ハートビーター没集
□ ハートビーター(pixiv)で没にした文章群
□ 中途半端なものばかり
彼にとって罪は最後の扉だった。すべてが終わった後は、すっかり洗いざらい白状してしまって、法のもとに裁かれようと想像したのは、一度や二度ではない。もっともいつも本当のところは分からなかった。いざというときになって尻込みしてしまうかもしれないし、ひょっとするとうまく身を隠して逃亡してしまうのかもしれないと、漠然ながら思っていた。しかし逃げだしたにしても、自分が罪人である権利を放棄することにはならない。罪を抱え、罪に向けられる自分の意識を糧に、いくらでも生きていけると思っていた。彼は、少なくとも彼と彼女の仮面の男に対する復讐のあとにはたいしてものは残らないと考えていた。その復讐は、幼い日の彼女の無辜の涙のために成されるのであり、世界でもっとも無辜な魂への燔祭に過ぎないからだ。彼の中では、彼女は捧げられるべき人であり、償われるべき人ではあったが、すくなくとも、燔祭のために自ら手を穢すべき人ではなかったのである。復讐の一番重要な最後の局面になって彼女との連絡を絶ったのもこういうことだった。だが実際のところ……、そういう高潔に思えるような感情も、穢れを独り占めしたいからに過ぎなかったのではないか。血に塗れることによって、自分の最後の扉を確固たるものにしたいためだったのではないか。
それなのに何と言うことか。憎悪のうちに幕をひく予定であった仮面の男との決着を奪われたばかりか、彼が法的に裁かれる決定打となるはずだった犯罪さえも、非公式のうちに赦されてしまった。罪は彼をここまで連れて来ておいて、いまになって殆ど手を切ろうというのだろうか。だとしたらこれから何をしたらいいだろう、どこへいったらいいだろう。繰り返し空想しながらそのくせ、何をしてもどこにいっても、自分では何も意味のあるものを見つけ出すことができないのを知っていた。彼には不思議だった、同年代の若者、ゴールドやクリスタルが、なんのてらいもなく生きていることが。
図鑑とオーダイル。復讐を成し遂げるための道具のつもりで、彼は手にした。同時に、図鑑とポケモンを盗むという行為そのものが、おそらく彼女に対する償いでもあった。彼女が自分の弱さのためにそうしたことを、彼はまるで自分のせいであるかのように思って、同じ十字架を背負おうとした。その盗みは彼の中で清廉でなければならなかった。頭のてっぺんから足のさきまで、彼女のための捧げものだと胸を張って言えなければ、我慢がならなかった。だからこそもし、その盗みのために罰されたのであれば、これ以上望むべくもないことだったのだ。自分の不利益を顧みずに捧げたという事実が、功名心や損得の混じり気のないことを、感情の清廉潔白を証明するからだ。博士からあらためて図鑑とオーダイルを託され、それを深く考えもせずに受け取ったものの、彼は図鑑やオーダイルを使って何かをする必要が、いまやすっかり無くなってしまっていることに気付いたとき、彼はとても恥ずかしいような気持がした。どうして受け取ってしまったんだろうかと考えれば考える程、いやらしい可能性が浮かんではそれに苛まれた。
(そういえば、あいつとのバトルは楽しかった)
そんなふうに彼が思い出したのは、彼がすっかりけりを付けてしまった後のことだった。
---
論理破綻しそう
次の土曜日は、ウツギ博士の研究所に行った。オーキド博士から図鑑を受け取った手前、オーダイルのこともきちんと話しておかなければと思った。思いのほか、ウツギ博士は俺が来たのを驚いて、オーダイルに会うのを喜んでいるらしかった。博士は一日、オーダイルを預かってもいいかと言った。俺は頷いてボールを渡し、また日曜日に研究所を訪れた。そのときに、オーキド博士と俺がどんな会話をしたのかという話になった。
「ポケモンを見ればトレーナーが分かるって、博士、言ってたからね」
ウツギ博士はそう言って笑った。
「ワニノコはキミの手に渡ったとき幼く、キミが初めてのトレーナーだった。いまのオーダイルの立ち振る舞いは、キミがどんな姿を彼に見せてきたかによるんだよ」
ゴールドのヒノアラシ、クリスタルのチコリータも、実に三者三様の育ち方をしている、と楽しそうにウツギ博士は語った。特にクリスタルはこまめに様子を見せに来ていて、そのたびにチコリータは人なつこくなっていること、ゴールドはろくに顔を見せないものの、ヒノアラシはまるでゴールドと対等であるかのような関係を築いていることなど。
「オーダイルはとても落ち着いている。キミは、彼に対して感情的になることが少なかったんじゃないかな。一方で、オーダイルはキミをよく信じているようだ。なんだか不思議な関係だけれど、僕もオーキド博士と同じだ。キミにオーダイルを任せよう」
ウツギ博士の横にいたオーダイルは、表情を変えず、俺がボールを受けとるのを眺めていた。俺はオーダイルをボールに戻した。オーダイルはキミの手によってボールに戻されるのを待っていたんだねと博士は言った。きっとそうだろう、となぜか俺も思った。
---
博士は自分からこういうこと喋るだろうか……シルバーも訊きそうにないしなあ
最初はさ、身寄りのない病人を助けるっつー、殊勝にも道理にかなったことをしただけだった。けどさ、やっぱ、こんだけ身近にいると、わかるんだよな。俺たちが知っているのに、あいつだけが知らないこと。あいつだけが知っていて、俺たちが知らないこと。その差は、俺が考えていたみたいな生易しいもんじゃなかった。だっておんなじ言葉で喋っても通じねーんだぜ。ホラーだろ。
あいつの人生、不運ここに極まれり、の一角だろ。それを俺の家なんぞに連れ込んじまったもんだから、全くも浮き上がる対比の凄まじいのなんのって。おまけにあいつ割と出歩くから、近所の人なんかに俺が質問されるだろ? だけど、腫れ物にさわるよーな答え方をすんのも癪で、さらっと、あいつ帰る家ないんスよ、って答えるだろ。そっちから聞いといて、決まって気の毒そうな顔すんだよ。正直、腹立つ。可哀想な子供を見るような目であいつのことを見る奴らも、知ってか知らずか柳に風を決め込んでいるあいつも。でも、一番腹が立つのは、そうやってむかむかしている俺が、結局いちばんあいつを可哀想だって思ってるってことなんだ。
別に可哀想だってわけでもねえさと。俺はあいつに対して後ろめたくなるたびに、なんとかして証拠を探さなきゃならなかった。何をって、俺があいつを可哀想と思っていないって証明してくれるものをだよ。でもそんなん毎回つごうよく見つかるもんでもなくて、俺はときどきあいつにずいぶん強く当たった。言うなれば最後の逃げ道で、あいつにきつく言うことで、俺はあいつに同情してるんじゃねえってことを、示そうとしたんだ。巷のギャルには酷いって軽蔑されるかもしんねえが、俺はあいつに同情するくらいなら、あいつにそう思われるくらいなら、いっそのこと手酷く傷つけたほうがまだましな気がしているんだ。
そうやって理屈に合わないことをしてるのはこっちだってわかってるのに、あいつは顔色ひとつ変えやしない。俺はほっとするけど、それ以上にイライラさせられる。あいつは何も分かってねえ、俺がどれだけの思いで日々を過ごしているかってことを。なあお前にとって俺って何なの? 他の大多数の人間に思われるのと同じように、俺に可哀想だって思われても何とも感じないってか? 一度でもいい、怒りを露わにして、俺を殴ってくれればいいのに。そんなやつだとは思わなかった、って、少しでも悔しさを滲ませてくれればいいのに。そんな思いを、日々抱えながら、過ごしてきたのに。
ああついにやっちまった。あいつのために、俺はすっかりおかんむりになっちまった。何もかもお釈迦だって、やけっぱちになって、追ってきたあいつの表情の余りに平然としているのに打ちのめされて、追っ払って。どうにでもなれという気持で家に帰れば、あいつが出て行こうとするのを見かけて、初めてまるっきり意地悪い気持で引き留めた。いつも辛辣になりながらも祈るように必死だったのが、はじめてだった。ああでもどうして俺はあいつからハンカチを預かってしまおうと思ったんだろう。きっとあのハンカチだけがあいつの人生を知ってる確かなものだからだ。あのハンカチはあいつの半身だから、あいつが置いて行くはずもないと。勝手に、そう思ってたんだ。
どこから来て、どこに行くんだ。いったいどうしてそんなに簡単に、失くしてしまえるのか。たとえそれが誰よりも刹那的に今を生きていることの証だとしてもだ。
---
なんとなく、シルバー視点であるこの話におけるゴールドは、どこか得体の知れない存在として書きたかったので、ゴールド視点はやめました
翌日は晴天で、ゴールドの母親は昨日の嵐で駄目になった服を纏めて洗濯していた。ゴールドは夜も明けないうちに帰ってきていて、まだ寝ていた。俺は昨晩目が覚めて以来、二、三時間ほど浅い眠りを漂っただけで、後は眠れなかった。ゴロウは二時にウツギ博士と約束があると言って、ゴールドの母親の洗濯を手伝っていた。俺もゴロウにつられるようにして、洗濯物をすっかり干してしまった。
「そういえば、シルバー君。いつものハンカチがポケットに入っていなかったけど、どうしたの?」
ゴールドの母親がそう言ったので、昨日失くしたんだと思う旨を告げると、先に声を上げたのはゴロウのほうだった。
「マンションの屋上に降りたときには、持ってたでやんすよね……街中ならともかく、ヤミカラスで帰る途中で落としたんだとしたら大変でやんす!」
「失くしたと気付いたのは、ゴールドを追いかけた帰りだから、それは無」
「気付いてたんならなんで昨日言わなかったでやんすかー!」
なんで昨日言わなかったかって……ハンカチ一枚だ。そうえらく騒ぎ立てるほうが妙だと反論しようかと思った矢先、不意に声が割り込んで来た。
「んだよ騒がしいなあ……。おちおち寝てもいられねえっての。そんなに喚いてどうしたよゴロウ」
二階の窓から顔を出して、欠伸をしながらこっちを見下ろしてくるゴールド。遠目に見上げるゴールドは驚くほどいつも通りで、少しばかり拍子抜けする。昨日のとげとげしさはどこにやった。
