスかー!」と涙ながらに言い募るゴールドには目もくれず、ブルーはおさわり代を抜き取ったあとの財布を彼のほうに放り投げながら。
「馬鹿ね。可愛い後輩ってのはクリスとか、アタシの大事な弟みたいな子のことを言うの」
 初対面でいきなり尻を触るようなやんちゃを仕出かしていては、言い返す言葉もない。もっとも、ゴールドは放り投げられた財布に意識を持っていかれていて、あまり聞いていなかったようではあるが。そのとき、ちょうど試合終了のベルが鳴り、彼らは自然とバトルフィールドのほうへ目を向けると、両サイドのトレーナーが試合終了の握手を交わそうとしているところだった。今更ながら、「どっちがグリーン先輩っスか?」とゴールドがレッドに尋ねている。話してもいないのに先輩付けするのも馴れ馴れしい話だったが、レッドは特に気にした様子も無い。両者自分のポケモンをボールに戻すと、榛色のつんつん頭をした、鋭い眼光のトレーナーがこちらのほうに視線を向けて来た。
 応接室に通されるまで、めずらしく、ゴールドは若干萎縮しているようだった。小声でクリスに、あの先輩めっちゃおっかねえ、とささやいたほどである。それに気付いてか、レッドがグリーンになにか話している。クリスタルはそれらのやりとりを、不思議な心持ちでやり過ごしていた。彼女の記憶にあるゴールドは、もっと無鉄砲じみた度胸があったはずなのだ。彼が怯むところなど、ろくに見たことがないというのに。
 それでもいったん腰を落ち着けると、グリーンもバトル直後の高揚が落ち着いてか、それともレッドに諭されてか、ずいぶんとリラックスした雰囲気になっていたし、ゴールドも早くも慣れはじめたらしかった。
「……本当に記憶を失っているらしいな」
 応接室のソファに座り、しばらく四人で言葉を交わしたあとに、グリーンは溜息をつくようにつぶやいた。
「クリスの言葉とはいえ、漫画みたいだものねえ。アタシも半信半疑だったけどね」
 言いながら、ブルーは持参していた鞄のなかを漁った。はじめ目にしたとき、クリスタルが、ずいぶん大きな荷物だと思った手提げ袋から彼女が取り出したのは、両のてのひら大の風呂敷包みだった。彼女はこともなげに、はい、とそれをゴールドに差し出した。
「……? なんスか、これ?」
 首を傾げながらも受け取るゴールドに、開けてみればわかるわ、とブルーはこたえる。釈然としないながらも、彼がかたい結び目を解き、ゆうゆうとソファに背をもたせているブルー以外の面子が覗き込むと、そこにはポケモンの卵があった。
「記憶を思い出す手助けになるかと思って」
 孵す者、でしょ? 微笑んだブルーに、クリスタルは、驚愕を通り越して感動したようになった。というのは、それは彼を知るものなら、ことさら図鑑関係者であれば、真っ先に思いつくようなアイデアであったにも関わらず、彼女自身も、レッドやグリーン、またオーキド博士でも咄嗟に思いつかなかったことだったからだ。当のゴールドは、卵をぺちぺちと叩きながら、なんスかこれ? と疑問符を浮かべていたが、それでも期待が薄れることはなかった。ポケモンの卵の孵化、それこそ、ゴールド少年を図鑑所有者たらしめた出来事だったからだ。
 言葉も出ないクリスタルの前で、レッドが無邪気に、さすがブルーだな、としきりに感心しており、ゴールドはまわりの様子が解せないとばかりにやや狼狽気味に、知らない場所に放り込まれた子犬のようなようすで、他の面子を見回していた。
「覚えてないか? ゴールド、おまえ、孵す者だったんだぞ」
 説明ともつかない説明をするレッドの横で、むっつりと黙り込んでいたグリーンが、ブルーに厳しい眼差しを向ける。
「どうしたんだ、これ」
「いやね疑ってるの、ダーリン」
 茶化した返答にも無言で、胡散臭そうな視線を向けるグリーンに、ブルーは、知り合いから譲ってもらっただけよ、と肩をすくめた。
 ふしぎなことにはこの場にいるゴールド以外の全員が、この卵が孵ったときに、必ずとは言わずとも極めて高い確率で、ゴールドの記憶が戻るだろうと確信していたのである。



 次の休みに、クリスは電話でゴールドの母親と話して、ムーぴょんを預かってもらう手はずを整え、その足でワカバタウンに向かった。彼女の思惑を知ってか知らずか、ゴールドの母親は何も聞かないで了承してくれた。クリスタルがゴールド邸についたころ、時計の針は午後二時をまわっていて、彼女は彼の母親に迎えられることとなった。
「いつもゴールドのことをいろいろと気に掛けてくれてありがとうね」
「そんなことありません。わたしこそ、急にムーぴょんを預かってもらいたいなんてお願いしたりして」
 ゴールドは資産家の家庭に育ち、屋敷と呼ばれるほど大きな邸宅に大勢のポケモンたちと一緒に住んでいた。屋敷はまた広々とした庭に取り囲まれており、庭師はいなかったが、大勢のポケモンたちが遊んだり、草や小枝を食べたり、手伝いで手入れをしたりするので、豊かな庭木や雑草も荒れ放題というところまではいかないのだった。
 ゴールドは不在とのことだった。彼の母親はクリスをリビングに招き入れ、茶と菓子を出してしばらく取り留めのない会話をした。
「そういえば、明日はシルバーくんが来る日だったわね……」
 ふとゴールドの母親がカレンダーを見やって思い出したようにつぶやいたのを見て、クリスは咄嗟に声を上げた。
「シルバーは、来ないかもしれません。忙しそうだったから」
「そう? 残念ねえ」
 ふ、とクリスはその言葉に妙な含みがあるような気がした。彼女の記憶からして、シルバーが来るのを楽しみにしているゴールドの図、というのが思い浮かばなかったのだ。仲が悪い、と思っていたわけではないが、彼ら二人の気性からして、わざわざ足並みを揃えて遊んだり、相手に都合を合わせたりはしないように思えたのだ。
「……。ゴールドとシルバーって、そんなに仲良かったんですか? ……あ、えっとヘンな意味じゃなくて……ほとんど喧嘩してるところしか見たことなかったんですけど」
 クリスの言葉に、ゴールドの母親は一瞬目をまるくして笑った。
「そうね。……さっき言ったのは、わたしがシルバーくんが来るのを楽しみにしているってことなの」
 おとなしくてすなおじゃない、あの子? と彼女が楽しそうに笑ったことに、クリスタルは拍子抜けした気分になって、曖昧にうなずくことしかできなかった。ちなみに、大抵の人のシルバーの第一印象は、”近寄り難い人”で、ポケモン塾の子供達にも怖がられていた経歴もある。蓋を開けてみれば彼女の評す通りの人柄なのだったが、それを知る人はすくない。クリスタルはこういうとき、ゴールドの母親の度のはずれた大らかさを思い知るのだった。
 それから、話はすこしずつゴールドのことにうつっていったのだが、母親によると、どうやらゴールドの記憶は十歳前後で途切れていて、本人は、つい昨日は十歳だったという感覚ではなく、何か空白の期間があるような感じだ、と語っていたということだった。クリスタルがゴールドに感じた違和感はそのためだったのかもしれない。目の前のゴールドの言動やふるまいは、決して十歳そこらの少年ではなく、成熟も半ばの十九歳の青年であるように思えたのだった。彼は既に、クリスタルを真面目だとからかったやんちゃな時期からは大分に遠ざかり、それなりに自制があり、大事にならない程度にふざける若者に過ぎなかった。この案外に気性のさっぱりした若者は、彼女の記憶の中にいるゴールドのように意地悪ではなかった。彼女の要求をはねのけるのも程々に、ある程度は素直に聞いたが、それはどこか飄々とかわしているようにも見えるのだった。また、彼は自分の記憶がないことを、それほど深刻に受け止めてはいないようだった。医師の診察を受けては「なっちまったもんはしょうがねえや」と言い、その後の言動の端々にも、大して記憶に頓着していないような素振りが見えるのだ。
 そこまで考えて、ふとクリスタルはゴールドの母親の顔をおずおずと見詰めた。
「……気に障ったらごめんなさい。その、おばさまもゴールドと同じように、記憶を戻すことに……意欲というか……が、ないのかしら?」
 ゴールドの母親はきょとんとして、思いもかけなかったことを言われたかのように、しばらく思案していたようだった。
「……戻そうとして戻るものじゃないから、考えなかったわ。そりゃ、仮にどちらか選べって言われたら考えるでしょうけど、こういうのって、わたしたちにはどうにもできないことじゃない?」
 それに、あのこあまり変わってないのねえ。と、彼女はのんびりつぶやいて、クリスタルは、ゴールドが鷹揚に構えていられるのは、彼女の影響が大きいのかもしれない、と思った。細かいことを気にしない、並外れておおらかな、ポケモン屋敷の女主人、クリスタルは彼女の存在をすこし恨めしく思った。
 ゴールドがすこしも失った記憶に頓着しないことは、へんに身の上を嘆くよりはましだと思いながらも、寂しいと感じるのも確かだった。彼の母親にとっては、かれが生まれてからの十九年のうち八年が忘れられたに過ぎないが、クリスタルにとっては、彼と過ごした八年がまるまる忘れられてしまったのだから。そこまで考えると、彼女の内心で、かの母親の態度はちょっと無神経なんじゃないかしらという恨み言がふつりと沸き上がったが、すぐさま彼女はその感情を自分で恥ずかしく思い、そっと顔を伏せた。ほぼ反射的に、なんの深い意味もなく、かの母親が死んでしまったら、ゴールドはどうなるのだろうという考えがうかんだのだった。
「ただいまぁー」
 そのときタイミングよく、クリスタルの思考は中断された。ゴールドが、帰ってきたのだ。ゴールドが帰ってくると、迎えに顔を出すポケモンたちの気配で、俄かに家のなかがわきたつようになるので、すぐにわかるのだ。かあさんジンジャーエール、とか言いながら二人がお茶をしているリビングに顔を出したゴールドは、クリスタルがいることに気づくと、びっくりしたように目を瞬いたが、「お邪魔してます」とクリスタルが軽く頭を下げると、冷蔵庫目指して通り過ぎ応えつつ、
「おう。いいんちょー、なんでいんの?」
「ちょっとお願いがあって」
「ジンジャーエールのむ?」
「さっきいただいたから」
 相変わらず飛び飛びの会話をしながら、ゴールドは冷蔵庫にあった自家製のジンジャーシロップを炭酸水で割って、喉を鳴らして一気に飲み干した。それからようやく、で、と先を促したゴールドに、クリスタルはあらためて説明をしたが、思った通りゴールドは、ふうんと聞き流しただけでたいして驚きもしなかった。が、グラスを片付け終わってつかつかともどってくると、クリスの隣に行儀よくかけていたムーぴょんに片手をさしだしながら、よろしくな、と言ったのだった。ふたりが握手をかわすのを眺めながら、彼女の知るゴールドならもっと遠慮なしにムーぴょんを抱き上げるだろうと思って、やっぱりすこし大人っぽくなったかしらと、クリスタルは感じた。
「委員長このあと用事あんの?」
「え。……別にないけど」
「じゃあ、デート行こうぜ、デート」
「…………はあ?」
「つーことで母さん、行ってくっから。夕飯はグレン風火山ハンバーグでよろしく」
「肉じゃがよ。はい、いってらっしゃい」
 ちぇっと唇を尖らせるゴールドに引き摺られるように、クリスタルは咄嗟に立ち上がると、お邪魔しましたと彼の母親に頭を下げ、慌ただしく引き上げていった。
「ちょっと、どういうつもりなの?」
 廊下を歩く背中にクリスタルは追いすがる。彼女の言葉にも気付かないのか、それともあえて答えるひつようもないと思っているのか、ゴールドは振り向かなかった。再三疑問を繰り返す気も萎えて、しかたなく、彼女は口を噤んでその後をついて歩くことにした。
 玄関から屋外に出ると、明るい夏の日射しが、屋敷の庭にまんべんなく降り注いで、まばらな木立のふしくれだった梢の先々や、羽を休めるポッポの羽毛のうちいっとう軟らかで細い一筋すらも、残らず照らし出して、眩しいくらいに輝かしていた。感覚を疑う程に強すぎる日射しに、クリスタルはおもわず腕で目をかばいながらも光源を空に探したが、そこには雲ひとつない真っ青な夏空がひろがっているばかりで、太陽を見出すことはできなかった。
 屋敷の門を出ると、ゴールドはボールからバクたろうを出し、その背中に乗り上げると、クリスを見て、顎でしゃくってうながした。クリスが不承ながらも自分のボールに手を伸ばすと、ゴールドはすかさず口を挟んだ。
「こっち乗らねーの?」
 さも乗るのが当然、といわんばかりの不遜な口ぶりで問いかけられ、クリスタルはおもわず呆気にとられた。
「……どうして?」
「デートつったろ」
「……」
 普段の彼女であれば、冗談じゃないわと一蹴してその軽口を黙らせていただろう。しかし、いまのゴールドには記憶がないのだ。クリスタルのことだけでなく、シルバーのこと、レッドのこと、他のみんなのこと、あの旅のすべてを知らないのだ。今までは、憤りと寂しさと罪悪感がともなったその言葉の響きのうちに、なにか正体の知れない甘やかなものが滲んでいたのを、クリスタルは不意に覚った。
 旅の中で、彼女と、ゴールド少年は、大波のような感情の揺らぎと、詩情と、それらを通して見える毒々しいほど鮮やかな景色を、それぞれに目にした。それは少年少女たちの意思にかかわりなく、焼きごてで焼き付けたように幼い網膜に刻み込まれて、決して消えさることがない心であり、傷痕であった。もう、何も知らなかった頃にもどることはないのだ。自らの傷だらけの肌をいとしく撫でながら、彼女はよくそんなふうに考えたものだったが、いま思えば、彼女がゴールドに想いを告げることをしないでいたのは、ひとえにその傷のためだった。
 彼女は、鳥をイメージする。ほっそりとしてやわらかなからだ、繊細なうつくしさと、神々しいほどの強さとを兼ね備えた、光り輝く鳥の姿、そして彼女はつぎに星を連想した、深い沈黙に満ちた紺碧の夜空を流れていく星、世界のうちでいっとう透き通った上澄みの水面を滑る鳥の姿を。まるで世界の真理であるかのように、誰にも侵すことのできない空を巡っては、たまに地上に舞い降りて、少年少女に傷を刻みつけていく。ゴールドの、クリスの心には、いまだその爪が食い込んでいるかと思われるほど、生々しい傷が痛々しくも甘やかに疼いている。少なくとも彼女にとって、旅とはそういうものだった。いつか癒えたとしても、決して消えやしない。何年経ったとしても、忘れていたとしても、古傷を見れば思い出し、そして繰り返し、美しい光の鳥のことを思い描くだろう、そういうふうに確信できるほど、その傷はあまりに巨大すぎたのだ。
 心に刻み付けられた、底の見えない裂け目と比べてしまえば……、じぶんの恋情など、あまりにちっぽけで、塵芥も同然に思えた。光に晒したら最後、ささやかな感情はあの裂け目の闇に呑まれてしまうようで怖かった。言葉にして伝えようとしたが最後、かれらを隔てる傷の深淵のうちに、消えてなくなってしまうのではないかと。
 だが、いまのゴールドには、そんな傷などないのだ。
(駄目だわ……駄目だってわかってるの。だって、彼はわたしの好きなゴールドじゃないわ)
 しかし言葉とは裏腹に、ふいに彼女の感覚に、あの夏の温度がよみがえった。スケートボードの吸い付いた掌、くつろげられた襟元に浮かんだ汗の粒、ボディバッグから取り出された図鑑の、生々しい彼の体温が。反射的に、思考が火照った。記憶がなければ、彼は触れてくれる? 心臓が大きく跳ねて、泣き出しそうになる。
「ほら」
 急にぐい、と腕をひかれ、咄嗟に涙が引っ込んだ。クリスタルが目を白黒させているうちに、気付けば、バクたろうの背中のうえ、ゴールドの後ろに引き上げられていたのだ。
「なにボーっとしてんだよ、委員長さんよ」
「なっ……に、するのよ、びっくりしたじゃない」
「あのなー、文句言える立場かよ」
「…………は?」
「デートつってるだろーが。こ、の、ゴールド様のことだけ考えてりゃいいんだよ」
 それが礼儀ってもんだろーが。としゃあしゃあと言い切ってから、ゴールドは急にバクたろうを走らせたので、クリスタルは咄嗟に目の前の背中にしがみついた。服の下は思いのほか湿っぽく、体温は高い。そういえば帰宅したときも、彼はずいぶん汗をかいていたと思い出して、クリスタルは我に返って、思わず短く悲鳴を上げて手を離した途端、上半身を後方に引っ張られ、バランスをくずしそうになった、ところで、ゴールドが咄嗟に片手で離れかけた彼女の手を捕まえた。
「……っと、あっぶね」
 おかたい委員長はこんなことしたこともねえってか、と、風のなかで笑っているゴールドの声も耳に入らなかった。掴まれた掌は熱く、やわらかく、薄く汗ばんでいる。「いま、彼はわたしに触れている」反論することも忘れたまま、じわじわと目元が熱くなりはじめるのを感じ、一度は遠ざかった涙が戻ってくるのを待ちかねていた。身体じゅうが熱く、心の臓が燃えているようだ。この涙は歓喜だ。彼女は夢中になってその感覚を全身で貪ろうとしながら、先ほどのゴールドの言葉を思い返していた『こ、の、ゴールド様のことだけ考えてりゃいいんだよ』。
(貴方はゴールドなの? ねえ? ゴールドだっていうの?)