「シルバーくんがハンカチを失くしたでやんす!!」
「…………なにィ?」
ゴールドは怪訝そうな顔でつぶやいたかと思うと、窓から部屋の中に引っ込んだ。なにやら二階がばたばたと騒がしいと思っていたら、一階から、母さん朝ご飯、と声が聞こえる。もう昼ご飯でしょとゴールドの母親は答えながら、俺たちのほうを見て、お昼ご飯にしましょうかと言った。
---
ゴールドが夜中に何食わぬ顔で帰って来たパターン
ゴールドの心情を吐露させるかどうか迷っていました
眠り鎮まった家を起こさないよう、そっと足を降ろす。もっともこの家の床は軋まない、階段も然り。神経を集中させれば、フローリングに刻まれた浅い引っ搔き傷に足裏の皮膚が沈むのがわかる。沈黙のうちに玄関から自分の靴を取りあげた。昨日の雨のために、取り去った跡に靴をかたどるようなかたちの泥が付着していた。それに不快感を煽られて拭おうとしたが、ハンカチを持っていない事に気付いて、指で拭いとってから隣にあったゴロウの靴を寄せて隠した。
無かったことにしてしまいたい。あの光の意味を知らなかったことにしてしまいたい。だから早く此処から出て行くんだ。いまなら、きっとすぐに忘れてしまえるさ。
何一つ痕跡を残さずに出て行ける場所には、ひとつだけ心当たりがあった。ゴールドの部屋だ。あいつはちょくちょく夜抜け出すために、自室の窓に鍵をかけていることが少ない。もし、開いていなかったら? それはまたそのときに考えよう。内鍵を捻ることはしたくない。
ゴールドの部屋まで行ってみると、室内はがらんとして誰もいなかった。後ろ手に扉を閉めてしまうと、これ幸いとシルバーは詰めていた息を吐いて辺りを見回した。大きな窓からは月の光がいっぱいに注がれて、部屋は驚くほど明るい。何度か目にしたはずだったのに、その部屋は妙に目新しく見えた。あまりまじまじと見たりはしなかったせいかもしれない。
そうだ、この家に来たばかりの頃は、この家すらも風や星や嵐といっしょだった。だから別段変わったふうにも感じなかったし、興味も無かった。確かあのときは、とシルバーは思い返す。そう、ゴールドはベッドの上に退屈そうに座っていて、自分はフローリングの上でおもちゃの車を弄っていた。視界の中にあのおもちゃの車を探すと、すぐに見つけることができた。ベッドの脚もとに、赤い車がぽつんと取り残されていた。
手に取ってみる。両手にちょうど乗るくらいの大きさの車は、おもちゃとはいえなかなか精巧にできているように見えた。マグカルゴの目玉みたいにぎょろっとしたフロントランプをぐんと前に突き出して、それに引きずられて伸ばされたみたいなボンネットの形状。ぎざぎざした歯のようなバンパーと、その両脇に目玉がもう一対。四方に張り出した車体に小さな頭がくっついている。フロントガラスからは少しルーフが飛び出ていて、変わった見かけだと思った。掌のうえでひっくり返してみると、裏側にはプラスチックの薄い板があてられていて、その表面に文字が浮き出ていた。
「……コレクション……ナンバー…………リビエラ……」
部屋の暗さと、細かな傷のために途切れ途切れにしか読み取れないが、ともかくも呟いてみた。おもちゃの車輪を指で撫でてみる。前輪と後輪が、一本の細い金属棒の両端につけられていて、金属棒は車体の裏側に空けられた三ミリほどの穴に通されている。それで車輪が回転するんだな。しばらくそうして車輪を回していたが、止めた。仕組みが分かってしまえば、面白くもない。
慎重に車をもとの場所に戻そうとして、ふと手を止めた。そう、俺が初めて見たときはどこにあったんだったかな。確かあのときは、座ってすぐにこれが目について……、そう、ベッドの下。ベッドヘッド側だと思って、そっちに移動させることにした。寸分の狂いもないように願いながら。これが最後の仕事だ。
立ち上がって、最後に部屋を見わたして、なぜかほっとした。さあ、これですっかり終いだ。窓を押す。かちゃり。小さく蝶番の軋む音が僅かにしただけで、あとは無音だった。嘘のように風がない。冬のはじめの冷たい空気に反射的に震えたが、すぐに馴染みはじめる。これが生活。これが世界。言い聞かせるたびに、高揚した感情が落ち着いてくる。百、八十、五十、十……もう少しで
「なあ、こんな時間に何してんだ?」
…………息が止まるかと思った。窓の外、庭先の樹上、人影。ゴールド。
なぜ気付かなかった? 答はかんたんだ、こいつは今夜、帰ってこないはずだったから。絶句している俺をよそに、エーたろうを肩に乗せたまま、ゴールドは開けた窓から室内に飛び込んで来る。いやあ正直助かったぜ、この窓ちょっと開けとかないと使えないんだよな、としゃあしゃあと抜かしながら。だが正直こいつのおしゃべりは助かった。動揺しすぎて、咄嗟に声が出なかった。ゴールドはベッドの下から、さっきの車を無造作に拾い上げた。
「これ、気に入った? おもちゃで遊んでるのを母さんやゴロウに見られたくなくて、こんな夜中に遊びに来たってわけか」
そう言ってからから笑うゴールドに、正直ぞっとした。本気なのか、それとも見抜いていてあえて冗談めかしたことを言っているのか、口調からは分からない。だがこいつなら察しているだろう。俺は寝間着でもなく、貸してもらっている普段着でもなく、旅装束。出て行きますと言っているようなものだ。嫌なわらいかた。またこいつは傷ついている。
「……っと。おまえ、ハンカチ貸してくんねえ? 明日中には洗って返すから」
これみよがしに、濡れたボールを見せつけて来る。確信犯か。
「……。ここはお前の自室だろう。自分のを使え」
「俺ハンカチ持たねー主義なんだわ」
「ティッシュは」
「俺の部屋にはねえんだなこれが」
「……む」
見回してみると、確かにティッシュのようなものは見当たらない。溜息一つで諦めた。どうせここで頑張ったところで、ゴールドにはもうすっかり知られているのだ。ポケットに手を突っ込んで、はたと思い出した。
「……悪いが、俺も持っていない」
「へ? いや嘘つけよ、持ってたろお前。名前入りの白い」
「昨日ヤマブキに行ったときに失くしたらしい」
「……はあ!!?」
ゴールドは信じられない、というような顔をして叫んだ。
「うるさい」
「いやいやいやいやちょっと待て待て待て待て、お前なんでそんな落ち着いてんの。大事なもんだろ」
「大事、って」
聞き飽きたフレーズだった。ねえさんからも言われた。ゴロウからも言われた。そしてゴールド、おまえも同じことを言うのか。そう思ったら、不意に怒りが込み上げてきた。いままで、こんなこと無かった。大事なものだと言われても、そうなのかもしれないと思うだけで聞き流していた。あれが俺にとって大事なものかそうでないかなんて、興味が無かったんだ。ただ、なぜだか今だけはにわかに苛ついた。あの嫌な笑みを引っ込めて、あからさまに狼狽しだしたゴールドの態度の変わりようになのか、それとも他の原因なのか、よくわからなかったけれど。
「……お前には関係ないだろう」
思いのままに呟いたら、ふと、ゴールドが怪訝そうな表情をした。
「俺が何を大事にしようが、何を失くそうが、お前には関係ないだろう」
ゴールドの表情が、苛立ったものに変わるのが分かる。たぶん、俺も似たり寄ったりの顔をしている。誰に決められる筋合いもない。思うのも、考えるのも、感じるのも、大事にするのも、失くすのも、俺だ。なぜだろう、わからない。ただゴールドにだけは言われたくなかった。
「ふざけんなよ。シルバー」
たった一言、ゴールドは呟いただけだった。月明かりに浮かび上がる目がぎらぎらと光っていた。だが、全く恐ろしくはない。それよりもずっと気分が冷めている。
「……明日、紛失の問い合わせすっから、これでもいじってろ」
やや乱暴にこっちに投げつけてきたのは、あのおもちゃの車。まだ苛立ちが収まったわけではないが、ここで喧嘩をしてもしようがない。突き返すわけにもいかず、受け取って踵をかえした。廊下に繫がる扉を出て、閉めようとしたその隙間から、
「……おやすみ」
ふてくされた声がそう言った。無言で扉を閉めた。
音もなく扉を開けると、先ほど見たままの部屋が目に入った。違うのは、真ん中のベッドでゴールドが大の字になって寝ているという、それだけだ。気配を殺してベッドに近付いて、おもちゃの車を元通りにする。
立ち上がってゴールドを見下ろした。安心しきった表情。深い寝息。眠っている。何かを言おうかとも思ったけれど、何も思いつかなかったので止めた。
窓に触れる。思ったとおり、不用心にも開けっ放しだ。その向こうには外が広がっている。窓枠に足をかけ、横の雨樋を掴む。窓をもと通り閉め直そうとしかけたところで、ゴールドの寝息が中から流れ出した。さよなら。胸の中だけで呟いた。
かち、と嵌る音に自然と唇が緩んだ。さあ、これで雨戸がかかる。完璧。これは雨戸。光の洩れない雨戸。
---
シルバー失踪ルート
とりあえず書き進めてみたけど、この先の展開どうしよう状態
嵐の翌日、シルバーくんはいなくなっていたのでやんす。手紙も伝言もないまま、ただ本当にいなくなっていたのでやんした。朝食の席では、ひとりぶん多目に作られた朝食が、さびしそうに食卓の端っこによけられていたのを、ゴールドが引き寄せて、ふたりぶん食べたのでやんす。ハムエッグにかぶりつきながら、ゴールドが「今日ゴロウと一緒にカントーまで足を伸ばしてくっから」とか言い出したので、おいらは慌てやした、今日はウツギ博士にまた手伝いを頼まれていたんでやんすから。おいらがそう言えばゴールドは、胡散臭そうな神妙そうな顔をして、朝食を平らげると、ウツギ博士に電話をして、どうにもいいように話をつけてしまったのでやんす。全くゴールドの遠慮のないのもさることながら、ウツギ博士もいいかげん人がよすぎるんじゃないでやんすかね。かくして、「また遊びにいらっしゃいね」と笑うゴールドのお母さんに見送られて、おいらはゴールドに引きずられていったのでやんした。
「どこに行くつもりでやんすか? ゴールド」