 おかしくなったように口の中で意味もない問いを繰り返した。答えなんて返ってこなくてよかったのだ。わけもわからず、口ずさむ歌のように、彼女はずっと、ひたむきに繰り返していた。
二章
 ポケモン塾の経営されている学び舎は、子供達の暮らす教室と、ジョバンニ先生が暮らす事務室のほかに部屋らしい部屋もない、こじんまりとして古びた建物である。この年季の入った建物は、かつて医師ひとり看護婦ふたりばかりの小さな診療所だったらしいが、年老いた医師が倒れ、閉鎖されて買い手がつかずにいたところを格安で買い取って、申し訳程度の改修を行ったのだった。しかし改修を引き受けた業者の腕が悪かったのか、数年も経つと塗装が剥がれ落ち、壁のひびわれや欠けた屋根などが目立つようになった。当時十一歳のクリスタルの働きにより、修復に急を要していた塀は取り壊され、まっさらな新品につくりかえられたものの、コンクリート製の学び舎のほうは未だ当時のままだった。というのもその校舎は頑健で、毎年、夏が来るたびに吹き付ける台風や雨風にもびくともしないからだった。
 一時期は困窮を極めた塾の経営状態も、ここ二、三年はだいぶに落ち着いてきていた。というのも、その困窮極まる塾の中で育った子供達の何人かが社会に出て働きはじめたのだ。彼らははじめのうち、少ない給料のために塾で寝泊まりしてジョバンニ先生を手伝ったり、住み込みで働かせてもらえる職場を探したりしていたが、一年もすると、次の世代があたらしく職を探しはじめ、彼らに寝所を譲り渡し、前の世代たちは格安のアパートを借りたりした。彼らは一様に、ジョバンニ先生を慕っていたし、ボランティアに来る人々、中でもクリスタルを敬愛していた。もちろん、鉄砲玉のごとく塾を出たなり帰ってこないやんちゃ者もいたが、そういった卒業生たちでさえ、たまには手紙を寄越したし、それ以前に卒業生の多くは、ポケモン塾のために何かしらの支援をしたいと願い出ていた。エメラルド少年が若くしてポケモントレーナーという自分の道を見つけ、ひとりだちした後も何かと塾を気にかけているのも、彼らと同じような感謝と愛情を、ポケモン塾に感じているからだった。
 しかし、エメラルド少年には彼らとどこか異なる点がいくつかあった。というのも、他の子供たちがまだものの道理も知らない無邪気な時代に、彼は既に自分の立場を理解していて、それを後ろめたく人より劣っていることのように感じ、ことによると陰気に塞いだり苛々したりしていたということだった。そうした彼を救ったのは、ほかでもない、当時ほんの十かそこらのクリスタルだった。同じ年頃の子供達と比べても抜きん出て明晰だったエメラルド少年は、最初、彼女の明るさを無知な軽薄さのゆえと感じて嫌厭していたかもしれないが、そう時間も経たないうちに、彼は自分の心持ちが軽くなってゆくのを感じたのだった。彼女はよく笑ったし、子供達を叱るようなときでさえも、総じて楽しいような感じ、心から満たされているような感じが、彼女の身振りから滲み出てくるのだ。まるでこうしている間にも、彼女が生命力に満ちあふれていくかのようだった。エメラルド少年はそれを遠目から眺めているだけで、暗澹としていた気分が、しだいに晴れ晴れとしてくるのを感じることができた。彼女の行動を深読みしたり、理由を探ったりすることもなく、彼女が笑っているというそれだけで、他のことはまるでちっぽけな愚にもつかないようなことに思われてくるのだった。そういうわけで、少年はクリスタルに対していっそう深い敬愛と、何か高尚な、美しいものに対する輝かしい喜びのようなものを抱いていたのだ。
 夜も十時を過ぎ、子供達の寝息で満たされたポケモン塾の寝室を、エメラルド少年は忍び足で抜け出した。ジョバンニ先生の出張で、留守をクリスタルとともに預かるはずだったボランティアの女性がぎっくり腰で倒れたことから、数日前から塾の手伝いをしているのである。音を立てないように扉を閉めるとようやく一息つき、彼はへとへとの身体を引きずって、まだ明かりのついている事務室を目指した。そこではジョバンニ先生の留守を預かったクリスタルが、まだ調べものに精を出しているはずだ。扉を開けると、クリスタルは向かい合わせの事務机のひとつについて、分厚い本の頁をめくっていた。彼女がこちらに気付いた様子もなかったので、エメラルドは「クリスタルさん」と出かけた口を咄嗟に綴じて、隅にある折りたたみ式の椅子にかけて、彼女が作業をする様子をぼんやりと見守った。
(あんなことがあったのに)
 図鑑所有者としての先輩であるゴールドが記憶を失ったと聞いたとき、エメラルドが心配したのは、クリスタルのことだった。彼女があの男のことを特別に思っていることは、はっきり聞いたことではないにしろ、ほぼ確信に近く、彼は感じ取っていた。報せを受け取ったとき、クリスタルがひどく悲しい顔をしているのではないかと、エメラルドはそればかり心配になって仕方がなかった。しかしいざ会ってみると、クリスタルは以前彼と会ったのと遜色ないくらいに明るく、軽やかに働き回っていた。陰のようなものはいっさい見当たらなかった。後でジョバンニ先生に聞いたところによると、いっとき彼女はずいぶん落ち込んで、ポケモン塾にも休みの連絡を入れていたらしいが、今はすっかり立ち直って、ゴールドの記憶を戻す手がかりなどを探しているというのだった。
 ほっと息をついたエメラルド少年だったが、妙なことに、彼にはそうして立ち回るクリスタルが、以前よりもよりいっそう活き活きとしているように見えてならなかったのだ。彼女の全身には生命力が漲り、彼女が前よりもずっと輝かしい歓喜に溢れているように思われた。エメラルドは思う、「元気を取り戻したのはいいけれど、前よりもっと輝いているように見えるというのはどういうわけなんだろうか。まさか、ゴールドさんが記憶を失うことを望んでいたわけでもあるまいし?」。彼は、クリスタルが苦境に打ち克つことによって、いちだんと成長したのかもしれないと思おうとした。じっさいそういうことかもしれないのだ。だが、彼はその疑念を払いさることができずにいた。すこし油断すると、ぽっと、そういう考えが意識の表層に浮かんでくるのだった。そしてそのたびに、自分の邪推を憎み、よこしまな考えでクリスタルを穢すまいと、自分で自分を戒めるのだった。
「…………エメラルドくん!?」
 ふ、とクリスタルが本から視線を上げたときに、たまたま目に入ったものらしい。彼女はしんそこびっくりしたように目を丸くして、食い入るようにエメラルドを見詰めた。
「どうしたの?」
 やがて彼女はやわらかく目を細め、唇をちいさく綻ばせて、噛み締めるように尋ねる。それは塾のこどもたちにするのと同じだ、ということは判っていながら、エメラルド少年はなんとなくどぎまぎして、さりげなく視線をそらした。
「最近、クリスタルさん、遅くまで調べものしてるって聞いたから……」
「もしかして、心配してくれたの?」
「……心配だよ」
「ありがとう」
 子供達にも聞き取りやすい、はっきりとした発音と、乱れないリズム、淀みのない言葉。エメラルドはそういうことに、酷く傷つけられたような気持になることがあった。その、一点の曇りも無い完璧な明るさに心服していながら、いざそれが自分に向けられると、侮辱されているような気がするのだ。彼はずっと、それは自分のおこりっぽさのためなのだ、と思っていて、今もそう思って内心で自分を非難した。
「……なにかわかった?」
 誤摩化すように、エメラルドは彼女の机の上の資料に目を向けた。
「いいえ。やっぱり、治療法らしい治療法はないみたい」
 ひとつひとつ試していくしかないわね、と困ったように苦笑するクリスタルに、エメラルドは胸が痛んだ。できれば協力してあげたい、それが無理でも、せめて気休めになるような言葉をかけたいと強く思って考えを巡らした彼の頭に、ふととある考えが掠めた。
「……俺、思ったんだけど、ゴールドって普通の記憶喪失なのかな?」
 なかば考え込んでいるように、神妙な調子で切り出したエメラルド少年の言葉に、クリスタルは首を傾げた。
「あのひとの場合、隕石が落ちたくらいで記憶をなくすような繊細さとは無縁のような気がするんだけど」
 クリスタルは黙って、吟味するかのように考え込んでから、しばらくして「確かにそうね」と同意を示した。
「もし心因性なんかじゃなくて、隕石が落ちたことに原因があるんだとしたら、やりようもあるんじゃないかな」
 エメラルドがそう付け加えると、クリスタルは再びしばらく考え込んでから、もう一度、そうね、とこたえたものの、さしてその説に期待をかけているふうでもなかった。思いがけず淡白な反応だったが、エメラルドはかえってほっとした。たんなる思いつきだったので、彼自身じぶんの言葉をそれほど有力な意見だと信じていたわけもなく、憶測が憶測に終わったときの彼女の落胆を考えると、はじめから期待されないほうがよほどいい。少しばかり沈んだ気持をごまかしながら、エメラルドがそう気持の整理をつけてしまった直後、クリスタルは細い溜息をつくように、意外な返答をしたのだった。
「……正直、ちょっと行き詰まっていたから助かったわ。明日からは、その方向で——あの隕石がゴールドの記憶喪失に関係しているのだと仮定して、調べてみるわね……。……ありがとう、エメラルドくん」
 先ほどまでの明るさとは打ってかわった、思い詰めた溜息をつくような発音のしかたに、エメラルドの心臓は思いもかけなく高鳴った。彼女の淡白さに安堵の息をついた寂しい謙虚さはどこかにいってしまって、彼は浮ついた気持をおさえようとしながらもおさえきれずに、まくしたてるように言葉を続けた。
「あの隕石なら、いま、トクサネの宇宙センターが調査してるはずだよ」
「ええ。あした、時間があき次第、コンタクトを取ってみましょう」
 いくらか明るさを取り戻した声色でクリスタルはひといきに言い切ってしまうと、本を閉じた。
 クリスタルはエメラルドとともに事務室を出て、玄関と窓の戸締まりを確認してから、そっと教室の扉を開けた。彼女がすこし行き詰まっていたのも、そのために疲れていたのも本当だ。だが、それは決して病的な疲れではなくて、むしろ快い疲労だった。彼女は息をひそめ、子供達の眠る布団が散乱しているなかを縫うように歩きながら、彼女の調べものについて、エメラルドはどこから知っていたのだろう、と思った。
(……できれば知られたくなかった……)
 手探りで、エメラルド少年と自分の布団を探し当てながら心の中でつぶやいた声に、クリスタルははっとして身体を震わせた。
(何を言っているのかしら、わたしは? すこしも悪いことなんてないじゃないの)
 幸いにして暗闇のなかだからか、クリスタルの動きが一瞬止まったことを、エメラルドが勘づいた様子はなかった。安堵の息をつきながら、クリスタルは身体をよじってタオルケットの中に潜り込む。となりのエメラルド少年とおやすみを囁きかわす彼女には、なぜ彼に、否、誰にもその調べもののことを知られなくなかったのか、理由がよくわかっていた。
(わたしが彼を好きだからよ)
 そのときクリスタルは胸のあたりがきゅうっと締め付けられるのを感じ、悲しいような切ないような感傷の発作に襲われた。限界まで涙を絞られるみたいに、胸よりも少し上のあたりが縮こまり、彼女は堪らず身を丸め、目をきつく瞑った。暗闇に満たされた視界の中で、エメラルド少年の、いたましげな眼差しや、トクサネ宇宙センターのことを口にしたときの紅潮した頬がくりかえし、浮かんでくるのだった。そのたびにクリスタルは、申し訳なさと恥ずかしさのために消えてしまいたいと願った。
(なんてこと、無意識とはいえ、あんなふうに感じるなんて。例え感情の上でだって、エメラルドくんの親切を踏みにじるようなことがどうしてできるっていうの? どうして……)
 胸の締め付けは消え去ることものないまま、クリスタルは激しい羞恥心に身震いするのをおさえきれなかった。ゴールドが記憶を失う前は、遠くから見ているだけで満足だと、殊勝な心持ちで眠っていた感情が、にわかに騒ぎ出しているのを感じながら、それをおさえこむように無理矢理眠りについた。
 その夜、クリスタルは夢を見た。彼女はポケモン塾の、鮮やかなサンイエローの壁紙が張られているだけの空っぽの教室にぽつんと立っていた。部屋の真ん中にはなぜか蓋の開いた棺桶が鎮座しているのだったが、それは棺桶という言葉の響きには似合わないような意匠のしろものだった。真っ白に塗りつぶされた表面には所狭しと優美な銀細工の装飾が施され、棺桶自体の形状も猫足を思わせるように上品な曲線を描いている。そしてその棺桶の縁には、まるで星の光のように輝く全身を持った鳥が、首をもたげて棺桶の中をそっと見下ろしているのだ。
「どうしたの?」
 クリスタルは鳥に尋ねてみた。鳥はちょっと顔を上げて、彼女をじっと見詰めかえした後に、光る嘴から、ひかえめな、もの柔らかな調子で、言葉が流れだしはじめた。
「彼女は……星を飲んだ」
 彼女? 反芻して首を傾げたクリスタルに、鳥は嘴で棺桶の中を示した。クリスタルが近付いていって覗いてみると、そこには真っ白いドレスを着せられた生まれたばかりの赤子が、色とりどりの花の中で眠っていた。白い顔は半ばまでベールで隠されていたが、ほんのすこしだけ開かれた唇だけ、薄い桜色に色づいていた。
「死んでしまったの?」
 クリスタルが尋ねると、鳥は嘴を閉じ、無言でなにごとか考えているようだったが、しばらくして、また嘴を開いた。
「いいや。星を飲んだんだ」
 光る鳥は繰り返した、その後にすぐにクリスタルは目覚めることになった。

 翌日、クリスタルは仕事の合間を縫って、あの日落ちた隕石の調査結果が公表されていないかどうかをネットで確認してみたが、詳しいことはまだ調査中、というのだった。彼女は続いてオーキド博士に連絡を取り、隕石の調査結果について何か知らないか、というのを聞いてみたが、結果は芳しくなかった。エメラルドもルビーやサファイアに連絡を取ったりしていたようだったが、その日の終わりになってジョバンニ先生が戻ってくると、一息つけると見て、エメラルドはクリスタルに、ダイゴという人物のことを話した。
「鉱石マニアだから今回の隕石墜落騒動のことも、何か調べてるかもしれないってルビーが連絡を取ってくれたんだ。わけを話したら、トクサネ宇宙センターに知り合いがいるからって掛け合ってくれたらしい。そしたら、そこの研究員が記憶喪失症状のもっと詳しい話が聞きたいから、良かったらセンターまで来てくれないか、っていうことになったんだって」
 クリスタルは呆気にとられたまま話を聞いていた。記憶喪失の治療方法を探すために、隕石のせいじゃないかと仮定してみただけに過ぎないのに、これではあべこべじゃないだろうか。クリスタルは自分たちが相手方にとって役立つ情報を提供できるのかどうか自信がなかったが、ともかくも行ってみれば、こちらにとって役立つ情報も得られるかもしれない。いまは藁にだって縋りたい思いだと、彼女は行くことを決心した。話を聞いたジョバンニ先生は、それはいいですねと声を上げて賛成した。
「エメラルドくんも最近働き詰めでしたから、気晴らしに行ってくるといいですよ」
 タイミングよく、ちょうどぎっくり腰で休養を余儀なくされていたボランティアの主婦が復活を遂げたところだったのだ。ジョバンニ先生に手招きされて顔を向けた彼女は、話を聞くと鷹揚に微笑んだ。そこで、二人は先生と彼女の好意に甘えることにし、その日のうちに、ゴールドを発見した彼の友人と連絡をとって事情を話した。話を聞いてみると、その人物はゴールドの知人というよりは、旅先でのゆきずりの遊び仲間といった関係であるらしかったが、その口ぶりはまじめだった。どうやら、電話口の向こうの人物は軽薄さを感じさせまいと努めて慎重に受け答えをしているらしい。ともかくその人物に、日程を合わせてトクサネ宇宙センターに行く約束を取り付け、クリスタルは電話を切った。
「電車で行ったらどうかしら。途中、おいしい駅弁があるのよ」
 その翌日となる土曜日、クリスタルとエメラルドは、ボランティアの主婦の勧めに従って、コガネシティからリニアに乗り、みじかい新幹線の旅を楽しんだ。窓の向こうのつぶさな街並がめまぐるしく通り過ぎ、遠く青々としたなだらかな連峰が悠然と流れていくのを見ながら、クリスタルはつかの間だけでもゴールドのことを忘れたように振る舞い、エメラルドができるだけ寛げるように気を配ったが、それは罪悪感のためだと彼女にもわかっていた。
 呼応するようにエメラルドも、いつにも増して優しく、慎重に受け答えをするのだったが、彼にゴールドのことを忘れろというのもまた無理な話だった。クリスタルとゴールドが一緒に居るところを見たそのときから、聡いエメラルドは、クリスタルがゴールドに向ける意識が、なにか特別であることを勘づいていたのだ。何がどうとは言えずとも、何かが他と違っていた。そのときからエメラルドは、ゴールドが切っても切れない存在のように感じていたのだろう。普段は気付かなくても、撓んだ糸で繫がれているように、心のどこかで気にしていたのだ。彼はその確信のために、クリスタルは単にゴールドのことを気にしない素振りをしているのだというふうに決めてかかっていた。無論、彼はその結論に対して自分の感情がそう自分に思い込ませているのだという反駁を試みてはみたが、結局、答えらしいものは得られずに、せめて彼女の優しさを無駄にしないよう、努めて考えを表情に出さないようにすることしかできなかった。
 そうして二人きりの短い旅はこれ以上ないほど平穏に過ぎ去り、リニアを降りてからもいくつか電車を乗り継いで、最寄り駅で時間通りにゴールドの遊び仲間と落ち合った。背が高くひょろりと痩せた彼は、黒地に白い英字がデザインされたTシャツをかぶって、履き古して色褪せたジーンズの裾を踝の上まで捲り上げていた。クリスタルとエメラルドが挨拶をすると、困ったような恐縮したような様子で、腰の引けた会釈をした。三人はそこから船に乗って、トクサネの宇宙センターまで辿り着いた。その間に、会話らしい会話は成り立たなかった。ゴールドの遊び仲間だという男は、エメラルドやクリスタルが話しかけても、気乗りのしない様子で、困ったような微笑を浮かべて短く二言三言の返事を返すのがせいぜいだった。柳に風のような態度にエメラルドはちょっとばかり気分を悪くしたようだったが、クリスタルはその男が、注意深く、自分の不良めいたところを隠そうとしているような感じを受けた。しかし、礼儀正しくするということにあまり慣れていないので、かえって卑屈な、慇懃な調子になってしまうのだろうと思った。その態度に、クリスタルやエメラルドに対する微かな軽蔑の念がまるきりないとは言い切れないものの、かれもまた、ゴールドの身を案じて来てくれたのだ。それだけで、好意的に接するにじゅうぶん値する人物のはずだと。
 宇宙センターには、仲介人としてダイゴが既に到着しており、会合には彼と、三人の研究員が出席していたのだった。ひとりはリーダー格らしく年齢は四十代半ばと思われたが、年齢のわりに特徴的な眼鏡やカフスボタンを身につけた小洒落た男研究員、傍らには明るい茶髪に染め上げた長い髪の毛を後ろで括った痩せぎすの女性研究員が座り、そしてまだ二十歳そこそこの小柄な女性が、いかにも陰気そうにノートパソコンの画面に見入っていた。その中で、最初にゴールドを発見したくだりについて尋ねられると、ゴールドの知人であるかれは、緊張した真面目な面持ちで口火を切った。
 隕石の落ちた前夜、ゴールドは、バトルフロンティアのある島の高台にある若者向けのディスコを訪れて、女性に声をかけたり、ひやかしたり、端のテーブルでトランプに興じていたとのことだった。かれとゴールドはそこで出会い、たまたま気が合ったので、ディスコ内でなんとなくつるんでいた。零時を過ぎた頃、ちょうど女子の二人連れと喋っていたところ、ゴールドが鞄の中からポケギアを取り出し、着信相手を確認して、ちょっと外す、と言い、人気の少ない壁際のテーブルまで行って、しばらく喋っていた。五分もすると戻ってきて、何かあったのか、と尋ねたかれに、ゴールドは、明日用事ができちまった、と答えた。じゃ今日はもう帰るのか、とかれが聞くとゴールドは、こんな可愛いギャル置いて帰れるかよ、朝一番で発つ、と言った。その言葉通り、明け方、空が白みはじめる午前四時ごろに、フェリー埠頭の二十四時間営業のカフェで軽食を摂ってから発つと言って、ゴールドは抜けた。間もなくして激しい地震が発生し、おさまった。かれはゴールドの身を案じて外に出たものの、続いて津波の避難勧告を伝える街頭スピーカーがけたたましく鳴り響き、そのなかで突っ立っていたかれは、海面近くにある市街地に住む老人の避難の手伝いに駆り出されたのだった。もちろん、避難勧告の出された地域に、ゴールドが向かったはずのフェリー埠頭も含まれていたが、そちらに向かった担当者は、全員避難済みだといって帰って来たので、かれはひとまず安堵して、自身も高台へ引きあげた。人々が全員高台のほうへ避難していくらもしないうちに、津波が街を襲った。そのときたまたま水平線のほうに目線を向けていたかれは、おもわず固唾を呑んでいた。海の向こうのほうから、なにかとてつもなく巨大な波が刻一刻と島に迫ってくる。遠目でも並外れた高波に見えたのが、近づいてくるにつれて何もかもを呑み込もうと意気込んでいる大きな口のようになって、やがて白いしぶきをあげながら雷のような轟音とともに市街地へ傾れ込んだ。高波はそれから、三、四回も続いてから、海は落ち着き、波の音も、いつもの平静を取り戻した。夜が完全に明け、太陽が静まり返った水平線から完全に顔を出したころ、かれは避難民の中にゴールドを探したが、見当たらなかった。仲間内では、おそらく気が変わって埠頭にはよらずに発ったのじゃないかと口にするものもいたが、数人の仲間はゴールドの身を案じ、フェリー埠頭へ向かったのだったが、そこで、打ち上げられた体のゴールドを発見した。ゴールドが記憶を失っていることは間もなく明らかになったので、身元に連絡を取らないとということになったものの、海水に浸かったためか、かれのポケギアは故障しており、修理に出すことになった。修理が終わるまでの三日間、ゴールドは彼らの家を転々として暮らし、ポケギアは戻ってきたものの、アドレス帳を含むデータの一部が破損してしまっていた。そこで彼らはもっとも新しい着信履歴の番号にかけることにしたのだそうだ。
 説明のなかには、結果的に一般道徳に反することをしたという自供をする羽目になる事柄もあったが、かれはそれらをうまくぼかしつつ喋った。それらは隕石墜落とは関係ない事柄と思われたため、幸いにも深く突っ込まれることはなかった。そうして意図的にぼかした事柄以外については、かれの話し振りはなかなか見事で、よどみなかった。説明役としては、なかなかうってつけの人選だったらしい。
 それからの経過については、クリスタルが主に喋った。記憶喪失の程度、その後のゴールドの性格や振る舞い、かつての知人に会ったときの反応、親の対応などなど。さきほど雄弁を披露したばかりのゴールドの知人は謙虚に口を閉じて、クリスタルの話を聞いているように見えた。かれらを迎えた三人の研究員は、ときおり二、三の質問を挟む以外は、熱心に聞き入っていた。うち小柄な女性は書記らしく、持ち込んだノートパソコンに絶えず打ち込んでいたが、残りの二人も各々のメモ帳にこまめに記入していた。
 クリスタルが喋り終わると、研究員達はありがとうございました、と慇懃さすら感じさせる丁寧さで口にした。そして厳粛な面差しでなにやら視線を交わし合った後、真ん中に座っていたリーダー格の男が、時に、と口を開いた。
「記憶喪失の彼は、『孵す者』とか……それは、ポケモンの卵を孵すとか、そういう意味ですかね?」
 思いもしなかった質問の切口に、クリスタルはおもわず瞬きをした。咄嗟の言葉が出て来なかった彼女に代わって、エメラルドが「そうだよ」とかんたんに答えた。
「あの人の孵したポケモンは、高い能力を持って生まれてくるんだ。でも、なんでそんなこと聞くの?」
 エメラルドの質問に、研究員達は揃って顔を合わせ、やがて真ん中の男が、厳粛な調子で切り出した。
「公式発表があるまでは秘密にしておいてほしいのですが……、隕石の墜落現場から、ポケモンの卵が発見されたのです。記憶喪失の彼と、直接の関係があるのかどうかは分かりませんが」
 こちらへ、と言って研究員達は席を立ったので、クリスタル達もそのあとについて、会議室を出た。フラスコやビーカーが乾かしてある、いかにも研究室じみた部屋に入ると、研究員達は引き出しのひとつから、木製の箱を取り出して蓋を開けた。中を覗き込んだエメラルドが首を傾げた。
「……ポケモンの卵?」
「そうです。これが墜落現場で発見された卵です」
 エメラルドはひどく驚いて、これが? と聞き返していた。クリスタルにはその気持がわかった。なぜならその卵は、まるでたったいま産み落されたかのように瑞々しく、やわらかな淡黄色をしていたからだ。エメラルドは胡散臭そうな目つきで研究員達を見返した。
「海に住むポケモン達の卵じゃないの?」
 対して研究員は意外なほどあっさりと、「そうかもしれません」とその可能性を肯定した。肩をすくめたエメラルドにむかって、女研究員が極めて神妙な調子で続けた。
「……ですが、この卵は妙なのです」
 奥歯にものが挟まっているような言い方をした女研究員の様子は妙にぎこちない。それは、極秘事項を口にしているためという以上に、何かを恐れているかのようでもあり、彼女はふいに引き出しからファイルを取り出すと、それを開いて超音波写真らしきものを見せた。エメラルドはそれを見て首を傾げたが、クリスタルには見覚えがあった。
 独特の透明な白いかげが、まるっこい大きな頭部と、比較的小振りな四肢を映し出している。それは外的から身をまもるように、身体を丸めているように見えた。
「……人間の胎児……?」
 つぶやいたクリスタルに、女研究員は意味深に「やはりそう見えますか」と言った。そこで、ゴールドの遊び仲間である男が何かを察したかのようににわかに顔色を変え、はじめて自分から発言した。
「……。どういう意味なんですか?」
 女研究員はちらりと彼に視線をやって、目線を伏せた。
「これは、この卵の超音波写真なのです」
 彼女の口にした事実を、クリスタルは咄嗟に受け容れることができなかった。頭のなかで彼女の言葉を反芻し、そしてようやく、呻くような声が、喉から洩れ出した。軽い混乱のさなか、彼女は横目で周囲の動揺を観察したが、エメラルドは呆然として言葉も出ないようす、ゴールドの遊び仲間のほうは、苦々しく、恐怖と苦々しさがないまぜになったような表情を浮かべていた。ダイゴは知っていたのか、軽く目線を伏せている。
「奇怪なのはそれだけじゃない。生きているんだ。日に日に成長している」
 クリスタルは再度、卵を眺めたが、先ほどまでは確かにポケモンの卵だと思っていたものが、急に得体の知れない生々しいもののように思え、殆ど吐き気を催すほどだった。ほんのり淡黄色の浮かぶ、つるつるとして塵ひとつない滑らかな表面、卵のお手本のような完璧な形状、卵のもつそうしたすべての要素を、不気味でグロテスクに感じ、何よりクリスタル自身を脅かすもののように思えたのだ。彼女はぞくりとして咄嗟に視線をそらした。
「ポケモンであれば、もう産まれてもおかしくない大きさです。にも関わらず、中の赤子は動いたり、殻を破ろうとする仕草さえ見せない」
 まるで、孵されるのを待っているようじゃないか? 誰かがそう言った、あるいは誰も口にはしなかったのかもしれない、だがクリスタルはその一言が場の空気を支配し、重苦しく痛烈にのしかかってくるのを感じていた。
 会合の後、ダイゴは、「あまり深刻に考えすぎないほうがいいよ」と気さくな調子で、クリスタル達に言った。しかし、先ほどの衝撃から思うように立ち直れないらしい一同を見回して、ダイゴはふと、ゴールドの遊び仲間に目を留めた。
「そういえば、君の名前は聞いてなかったな」
 ひょろりと痩せたかれは、おそるおそるといった調子でダイゴを見返すと、スバル、と小さく名乗った。そういえばクリスタルも彼の名前を聞いていなかった。あまり話したくなさそうな素振りだったので、なんとなく気後れしていたのだ。
「スバルくん、今日は力になってくれてありがとう」
 クリスタルがそう言って好意的な笑みを浮かべると、青年はあからさまに視線をそらした。
「大したことはしてないし……」
「そんなことないわよ。説明するのには、あなたに都合の悪いこともあったんでしょ。なのに来てくれたんだから」
 クリスタルが屈託なく続けると、スバルはおずおずといった様子でクリスタルに視線を戻し、いがいと、と呟いた。
「……。なあに?」
「……あいつから聞いてた印象とは違うなって」
 スバルはぼそぼそとつぶやくように続けたが、クリスタルは固まった。あいつ、というのが誰か分からないほど鈍くはない。内心で、憎らしい顔でこっちを見ているゴールドが浮かんできて、クリスタルはぐっと拳を握りしめて怒りを堪えた。いったいあの男はどういうふうに言いふらしているのか。エメラルドは黙って、脚の横で握りしめられた彼女の拳を眺めていたが、とつぜん、口火を切った。
「ゴールドさん、あの卵、孵すように言われたりするのかな」
 ここにいる誰もが気にしていて、あえて口にしなかったことを切り出したことで、沈黙が降りた。やがておっかなびっくりのようすで、スバルが、それはないんじゃないか、と意見を述べた。
「……あんなの孵せなんて、流石に言えないだろ」
 想像したのか彼は身震いしたが、その言い方はすこしきつ過ぎた。クリスタルは咄嗟に、あんなのなんて言うべきじゃないわ、とやんわり嗜めた。いくら奇妙だとしても、ちゃんと生きた命なのだ。スバルは素直に同意したが、クリスタルも内心はスバルの気持がよくわかった。おそらく彼よりも誰よりもあれを忌み嫌い、気持悪く思っているのも、”あんなの"と一番思っているのも自分であることと彼女は痛いほど自覚していながら、人を諭す矛盾を、彼女は内心で嗤った。
「でも、もし本当に隕石とゴールドさんの記憶喪失が関係あるんだとしたらさ」
 エメラルドの言いたいことは誰もが分かっていた。暗くなりはじめた空気を振り払うように、ダイゴがお昼でも食べに行こうか、と誘った。
「まだ、そうと決まったわけじゃないからね。どっちにしろ、宇宙センターのほうが手放さない限りゴールド君の手に渡すこともないさ」
 そのとき、クリスタルのポケギアが鳴った。ゴールドからメールだった。どうしたのかしらめずらしい、と思いながらそのメールを開くと、それはブルーが持って来たポケモンの卵が孵ったという報せだった。
三章
 ゴールドの機嫌は悪かった。クリスタルが預けたムーぴょんの様子を見に来る土曜日、母親が出かけているとかで手ずからゴールドは彼女に麦茶を出したのだったが、クリスタルが手持ちのボストンバッグのファスナーを早速開けるのを見るなり、うんざりした顔をした。