もうこうなってしまったらゴールドのペースなのは分かっているので、諦め半分で尋ねたのでやんす。ゴールドはずんずん大股で前を歩きながら「ヤマブキ」とだけ言っただけでやんした。それから暫くは無言で……、ようやく振り返ったゴールドが前に見ないような、まじめな顔をしていたので、思わずぎくっとしたのでやんすが。
「ゴロウ、あいつがハンカチ持ってたの知ってるか?」
あいつ……というのは、たぶんシルバーくんのことかとアタリをつけて頷いたら、ゴールドはこう続けたのでやんす。
「昨日、ヤマブキで失くしたんだってよ……つーことで、ゴロウ。昨日あいつと歩いた道を教えてくれ」
……いやいやいや。教えることは全然いいでやんすが、論理がまるで見えないのでやんす。何か大事な文脈がすっぽ抜けているでやんすと指摘すれば、ゴールドはいいんだよとうっちゃったのでやんす。
「本人に頼まれてもいないのに、探すのでやんすか?」
「まぁな」
「あれだけ古くても持ってるってことは、大事なものなのかもしれないでやんすね。シルバーくんは、そんなこと考えたこともないって顔、してやしたけど」
おいらが言うと、ゴールドはとても苦い顔をして、ぶっきらぼうに「わかんねえよ」と言いやした。なんでもゴールドは昨夜、シルバーくんに会ったらしく、そこでちょっとした口論になったそうでやんす。俺には関係ないんだってよ! と口調もとげとげしく愚痴りながら、ゴールドは、ふいに憑き物が落ちたような顔をして、でもまあ、と言うのでやんした。
「あいつがどうこうっつーより、俺がさ。あのハンカチ、欲しい」
「ちょっ……ゴールド、仮にも人のモノでやんすよ!」
まさか見つけたらそのまま何食わぬ顔で持って帰るつもりじゃ、と思っておいらが慌てて制せば、ゴールドはちょっと笑って言ったのでやんす。
「そういうんじゃねーよ。えーと……うまく言えねえけどさ。なくしたまんまなのは、性に合わねえっつうか。ここでほっといたら、大都会の雑踏に消えちまうんだぜ。それが嫌だってだけだ」
---
シルバー失踪ルート
まさかのゴロウ視点、やんす口調だと読みにくいなあと思いました
「あ、の、やろおおおおお!」
嵐の翌日、晴天の空にゴールドの怒声が響く、その声量たるや凄まじいもので、傍にいたおいらやポケモン達は咄嗟に耳を塞いだくらいでやんした。そりゃあ挨拶のひとつもせずに行ってしまったのは良くないでやんすが、何もそんなに怒らなくても……ただおいらに分かるのは、いまゴールドは手のつけようのないくらい怒っていて、その原因は、シルバーくんがいなくなったってことでやんす。ゴールドのお母さんは相変わらずのんきで、「また遊びに連れていらっしゃいね」なんて言って、息子との会話が妙に噛み合ってない気がしやした。
で、おいらは今、ゴールドに連れられてヤマブキシティに来ているでやんす。今日はウツギ博士に手伝いを頼まれていたのに、ゴールドが電話でほぼほぼ強引に押し切ったようでやんした……まったくもう、あいかわらず博士を何だと思ってるんでやんすかね! ゴールドは、リニアの中ではいつも通り騒がしかったでやんすが、ヤマブキシティにつくなりぴたりと黙り込んで、何やら真剣な表情でおいらのほうをちらっと見やした。
「……ゴロウ、あいつのことどれくらい聞いてる?」
いきなりそんなこと訊かれるとは思わなくてちょっと驚いたけど、実のところ、おいらはあんまりシルバーくんについては聞いていなかったのでやんした。泥棒もやってたけど、本当は悪い人じゃなかったんだよ、ってだけ。博士も濁した言い方をしていたんで、あえて深くは突っ込まずにいたでやんす。言うと、ゴールドは神妙になって、低い声で、そーか、って答えただけでやんした。
おいらは目的も行き場所も聞いていなくて、ヤマブキの中央通りをゴールドについて歩いて行くしかなかったんでやんすが、次にゴールドが口を開いたのは、その途中でやんした。
「……あいつがハンカチ持ってたの、知ってるか?」
「へ……ああ、あの白いハンカチでやんすね。あれがどうかしたんでやんすか?」
「昨日、ここで失くしたんだとよ」
「え!? ほんとでやんすか!?」
「いちお、朝ケーサツに問い合わせはしたんだけど、届けられてないらしい」
あんなに大事そうに見えたのに。そのときにおいらは正直、落ち込んだんでやんす。落としたと気付いたときに、なんで言ってくれなかったのか。嵐が来るから? 嵐のくる前なら、すぐに見つけられたかもしれないのに。それとも本当に、大事なものではなかったということでやんすか。おいらが黙っていると、ゴールドもすこし怒ったような顔で、そういう奴なんだよ、と言ったんでやんす。そういうゴールドも何となく、辛そうな感じがしやした。
「……けど、おいらたちの勘違いってことはないでやんすか? あれは本当にただのハンカチだったとか……」
「あいつ本人はそんなよーに言ってたな。勝手に大事なもんだって決めつけるなって」
「だったら」
「そんなん百も承知だっつーの。ああ俺のエゴだよそれがどうした?
---
シルバー失踪ルート2
最初は失踪の方向で考えてたけど収拾がつかなくなったので展開を変更
ともだち。ずっと小さい頃に、ねえさんから教えられた言葉だ。以来長いあいだ、耳にすることはなかったけれど、一年前に、ぽつりとねえさんが言った。
『こういうの、ともだちっていうのかなあ』
平静を装いながらも気恥ずかしさの抜け切らない、電話越しの声。誰のことを言っているのかは、すぐに察しがついたものの、肯定も否定もできなかった。俺には分からなかった。ねえさんに知れないものが、俺に知れるはずもない。幸いにも、返事をしなかったことに対して、ねえさんは少しも気にした素振りを見せないどころか、嬉しそうだった。もしかしたら、俺が黙っているのを期待していたのかもしれなかった。
ともだちは、仲良しなのだとねえさんは言った。お互いが好きで、一緒に遊んだりする関係を、そう呼ぶのだと教えてもらった。
ゴールドが、好き? 胸の内で呟いた途端、未知の何かを閃いたような感覚があった。それで、好き嫌いなんて、いままで考えたこともなかったことに気付いた。そんなこと、どうだっていいことのはずなのに、妙にその考えに惹き付けられる。気がつくと、考えている。答が出るはずもないことは、分かっているのに。
ねえさんに相談してみようか、と思いはしたものの、結局、携帯電話に手を伸ばすことはなかった。この感情を、俺だけのものにしておきたい気がした。なんでだろう。ねえさんにさえ秘密にしたいなんて。
よく、わからない、が。もしかしたらねえさんも同じ気持ちだったのかもしれない。俺の沈黙を通して自分の秘密を確かめたくて、あえてあんなふうに尋ねたのかもしれなかった。
---
書きたかった関係は、友達ではなかったらしいと気付いたのでカット
初めてお菓子らしいお菓子を見たのは、ねえさんとあちこちを転々としていた頃。逃げだしてから迎えた一度目のクリスマス・シーズン、吐く息も白い夜空の下、いつもと違う、浮き足立った街の様子を不思議に眺めていた。どうして街を歩いていたのかはよく覚えていないが、俺はねえさんの後について、煉瓦色の石畳が敷き詰められた街路を歩いていた。俺たちは無言だった。
あっというねえさんの小さな声に顔を上げると、目の前の広場の中心に、大きなもみの木が立っていた。その樅は、無数の電球や、赤や白や青の光るかざりをこれでもかというくらいに自らを装って、てっぺんには大きな星のついた帽子をかぶっていた。ねえさんはしばらく無言だった。俺にはこれが何なのか分からなかったから、ねえさんの顔を下からうかがおうとした。そしたら突然、ねえさんはおかしくて堪らないみたいに笑い出して、肩を揺らしながら、そういえばクリスマスだったわね、と囁いて、落ち着いてから、その他の事と同じように、俺にクリスマス・ケーキのことや、サンタクロースのこと教えてくれた。
なめらかに均されたクリームと、意匠を凝らした飾り付けと、真っ赤な苺。冷やされたショーケースの中に並ぶ、お菓子という食べ物。どこかの家の姉弟と勘違いした店員が試食としてくれた、ケーキの切れ端をねえさんに倣って指で摘んだときには、その柔らかさに驚いた。しかも、表面の白い部分は傷へ塗り籠む軟膏みたいに指にくっつく。口に入れるとよく分からない味がした。あれ、食べ物なの? と後でねえさんに聞いたら大笑いされた。切れ切れの声のあいだ、そうだよ、と、ねえさんは言いながら、まだ笑っていた。
---
おやつのシーンで。脱線しそうだったのでカット
伸びる影、並んだ同じ顔。背丈も髪型も服装もちがう、顔だけが全く同じものたちが、整然と列をつくり足並みを揃えて行進する。行軍は野を越え海を越え。前に続き、横を揃えること、それだけを約束事に、整列した全体はひとかけの余剰も不足もない。先頭の見えない長蛇の列の、どこかでつぶやく声がする。僕らはどこへ行くのだろう。詠うように互い違い囁き交わしながら、それでも先の見えない夜を、谷を、砂丘を。先頭がどこにいるのかも分からないまま、続く。続く。足跡の残る意味も知らず、影の伸びるわけも知らず。道のない大地を続いて渡る。彼らはどこかへ向かっていただろうか。きっと向かっていたのだろう。辿り着く場所など無かったとしても、彼らは何処かへ向かっていた。ひとりの娘が逃げだした。息も凍る雪原、かじかむ手でもうひとりの手を引きながら。列から外れ、吹雪の中へ、足跡のないまっさらな大地に踏み出した。無数の足跡、無数の影から逃げるように、どこまでも走り続けて、じぶんともうひとりの足跡しか見えなくなるまで、逃げて、逃げて、逃げて。娘はやがて立ち止まると、後ろを振り返り、じぶんたちの足跡を焼き付けるように睨みつけ再び歩き出す。真新しく輝く雪の上を踏みしめて。新しい足跡を残しては、幻の彼方を見据えて。
---
場違いでした
夏のあいだずっと、瑞々しい肉厚の葉を余す所なく茂らせていた樹々が、落ち着きを取り戻しはじめた。健康的にまるまると太っていた鮮やかな緑色の葉っぱは痩せて、秋晴れの空の下、シロガネ山のからっ風に吹かれてうるさいくらいにざわめいている。名前も知らない大樹の枝の分かれ目のところでぼんやりしながら、ああもう秋か早いなと、そう思った。
実のところ、仮面の男が死んで以来、シルバーの記憶はあまり残っていない。ひょっとしたら、夏なんて無かったのじゃないかと思うくらいに、思考も言葉もこころもとない。何かに怒る必要も、誰かを慰める必要もなかったから、特にやることもなくて、ただ流れる時間を惰性でやり過ごした。もう怯えることもなければ、逃げることもない。仮面の男と巡る怨恨。訪れた結末は予想もつかないものだったけれど、予想していた結末とは何だったのだろうか。義姉は、自分は、いったいどんな終わりを望んでいたのだろう。仮面の男を湖の中心に誘導し、"はかいこうせん”と叫んだあのとき、自分はどういうつもりだったのだろう。自然に考えれば、殺そうとしていたのだろう。けれども、意志を同じくした義姉がそんな大それたことをするつもりであるとは思えなかったから、きっと違ったんだろうと思う。仮面の男は人間ではなかったから。何か恐ろしく謎めいたものが凝っていたから、霧を払うように、消そうとした。それだけだ。そんなことをぐるぐると考えていたら、夏が終わった。後は堂々巡りの思考の足跡が残るばかりだ。
『もうあんたは過去のことじゃなくて、この先のことを考えていいのよ』
仮面の男の死後、電話で話した義姉はそう言った。何がしたいとか、どういうふうに暮らしたいとか。考えた事もなくて答に窮した。ゆっくりでいいから考えてみて。と、姉としての穏やかでやさしい声音で告げられるままに頷いたものの、一向に分かりそうになかった。今までは復讐のため、害なすものがあれば倒そうと思ったし、邪魔をするものは排除しようと思った。自分から望んだことは義姉が笑っていることだけ。そう言えば悲しい顔をさせてしまうのが分かっていたから、口にはしなかったけれど。義姉はかれ自身の希望が叶うことを願っていることが分かってからは、なんだかそもそも無いものを出せと言われているような、八方ふさがりの気分で、なんとなく、義姉と話すのも気が重く。義姉を苦しめていた仮面の男が打ち倒された今となっては——しかも義姉には既に心を許した大人がいて、仲間がいて、守ったり、守られたりしているのだと思うと——トレーナーとして強くなる必要性も感じられず。見知った顔を見かけるのも億劫で、誰もいないトキワの森の深くからなるだけ出ないようにして過ごしていた。過ごし慣れたジョウトのウバメの森とは違って、新鮮で気晴らしになるだろうと思ったし、何よりもウバメの森は因縁が深すぎて、考えたくないことも考えさせられて疲れ果ててしまうだろうと思ったからだった。その目論みは概ね成功だった、と彼は思っている。何度か他の人間の気配を感じたこともあったが、気配を消すことには慣れていたので見つかることもなくやり過ごすことができていた。いちいち姿を隠すのが面倒なのでできるだけ樹上の座りのいいところで過ごすようにしている。怪訝な視線が纏わり付くのもうっとおしかったし、自分の存在を誰にも知られたくなかった。
このまま消えてもいい。ふとした瞬間に掠める想念。別段辛いわけではないけれど、退屈だった。どうせ親もいないし知り合いもいない。仮面の男には報いたし義姉にはもう他に味方がいるし、信頼できる大人もいる。手持ちのポケモン達だって、野生に帰れば仲間がいて、それなりに上手くやっていけるはずだ。他に何を望めというのだろう。希望も絶望も、あらゆる望みが消え失せてしまった。義姉を悲しませることなく、忘れられるように消えていくならそれもいい。
いままで義姉に嘘をついたり、隠し事をしたことはなかったけれど。この先のことなんて、なにもないよ。とは、流石に言えない。
何度目かも分からない思考に溜息ひとつでひと区切りがついたところで、着信。ポケットから電話を取り出す手つきの熟れようといったらない。……もしもし。風の音に紛れ込んでほとんど分からない自分の声。思った通り、義姉の声だった。大丈夫なの、ちゃんとやってる。心配して定期的に電話をかけてくる彼女と、約束したように決まりきった問答をして。意味のないことは分かってるし、多分義姉も分かっている。それでも義姉はかけなくてはならなくて、それに多分シルバーのほうも、応えなくてはならないのだろう、と思う。おまじないのようなものだ。
短い通話を終えた後に、ふと見ると、携帯電話の電池残量が残り少ない。ポケモンセンターに行って充電しないと。そう思いはしたもののあまり乗り気にはなれない自分を自覚していた。身体を伸ばして欠伸をひとつして、シルバーは億劫そうに、枝葉越しの空をぼうっと見上げるのだった。
*
結局、携帯の電池が切れた後も暫く、シルバーは充電という仕事を放ったらかしにしていて、ようやく重い腰を上げたのは、義姉からの定期連絡の前日だった。もしもたまたま義姉が電話をかけていたならば、充電をすっかり忘れていたと言おう……、と柄でもない悪知恵を働かせ、延ばし延ばしにしてしまっていたが、いい加減行かなくては、とついに腹をくくる。普段はニビシティのポケモンセンターを利用するのだったが、何を思ったか、たまには別の所に行こうかという気まぐれが頭をもたげた。タウンマップを思い浮かべ、久々にジョウト地方へ戻ってみようかという気になり、深く考えることなく、ここから一番近いワカバタウンに決め、ヤミカラスに捕まってかれは飛びたった。
いくら小型なヤミカラスとはいえ、人通りのあるところに直接降り立つのは危険だ。大抵のトレーナーは、目的地よりも少し外れた人の少ない所に降り、そこから歩くのだったが、シルバーがよく使うのは市街地にもぽつぽつと見える樹の上に降り立つ手だった。電信柱という選択肢もあるが、人に見られると何かと騒がれるので、公園や、道に張り出した樹の枝に捕まると同時にヤミカラスを戻し、着地点に誰もいないことを確認してからコンクリートの上に飛び降りる。その日も横着して、シルバーは市街地の一角にぽつんと植えられていた樹を伝って着地し、ポケモンセンターのある商店街に脚を踏み入れた。
携帯電話もないから今が何時か分からないが、ちらほらと開いている店が見られる辺り、たぶん九時前ではあるのだろうと、全く意味のないアタリをつけてみて、馬鹿らしいと自嘲した。くだらない暇つぶしだ。飲食店が己の存在を主張する光の影に身を委ね、通りの端を目立たないように歩いていたところで、不意のざわめきにちらと視線をやる。色の曇った電球がいくつも括り付けられた屋台に、妙に人が集まっているのが見えた。その人と人との間に、得意げに何やら嘯いている見知った顔を見つけた。
……ああ、そういえば……ワカバタウンのゴールドとか、聞いたような気がする。
あいつの出身ここだったのか、と今更ながらに思った。顔を見たのは一瞬だったが、相変わらずの能天気な表情にすこし呆れつつも通り過ぎる。
ポケモンセンターの前にフレンドリィ・ショップを見つけて、シルバーは咄嗟に携帯電話のバッテリーを買うことを思いついた。トキワの森は夏の間も食料が豊富だったので、以前、きずぐすりやボールを買うために稼いでいた路銀はかなりの額が余っていることを思い出したのだ——が、やはり止めた。五秒ほどの逡巡の後に再び歩き出そうと前を向くと、先ほど見かけたしまりのない顔の持ち主が、目の前に突っ立っていた。
「ひどい格好じゃねーか」
開口一番。揶揄うような口調でにやにやしている目の前の少年に、シルバーは眉をしかめた。鬱陶しい、というか何故声をかける。今は誰とも話したくないというのに。瞬間的に頭に血が昇り、奥が軋んだ。彼は無視を決め込んでその横を通り過ぎようとしたが、ゴールドも道を塞ぐように移動してくる。露骨に不快をあらわにしているシルバーの表情にも気付かないふりをして、全く楽しそうに彼はにやついている。
「坊ちゃん、急に走り出したりして——おっとその子は知り合いかい……ぼろぼろじゃないか!」
先ほどの屋台の見物客の一人であろう中年男性が声を上げる。それを筆頭に、屋台の人だかりがそのまま移動するように、ひとり、ひとりと人が寄って集って、口々に何かを話し出す。シルバーは苛々する気力も失せた体で、嫌がらせのように燻る頭痛に閉口しつつ、ぼんやりと横目でそれを窺っていた。何を話しているのか分からないし、分かりたくもない。殆ど諦めに近い気分で沈黙を保っていると、何やらいつの間にか大人達とやりとりをしていたゴールドが、目の覚めるようなことを言い出した。
「……それには及ばねえよ、俺のウチ泊めるからさ」
「ううん、でもねえ、親御さんが心配しているんじゃないかしら?」
困り顔をしたのはスーパーの袋を持ったスーツ姿の女性だった。
「だいじょぶっス! こいつ俺のダチなんで、俺ん家から連絡しますから」
何を勝手なことを、と怒りを爆発させても良かったところだが、シルバーは成り行きに任せることにした。今騒げば厄介なことになる可能性も多いにありうるが、ゴールドと二人になった後ならどうとでも出来る——というのもまあ、あるが、それは建前で、おとなしくしていた一番の理由は、何をするのも面倒くさく感じていたからだった。すっかりうんざりして、もうどうにでもなれと投げやりな気分になって目を逸らした先のショーウィンドウに映った自分の姿が、酷く窶れていたのに驚いた。
それからどうなったのか、よく憶えていないし、興味もなかった。気付けばゴールドの後について、満天の星空の下、畑や丘を突っ切って伸びる長い一本道を歩いていた。我に返ったその瞬間にはたと足が止まる。ゴールドが振り返った。
「どうしたんだよ?」
いきなり立ち止まったりして、と。暗がりの中で浮かび上がるゴールドの顔の輪郭は青白く、どこか冷淡そうに見える。そのとき、いったい何を言うつもりだったのか、自分でさえ分からなくなってしまって、シルバーは唇を僅かに開いたきり沈黙した。先ほどまでは確かに、無遠慮なこの男に苛立って、かかわり合いになることを避けようとしていたのに。
——ここでこいつと別れたところで、それに何の意味がある?