 ブルーが持って来た卵から生まれたポケモンはルリリだった。以前ゴールドが孵したトゲたろうやピチュ、強烈な個性をもった彼らと比べても遜色ないほど生命力に溢れていて、性格のほうも例に洩れず可愛くなかったが、肝心の彼の記憶が戻るようなこともなかった。ただ、トクサネから駆けつけたクリスタルとエメラルドとダイゴ(スバルはホウエンが地元だというので、昼食をともにしたあとに別れたのだ)に向かって、誇らしげにルリリを掲げてみせたさまや、生まれたばかりのルリリをあっという間に手なずけてしまう手腕は、以前のゴールドそのままだった。しかし、ポケモンの卵をもってしても記憶を戻せなかったことは、クリスタルから図鑑所有者達に知らされて、以降、かれらは記憶を戻すために思いついたことがあれば、ゴールドやクリスに持ちかけるようになっていたのである。最初はされるがままになっていたゴールドも、しだいに言うことを聞くのがいやになってきたらしかった。
 ソファの上でこれ見よがしな仏頂面をさらしているゴールドに、クリスも少しばかり嫌気がさして、言った。
「そんな顔しないの」
 みじかい注意にも、ゴールドは口をへの字に曲げて、無言を決め込んでいる。クリスタルもさすがにむっとした。図鑑所有者の先輩後輩、ゴールドを知る研究所や街の人々、数えきれない人たちの心配と、記憶を戻す助けになろうとする意思、それらを如実にうつしとったひとりひとりの表情が代わる代わる浮かんだ。彼らは心からゴールドを心配しているし、記憶が戻ることを願って、調べたり、いろいろな方法を提案してくれているのだった。にわかに苛々が募るが、ひとまず堪えて、クリスタルは諭すように続けた。
「みんな、あなたのことを想って力になろうとしてくれているのよ」
 ゴールドは眉をぴくりと動かし、挑むような、軽蔑するような目つきでクリスタルをひややかに眺め、言い放った。
「あなたって誰だよ」
 咄嗟にゴールドの言っている意味がわからず、クリスタルは沈黙し、それから、あなたはあなた、ゴールドに決まってるじゃない。そんなふうにごく自然に喉まで言葉が出掛かって、クリスタルはとっさにそれを呑み込んだ。背中に冷や水を垂らされたような心持ちで、彼女は、はっとしたような面差しを目の前の男に向けていた。
「……あなたは、ゴールドじゃないっていうの」
「俺は正真正銘のゴールドだぜ」
 即答した目の前の男は軽薄な冷笑を浮かべ、鼻で嗤った。
「お前が言うの、それをさ。ゴールドじゃないって思ってんのは、俺じゃなくてお前らだろ。いまだって、そのゴールドの記憶を戻そうとして躍起になってんじゃねえか」
 返す言葉が見つからず、クリスタルは黙った。男はしばらく無表情のまま彼女を見下ろしていたが、ふいにくしゃりと表情を歪め、先ほどまでの尊大なようすとは打って変わって、淡々と、同じことを繰り返した。
「……俺は、ゴールドなんだよ。……委員長」
 ぽつりと呟かれた、一見抑揚のないつぶやきだったが、クリスタルの胸には妙な痛々しさをともなって響いた。いかにも悲痛に聞こえたその声の縋るような調子は、心細そうな、寂しい、頼りないもののように思えた。クリスは、ポケモン塾でも一等小さな子供達の泣き顔を思いうかべた。なにか訴えたいことがあって、力のかぎり声を上げているのに、誰もわかってくれる人がいないということに失望したあまりの泣き顔を。
 記憶もなく放り出された男に、ゴールドとしての記憶を押し付けようとした無神経を、記憶がない彼のことをまるで価値のないように取り扱う早急さを、クリスタルは悔やんだ、だが。救いのないことを確かめるためか、あるいは救いを期待するためにか、彼女が苦しい心持ちで顔を上げれば、内心の寂しさに苦悩しているような、思いつめた男の顔がある。最初は見慣れたゴールドの顔だったそれが、彼女の目の前で、しだいに変質していった。ゴールドというひとを象徴するはずの顔のかたちが、ゴールドという象徴をうしなって、無機的な輪郭、ただの顔かたちというふうなものになり、それがしだいに全く新しい意味をともなって蘇ってくるのだった。少しばかり陽に妬けた肌のいろ、形のよいとも悪いともつかない鼻梁と、大きな口、不敵なかんじの目つきなどのうえに、記憶を失ったゴールド、あたらしい男が浮かび上がって来る。変質を目の当たりにして、クリスタルの心は踊るように燃え立つ。浮かび上がって来るのはあの夏の温度だ、ゴールドでないはずの男を前にして、当のゴールドを前にしたときよりもずっと、あの夏の体温はなまなましく彼女の心にじかに触れ、熱となって彼女の全身を這いまわる。
 しらずしらずクリスタルは潤んだ双眸で男をみかえした。縋るような心持ちで、視線だけでその顔かたち、筋肉の輪郭を余す所無くたしかめようとするかのように、懸命に見きわめようとした。見れば見るほど目の前の男は記憶のなかのゴールドではなく、ただひとりの男としてそこにあることを思い知るだけだった。ゴールドであってほしい、ああ、彼があのゴールドであってくれたなら! 甘やかに痛む心の疼きも、身体を火照らせる麻薬のような熱も、クリスタルの心のなかで深い眠りについたまま目覚めず、いつか忘れられ風化して、乾涸びてしまうのには違いなかったのに。
「……いいんちょう」
 ゴールドが低くつぶやいた、クリスタルはとっさに我に返って、ゴールドを見た。彼はさきほどの様子とは打って変わった、乾いたような、熱に浮かされたような目つきをして、彼女を眺めていた。
「すげぇかおしてる」
 舌足らずに、喘ぐように彼が吐き出した言葉は行き場を失って宙に浮かぶ。わかってる? と男は場にそぐわぬ幼いしぐさで首をかしげ、熱の籠った視線をクリスタルに向ける。何のことかわからず、クリスタルは咄嗟に言葉が出ない。あーあ、と男は落胆したときのような声をもらし、ふいにぐっと身を乗り出して来た。
 呆気にとられていたクリスタルは我に返って最初に気付いたのは、両腕をつよく押さえつけられて身動きができないことだった。すこし痛いくらいの力で両の二の腕がぎゅっと握りしめられ、押さえつけられている。肉が肉によって圧迫されている。そのつぎに、彼女は口腔内を這い回る舌の感触を自覚した。歯列をなぞられる甘やかな感覚に、彼女ははげしい痙攣にも似た反応を示した。
 ぐっと両腕をつっぱねようとしたが、男の腕はびくともしない。クリスタルは夢中になってもがいた。弾機のような彼女の脚が男の腹を抉り、力の緩んだすきに彼女は身をもぎはなし、死にものぐるいで目の前の男の顔に痛烈な平手打ちを食らわせた。クリスタルは感情のままになにごとか叫んだが、それは何ら意味のある言葉にならず、ほとんど咆哮に近いようなありさまだった。彼女はボストンバッグをひったくると、そのまま逃げるように駆け出した。ゴールドはテーブルに仰向けに倒れ、こぼれた冷たい麦茶の温度が、背中を冷たく濡らすままにさせていた。
 クリスタルが外に出ると、雨上がりの涼風が火照った全身を冷やした。しかし炎は、際限を知らず身体の内側で燃え続ける。彼女は混乱していた。自分ですら理由がわからないままに、涙があふれて止まらなかった。透明な水で満ちた網膜にうつる空はいつものように限りなく青く、郊外の草原は遠くを走る車の音のほか、なにひとつ聞こえなかった。大きな大気の塊が背の高い草の上をとおりすぎ、草はゆっくりと倒れるように身体をしならせる。夏のかぐわしい草の匂いが鼻先を掠め、クリスタルは立ち止まり、声を上げて泣き出した。青々と茂った草のなかにも、吸い込まれそうな空の青のなかにも、雨あがりの生温い湿り気のなかにも、あの夏の体温が、なまなましく息衝いていることに絶望しながら。
 クリスタルを襲った感情の氾濫は、後々に至るまで彼女を苦しめた。このことをすっかり忘れて仕事に打ち込んでいるときでも、ふとした切っ掛けでこのときの感情が思い起こされ、彼女はいましていることが何の意味ももたない、おそろしくつまらないことのように感じられ、いますぐ仕事など放り出して喚き散らしたい気分になるのだった。これは、おそろしい裏切り行為なのだ。慕ってくれる子供達や周囲の人々への、ゴールドへの、そして自分自身への。思い出せば身体が火照り、同時に恐怖に打ち抜かれたような気持になる。ふたつの感情は矛盾しているようでいて、そのくせ、互いに煽りあい高めあいしているのを認めざるを得なかった。
 彼女はたびたびあの夢を見た。自分と、光の鳥と、可憐な幼子の。サンイエローの揺り籠のなかで、桃色の頬をした赤子はすやすやと健康な寝息を立ててねむっており、光の鳥はかたわらで赤子のようすを見守っていた。クリスタルはしばしば不安を口にし、光の鳥は耳ざわりのよい、ものやわらかな声で静かに彼女をなぐさめた。
「辛いの、彼の傍にいるのは。声を聞くのも、姿を見るのも嫌だわ。次の土曜日行きたくないわ」
「どうしてつらいことがあるんだ。クリスタル、おまえにはおれがついている。いままでおまえが打ち克ってきたことに比べたら、わけないじゃないか」
「わかったような口をきかないでよ。あなたに何が分かるっていうの」
「おやおや、困ったな、この娘ときたら。まるで赤ん坊のようじゃないか?」
 鳥は聞き分けのない子供を相手にするような親しみをこめてクリスタルを揶揄う。しかしクリスタルはその声のなかに、どこか小馬鹿にしているような響きを感じ取って、押さえ難い憎しみをもって鳥を睨みつけるのだったが、あいかわらず鳥はひょうひょうとして意に介さないのだった。
 しかし一週間後の土曜日、クリスタルはやはりゴールドの屋敷へ向かった。はじめから、逃げ道など用意されていなかったことを、彼女はそのときに思い知った。彼女が土曜日にゴールドの屋敷へ出向かなければ、彼女の内心の変化が証明されてしまうのだから、もしも否定の証明をしたいのならば、彼女は何事もなかったかのような顔をして、ゴールドの屋敷へ出向かなければならなかった。クリスタルはせめて彼の母親が在宅であるよう願ったが、彼女が屋敷のインターフォンを押したとき、出迎えたのはゴールドひとりだった。先週と同じリビングの同じソファに向かい合わせに座りながら、クリスは内心の動揺を押し隠そうとつとめたが、あまり上手くできている自信はなかった。また、ゴールドも、彼女が普段通りに振る舞えないと決めてかかっていたようで、しばらくは当たり障りのない受け答えをしていたが、やがて大きな溜息といっしょに吐き出した。
「…………悪かったよ。いきなりがっついたりしてさ」
 え、とおもわず真顔になったクリスを見ないようにして、ゴールドはかぶりを振った。
「まさか来るとはなあ。ぜったい来ねーと思ってたのに。ショック。なあ俺ってそんな脈無し? あんたの好きなゴールドだぜ、そりゃ記憶はないけど?」
 脈ありと踏んだからがっついたのになあ、と彼はぼやく。どきりとクリスタルの心臓が跳ねた、その鼓動をすかさずとらえるような、するどく光る視線をゴールドは向ける。
「隠さなくたっていいっつーの。好きなんだろ、記憶のあるゴールドのこと」
「……」
 しぜんとクリスタルの表情は険しくなる。ゴールドは肩をすくめた。
「そんな怖い顔すんなって。そういうことなら協力してやらなくもねえって言おうとしてんだからよ」
「……協力?」
「俺も記憶を取り戻すために頑張ってやるって言ってんの。催眠術でもポケモンの卵でもなんだって受けて立ってやらあ」
 明るくゴールドは言ったが、クリスタルは素直に喜ぶ気にはなれなかった。それは記憶のないゴールドの人格を無視して我を通しているようにも思えたからだ。悪気はなかったとはいえ、記憶のないゴールドのことをないものとして扱い、記憶をことを押し付けたことは、前回の彼の乱暴なふるまいを差し引いても、クリスタルにとって大きな反省点である。
「……ごめんなさい。わたしも悪かったのよ、あなたの気持も考えずに、いろいろと試させたりして」
 クリスタルは素直に謝った。するとゴールドは目をぱちくりさせた。
「いいって。……俺もたまたま虫の居所が悪かっただけだからよ。本当はお前らの気持だってちゃんと分かってたよ。俺のことをおもって、いろいろ手を尽くしてくれてんだってことも、本当は分かってたんだよ」
 ゴールドの口ぶりは意外なほどやさしく、穏やかに満たされていた。その親愛に満ちたものしずかな調子で紡がれた言葉を、クリスタルはすなおに受け容れることができた。が、それでも協力してくれるという言葉には気兼ねがあった。それは彼自身のためではなく、クリスタルの言うゴールドのためであることは明白だったからだ。
「いいんだよ、俺の好きでやるんだ」
 でも、と言いかかったクリスを遮るように、かれは言った。そして金色の目を悪戯っぽく光らせて、冗談のような響きの声で続けた。
「だってさぁ、記憶もどったら、あんたは俺を拒まねえだろう?」
 窓ごしの明るい光を溜め込んで白っぽく見える彼の金色の瞳が細められ、目尻のほうで光の粒がこぼれおちそうに膨らんでいる。クリスタルは記憶のなかのゴールドの、あの特徴的な微笑を思いだした、光の踊る加減で喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見える、つかみどころのないふしぎな微笑、フラットな表情を。「楽しいことなら、この俺ほど知ってるやつはいねえぜ」と言ったかれの、街を映しとった金色の瞳を。ゴールドの瞳のなかにうつる街は反射する光にかがやいて、かれの透明な黄金に浸されて、親愛とうつくしい感傷を呼吸しながら、いきいきとクリスを待っている。世界をまるごと呑み込んだような瞳、かれを見ていると、自分たちの存在するこの世界が偽物で、かれの瞳の向こうに存在する世界こそがほんとうの世界のように思えて来るから不思議だった。あの光だけで完結する世界でなら、夜の星も、光の鳥も、斜光に霞んで存在できないだろう。クリスタルはいまのゴールドの目の中が、ただ光で満たされているのを知った。恐ろしく深みのあるあの切口、夜への入り口は、いま、かれの世界に存在しない。無限に深く陥没しつづける闇もなければ、縫い合わせた傷痕さえ、一点の陰さえない彼のただ光だけの世界には、暴力的なほどの強制力をふるうものはなにひとつとしてなく、クリスタルの愛した美しい繊細な感傷があるのだった。遠い輝きに手を伸ばすようにクリスタルは見入ったが、けして長い時間ではなかった。イメージを焼き付けるように目を閉じて、クリスタルはすなおに「ありがとう」とささやいた。かつては満たされていたのだ、あの地上の光に。



 クリスタルは自分の感情に手一杯になっていたので、ひとの感情の動きに対して十二分な気を配れず、エメラルド少年が寄越す視線が以前とは微妙にちがった色を孕んでいるのに気付くことができなかった。周囲はクリスタルの様子がどこかおかしいことに気付いていたが、エメラルドは尚更のことだった。彼にはなんとなく、何が起こったのを察していた。彼はつねに悪い事態を予期するのが癖になっていたので、ゴールドの屋敷から戻って来たクリスタルのようすをひと目見て、内心でひじょうに動揺したのだったが、それをどう処理していいものか見当がつかなかった。このとき、クリスタルがゴールドに対して体験した変質と似たことが、エメラルド少年にも起こりつつあったのだった。おそらく、最初の最初から、かれはうすうす感じつつあったのには違いない、ゴールドの記憶がなくなった瞬間からのクリスタルの変質を。まるでお手本のようにやさしく愛情に満ちたクリスタル、完璧にととのえられた振る舞い、しぐさのひとつひとつが剥がされていく。崇高な芸術性のある彫刻の表面の石膏がぽろぽろと剥がれ落ちていく前を、どうすることもできずに突っ立っているようだった。その向こうにいったい何があるのか、エメラルド少年はいまだ判別することができず、不安な心持ちのまま、見過ごしているのだった。
 だが、あまりにも長い間不安を抱えているのは、彼の性にあわなかった。こうしている間にも、クリスタルはいっそう不安定に、芯を削られていくような気がしたのだ。そこで、エメラルドが頼ろうと決めたのはシルバーだった。クリスタルは彼を非情に信頼しているようだし……、もっとも、クリスタルとゴールドと同じジョウトの図鑑所有者であるにも関わらず、この件に関しては殆ど無関心を決め込んでいるらしい彼に、文句のひとつも言ってやりたいという気持もおおいに含まれていたが。
 ポケモン塾の手伝いも落ち着く、夜の九時頃、シルバーにポケギアで連絡をとって、会いたいという話をすると、拍子抜けするくらいあっさりと了承がかえってきた会合の場所として指定されたのは、シロガネの樹海の登山ルート入り口だった。街の明かりをはるか後方に、エメラルドは夜陰に沈む山林をぐるりと見回して、登山ルートの入り口にあるはずの休憩所の明かりを見つけ、ゆっくりと下降した。湿って重たくなったぬるい夜気の深みに、ずぶずぶと沈んでいくように思った。
 シルバーは休憩所の傍らにある、すわりのよさそうな岩の上に腰掛けてエメラルド少年を待ち受けていて、エメラルドの来訪に気付くと、ポケギアから顔を上げた。その様子がエメラルドのよく見知ったルビーやゴールドのちょっとしたしぐさとそう変わりないことに気付くと、知らず知らずのうちかれは小さく息をつき、肩に力が入っていたことを自覚した。
(……そういえば、この先輩と二人きりで会うのは初めてだ)
 シルバーにしぐさだけで促されて、かれの向かいにある塗炭のベンチに腰掛けながら、ふいにそんなふうに気付き、あらためて、自分がごく自然に彼に会おうと思い、何の気兼ねもなく連絡を取る気になったことが不思議に思われる。いまになって急にエメラルドは、前にルビーがこの先輩を評して話したことを思い出した。どうしてそんな話題になったのかは思い出せないが、ルビーは「曲者じゃないよ」となんとも難しい顔をして、そうコメントしたのだった。曲者じゃない、という何とも微妙な物言いにエメラルドとサファイアは思わず顔を合わせたのだったが、その会話は、エメラルドに得体のしれない感じの先入観を植え付けていたので、目の前のシルバーがごく普通な、友好的ととれなくもない雰囲気でいることにいささか拍子抜けするのも事実だった。
「……。クリスに何かあったのか?」
 エメラルドが口を開くのを忘れているあいだに、シルバーは怒るでもなく、僅かに首を傾けて淡々と尋ねた。開口一番にクリスタルの名前が出てきたことに、エメラルドはぎょっとして、気付けば挑みかかるような口調で尋ね返していた。
「なんでクリスタルさんの名前が出てくるんだよ?」
 しかし、シルバーはそれを気にしたふうもなく、じっとエメラルドを見返した。
「……お前が俺を訪ねてくる理由はそれくらいじゃないのか」
 素っ気ない、気抜けした温度で返された言葉は、エメラルドの動揺がつまらないものに思えてしまうくらいには冷静だ。エメラルド少年も伝染して気が抜けたようになって、反駁する気も失せて、うん、と短く肯定の返事をした。それからエメラルドは、ぽつりぽつりと話し出したが、思ったよりもずっと話したいことが纏まっていなかったことに、かれは自ら驚いていた。主にゴールドの記憶喪失の経過と、クリスタルの妙な素振りの話だった。それでもシルバーが何も言わずに耳を傾けてくれていることに勇気づけられながら、なんとかおしまいまで喋ってしまい、彼はシルバーを窺い見た。シルバーはなにごとかを考えているようで、何も言わなかった。
「…………あんたはどうして、あの人に会わないんだ?」
 思わずといったようすで呟いたエメラルドに、シルバーはゆっくり視線を向けた。木漏れ日のしたで、スチールのように光る色素の薄い銀と目があって、エメラルドはどぎまぎしてあらぬ方向へ目を逸らした。
「……会う必要がないからだ」
 淡々と紡ぎ出された言葉に、エメラルドはおずおずとシルバーに視線を戻した。かれはとても静かな、遠いところを眺めるような眼差しで、エメラルドのことをみかえしていた。脳裏に、ゴールドのことをひどく苦にしているクリスタルの姿が浮かんでいながら、少年は感情に駆り立てられることなく、どちらかといえば怪訝な心持ちで、慎重に口を開いた。
「……あの人はあんたのことを忘れてるからいいかもしれないけどさ。あんたはそれでいいのかよ?」
「今のゴールドは、俺が知ってるゴールドじゃない」
「だからって…………親友なんじゃ、なかったのかよ?」
「以前はな。いまは、友達でもなんでもない」
 なんの他意もなさそうに言い切った、その口調が、エメラルドには妙な冷酷さをともなって響いた。後々で振り返ってみたときには、シルバーの言葉は確かに事実を言っているのに違いないと認められるのだったが、かれの他意のなさそうな平然とした様子が、エメラルドの記憶に焼き付いたクリスタルの懊悩と対比をなして、たがいに引き立て合い、少年はついかっとなって叫んだ。
「記憶を失っていたって、ゴールドはゴールドだろ!」
「そうだろうな。だが、奴にはもう、俺との接点はない」
 シルバーは怯んだようすもなく、驚くほど冷静に返した。その静けさはエメラルドのいっときの激情をおさめるだけの効果があった。
「……豊かな食料と大勢の仲間とあたたかな家庭と清潔な屋敷、情愛に満たされた日々だけがあって、あいつは満足しているんだろう、それに越したことはない。俺がのこのこ出向いて行ったところで、何もかもが完璧に整えられているあいつの世界を壊してしまうのがせいぜいだ」
 最後の方になってシルバーの端正な言葉遣いに激しい苦渋の響きが滲み出たことに、少年は息を呑んだ。僅かな発音の歪みの中に、かれの熾烈なコンプレックスをかいま見るような気がしたのだ。
 実際のところシルバーも、クリスタルから報せを受け取っていらい、ずいぶん考えたには違いないのだということに、エメラルドはいまさらになって気がついた。かれもまた、恵まれない境遇だったのだという。物心もつかない小さな頃に攫われて以来、出身も親の顔も知らず、ようやく再会できた親は巨悪の化身と名高いロケット団の首領だった。少年が耳にした限りでは、父子としての関係は決して悪いものではないらしいが、いまは事実上敵対関係にある。クリスタルからざっくりと話を聞いただけのエメラルドには、彼の心情を予想することすらできないが、些細な言葉のふるえの奥に、エメラルドはそうした半生に対するかれの憎悪に近い劣等感があるように思った。彼はゴールドに対して致命的な、何かしら破壊的な性質を備えている、もしくはそれが自分の本質的なところだと思っていて、それを嫌悪し、ひどく執着している。
「…………ゴールド……、記憶のあるゴールドは、そんなこと、望んだりしないと思うよ」
 悔し紛れにエメラルド少年は絞り出すようにつぶやいた。シルバーはふと表情を緩ませて、そうかもしれないな、と穏やかに応えた。
「あいつは馬鹿だ、自分が何もかも完璧に満たされているんだから、なんら関わりもない俺のことなんて構わなければいいのに、わざわざ好き好んで苦しむようなまねをして」
「……あんたが一番よくわかってるだろ。あの人はそういうのだって。あの人が決めてやってることなんだから、あんたがどうこう言うことじゃないんじゃない」 
 シルバーはふと、エメラルドを見返してから、おもむろに空を見上げた。つられるようにして顔をあげたエメラルドの視界に、深く澄んだ紺碧の空が広がっていた。街の灯から遥か遠ざかったこの未開の地、暗い夜の静寂の中で、磨き抜かれた夜空に、青白く光る星が音もなく瞬いている。夜空を、こんなふうにまじまじと眺めたことはなかった。地上から遥か遠く、その空は日常から離れて、夢のように、しかし確かに目の前に横たわっている。少年の目には、その空の澄み切った鋼のような青さが、その青さのなかで星が身じろぎもせずにただ燃えているということが、どこか非現実的な、遠い世界の出来事のように感じられるのに、にも関わらず、じっさいにその空の青の深々とした静けさや、ものいわず瞬く星の光を見ることができる、という事実が妙にふしぎなのだった。シルバーは、その星をひとつひとつ指して、続ける。
「……街からでは、見えない星がたくさんあるだろう」
「……うん」
「同じなんだ、ゴールドも」
 予想もしなかった話の流れに、エメラルドはびっくりしてシルバーの顔を見たが、シルバーは変わらず星空を眺めていたので、エメラルドも再び顔を上げた。
「あいつは、街の中に生きてる。だからこそ、見えないものがある。だが、俺がここであいつの見えないものを見ているから、あいつは俺を通して、見えない星を探してる」
 お互いさまではあるがな。と、シルバーは自嘲の笑みを浮かべ、え、とエメラルドが思わず尋ねかえすと、彼はトキワの街に視線を投げかけて言った。「ここからじゃ、街はろくに見えない」と。
「あの燃えている星は、地球にいる俺たちが、じぶんに見えない山や林や海や街なんかの景色を見ていると、うらやましがったりすると思うか。そのことで、苦しんだりすると思うか。恒星が何かを知覚するとしたら、じぶんが燃えているということだけだ。ひたむきにじぶんの本分を全うしようと努めているときが、いちばん輝く。ゴールドも同じだ。あいつは街から離れたところで見える星や闇の深さのことなんか考えなくていい。何も知らないで、一点の陰りもなく満たされたままでいればいい。俺はそれを望んでる」
 ここに来てようやく、エメラルドは、彼の言いたいことが理解できるような気がした。そっと、向かいのシルバーの表情を窺い見る。
「……どうして、あんたがそれを望むんだ? ゴールドのため……なのか?」
 シルバーはすとんと視線を降ろして、まじめな顔で見返した。
「……。……サカキを探す、良い機会だと思った」
「サカキって……あんたの父さん……」
「ああ。……ゴールドは自分の基準で間違っていると思ったことには、ずいぶん首を突っ込むからな。だが、これにだけは誰にも、どうこう言ってほしくない。どんな形であれ、ようやく見つけた父のことは、俺だけに与えられる問題であってほしい。あいつの基準で間違っていようと、譲るわけにはいかない。これに限って言えば、今回のことはかえって好都合だった」
 エメラルドは顔を顰めて「ゴールドが邪魔だったから、記憶をなくしてよかったって?」と噛み付いた。そうなるな、とシルバーはかるく肩をすくめたあとに、ふいに何かに気付いたように、やわらかく破顔した。
「もっともそれも口実で、俺自身が単純に、ゴールドにそうあってほしいと望んでいるのかもしれないな」
 かれがおもむろに顔を向けた、街の灯は遠い。いまにも夜の闇に呑まれてしまいそうな小さな星のように、弱々しく微かに、音も無く、ただ光っている。
四章
 七月はじめのさっぱりとした太陽の光のなか、遊び盛りのこどもの声だけが響く静まり返った長閑な午後の遅く、キキョウの街はずれを流れる川沿いの土手を、ふたつの影があるいていた。まわりにはピクニックに来たと思われる家族連れや、川縁に並んで腰掛けて声をひそめて話しているデート中の恋人たちが、草の生えた程度に見えるだけで、砂利道を連れ立って歩く二人も穏やかな風景に溶け込んで、誰からも注視されることはなかった。
 クリスタルが、同じジョウトの図鑑所有者であり、ゴールドの親友でもあるシルバーを唐突に呼び出したのは、ゴールドの記憶喪失を知った直後のことだった。ゴールドからの衝撃的な一言を受けて、彼を迎えにいって家まで送り、なんともなしに自宅へ戻ってきたのだったが、周囲のものごとやできごとになんとなく現実味がわかず、自分が自宅へ戻った理由もよくわからないまま立ち往生していたのが、ふいに思い立ったように、ポケギアを手にとっていた。
 用件も理由も口にしないまま、ただ来て欲しいと口にした彼女に対し、彼はなにも言わないで、わかったと答えただけだった。スピーカーの向こうは音楽や人の話し声どころか車の音すら聞こえず、不自然な静けさに充ちていた。どこかの森にでもいるのだろうかとクリスタルは想像した。脈々とつづく白銀の連峰の雪のなか、人っ子一人いないお月見山の谷底に佇んで、ポケギアを握る彼の手の温度、そのぞっとするくらいの冷たさを。その後、すぐに姿を現した彼は少し背が伸びたくらいで、なんら変わっていないように見えた。クリス、と気遣うように優しい静けさの声は、ささくれた心にじわりと染み入る。想像のなかの異様な静けさとぞっとする冷たさ、針を呑むような一途さも、一瞬にしてかき消える、その声の温度。空気に触れた瞬間、どんなふうに順序立てて話そうかとさんざん悩んだのも忘れ、堰切ったように声が迸った。
「ゴールドが記憶喪失なの」
 シルバーは目を丸く見開き、思わぬ開口一番にひどく驚いたようだったが、クリスタルが二の句が継げないで口を閉じかけて開けたりしているうちに、彼の纏う、驚愕に逆立った空気は、やがてシルクのように冷え冷えとなめらかな手触りに落ち着いた。その変化の一部始終を目の当たりにしたクリスタルは、ついさっき想像の中に感じていた不自然な静けさと冷たさがもどってきたかのように思ったが、次に彼の発した言葉は、またしてもそれと違って優しかった。
「……大丈夫か」
 すこし歩こう、と彼に無言のうちに促され、クリスタルは黙ってそれに従ったのだった。
 七月の涼風と川沿いの穏やかさに、砂利の上をスニーカーで踏みしめる一歩一歩の規則的なリズムに、すこしずつ、とげとげしく昂った感傷が癒されていく。シルバーの横にいると、口数の少ない彼の性質ゆえか、無言の気まずささえも感じないのだった。無言のうちに、不器用でおずおずした優しさが染み入るようで、クリスタルは人知れず微笑にも似た息を吐く。思い上がりかもしれないが、シルバーという人は彼女に対してとてもやさしい。クリスタルが再び口を開く気になるのにさほど時間は要らなかった。
「……ホウエンのバトルフロンティア付近の海上に、隕石が落ちたじゃない?」
「ああ。大騒ぎだったらしいな」
 シルバーはちっともそうと思っていないような、素っ気ない言い方をしたが、それは常のことだった。クリスタルは横目でちらと彼をうかがい、顔色の平然としているのを見てとって、おもわず萎縮した言葉をなんとか絞り出す。
「朝、たまたま居合わせていたゴールドが、海岸で倒れていたらしいの。怪我はなかったんだけど……」
「……記憶喪失、か」
 こころなしか沈んだ声で彼は応じたが、クリスタルから見える横顔はあくまで淡々としている。それから暫く彼は黙った。歩きながら遠くを見て、何か考え込んでいるのかと思ったが、ぼんやりとした表情からは何事も読み取れず。シルバー?と不安になった彼女が名前を呼べば、なんだ、と目元にやわらかな微笑を湛えて彼女に応え、そうしてふいに向けられた視線にクリスタルは、一瞬、言葉に詰まった。
「……ゴールドに、会わないの?」
 なぜ。さらりと問い返され、クリスタルは視線を合わせることができなかった。
「俺の知ってるゴールドじゃ、ないんだろ」