突然、脳裏に響いた内面の声に、シルバーは開きかけた口が閉じて行くのが分かった。またしても気力が萎えたことを感じ、シルバーは力なく視線を足元に落とした。
なんでもない。喉から出て来た声は虫の声と混じり合って、いまにも消えてしまいそうに思われた。
「ならいいけどよ」
ゴールドはふしぎそうに目を瞬いた後に、再び歩き出した。しかし、シルバーはその場から動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのか、じぶんでも分からなかったが。
オイ、と再度ゴールドが首だけで振り向く。頭の後ろで組んだ両腕の隙間から、素っ気ないくらいの温度の目つきが覗いた。
「ウチ、ちゃんと泊ってけよ」
問いかけではなくて確認の意味合いを多く含んだその声音は気を楽にしてくれた。ああ、と返事はしたつもりだったが、直後、返事をしたかどうか分からなくなってしまった。だが、どうでもいい。足は再び力を取り戻して、歩き出した。
雲もなく一面紺碧に染まった空の上では、星と月が眩しいくらいに煌めいて、地上を青白く照らし出す。遠くの色褪せた丘は、起毛のような表面が青く照らされて、いっそう具合の悪いように見えた。畑や樹々や背の高い草の中からは絶え間なく虫の声が聞こえ続けている。ふとした瞬間に吸い込んだ夜気が生温かい肉や内臓や血液を冷やすことに気付いた。深呼吸する。溜息が漏れる。少しずつ、けれど確かに濃厚になっていく夜の気配に、自分が混ざり込んでいくような気がした。
けれどうつろのままでも顔を上げれば、頭の後ろで組んだ手が揺れている。歩くリズムに合わせて。そこでようやくシルバーは、自分がやっとのことで歩いているのだ、ということを知った。自分の目の前で腕が揺れているから、それで何とか足を動かしているだけなんだ、と。
*
「ただいま母さん」
シルバーは大体のところぼんやりしている状態だったので、ゴールドの後について足を踏み入れた家がポケモンセンターやショップよりも大きかったことにも、大した驚きも覚えなかった。しかし、家の扉を開けた後にゴールドが口にしたその言葉に、僅かに顔を上げた。驚いたのだろうか、と自問してみてもその理由はわからなかった。耳慣れない言葉であることは確かだったが、覚えはあるような気がした。昔、義姉が教えてくれた沢山の言葉のうちに入っていたのかもしれない。
「おかえりゴールド」
フローリングの廊下の向こうから、ひょっこり顔を出した女性が目を丸くしたのがわかった。彼女は落ち着いた様子で玄関前まで歩いて来ると、シルバーを見て、びっくりしたように瞬きをする。しかし間もなく、その驚いたような表情は柔和な微笑に変わって、感慨深そうにシルバーを眺めた。
「初めまして、ゴールドのお母さんです。あなたは誰?」
問われて、一瞬言葉が出なかった。シルバー、とあの蚊の鳴くような声が勝手に返事をした。
「ゴールドのお友達かしら?」
今度こそ言葉に詰まったシルバーに代わって、靴を脱ぎながらゴールドが応える。
「あー……そういうのじゃねえ、けど。ああでもそんなとこ?」
めずらしくしどろもどろで、いまいち要領を得ない回答だったが、ゴールドの母は心得たふうににっこり笑った。ごく自然な動作で軽くシルバーの服の土埃を落としながら、
「お風呂できてるわよ。二人で入っていらっしゃい」
「あ、うん」
そうする、とゴールドはどこかよそよそしそうに頷いた。シルバーのほうといえば、俺の意思は無視か、と思わないでもなかったが。
あれよあれよという間にゴールドと二人風呂場に押し込められて、気付けばシルバーは頭のてっぺんから足の先まで、すっかり面白がっているゴールドによって思いっきり洗われている。自分が不快に思ったときに水浴をするだけの生活の賜物か、髪はたっぷりと洗髪剤をつけてもなかなか泡立たなかった。一度、揉み込むように洗われてシャワーで流すと、僅かに茶色く染まったお湯が排水溝へ流れて行った。それからもう一度同じ事を繰り返されて、ようやく豊かな泡に包まれた赤い髪の毛を満足げに掻き回しながら、ゴールドは楽しそうに鼻歌を歌っていた。それから、ゴールドに渡されたタオルで一通り体を洗ったが、仕上げと称してしっかり洗い直されることになった。ようやく全身くまなく洗われ終わったころには、もうシルバーはくたくただった。それを見て屈託なく笑うゴールドには僅かなりとも殺意を覚えたが。
とっとと浸かれと言われるがままに足を入れた湯船は焼けるように熱かったが、文句を言うのも面倒だったのでそのまま入った。体が湯温に慣れるころには、彼は少しばかり微睡んでいた。そのとき図ったようなタイミングで、ゴールドが湯船から上がった。
「おめえもそろそろ出ろよ。溶けるぞ」
シルバーは返事こそしなかったが、小さく溜息をついて立ち上がった。久々にリラックスしたらしい身体は重く倦怠感に満ちており、血行が良くなったせいか、暫し忘れていた頭痛が蘇ってくるのを感じた。夏の間の自堕落な生活のツケがいまになってまわってきたのかもしれない。脱衣所への敷居をまたぐ際に僅かにぐらついて、ゴールドが反射的に身を乗り出した。
「……大丈夫か?」
踏みとどまったシルバーを覗き込みながら、神妙そうにゴールドが囁いた。シルバーが息をつきながら頷いたのを見ると、脱衣所に折り畳まれていたバスタオルを頭から被せてきた。石鹸のにおいが鼻について噎せそうになるところを堪えながら、やる気もろくに起こらないまま拭いていると、とうに自分の身体を拭き終わって下着まで身につけていたゴールドが呆れた様子で自分のバスタオルを手に、シルバーの雫の垂れている赤髪に取りかかった。含んだ水分を吸い取るような手つきが意外なほどやさしかった。
ゴールドの寝間着を借りて、次にシルバーが連れて行かれたのはキッチンだった。キッチンではゴールドの母親が鍋の前に立って何かを煮ているところで、ふたりが入って行くと同時に首だけで振り返る。
「丁度できたところよ。ゴールド、冷蔵庫にレモン水が入っているから準備してちょうだい」
「りょーかい、あ、お前はそこ、座ってろよ」
シルバーは指し示された椅子に視線をやってから、大人しく座った。母さんも水要る? というゴールドの声が耳に入り、反射的に視線を向ければ、ゴールドは水差しを持ったまま母親を見上げ、何かしら喋っていた。その光景に何もおかしなところは無い。何も知らなければ、ただ子供と大人が喋っているだけに過ぎないのに、あれが親子というものなのだと、シルバーは何となく感じとった。
間もなくしてゴールドが、大きなトレイに水と、料理の皿を二つずつ乗せて戻って来た。彼はシルバーの隣の椅子に座って、それぞれ食器を並べる。料理のほうは、底の深い皿に、何やら白っぽい、やわらかそうなものが収まっていた。それをぼんやりと眺めていたシルバーに、ゴールドが笑いながら教える。
「ミルク粥だよ」
ミルクがゆ。聞こえないほどの小さな声で反芻したシルバーに、彼はスプーンをひらひらさせながら続ける。
「いーから食ってみろって。旨いからさ」
ゴールドは言うが早いか早速一匙、自分の口に運んだ。シルバーは正直なところ空腹を感じていなかったし、目の前の白い食べ物にも食欲をそそられなかったが、ともあれ口をつけた。微かな塩味のあとに、甘みがじんわりと染みてくる。粥は本当にささやかな量だったが、シルバーはそのことに気付かなかったし、気に留めようとも思っていなかった。大きめのスプーンに、山盛り五杯分程度をのろのろと食べ終えると、胃の中はあたたまって十分に重くなった気がした。
「おかわりいる?」
ゴールドの母親がテーブルの傍まで近付いてきて言う。首を傾げたシルバーに、ゴールドがまたしても助け舟を出した。
「もう一杯いるかってことだよ」
胃の中はもう十二分だったし、それに気持ちにしてもこれ以上食べるのは億劫で、シルバーは首を横に振った。ゴールドの母親は気分を害したふうもなく頷いて、二人の前から空っぽの食器をトレイに乗せて取り上げた。
「母さん、こいつの寝る部屋は?」
ゴールドの問いかけに、彼の母親は振り向いて応えた。
「二階の書斎の隣の部屋よ、案内してあげて」
「わかった。今日はもう疲れたし、俺も寝るよ」
「そう。おやすみなさい、二人とも」
「おやすみ、母さん」
階段も廊下も、今は足元を照らす程度の橙色の明かりがぽつりぽつり灯っているだけだった。階段を上がった後、ゴールドはシルバーを廊下の突き当たりの扉の前まで案内した。彼が扉を開けると、まるで宿泊施設の一室のように、ベッドと、こじんまりとした棚がいくつか備え付けられた部屋が目に入った。お客が来たときに泊める用の部屋だ、と聞いてもいないのにゴールドが説明する。返事をするでもなく、シルバーがぼんやりして突っ立っていると、とつぜん、名前を呼ばれた。
「シルバー」
誰に呼ばれたかはすぐに分かった。ここには自分と、ゴールドしかいないのだ。シルバーが目線だけを向けると、ゴールドはまじめな顔をしていた。どこかしら調子づいたところのある表情が常の彼にしては、珍しい表情だった。名前を呼んでおきながら、おそらくずいぶん長い間、ゴールドは表情を変えないまま沈黙していた。暗がりの中で頬に差す橙色の微かな揺らめきのほか、動かない表情を、シルバーはどこかぼうっとした、しかしそれ以上に冷めた気分で、ひややかに眺めていた。
「おやすみ」
不意に、速くもなく遅くもなく、抑揚のない、はっきりとした発音で言うと、ゴールドは返事も待たずに踵を返した。シルバーは暫くその背中を見送っていたが、やがて背を向けて、充てがわれた部屋に入り、しずかに扉を閉めた。
*
翌日にシルバーが目覚めたとき、時計の針は早朝の四時半過ぎを指していた。おそらくは睡眠不足のために、瞼は重たく、瞼を閉じたくなるような痛みがあった。