「そういうことじゃなくて……記憶を戻す切っ掛けとしてよ。お医者様だって、何のはずみで記憶が戻るかわからないって」
「……そうか……」
 シルバーは何の気もなさそうにこたえ、考え直すように暫く黙っていたが。
「…………いや。……止めておく」
「……そう」
 ここまで拒むからには、なにか彼にも思うところがあるのだろう。そう考えて、クリスタルはあえて無理強いを避けた。
 再びしばらくのあいだ、ゆっくりとしたペースで、風に吹かれ、快晴の青空を流れていく雲をながめながら、無言のまま歩いた。河川敷のコートで近くの中学校のサッカーチームの練習がおこなわれているところを通り過ぎようとしたときに、クリスタルはその中にゴールドの姿が見えるような気がした。そうだ、これは彼女のここ数年の癖だ。晴れ渡った空の下、活気だった街を歩いていて、賑やかな若者の群れや、注目をあつめている出し物や、話題のレストランの行列や、威勢の良い屋台の主人のようすを見かけると、そのいずれにもゴールドがいるような気がして仕方がないのだった。ファーストフード・チェーンの窓硝子の向こうで唾を飛ばしてしゃべる学生や、レストラン前でディスプレイを指さして相談し合っている親子連れや、果ては夜、酔っぱらって大声で笑い合っているサラリーマンまでもがゴールドに見える。なぜかはわからないが、そのたびに彼女はふと思い出すのだ、「俺を誰だと思ってんだ? 楽しいことなら、この俺ほど知ってるやつはいねえぜ」と言ったゴールドの声、フラットに焼き付いた、あっけらかんとした笑顔。回想はとつぜん、視界に、ボルヴィックのペットボトルがちらついたことで中断された。
「……クリス。大丈夫か?」
 上の空だぞ、と、いつのまにか正面にいたシルバーが冷静に指摘する。横には自販機があったが、周りの景色はずいぶんと殺風景になっていて、人の影も見えず、彼の立っている向こうの空も暗くなりはじめていた。土手の上から見える景色も、住宅街ではなく一面の田畑だった。辺りはしんと静まり返っている。
「遠くまで来たのね……」
「たぶん、最後の自販機だ。これ以上行っても、何もないんじゃないか」
 振り返ってみれば、夕暮れの朱の光の中に、ついさっき通り過ぎたばかりのはずの跳ね橋が、うすぼんやりと遠くに見えた。恋人たちのささやきも、サッカーコートを走り回る子供たちの歓声も、怒鳴るように指導する熱血コーチの叫び声も聞こえない。水の撥ねる音すら耳につく静寂の中で、あらためてクリスタルは自分が通り過ぎて来た道で耳にしてきたそれらの声が、どうしようもなく祝福に満ちて、泣き出したいくらいに素敵な、愛すべきものであるかのように感じた。
 おもわず喉を詰まらせながら、クリスタルがふたたびシルバーに顔を向けると、差しはじめた夜の影に晒されながら彼は、通り過ぎて来た街を遠い目つきで眺めていた。彼女はそれを見て、あの夜見た流れ星を思い出した。こどもたちの笑い声や、ポプラの若葉や、優しさや愛情などとは無関係に、夜の上澄みを流れていくあの星のことを。
「喉、乾いてるんじゃないのか」
 シルバーは視線を彼女にもどし、素っ気なく言って、未開封のペットボトルを差し出した。いつの間にか剥き出しの腕は冷えていたが、それよりさらに冷たい温度を掌がおぼえていくうちに、クリスタルは自分でもそうと知らないうちに言葉をこぼしていた。
「…………わたしの、せいなの」
 シルバーは僅かに目を瞠った。
 クリスタルはその様子に注意も払わず、まるで夢中になって、あの日ゴールドが出た電話で、彼の友人から聞いた話を反芻しながらつらつらと語った。正直なところ、クリスタルはゴールドのあの衝撃的な言葉のあとは呆然としてしまって、説明などろくに耳に入ってこなかったのに、なぜだか今になって、その友人のひとことひとことを、テープレコーダーのように正確に思い返すことができたのだ。彼の言葉によると、ゴールドは仲間内で三時過ぎまで遊んだあと、出かける所があるからと、その足で出て行き、まもなくして隕石が落ちたのだそうだ。その後、かれらはゴールドと連絡がとれないのを心配して仲間総出で探しに出たところ、隕石の落ちた衝撃で起こった津波は防波堤を越え、島の海沿いは水浸し状態で、個人の捜索どころではなくなってしまったらしい。幸いにも被害は大したことはなく、彼らは救助活動に協力していたが、明け方、海岸に打ち上げられてのびているゴールドを発見したということだった。
「ゴールドね……なんで出かけたと思う? その日の零時過ぎにわたしが突然、次の日、塾の壁紙の張替えを手伝ってくれるように無理に頼んだからなのよ」
 問いかけながらも、クリスタルの目はシルバーを捉えてはいなかった。彼女はその向こう、どこか遠くを見詰めながら、ひとりごとのように語り終えてしまうと、唐突に口を噤んだ。
「……。そうか」
 見る限り、彼女の告白はシルバーに何の変化ももたらさず、彼は落ち着き払ったまま、それだけ言って黙った。そしてクリスタルは、自分がどうして彼を呼び出したのか、どうしていまも彼がいっしょにいるのかという理由を知って、そっと目を伏せた。
「もう少し、歩くか」
「……ええ、あと少しだけ」
 赤く輝く川沿いの砂利道は、夕暮れの向こうより、まだずっと遠くまで伸びていて。夜よりもっと遠くまで、つながっているだろうという気がした。次第に薄くなっていく自分の影を眺めながら、流されるように緩やかなペースで歩きながら、闇が目蓋が閉ざしてくれるのを待っている。
 クリスタルはボルヴィックのふたを開けて水を飲んだ。身体の底からすこしずつ、水嵩があがってくるのを感じながら、宇宙の水のことを思い出していた。いま身体の中にかさを増しているのは、地球上のどの水よりもずっと透き通ったあの水だと思った。彼女は自分が宇宙になったように感じ、地球上の愛すべき喧噪のなかにいるゴールドも、ただ流れていくシルバーをも、彼女の中にすっぽりと入ってしまったように感じていた。
(……宇宙みたい)
 朱の差す大気、雁の声、水の音、風の匂い、静まり返ったここはまるで。帰りましょうと言ったら、シルバーはいっしょに引き返してくれるだろうか。答えを知るのが怖くて訊けないでいた。"あと少し”が永遠に続くように願いながら。


 けれどそれも長くはつづかなかった。それから一時間もしないうちに、帰ろう、とくるっとシルバーが踵を返した、思いのほかあっさりとした終わりに、クリスタルはとっさに呆気にとられた。まっすぐ向こうまで伸びていたはずの土手の道が、差し迫った夜の闇に溶け込んで、途中で途切れて先が見えなくなっていた。シルバーはクリスタルを駅まで送り届けておきながら、自分は雑踏のなかに消えていった。適当に食事をしてから今日の寝ぐらまで戻る、とぽつりと口にした、後ろ姿を引き止めることができなかった。大きく口を開けて道を呑み込む夜陰の深さ、かれが一度は踵をかえしたあの夜のなかへ戻って行くのだと思うと、既に声をかけることすら出来ないほどその姿は遠ざかっていたのだ。



 明くる日、クリスタルは夢を見た。おそろしい夢、鳥の夢だった。それはいつも赤子を見守っている鳥の生まれ故郷の夢、いつかクリスタル自身で空想した、世界のどこよりも透き通った水面に広がる世界の。夢のなかで彼女は自分の部屋にいて、書き物をしているのだが、ふいに自分のまわりのものが少しずつなくなっているのに気付く。注意して見てみると、手元の消しゴムがふいに光となって、鳥の輪郭を模って、そして崩折れて消える。気付いてしまうと、みるみるうちに部屋は瓦解し、街が見え、そこで彼女の愛したこどもたちや、明るい木立や、風や、情愛などが揃って光の鳥になるのを見た。あるものは見事に、しかし多くはいびつに変質して、飛び立つこともできず、地面の上でもがくことすら許されずに、下へ吸い込まれて跡形もなくなってしまう。クリスタルが立ち尽くしている間も、街や木々や雨や、あらゆるものが光の鳥になろうとして崩折れて溶けていく。晴天の夏空が光とともに音もなく崩れて、その向こうは、宇宙の紺碧。
 クリスタルは静かな水面の上にひとり残された。心細いきもちで辺りを見回すと、彼女のはるか後方に、ゴールドがいる。かれは所在無さげに、柄にもなくいかにも不安だというふうにそわそわしていたのが、クリスタルを見つけるなり駆け寄って側に来て怪訝そうに問う、どうしてそんなに空ばかり眺めているのだ、と。クリスタルはかれの目のなかに映りこんだ街を覗き込む、ゴールドの網膜にはいまだって黄金に輝く街があると知る、彼女はあたりいちめん宇宙の黒々とした水に浸された世界を見ては、街はすでに彼女からは失われてしまったことを知るのに、いまだ諦めきれずに彼女は懸命に目を凝らしつづて、いつしか夢にまで見ているのだ。ゴールドが何か言っていて、クリスタルは耳を塞ぐ。わかっている、もう十二分にわかっている、かれが言いたいことなど!
 黒い水のなかを光の尾をひきながら鳥が流れてゆく。大きな翼から、細く首が伸び、そのさきに上品そうな小さな嘴がある、光の粒子の集まったようにしろく輝く全身を微動だにせず、そのくせ餌をもとめて海面から二メートルも三メートルも深くまで突き刺さる海鳥よりも鋭い速さで、つやつやと太ったはだに健康な鱗を輝かしながら、ゆったりと尾びれを揺らして泳ぐ大魚よりもはるかに悠然とした、すばらしくもの静かな落ち着きをもって、星のようにクリスタルの瞳のうえを滑る。そしていつしかクリスタルは、自分も鳥になろうとしていることに気付くのだった。
 しだいに変質してゆく全身、はげしい熱を伴う変化のあいだ、どこか呆然としてクリスタルは考える。この翼で、わたしは守ることができる、この翼で、わたしの愛するものたちを守ることができる。それはこどもたち、うまれたての若葉、花の香りのする風から、愛情、心を刺す凶器、猜疑心や、たちのわるい残酷さ、利己心や、その他まったく絶望するしかないようなかずかずのもの、そのすべて。ああ、弱さだ、とクリスタルは胸のなかにためいきをつくように吐き出した。あらゆる人間が愛おしいと思えるのは、かれらの高潔さのためではなく、ひとえに弱さが、愛おしいのだ。心の奥底にしのびこむような悪魔のささやきすらも、目を覆いたくなるほどの惨劇すらも、まったく弱さのためならば、そのために彼女はより深い、分別すらも失いかねないほど、熱烈な愛情を抱くことができるのだ。
 ゴールドは弱い。だから愛しい。
 彼女は、ゴールドの強さを知っていた。記憶を失う前の彼の強さはもちろん、失った後でさえも、あの粘り強さ、我を押し通そうとする強情。にも関わらず、夢の中の彼女は、そういうことを承知していながら、ゴールドがじぶんよりも遥かにちっぽけで力ない、よわよわしい生き物のように思ったのだった。いま、かれはもはやゴールドではなく、世間一般でひとなみの苦しみを感じ、そこそこに自制心がなく、ひょっとするとその無邪気な無節操のために身を持ち崩しかねないひとりの若者に過ぎないようなのだ。あるいはゴールドであったのかもしれない。その罪のない天真爛漫な弱さは、彼女の頭があみ出した幻にすぎなかったのかもしれない。それでもいま、彼女の目の前に見えているゴールドは弱いのだけは、確かなのだ。先ほどまでと変わらないままの表情で、ゴールドはクリスタルを見ている。じぶんが鳥に近付いていけばいくほど、彼のかたそうな頬の精悍なかがやきや、その肉体のもろくはかないのに、傷一つなく赤子のようにねばっこい肌に、ますます愛しさが募る。クリスタルが遥か昔に、巨大に口を開けた自らの傷の中に呑み込まれてしまっても、彼はまだその魂を肉に宿し、血を流し、涙をも零すのだ。
 まだ少女だった頃、ねばっこい肌をして、頬を健康的な桃色に上気させていたあの頃、傷ひとつなく守られていたあの頃に戻れたなら。命を投げ出すような戦いの傷痕が、感傷をずたずたに引き裂いて、彼女の心から彼女を遥か遠くに引き離してしまうまでは、涙も、愛情も、幸福も、確かに彼女の中にあったのに。
 ゴールドは足の先から宙に融けるように消えていく。鳥になるのではなく、ほんとうに消えていくのだと、彼女には分かった——“ときのはざま"へ。
 行かないで、と彼女は泣き出したいのに声が出ない。そんなのは嘘の感情だ、なにを偽ろうというのかと、彼女は意地の悪い鳥のささやきを聞いた。そうしているあいだにもゴールドは相変わらず表情を変えない、生き生きとした脆い肉体のまま、成長を止めることなど想像できないような、死なずに存在しつづけることなどありえないような肉、なまなましく刹那的なゴールド。やめて。かれはあんなところでは生きられない。時間の止まるようなところでは生きられない。沈黙のなかに生きるには彼は、あまりにも。
 なにか叫びながら、クリスタルは跳ね起きた。カーテンを占め忘れた自室のベランダの窓から、大きな満月が見え、彼女は整えようとした息を呑んで、身体を震わせて怯えた。凍るほど静かで、つくられたように完璧なやわらかさとやさしさで彼女を迎える月の光は、夢で見た鳥の光とおなじだったのだ。そのときに彼女はとっさにポケギアを取った。思い浮かんだのは、母親でも、ゴールドでも、エメラルド少年でも、なかった。時刻は深夜、零時。寝入って間もない。祈るような思いで待ちこがれた声は、スピーカーの向こうから、相もかわらずつくられたような完璧なやさしさで、クリスタルを迎えた。
 何をしゃべったのか、クリスタルはよく憶えていない。ただ断片的な記憶を辿れば、どういうわけか「散歩がしたいの」と言ったクリスタルに、「きょうは寝る気がしなかったんだ」とかれは淡々と言って、出かける準備をしておくように言った。「だめだわ、すぐにでも出発しなきゃ」焦りもあわらにクリスタルが喚くと、彼はすこし笑って「俺もすぐ発つよ。キキョウまでいくらもかからない」と言ったが、クリスタルが言いたいのはそういうことではなかった。「違うの。わたしが行かなきゃだめなのよ。あなたがいるのは——」知っている。かれの居る場所なんか決まっている。塵一つなく透き通った、なにもない場所にかれはいる。ポプラの若葉も情愛やうつくしい感傷も、こどもたちでさえ、なにもかもが意味を失い、弱さも強さも存在しえない場所にかれはいる。うらさびしい、とか、凍えるような、とか、表現すら意味を失うほどの静謐さのなかにいつだって存在し、たんに静謐を呼吸して生きている。時の流れでさえ、打ち崩すことのできない絶対的な静謐のなかに、かれは。こんなに、息苦しいほど知っているのに、愛しているのに、じぶんは、彼がじっさいにいまいる場所を知らなければ、彼に会うことができない。クリスタルは、そのことを堪らなく悲痛に感じて泣きそうになった。
「……シロガネ山の、麓。登山口の近くに山小屋」
 そこでいいか、と、電話のむこうの彼が言った。だめなのよそれじゃ、とクリスタルは早口にいいかえした。

「あなたのいる場所を教えて、シルバー」

 たまに、自分がどこにいるのか、わからなくなる。この、時間とともに死に近付いていくなまなましい肉体の居場所が、じぶんの居場所なのだろうか。なにげないふとした瞬間に、クリスタルは、じぶんが肉体とはまったく違う次元に存在しているような気になるのだった。そこが、夢に見る黒い水の世界なのかもしれない。そしてじぶんの肉体はいま、その入り口を探している。