眠りは浅かった。身体は確かに疲労を感じていたのに、閉め切られた部屋のにおいや、滞留する空気や、背中に感じるベッドのスプリングや、やわらかい羽根布団や、その他のあらゆるものはどれも慣れるということがなく、シルバーは落ち着かなさを感じていた。特に参ったのが寝床の柔らかさで、ちゃんとした布団で寝るよりも、野宿の回数のほうが遥かに多い彼にとっては、どうにも身体のすわりが悪いように感じられて、ひっきりなしに寝返りを打つことになった。とうとう堪えきれなくなって、掛け布団を引き摺り下ろし、カーペットの上で身体を包むと、ようやく幾ばくかの睡眠を得ることができた。うんざりした様子で溜息をつくと、彼は再び布団の中に潜り込み、目を閉じた。それで眠れると思ったわけではないが、横になっているだけでも随分違うということを知っていた。
いくらトレーニングを怠っていたといえど、森で過ごしていただけあって体力に関しては今でも十二分に備わっていたし、生来気力の強いところもあって、シルバーは六時に布団から出た。外の空気が吸いたい、と思ったのだった。外を歩いたら、少しは気分もよくなるだろうか。実際のところ、大して期待はしていなかったのだが。扉を開け、ほの暗い朝の光に青く影の差した廊下を歩き、階段に差し掛かったところで、ふと、こほり、と奇妙な音がしたと同時に、嗅ぎ慣れない香りが鼻先を掠めた。そのときに何を思ったのか自分でもわからないまま、操られるように、シルバーは音のするほうへと足を向けていた。
香りは、キッチンから。誘われるがままに足を踏み入れると、早くもエプロンを身につけたゴールドの母親がダイニング・テーブルに座っていた。テーブルの上には、シルバーが初めて見る器具が置かれている。砂時計のような形状の硝子の容器のようだが、金属スタンドによって宙に硝子部分は固定されている。そのために卓と硝子の間にできた隙間には、アルコール・ランプが設置されて、下から硝子の容器を熱しており、僅かばかりの水が砂時計の下部分に当たる容器の中で絶え間なく跳ねていた。一方、砂時計の上半分にあたる部分は、蓋のない硝子の器となっており、その中で黒い液体が泡立っていた。ゴールドの母親は、細長いへらでその液体を軽くかき混ぜたところで、シルバーに気がついて顔を上げた。
「おはよう、シルバー君。早いのね」
曖昧に頷きながらも、シルバーはその器具が妙に気になっていた。ゴールドの母親は目敏く気付いて、にっこり微笑む。こっちに来て、よく見てみたらいいわ、と見透かしたように言われ、シルバーはテーブルの前まで歩を進めた。表面をきめ細やかな茶色の泡で覆われた黒い液体は、ぶつぶつと音を立てながら沸騰している。香ばしいような、それでいて華やかにも感じられる、独特の香りが付近に広がっている。
「コーヒー・サイフォンっていうのよ」
言うと同時に、ゴールドの母親はアルコール・ランプの発火部分にキャップを被せ、火を消し、もう一度へらで液体をぐるりとかき混ぜた。その後、黒い液体は容器の上部と下部をつなぐ管を通って、下部分の容器に落ち始めたのを見て、シルバーは目を瞬く。
カフェオレにしましょうか、とゴールドの母親は言って、ミルクを火にかけた。既に湯を入れられて温めていたらしいカップの横に、もう一つ追加でカップが並び、そちらも同じように湯が注がれた。陶器のカップが温まるのに、そう時間はかからない。サイフォンの上部分を外し、スタンドつきのコーヒーサーバーのようになった下部分を二つのカップに半分ずつ注ぎ、メープル・シロップを垂らしてかき混ぜる。そのころには急ぎ火にかけられたミルクは既に湯気が立っていて、続けてカップに注がれた。
---
1回目の挑戦。なんか違う違うってなったもの
夏のあいだずっと、瑞々しい肉厚の葉を余す所なく茂らせていた樹々が、落ち着きを取り戻しはじめた。健康的にまるまると太っていた鮮やかな緑色の葉っぱは痩せて、秋晴れの空の下、シロガネ山のからっ風に吹かれてうるさいくらいにざわめいている。名前も知らない大樹の座りのいいところでぼんやりしながら、ふとした瞬間に、夏が終わっていたことに気付いた。頭の中で、今年の夏の始まりから終わりまでの記憶の断片を集めてみても、数えるほどしか見つからない。夏なんて無かったのじゃないかと思うくらい、まるで時間が抜け落ちてしまったような短い夏だった。
これから、秋が始まる。去年と同じように、少しずつ空気が冷えていって、樹々は枯れて、それからひっそりと冬が来る、そしてあちこちに緑の新芽が顔を出すころ、冷たい風を追い立てるように春が来て。来年も同じように時間を過ごすのだろう。いつかこんなふうに、平穏に時を過ごす日々が来ることを、ねえさんと約束のように言葉を交わしていたけれど、本当には分かっていなかったのだと気付いた。平らに均された日々の中をゆらゆらと漂うことがどういうことなのか。ねえさんと二人で不安に苛まれながら、隠れるようにして各地を転々としていた生活さえ、いまよりはましだった、と思う。
退屈というのでは、ない。ただ、生活を失ってしまった。辛くはない。真綿で首を絞められるように、すこしずつ気が遠くなってゆくだけだ。常に視界は霞み、意識は微睡んでいるようで、思考も言葉もこころもとない。感情が、ずいぶん遠くに行ってしまったのが分かる。
仮面の男が時の狭間に消えて以来、いろいろなことを思い出すようにしていた。仮面の男のもとで修行を積んでいたときのこと。逃げだしたときのこと。初めて盗みを働いたときのこと。思い出せるのは、冬にねえさんと握り合った手の冷たい温度や、ねえさんの歩みとともに繰り出される足の速さや、悪夢を見て抱き合った心細さと、涙の熱さと。最後まで辿り着いたら、また最初から。繰り返し考え続けなければ、いつか時間の靄の向こうに薄れて見えなくなってしまうような微かな不安があった。そんなことを考えていたら夏が終わり、憶えているのは、堂々巡りの思考の足跡だけ。
『もうあんたは過去のことじゃなくて、この先のことを考えていいのよ』
最後の記憶は、今年の春の終わり。穏やかな微笑とともに告げられたそのときに気付いた。自分にはねえさんしかいないのだと。そのひとは世界で、そのひとは全てだった。いつか別々の道を歩む日が来るかもしれないことを忘れていた。この先なんて、どんなに目を凝らしても見えない。道は途切れてしまった。一緒でなければ、どこに行けばいいのかも分からないんだ。
だけど、考えてみるよ、と微笑んだ。本当は考えるつもりなんてなかったし、考えたって無駄だって、分かっていた。言えば悲しい顔をさせてしまうのが分かっていたから、言わなかった。ねえさんを前にして、初めて言葉を隠した。驚くほど自然に嘘を吐けた。
こういうことは、既に何度も考えたことだ。いつも同じ、思考の道筋を辿る。結論も同じ。ぐるぐるぐるぐる。同じ場所をまわりつづけている。
携帯電話の着信で、思考が途切れた。ポケットから取り出して、通話ボタンを押す。もしもし。思った通り、おだやかなねえさんの声が聞こえてきた。
大丈夫なの、元気でやってる。うん、ねえさんは。あたしはそれなりよ、この間ね、タマムシデパートでかわいい靴を見つけて……。
いつもと変わらない、約束事のように決まりきった問答をして、笑って。意味のないことは分かっているし、たぶんねえさんも分かっていて、でも、しなければならないこと。おまじないみたいなものだった。通話を終えて、ふと見ると、携帯電話の電池が残り少ないことに気付いた。ポケモンセンターに行って充電しないといけない、と思ったけれど、あまり気が乗らなくて、再びポケットに仕舞い込み、身体を伸ばして欠伸をひとつして、枝葉越しの空を見上げた。
◇
ただ日々は流れていく、まるであの旅が無かったような顔をして。
シロガネ山の修行の後、図鑑のメンテナンスのためにウツギ研究所に呼ばれて、焼けつくような夏の日差しを浴びながら向かったその日。足を踏み入れた所内はエアコンでキンキンに冷えていて、火照った身体にちょうど良かったのを憶えている。たまたま入り口を通りかかった、やたら洒落たかっこうの研究員が案内してくれた先には、博士とクリスしかいなかった。
そのときの俺は、同じ図鑑所有者だから、そこに当たり前のようにクリスがいて、シルバーの奴もいるものと思っていて。ふと博士の机の上に、代わりのように図鑑とモンスターボールがぽつんと置いてあるのが目についた。表情に出ていたのかもしれない。クリスが、どことなく淋しそうな顔で呟いた。
『仮面の男との戦いの後、博士の机の上に置いてあったそうなの』
言葉は出なかった。下手に口を開けば、心にもないことばかり飛び出しそうで。そっか、と相槌を打つのがやっとだった。正直なところ、これほどの衝撃を受けるなんて、思っていなかった。初めから終わりまでどこか気に食わない奴だったから。共闘していたその瞬間さえも。同時に誰よりも多分、惹かれていたんだと気付いた。好きだとか、そういうのとは違う。気に食わないそのくせ、磁石みたいに抑えられない、どうしようもない感情だったんだ。
赤い髪も、銀の目も。怒りも、冷たさも、生意気も。それを目にしたときの自分の感情のうつろいも。否が応でも一瞬一瞬が鮮烈に焼き付いていて。今は跡形もなくなってしまったけれど、確かにあいつは、怒ったり、優しさを零したり、喋ったり、馬鹿にしたり。そのひとつひとつが、生きてるってことなんだ。俺の記憶はあいつが生きていたことを知っている。けれど、あれほどまでに追っていた背中も、もう見ることができないと、なぜかそう感じた。あいつの宿敵だった仮面の男との決着を俺が搔っ攫ってしまったことも謝ってない、後悔はしていないけれど。いまはただ、残された図鑑とモンスターボールだけが、あいつがいたということを寂しげに語るだけだ。
あいつはいま、どうしているだろう。どこにいて、何を考えているだろう。
けれど、旅に出る前と同じ日常に戻って、あちこちを遊び歩いているうちにだんだんと慣れて、あいつのことを思い出すことは少なくなっていって、あの旅が幻のように遠ざかっていくのを感じた。もしかしたら、忘れたいと思っていたのかもしれない。夏が終わる頃には、もう旅のことを考えたり、思い出したりすることは殆どなくなっていた。
その日は秋の祭りだった。俺は夜の八時頃になっても家に帰らず、提灯の連なる大通りの射的の屋台にいた。ろくすっぽ上手くいかなくて、ビリヤードのキューとモンスターボールで挑戦すると言ったら、屋台の親父は面白がって、やれるものならやってみろ、と笑った。親父から空のモンスターボールを渡されたから、エーたろうを使ってイカサマもできなかったけれど、一つ落とした。それで見物人が集まって来て、いい気分に浸っていたときのことだった。
屯した人々の間から覗く、通りの端。提灯の光の影に身を窶すようにして、ひっそりと歩いている人影が目に入った。足音も気配もなく、見えない線が引かれているかのような、祭りの賑わいの向こう。あいつが——シルバーが、いた。すれ違う人々さえ気付いていない。どうして俺が気付くことができたのか、不思議だった。でも一目であいつだと分かったんだ。
「ちょっと失礼しますよっと」
だから、まだ途中だった射的を放り出して、人の間を抜けて。ちょうどフレンドリイ・ショップの前で少し考える素振りを見せたシルバーに忍び寄った。気付いた様子が少しもないことを怪訝に思いながら。数秒の後、考え直したのか店の前を通り過ぎようとしたあいつは、僅かに目を見開いた。
ショップの電灯の下、正面から見たその姿は酷い格好だった。よく見ればあちこちに土塊がついているし、服はくたくたで、髪は伸びっぱなし、顔色も良くないようだし、それに少し痩せたみたいだった。誰かに酷くやられたわけでもなく、ただ、疲れ切っているように見えた。
「ひどい格好じゃねーか」
反射的にわき起こったのは哀れみで。咄嗟に打ち消そうとした挙げ句に、皮肉のような言葉とともに口角が上がるのを自覚する。それでも腫れ物にさわるような態度を取らなくて良かった、と心から安堵した。シルバーが表情一つ変えず、無言で俺の横を通り過ぎようとしたのを塞ぐ。とげとげしい目つきが俺を睨んだ。
坊ちゃん、急に走り出したりして——おっとその子は知り合いかい……ぼろぼろじゃないか! 屋台の親父が駆け寄ってくると、見物客たちもつぎつぎに集まってきた。いったいどうしたんだい。家出でもしたの。拒むように顔を背けたシルバーに代わって、俺は心配ないと答えた。けれど彼らは不安そうな顔をして、警察に届けたほうがいいんじゃないか、と誰かが言った。
「それには及ばねえよ、俺のウチ泊めるからさ」
慌てて反駁する。けれども、人の好い住民がそう簡単に納得するはずもなくて。帰りがけに祭りに寄ったらしい、スーツ姿の女性が困ったように眉を下げる。ううん、でもねえ、親御さんが心配しているんじゃないかしら。
「だいじょぶっス! こいつ俺のダチなんで、俺ん家から連絡しますから」
言ってから、シルバーが否定するんじゃないかと気付いて、ちらと様子を見たけれど、奴は相変わらず顔を背けたまま、何も言わなかった。
◇
義姉からそろそろ定期連絡が来るだろう頃になると、流石に重い腰を上げる気にもなって、夜を待って近場のポケモンセンターへ向かうことにした。シロガネ山の麓からは、ニビかワカバか。いつもは近場のニビシティを利用していたが、なぜかその日は、ワカバタウンまで行ってみようかという気になった。
陽の落ちた夜が、いくらか楽だということに気付いたのは、最近になってからのことだ。以前は、白昼に行動することも厭わなかったし、なんとも思わなかった。理由はわからない。ただ、人の視線に晒されることが不愉快だというだけだ。
ワカバタウンは祭りの最中だった。大通りには明かりが連なり、屋台が賑わっている。裏道を行こうかとも一瞬迷ったが、急に面倒になって止めた。祭りの高揚の影に身を潜めた。
ふと、通りの反対側から歓声が聞こえ、反射的に横目で見やると、ひとつの屋台のまわりに人だかりができていた。興味はない。そのまま再び視線を前に向けようとした矢先、人と人とのあいだに見知った顔が覗いた。ゴールド。何やら有頂天で嘯いている、遠目からでも手に取るように分かった。
あいつの出身、ここだったのか。そういえばワカバタウンのゴールド、とか何とか、聞いた覚えがあるような気がする。
そのまま通り過ぎて、フレンドリイ・ショップの目に痛い明かりに立ち止まり、携帯のバッテリーを買おうかと一瞬迷ったが、面倒になった止めた。そして正面を向くと、得意げでそのくせ、どこか皮肉げな顔があった。
それから、あいつを筆頭に人々に取り囲まれて。そのあとどうなったのか、よく憶えていないし、興味もなかった。
気付けば満天の星空の下、畑や丘を突っ切って伸びる長い一本道を歩いていた。我に返ったその瞬間にはたと足が止まる。俺は、どこに行こうとしているのだろう。
「どうしたんだよ?」
自分以外の声に驚いて、咄嗟に顔を上げる。
ゴールドが振り返っていた。いきなり立ち止まったりして、とその口が言う。暗がりの中で浮かび上がるゴールドの顔の輪郭は青白く、どこか冷淡そうに見える。そういえばこいつに付いてここまで来たんだと、今初めて思い出した。
そのとき、いったい何を言うつもりだったのか、自分でさえ分からなくなってしまって、唇を半端に開いたきり沈黙した。先ほどまでは確かに、無遠慮なこの男に苛立って、かかわり合いになることを避けようとしていたのに。だが、ここでこいつと別れたところで、何の意味があるっていうんだ。答えるように脳裏に響いた内面の声に、開きかけた口が閉じて行くのが分かった。またしても気力が萎えたことを感じ、力が抜けて、視線を足元に落とした。
言葉なんてないんだ。伝える言葉なんて、ひとつもない。
なんでもない。喉から出て来た声は虫の声と草原の揺れる音に紛れて、いまにも消えてしまいそうに思われた。
「ならいいけどよ」
ゴールドはふしぎそうに目を瞬いた後に、再び歩き出した。だが、俺はその場から動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのか、じぶんでも分からなかったが。
オイ、と再度ゴールドが首だけで振り向く。頭の後ろで組んだ両腕の隙間から、素っ気ないくらいの温度を伴った目つきが覗いた。
「ウチ、ちゃんと泊ってけよ」
問いかけではなくて確認の意味合いを多く含んだその声音は気を楽にしてくれた。ああ、と返事はしたつもりだったが、直後、返事をしたかどうか分からなくなってしまった。だが、どうでもいい。足は再び力を取り戻して、歩き出した。
雲もなく一面紺碧に染まった空の上では、星と月が眩しいくらいに煌めいて、地上を青白く照らし出す。遠くの色褪せた丘は、びろうどのような表面が青く照らされて、いっそう具合の悪いように見えた。涼しい風が草原を撫でて、畑や樹々や背の高い草の中からは絶え間なく虫の声が聞こえ続けている。ふとした瞬間に吸い込んだ夜気が生温かい肉や内臓や血液を冷やす。深く息を吸って、吐く。少しずつ、けれど確かに濃厚になっていく夜の気配に、溶けていくような気がした。
けれどうつろのままでも顔を上げれば、頭の後ろで手を組んだ腕が揺れている。歩くリズムに合わせて。そこでようやく、自分がやっとのことで歩いているのだ、ということを知った。ただ目の前で腕が揺れているから、それで何とか足を動かしているだけなんだ、と。
どうして、連れて帰ろうと思ったんだろう。どうして、あいつは大人しくついてきたんだろう。ただ、温度を失くした無表情が、残滓のように香る冷淡さが、神経質で攻撃的な目の色が。俺には、なぜだかひどく淋しがっているように見えた。こどもみたいに一途な淋しさが、あいつを殺すんだ。
幽霊みたいに、ただ彷徨っているだけだ。居場所をなくして、途方に暮れても、どこかへは行かないと生きてはいけないから。
家に連れて帰って、すぐに風呂に入れた。意外と無精のようで億劫がるあいつを風呂場に追い立てた。風呂の習慣のないあいつのこと、どうせ洗うのも程々になるのは目に見えていたから、俺も一緒に入って頭のてっぺんから足の先まで徹底的に洗ってやった。ただ、目につくかすり傷については、流石に手加減してやったけど。
「お前さ、今までどこにいたんだよ」
頭を洗いながら、押し込まれた湯の中でぼんやりしているだろう、あいつに声をかけた。なにか喋らないと、いけないような気がした。どうせ、お前には関係ない的な返事が帰ってくるんだろうけど、それでも、喋らないよりかはましだ。けど、予想に反してシルバーは案外あっさりと答えた。
「……シロガネ山の麓の森だ」
「へえ、案外近くにいたんじゃねえか。……修行?」
そんなところだ、とシルバーは答えて、これ以上の詮索を許すまいとするように、口を噤んだ。シャワーで泡を流しながら、ほんの二言三言とはいえ、こいつが自分のことを素直に話すなんてめずらしい、と思っていた矢先、唐突に、ざばりという水音に、目線を横に。湯の流れる髪の向こうで、あいつが浴槽のふちに手をかけたまま、半端に立ち上がろうとした姿勢で、俯いていた。
「シルバー?」
シャワーヘッドを降ろして、反射的に口をついて出た、けど、返事は無かった。泡を流し終えて顔を向けると、あいつは未だに下を向いたまま動かない。
「のぼせたのか?」
また、返事はない。急に不安になった。話すことが、できなくなったんじゃないかと、そう思った。あいつの中から話すことが、他愛のないこともくだらないことでも、喋るということが無くなってしまったんじゃないかって。自分でも、馬鹿げてるとは思ってたさ。でも、喋るってことはそれだけ大事なことなんだ。