 彼ならば、知っているような気がした。ながらく大地のあたたかさから遠ざかっていた彼ならば、愛情や木漏れ日や、あの夢のように美しい表象たちから、いっさいの侵食を免れていた彼ならば。まるで魂だけで生きているかのように、時を問わずしゃんと美しい姿勢の彼、あのときクリスタルの手を引いて引き返した彼ならば、夕暮れの向こう側に行くすべも知っているに違いないと。だが、彼に連れられてゆくのじゃだめだ、きっとあのときと同じように、もう帰ろうといって、途中で引き返して、クリスタルを家まで——美しい表象にあふれかえった彼女の生家まで——送り届けてしまうに違いないのだから……だからひとりで、クリスタルは一人でかれの居るところまで行かなければならないと信じきっていたのだった。
 なぜ、行かなければならないのか。そこで、彼女は自分が待っているような気がしたのだ。ほんとうの自分だ。彼女に会いさえすれば、きっと、なにもかも、ゴールドのことでさえ、決着がつく。シルバーは彼女の剣幕におされて、経緯度を答えた。ネイぴょんは少し眠そうだったが、ボールから出したクリスタルの顔つきを見ると、何もいわず彼女の肩に飛び乗った。
 駆け出した勢いのまま空に舞い上がれば、巨大な満月が眼前に広がった。クレーターのつくる影のひとつひとつさえはっきりと目に映る。同じ夜空に燃える星に比べて、その月の光の、怜悧で凍てついていること。この世の続く限りひかりつづけるような、その光の無機的なこと。 大きく包み込むような、透き通って冷たい光。星があんなにも激しく輝くのに比べて、その光のなんて冷静で動じないこと。
 それでもクリスは恐怖のために引き返すようなことはなかった。夜に出歩くのはまだこわい。こんな不気味な満月の日は尚更だ。それでも、この光の向こうにシルバーがいると思うだけで、ふしぎと安心感があるのだった。視界の向こうに、月の光に照らされて輝くシロガネの樹海が見えはじめた。もうすぐ彼に会える。クリスタルは頬に当たる風を感じながら、ほんの短いあいだ目を閉じた。
 やがて、指定された経緯度に達したことを確認して彼女は樹海めがけて降下する。折り重なった枝のあいだをすり抜けて、ぱっと見回した感じでは、彼女はシルバーがどこにいるのか分からないでいたが、ネイぴょんがふいに肩から飛び降りて、歩き出したかと思うと、人ひとりがやっと通れるくらいの薮のなかに入っていった。クリスタルがその後を追って、枝葉や茨に苦労しながら這っていくと、急に道が途切れた。手探りすると、どうやら段差があって、さらに下に行けるらしい。先に行ったネイぴょんが何も言っていないことを見ると、危険な場所でもないのだろう。腕を伸ばすと、段差のしたの地面に手がついた。クリスタルが滑り込むと、どうやら穴蔵のようになっているようだが、先に行ったはずのネイぴょんの気配はない。流石に心配になって、クリスタルが声を上げようとしたとき、なにかに後ろから覆い被さられ、ちょうど地面に圧し潰されるような形になった。とっさに出したはずの悲鳴がきこえない。口を押さえられているのだ、と彼女は遅れて気がついた。苦しい、と彼女は身をよじろうとしたが、押さえつけられて身体はぴくりとも動かない。触れられる感触のなにもかもがなんだか重苦しく、闇に纏わりつかれているような感じがした。やがて伸し掛かってくる存在とはべつに、頭上の薮越しに、吐息とも唸りともつかない息遣いが聞こえはじめた。巨躯を思わせる大きな気配が、彼女のいる穴蔵のすぐ真上から伝わってくる。リングマだろうか——クリスタルはぎくりとして、身体を硬直させる。規則的に枝の軋む音が近い。
 どのくらいの時間が経っただろうか。感覚がほとんど麻痺したころになって、ようやくクリスタルは重苦しさから解放された。クリスタルは何が何だかわからないまま、そっと遠退いていった重苦しさの正体を見極めようと、身を起こして振り返った。暗がりのなかで、辛うじて、人の影の輪郭が浮かび上がってみえたが、クリスタルには咄嗟に、それが誰なのかを見分けることができなかった。
「クリス。……無鉄砲なことをするな」
 めずらしく、心底から苦々しげに呟いた、その声で、クリスはようやく彼がシルバーであることを知り、その後ろで、ネイぴょんとマニューラが立っているのにも気がついた。しかしクリスタルは、彼のいるところまで来れた喜びよりもむしろ、彼の本当にうんざりしたといいたげな表情に、深く傷ついた。ああ、ほんとうにわたしはばかなことをしたのね。それでも、けんめいに涙を呑み込みながらクリスタルがぎゅっと口を結んでいると、打って変わって、シルバーが心配そうに、何かあったのか、と覗き込むように尋ねるので、クリスタルは耐えきれずにわっと泣き出した。シルバーは本気でぎょっとしたらしく、しばらく目を白黒させていたが、はっと我に返ると、先ほどと同じ苦々しい顔つきで、クリスタルに注意を促そうとし、しかし諦めたらしかった。クリスタルは、彼の言おうとしていることが分かった。かれが言おうとしているのは優しい慰めなどではなく、「そんな大声を出して、野生のポケモンを刺激するな」ということに違いないのだ。堪えるように俯いて何も言わず、彼にしては乱暴なしぐさでクリスタルを引き寄せ、自分の服に顔を押し付けさせるようにした。おかげでクリスタルも声を抑えることができた。シルバーは、やさしくあろうとしている。けれどそれがなんのためなのか、クリスタルには知る由も無い。ただ、ああ、なんてことだろう。クリスタルは嗚咽をかみ殺しながら、鈍く痛む頭の奥で考えていた。ここでは、ひとりで泣くこともできない。声を殺し、ひとしきり泣いて落ち着いたあとに、クリスは小声で尋ねた。
「いつも、こんなところで寝起きしているの」
「ああ」
「怖くはないの」
「別に、怖くはない。要領さえ呑み込んでしまえば、そんなに危なくもない」
「そう。でもシルバー、さっき、わたしにすごく怒ったわね。それに、今もすこしいらいらしているみたい」
 すこし気持が回復してくると、先ほど酷く傷つけられた心が疼いて、クリスタルはとげとげした口調で非難する。対してシルバーは目を伏せ、溜め息をつくように呟いた。
「……。クリス、やはりお前は、こんなところに来るべきじゃないんだ」
「あなたはよくて、わたしはだめなの?」
「そうじゃない。俺が、おまえにやさしくしてやれないのが嫌なんだ」
 シルバーの率直さの多くは好感を誘う類のものだったが、いまにかぎって、彼のそういうところに嫌気がさす。クリスタルは泣き出したい気持で、よわよわしく言い返した。
「わたしは……、あなたに優しくしてもらいたいから来てるんじゃないわ……」
「……わかってる。だが、俺が嫌なんだ」
 外にいこう、と彼は誘った。危なくないの、とクリスが尋ねると、大丈夫だ、と彼は答え、しばらく考え込んでから、ポケモンを出して歩くな。それと、あまり離れるな、と言った。ネイぴょんをボールにしまったあと、シルバーに続いて苦労して薮から這い出すと、紺碧の空に満天の星が輝いているのが見えた。ゆっくりとしたペースで、大きくしたり小さくしたりしながら、激しく燃え立ち、刺し貫くような光を放っている。その中で月だけが異質に、黙りこくって夜空に浮かんでいる。差し出された手をとって、クリスタルは立ち上がり、服の埃をはらった。
「……おまえは、人のことを大事にする。子供達や、老人や、それ以外の人のことも、俺よりずっとうまく大事にするだろう。おまえにやさしくすると、そういう人たちの顔が浮かぶんだ。……」
 おもむろにシルバーがつぶやき、ちょっと考えて、ひとりごとのように言った。「あたたかさ、とでもいうのだろうか?」すこし唇を尖らせて、宙に問いかけるようなその不器用な口ぶりに、クリスタルは、おかしいような泣きたいような気持で微笑した。ほら。と、ひとりクリスタルは呟く。彼はいまだこういうことがわからない。きっとわかる日など来ないだろう。人が感動の涙を零すような情愛を前にして、かれはあいまいに微笑んでいる。いったい何に対してこいつは泣いているんだろうと、内心の戸惑いと疑問をやさしさで包み隠したために生まれた、少し困ったような穏やかな微笑、嘲笑と紙一重のそのおそろしくやさしい微笑。
 シルバーはマニューラに加えてヤミカラスを出し、クリスタルの手を離さないまま歩き出した。クリスタルは、黙ってそれに従った。黒い水の満ちた空を、月と星が青く染め上げる。限りのない深い静寂を湛えた紺碧の空の下、黒々とした枝葉を落とす樹海は巨大な影と変質する。これほど大きな静寂の下にあってなお、この森は、生きているといえるだろうか。
 ふいに、水のすずやかな音が耳に流れ込んだ。沢が近い、と思って、ふいにクリスタルはぽろりとこぼした。
「わたし、ゴールドのことが好きだったの。だけど、絶対にかなわないんだって、とうに諦めてた」
 シルバーが足を止めて、まじめな顔でクリスタルを振り返る。
「なぜ、絶対にかなわないんだ」
「……さあ、なぜかしら」
 冷たく湿った水の匂いにひといきついて、クリスは続ける。
「眩しすぎるのかもしれない。ねえ、憶えてる? ゴールドが、時の狭間に消えてしまったときのこと」
「…………ああ」
「あのときわたしね、すっかりゴールドが死んでしまったものと思っていたのよ。命を懸けるくらいの戦いをしているという意識は、わたしのなかにもあったわ。心のどこかで恐々としていたけれど、それがほんとうの実感として降りて来たのは、そのとき。だから、なんていうのかしら。ほんとうにわたしたちは、命を投げ出しているんだってことがわかった。命が無防備にそこらじゅうに転がっていて、いつ押しつぶされてもおかしくないんだって。世界が百八十度、回転したみたいだった」
「だが、あいつは戻ってきた」
「そこが決定的なところだったの。わたしは戻らないと決めていた。彼は戻ってきた。そのときだけじゃない、ゴールドは、いつもわたしの予想をこえて、わたしを覆していくのよ。仲間として隣に並ぶならいい。だけど、ふたりで同じものを目指すには怖い。覆されるのが怖い。わたしが守ってきたものが、つまらないちっぽけなものだったと思い知らされるのが怖い。そうやってわたしのすべてを踏み越えていくの。わたしが誇りにしてきた、人間の道徳や倫理をも踏み越えて、その向こうへ行くのよ。わたしからそれを取ったら何も残らない、というものをみんなフラットにして、新しい世界を広げてしまうのよ。……それは、あなたもだけどね。シルバー」
 シルバーは不可解そうに、へんな顔をした。その初な反応に、クリスタルは少し笑う。
「こわいの、自分が自分でなくなるのが。わたしにだってプライドはあるのだし、わたしがわたしでいたいから、ゴールドの傍にはいられない。……なんて。そんなふうに、思っていたのかもね」
「……。おまえの理屈は、難しい、クリス」
 シルバーはむつかしい顔をしたまま、慎重に、それだけのコメントをした。クリスタルをこんな夜中にこうまでして突き動かした感傷も、彼の前では全く無いに等しい。いっさいが消え失せてしまう。きっと彼女は歌をうたっているのに過ぎないのだ。かなしい歌を、いい気分で、自分を眠らせるようにくりかえし歌う。それでも、自分にとってはその歌がすべてなのだということも知っている。太陽の灼熱も、月の凍える光も持て余している。夜の傷痕に呑み込まれた中で輝いている。おおきく、ちいさく、を、くりかえして燃える、その姿はまるで歌っているようなのだ。この「わたし」というものは。
 自分の幸せだけを願いつづけていられればよかった。あなたたちの隣に立つということのプライドなんて、かなぐり捨ててしまえればよかった。「わたし」が「わたし」であることを、捨ててしまえればよかった。であれば迷い無く彼のふところに飛び込んでいけたに違いないの。いまも「わたし」はあの旅を愛してる。あの旅が——ゴールドがはじめて「わたし」を大きく引き裂いた、傷痕を愛してる。
 沢まで辿り着くと、岩肌から、こんこんと清らかな湧き水が流れていた。透明度の高い水は、夜の闇と境目がなくなるほどくろぐろと染まり、かすかな水音と、月の光の反射を頼りに手を伸ばすと、きんと凍るような冷水に指先がふれた。クリスタルは軽く喉をうるおした。真夏だというのに、水は氷よりもっと、それこそ温度を忘れてしまうくらいに冷たく、胃に落ち込んでいく。黒い水は彼女の内側で黒い傷となり、やがて黒い穴となる。宇宙の深淵を覗き込むようにぽっかりと空いた深い傷痕。
 ふ、とクリスタルは顔を上げ、満天の星空を目のなかに落とし込んだ。
「星が綺麗。あの、ちかちか光っているのなんて。歌っているみたいよ」
 笑いながら言った。シルバーもつられるように星空を見上げた。銀の瞳はいつもと変わらない温度で無機的に星をうつしだす。かれはふいに目を細めた。クリスタルには、しるよしもなかったが。
「おまえはそのままでいい、クリス」
 そのままでいい、と。もういちど、自分で噛み締めるように小さくつぶやいて、かれは口を噤んだ。クリスタルはこたえなかった。
五章
「花火大会?」
 ゴールドは、自家製のジンジャーエールを携えて、いかにも気分よさそうに花柄リネンのソファに身体を沈めている。その向かいがわで相も変わらずかしこまった姿勢で座っているクリスタルが尋ね返すと、そう、と鼻歌でも歌うような調子で首肯いた。長年ほどよく手入れされ、使い込まれているソファのカバー地は、夏場はリネンに、冬場はネルになるのだとゴールドがなにげなく言っていた。麻のさらさらした感触が軽く汗ばんだ肌にここちよい。今夜、はなびたいかい。と間延びした口調でゴールドがこっちを見ずに続ける。
「ワカバでさ。こっからちょっと遠いんだけどよ。散歩がてら、行ってみる気ねえ?」
 一瞬の間を置いて、クリスタルは緊張したおももちで息を止めた。めざとくそれを見つけたゴールドはにわかににやついて「デートの服装でも気にしてんの?」と笑った。ちなみにクリスタルの服装は、ポロシャツにストレッチパンツである。クリスタルは笑われたことに対して、ますます狼狽えたが、しかしそれはあまりに喜色をおさえきれなかったためだった。幸福な狼狽のかたすみで、クリスタルは縋るようにみずからの腕をさすり、そっと自分自身を憎んだ。
 一度は手酷く拒絶しておきながら、彼女は自分自身でいつもこのときを待って焦れていたのだという気がした。彼は彼女が愛したゴールドではないのに? じぶんの無節操さにはじめて泣きたくなった。決して誇れる行動ではないのに、抗えない。ほら、歌をうたっているわ。いま、首を縦に振るか振らないかで、いっさいが決まってしまうのだという気がした。そんな強い予感を感じていながら、彼女は自分が抗えないことも知っていて、こともなく首肯いた。
 それからのゴールドの行動ははやく、ソファから跳ね起きたかと思うと、ワカバタウンのデパートまで彼女を引っ張っていき、浴衣を見立ててしまった。白地に水彩ふうの金魚。ドレスのような華やかな鰭の金魚のなかに、ほんの小さく、黒い出目金が紛れた群れが、水の流れをあらわすような、薄みず色のきれぎれの模様と入り乱れて、綿の上を泳いでいる。帯は黒。麻でできていて、風通しがよい。浴衣に黒い帯がめずらしくっていい、とゴールドはいたくこの帯を気に入った。クリスタルはいつも通り、寄って帰るだけのつもりだったので持ち合わせがなく、ゴールドに支払いを任せるかたちになった。クリスタルは浴衣なんかいい、と言ったのにゴールドが頑なで、ついにクリスタルが折れて、来週必ず返すと言い張って、ゴールドがはいはいと聞き流しながら支払った。
 買い物が終わる頃には既に夕暮れ時になり、デパートから外に出て見た空は赤い。ちょうどいい頃合いらしく、駅の方角から、いろとりどりの浴衣を着た女の子たちや家族連れがまばらな列を作っているのを横切って、街中のぽつんとある空き地のような公園まで来ると、ゴールドは家から自分の甚平をもってきているから、トイレで着替えてくると言ったきり五分とおかず戻って来た。派手好きの彼のことだから、きっと赤や黄色なんだろうというクリスタルの予想に反して、彼は真っ黒な甚平姿で戻って来た。髪の色も黒いので、全身まっくろの中、下駄の鼻緒の赤と金の瞳だけがやけに浮き上がって見えた。薄暗くぼんやりした街並の中、朱色の逆光によけい黒々と深みを増した、くっきりしたシルエットに思わず見蕩れた。そして二人連れ立って、花火見物へ向かう人々の列に紛れこんで歩きだした。
 海を背にした端っこの小さな町ワカバタウンは、この夜に限って何かふしぎな魔力に取り憑かれたように、奇妙な賑わいを増している。刻一刻駆け抜けるように日が暮れる道を肩を揺らしてあるきながら、西の空に広がる街並に沈もうとする太陽が、溶鉱炉で溶かされた鉄のように赤く、とろりとしているのをふしぎに眺めていた。太陽が向こうの大地に染み通るようにして消えてしまっても、待ちには残り香のように、ぬるい熱が漂っている。電灯が点く。息を吸うたび喉にまとわりつくような、ぬるく湿った夏の空気と汗がまじりあって、肌の表面がべたつく。歩いていくはやさで、ショップや駐車場やマンションを通り過ぎていくのに、どこまでいっても街並はおなじままだ。時間がたつにつれて、この行列を包み込む奇妙に浮き足だった雰囲気が、はっきりと感じられるようになってきた。列を縫うように他の人を追い越こして駆け抜けては時折振り返って、友達の名前を呼ぶために張り上げられる声。ひきずられるように彼を追って列を縫う友人たちも、高揚に取り憑かれつつある。甲高い声でおしゃべりをする男女入り交じったグループ。クリスタルは自分の色覚がこれ以上ないほど研ぎ澄まされて、何もかもが毒々しいほど鮮やかな色で、見ようとするよりもはやく網膜に飛び込んでくるのを感じていた。毛先の色が抜けて薄い金髪に染まった、高くまとめられた髪。かんざしを見立てた赤色のヘアクリップ。闇の中、今はあらゆる色がネオンとなって揺れる。
 花火会場につくと、ゴールドはまだ花火がはじまるまで暫くあると言って、屋台でふたりぶんの焼きそばを買った。一パック三百円の焼きそばは、白いプラスチック製のパックがはち切れそうなほどの大盤振る舞いだったが、ゴールドはクリスタルを気遣うことなく二つ購入し、さっそく自分の分に取りかかった。その脇目もふらない態度に逆にクリスタルはほっとして、負けじと焼きそばを食べはじめた。大食らい、とまではいかないまでも、幼い頃から運動量の多いクリスタルは決して小食ではない。早々に食べ終わって、クリスタルを揶揄おうとしたゴールドの出鼻を挫いてしまうことくらいは、わけもなかった。それからかき氷とチョコバナナと唐揚げ棒、ふたりできっちり同じ量を食べ終わって、ホントはこんなに食うつもりなかったんだけどとぼやくゴールドは、言葉とは裏腹に大きなりんご飴を手にしている。むろんクリスタルも、真っ赤なりんご飴を舐めていた。不意に「はじまるみたいだぜ」とゴールドが言った。開会式はいつのまにか終わっていたらしい。
 どちらからともなく立ち止まったとき、とつぜん、空気を揺るがすような爆発音がおこり、クリスタルはおもわず身をすくませた。ほぼ同時、会場のどこからといわず、わあっと膨れ上がった歓声が波紋のように広がった。深い紺碧の空に火花が散る。ひとつひとつの声が寄り集まった、潮騒のような歓声の大きさに肌が粟立つ。クリスタルがそっとゴールドを窺い見れば、彼もまた、狂喜の波にむしろ望んで身を乗り入れるように、競って声を上げていた。クリスタルが再び顔を上げると、月が見えた。赤、黄色、緑、紫、あざやかな色合いの光が夜空を彩っては融けるように消えていくその横で、月だけがいつもの夜とかわらない静けさで、取り澄まして、ぽっかり浮かんでいるのだった。一度目に入ってしまったら、意識の端にちらついて、けしていなくなってはくれなかった。打ち上げられて、爆発して、夜空を流れてふいに消えていく光は、まるで星になりそこなったようだわとクリスは思う。月は、あざ笑うかのようにひかりつづけている。星になりきれない花火の弱々しさをか、あるいは、同じ夜に光る星月には目もくれないくせ、そんなはかない花火を好き好んで見物して歓声を上げる人々をか。
 なにも知らず声を弾ませるゴールドには、見えていないのだろう。月の凍えるような静けさも、ひとりぼっちで歌う星のことも。クリスタルがうたっていることさえ、彼は気づかない。蛍光色の光に照らされる横顔が愛しい。細部に至るまで、愛すべき無邪気な無節操を証だてるような横顔が愛しい。考え無しに容易く輝く横顔のなんと美しいこと、張り上げる声のなんという薄っぺらさ、ちっぽけなこと。けだもののごとく歓喜の波に身を任せることにためらいのない、愛しい無知。ふいに絡んだ指。握られた掌は軽く汗ばむ。あなたの手はとても熱い。わたしはいま、大きな狂喜のなかに身を投じようとしている……。握り返した指の感触を合図に、ゴールドがふと見下ろしてくる。いいの? とその目が殊勝に問いかけてくる。わたしになにもいわせないで。あなたのすきにして。くちびるが降りてくる。縋るように掌がゴールドの手首を探る。みじかい口づけのあと、ゴールドが掠れた声で「抜け出さねえ? な」とささやいた。答えのかわりに、握る力を強くした。
 追ってこないで。ふたり連れ立って、逃げるように会場を後にしながら、クリスタルはそう呟いた。もう何もかもが決まってしまったのだから、何もかもが今更なのだから。舗装された道路は火薬の煙が立ちこめて、なにもかもがまぼろしのようにぼやけている。それが身を隠してくれることに安堵しながら、ホテルに滑り込んだ。ゴールドは性急だった。シャワーさえ浴びさせてはくれなかったが、かえってよかった。浴衣姿のままベッドに倒されたとき、カーテンのわずかな隙間から月が見え、クリスタルは思わず両手でゴールドを引き寄せて、視界から隠した。「ちゃんと閉めて。カーテン」と言うと、ゴールドは無言でカーテンをぴったりとくっつけてくれたが、既にクリスタルの意識には呪いのように月がこびりついていた。目を閉じても、浮かびあがる。夢のような狂喜すら無に帰す、冷静で動じない、凍てついた光。クリスタルは歌っている。なんなの。この歌の酷さときたら。うるさくって、ねむれやしない。
 焦ったような囁き声と荒い呼吸だけが暗闇に響いていた。浴衣の綿にも帯の麻にも、火薬の香ばしいような匂いが染み付いている。花火のあざやかな光が、カーテンごしに部屋に滲み、すこし遅れて爆発音が遠く響く。余裕も素っ気もなく、むちゅうで身体を弄り合った。刺激が欲しい。肌が擦れ合うたび、熱が灯る。あのぞっとする静寂の中に突き落とされていることを、忘れていたい。ゴールドが、愛しい。
 この身体があなたを求めてるんだって、わたしの命があなたを求めているんだって、伝えたくて、決して忘れてほしくなくて、わたしの痛みのため、あなたの痛みのため、思い切り爪を立てて、柔らかい皮膚に一生癒えない傷を刻みたい。このままかれを背中から引き裂いて、一度殺してしまいたい。もっと求めて、わたしを一度殺して、どうかあの旅よりも深い傷を刻みつけて、その中にわたしを突き落として、何も分からなくさせて。その傷のなかで二人で眠ろう。朝また起きたら、まずおはようを言って、それから、ちゃんと好きだって言って、きれいに笑ってみせるから。いまは、わたしの肌のやわらかいのを確かめていて。このまま内側からふたつに裂いて。わたしを殺して。


 あの娘が産声をあげてる。
 火が点いたように全身で叫んでる。
 か弱く無知で、けだもののような美しい娘。
 かれとわたしのあいだの子供。
 冷たいやさしさで降り注ぐ月光の下で歓喜を歌う。
 わたしの愛しい娘。







「……馬鹿な」
 男性研究員は乾いた声でつぶやいた。彼の手元には、毎日かかさずエコー写真を撮り続けていたたまごと、散らばった数枚のエコー写真がある。「博士」となりの女性研究員が不安そうにつぶやいたが、彼はその声も聞こえないらしく、口の中で繰り返し「ありえない」「そんな馬鹿な」ぶつぶつとつぶやいている。散乱したエコーはどれも、昨日まで確かに人間の赤子のかたちが映し出されていた卵の内部が、黒々と塗りつぶされている。
「機材の故障? 卵がすり替えられたとでもいうのか?」
「博士。車の準備ができました」
 研究室の扉を開けて、事務員の女性が告げた。それにようやく我に返ったように、彼は顔を上げ、ああ、と生返事をした。ほかの研究所に、超音波写真の機材を使わせてもらえるよう、頼んでいたのだ。しかし機材の故障なんてありえるだろうか? この卵以外には、機材は正常に動作したというのに? しかし今となってはその可能性を確かめてみるほかないように思われた。羊水に満ちていたこのたまごの中身は、いまや羊水の僅かに残った空洞に過ぎないと、機械は言っている。重さも、驚くほど軽くなってしまった。女性研究員が、細心の注意をはらって卵を箱に詰めているあいだ、彼は「ありうるのか? こんなことが」と呟いていた。卵には相変わらず傷ひとつなく、しかもかつて羊水に満ちていたことの形跡を残したまま、中身がいなくなってしまうことが。
「昨日のエコー写真で、既に赤子は臨月の状態まで成長していました」
 おもむろに女性研究員が卵の殻を撫でながら、おもむろに語った。その意図がわからず、彼がつぎの言葉を待っていると、「生まれたのでしょうか」と、女性研究員はひとりごとのようにつぶやいた。



 タマムシシティには隠れ家的喫茶店がある。ここは、ふたりで各地を転々としていたころに見つけた小さいけれどもお洒落な喫茶店であり、はじめにブルーが会合場所としてこの喫茶店を指定したことから、なんとなくブルーとシルバーの会合場所としてお決まりになった店だった。ここはフロアの広さのわりに客が少ないし、マスターも我関せずな雰囲気の無愛想な男なので、あまり人聞きのよくない話もしやすい。
 カウンターから遠い窓際の席を選び、花瓶のような球体のグラスに氷の浮かぶグリーン・ティと、足のあるグラスにたっぷり入ったメロンフロートが来て、店員がカウンターへ戻っていくと、ブルーはさりげないふうに口火を切った。
「率直に聞くけど、あんた、ゴールドのこと、どう考えてる?」
 いささか面食らったシルバーが、どうって、と口ごもる。
「あいつが記憶を失ってから、会ってすらいないみたいじゃない。このままで良いと思ってるの?」
 シルバーは沈黙したが、ブルーはその目の色から肯定の感情を察したらしく、なるほどね、と小さく呟いた。いままで彼女には欲されるがままに、自分の感情や考えを伝えてきた。そのために、おそらく彼女にはシルバーの気持のだいたいのところが、手にとるように分かってしまうのだろう。叱られるだろうか、と思いながらシルバーがそっと彼女を窺い見ると、意外にもブルーは、戸惑ったような困ったような顔をして、何か考え込んでいた。「……あのね。これは勘なんだけど」と、慎重に彼女がつぶやくのを、シルバーは冷静な気持で待っていたが。
「どうも、クリスがゴールドと付き合いはじめたみたいなのよね」
 溜息まじりにブルーが続けた言葉の一瞬の後、シルバーは何も口に含んでいないのに、噎せた。たかが勘と侮ってはいけない。この姉の勘は、十中八九で当たるのだ。ブルーは弟分を心配そうにながめながら、彼が落ち着くまで待っていた。メロンフロートを啜る。
「……良いことなのか悪いことなのか、あたしにはわからないけど。でも、前からクリスって自分の気持を押し殺すような感じがあったじゃない。でも、ゴールドの記憶がないことでその気持が成就して、いま幸せでいられるんだったら、それもありかって思っちゃうのよね」
 それから二時間ほど他愛もない話をして、ブルーとは別れた。気づけばシルバーは、ホウエンのバトルフロンティアの島、ゴールドが倒れていたという浜辺に立っていた。時計の針は既に午後七時をまわり、ひろびろとした夜空がしずかに海を見下ろしている。島を襲ったという大波もいまは欠片もなく、絶え間なく波が穏やかに打ち寄せて来ている。きっと、姉の勘は今回も当たっている。ついこの間のクリスタルの告白を思い出して、なんとなく、そんな気になって、こころもち沈んだ気分になった。
 ゴールドが嫌いなわけではない。大切な友人とさえ思っていた。その反面、自分と関わったがためにゴールドが失ったもののことを、考えずにはいられなかった。ときに頼んでもいないのに、ゴールドはシルバーのことでずいぶんと思い悩んでいた。だいたいはどうしようもないことだ。彼はわからない理屈を口にしたが、シルバーにも、それがシルバーのための苦悩だということは薄らと分かっていた。シルバーにさえ会わなければ、無かったはずの苦しみ。ゴールドという人間は、シルバーが決して手にすることのできないものをすべて、生まれながらにして持っている。それを誇りにするのならともかく、どうして好き好んで苦しんだりするのか。頼んでないだろう。お前が悩んだところでどうしようもないだろう。そのままでいてくれれば、いい。おれのことなんか気にするくらいなら、いっそ冷たい月の光や星明かりなど知ることなく、街のネオンやストーブのあたたかな灯りのなかだけに、生きていてくれたほうがいい。お前はそこにいるというだけで、俺自身すら、十二分に救っているのだから。そんなことを考えて、会わないと決めた。もう、シルバーの道は父親との対決に定まっている。そこにわざわざゴールドを関わりあわせる必要も、感じられなかった。自分の道を歩いていくのに、他人の力は必要ない。記憶の中に、意識の中にさえいてくれれば、それだけで心の支えになっている。
 むしろ気掛かりなのはクリスのことだった。この間会ったときから、ずっとシルバーの心に引っかかっていた。彼女が幸せなら別段構うことはないと思いつつ、彼女が何のてらいもなく、幸せを享受できるとは思えなかった。彼女は言ったのだ、「こわい」と。
 ふと、シルバーの視界のはしで何かが煌めいた。そちらに視線を向けると、半ば砂浜に埋もれるようにして、つやのある何かが波に洗われているのが見えた。ふしぎに思って、近付いて掘り出してみると、それは卵だった。こんなところに卵? 呆気にとられているうちに、おもむろに遠くから聞こえていた若者達の声がぴたりと途切れた。反射的にシルバーはそちらに顔を向けた。砂浜を歩いていたらしい若者たちの集団のうちの一人が取り残されて、こっちを凝視していた。短い黒髪が海風に揺れて、金色の瞳が驚いたように見開かれている。一瞬、シルバーはそれを見知らぬ青年だと思って視線を外し、そして遅れて気づいた。まさかそんな。駄目だ。顔を向けてはいけない。
「ゴールド?」
 集団のひとりがその名前を呼んだことで、一気に台無しになった。スバル、とその青年が呼び返したが、もうすでにそれは青年の声ではなく、はっきりと、他でもないゴールドの声としてシルバーの耳に響いた。ゴールドが友人らしき人物になにか言っている、その隙に、シルバーはドンカラスに掴まって飛び立った。
 なんとか切り抜けたが、空中で、シルバーは自分が掘り出した卵を持ちっぱなしだったことに気づいた。何の卵だろう。そういえば、隕石墜落時に、奇妙な卵が見つかったとか、ねえさんが言っていたな。なにか関係があるのだろうか。
(2016/05/03)