ふ、と顔を上げたあいつが、一瞬目を丸くしたのが分かった。純粋な子供みたいな顔だった。だけどすぐにいつも通りの、平静な表情に戻った。
「……少し、眩暈がしただけだ」
あいつはそう答えたけど、まだ少し怖かった。母さんを呼んで、のぼせたあいつを任せるまで、どうにも落ち着かない、不安な気分にさせられた。
◇
気付けば、ゴールドの家の玄関をくぐっていて、気付けば、面倒臭いと訴えた矢先に体中余す所なく洗われて、熱い風呂に沈んでいる。森の中で無精に過ごしていたせいで、石鹸がところどころのかすり傷に沁みた。湯気の立つ浴槽に入れられれば、夏の間の水浴に慣れた身体は、体温よりも高い水温にびくついている。
洗い場で自分の身体を洗っているゴールドの横顔に問い質す気力はなくても、自分の中で何度も問いかけた。いったいどういうつもりなんだ。俺も、あいつも。
「お前さ、今までどこにいたんだよ」
湯温に慣れ始めてぼうっとしてきたころ、唐突な質問に横目で窺えば、ゴールドは目を瞑って泡立った頭を洗っていた。
「……シロガネ山の麓の森だ」
嘘だ。言葉が滑り出すのを、他人事のように眺めながら、反射的にそう思った。
「へえ、案外近くにいたんじゃねえか。……修行?」
本当は、シロガネ山の麓になんていなかった。俺はどこにもいなかった。そのことは俺が一番分かっていたはずなのに。
次の瞬間唐突に、今まで気にもしていなかった、乳白色の湯の甘い香りが急に鼻について噎せそうになった。真水よりもやわらかな感触が、どろりと肌に纏わり付いているような気がして、嫌悪感をかき立てられる。匂い立つ石鹸。身体を浸食する熱。暴き出すような蛍光灯の光。ちかちかする一瞬の眩暈のむこうに、あいつが、ゴールドがいる。その事実に、打ちのめされた気がした。
正体の分からない衝動に突き動かされて立ち上がろうとしたが、それも半ばにぐらりと身体が揺れる。平衡感覚が狂ったのか。咄嗟に浴槽のふちに手をついて目の前が眩むのをやり過ごそうとする。
「シルバー?」
あいつの声がする。あいつの言葉が存在を切り抜く。あいつは全部知ってるんだ。言葉にしなくても、何も話さなくても。ぞっとしない冗談だ。あの戦いが終わったいま、あいつとの繋がりも、図鑑を持つトレーナーとしても、全ては終わったはずなのに。何故、まだ俺を呼ぶ声が聞こえるんだ。なんであいつはまだ、俺を呼ぶんだ。
「のぼせたのか?」
ゴールドの声が遠い。暗くなって、すぐさま明るくなる視界には、闇とゴールドが交互に映し出される。
ようやく落ち着いて深い溜め息をつくと、目の前のあいつは柄にもなく不安そうな表情をしていて、驚くよりも先に、不思議に思った。そのときにはもう、あの衝動は消えていた。こんなに怯えた顔のあいつを見るのは初めてで笑いたくなったが、流石にすこし哀れに思って、すこし眩暈がしただけだ、と言い添える。けれどあいつはまだそわそわして、母親を呼んだ。
湯に逆戻りしながら盗み見た表情は、少しだけ安堵が滲んでいるように見え、震える。その意味なんて分かりたくもない。吐き気がする。それを堪えながら大人しく湯に沈む。
本当に、いったいどういうつもりなんだ。俺も、こいつも。
風呂に浸かって気分を落ち着けてから、あがると、母さんが食事を用意してくれていた。あいつは陶器の器に盛られたまっしろな粥を、珍しいものを見るように眺めていた。その子供っぽい表情がおかしくて、込み上げてくる笑いを殺しながら教えた。それは、ミルク粥っていうんだよ。
「ミルクがゆ」
目が覚めたように反芻する言葉は思いのほかたどたどしく聞こえた。温度のない横顔は、声の調子は、変わらなかったけれど。ほんとうに大事なものを、自分の中に落とし込もうとしているような声だと思った。
量はとても少なかったけど、きっと丁度いい。今のあいつは、ミルク粥の重さにも耐えられず、内側から崩れてしまう。けど、そんなふうに見えているのはきっと俺だけで、街の人たちの目には、きっと家出した子供としか映らないってことも知ってるんだ。明るい蛍光灯の下では、思っていたより顔色は悪くなかったし、受け答えもしっかりしていたし、くたびれて汚れた服も、そんなに疲れ切った印象を感じさせなかった。
それでもあのとき、影に身を隠すようにして歩いていたあいつを見たときに、確かに感じたんだ、人を殺すような淋しさを。
俺は疲れていたし、それにたぶん、あいつも疲れているだろうと思ったから、母さんにおやすみを言った後、あいつを連れて二階へ上がる。足元を照らす程度の橙色の明かりがぽつりぽつり灯っているだけの階段をのぼり、廊下の突き当たりの客間まで案内した。扉を開けてみせると、あいつはぼんやりと突っ立って、冷めた目つきで、部屋を眺めた。交わす言葉もなかったのに、こんな表情は何度も目にしたはずだったのに、このときに限って、それが、諦めているように、あざ笑っているように、傷ついているように見えて、息を詰めた。
おもむろにあいつの瞼が降りて、橙色の光に浮かび上がる目元に睫毛の影を落とす。黄昏色の差した瞳、呼吸をする睫毛、やわらかな瞼。目の細められたその一瞬の間は、どれだけの感情、どれだけの言葉、どれだけの心であっただろう。
「シルバー」
何かを言おうと思ったわけじゃない。掛ける言葉が見つかったわけじゃない。ただ、呼ばずにはいられなかったんだ。
あいつは何も言わず、ぼうっとした、ひややかな眼差しを投げかけた。見透かされているみたいな、こっちがどぎまぎするような視線を。それでいて俺は、あいつの表情がいつもと何も変わらないことも分かってた。裸足のうらを冷やす夜長の廊下も、天幕のように降りる暗がりも、夕方どきのように宵闇のなかをさぐる灯も。何もかもがいつもどおりだったのに。影も音も、沈黙のうちに死んだように横たわって、瞬きをするたびに赤銅色の揺らぐ睫毛だけが生きている。その全てが意味を持っていた。ひとつひとつがあるべき場所にあった。
本当は、ちゃんと分かってたんだ、連れて帰ったところで、ここはあいつの居場所じゃないって。呼びかけられたあいつは言葉を待っている。なのに、突き刺すような、軽蔑するような眼差しに凍る喉奥で言葉が張り付く。冷めきった視線の意味を考えるほどに、乾いて、乾いて、声が、言葉が。
「おやすみ」
止まったように思った時間の向こうで、ようやくそれだけ言った。すぐさま顔まで迫り上がってきた羞恥心、恥ずかしいなんて言葉じゃ到底あらわせないような衝動に、返事も待たずに踵を返した。無我夢中で、自分を責めるように、あるいは言い聞かせるように、頭の中でおなじ言葉を繰り返していた。
こんな言葉を伝えたかったわけじゃない。こんなことをしたかったんじゃない。
見慣れた自分の部屋に戻って、落ち着かない身体を持て余してベッドに飛び込んだ。エーたろうが不思議そうに、ベッドの上に乗って、こっちを覗き込む気配がした。顔をあげて、やつと目を見合わせたら、すこし、落ち着いた気がした。そうだ、俺は。
何かをしてやりたい、わけじゃなかった。ただ、空にのぼって行く風船に手を伸ばすのと同じで、今にも影に霧散しようとするあいつの輪郭を、掴みかった。俺はおまえの形を憶えているんだと、声を上げたかった。なあ、でも、だけどさあ。
泣きたいくらいに、言葉が出てこないんだ。
◇
闇に浮かび上がって、不気味に光を反射する金色の瞳。動かなかった表情と、かたく引き結ばれた唇。見抜かれているようだった。思っていることや考えていること、そんな表面的なものではなく、ぜんたいをあらわすような、もっと大きなところを。ぎらぎらとした光の移ろう目の色は冷静で、それでいて燃えるようだった。冷たいかと思えば激しさを感じた。ひさしぶりに、自分の呼吸を自覚した。冷えた廊下の空気が鼻から喉を通って、肺をひそやかに圧迫するのが分かった。血管が脈打ち、心臓の拍動を感じた。目の瞬きの音を聞いた。
おまえはおれをどうしたいんだ。こんなところまで連れて来て。ここはお前の居場所であって、俺の居場所じゃない。今更になって、捨てられた猫を拾うような軽々しさを感じて、冷めた気分になった。
可哀想と思うなら、そんな猫、いっそ殺してやればいい。
意地の悪い、暴力的な気分になったところで、おやすみ、とゴールドが言った。聞き慣れない言葉に、一瞬戸惑った隙を突くように、あいつは踵を返した。言葉も交わさなかったし、あいつの考えることなんて分かりたくもない。なにがおやすみ、だ。あいつが全部知っていることも分かってるんだ。それでいて、あんな言葉を口にするのか、あいつは。
落ち着かない。いらいらした気分のまま部屋に引きこもる。密閉された部屋の中は、音ひとつなく、静寂に満たされていた。清潔なベッド、埃ひとつない小さな机、みずみずしい花の生けられた花瓶、微かに残る芳香剤の香り。それらは否応がなしに、俺を取り囲む状況を見せつける。身につけている清潔な寝間着はゴールドの物だ。あいつの物だ。俺の物じゃない。ただの借り物だ。洗剤の香るスウェットが肌を滑る感触にぞわりとした。
かっとなって、そのまま窓から出て行ってしまおうと、真っ直ぐに部屋を横切る。窓を開けて身を乗り出した先に、木の枝がある。自分のポケモンのことなんて、考えてもいなかった。ただここから出ていくことだけを考えていた。
ここから跳べば、体重を支えるだけの枝を掴むことができることは分かっていた。そのまま樹の幹を伝えば、ここから出て行くことができるということも分かっていた。
だが、手を窓枠にかけたまま、動けなかった。目の前に広がる一面の宵闇の中、幾十にも重なる黒い枝を見る。なまあたたかい夜風が吹きつける。夜行性のいきものの息遣いがすぐ近くに聞こえ、樹々のざわめきと一緒になって鼓膜を圧迫する。暗い水のなかにいるように息苦しい。外に広がる空間だけでは飽き足らないと言うように、黒い、どろりとした夜が、窓の縁を伝って流れ込んできたとき、気付けば窓を閉めていた。そしてようやく、自分が息を止めていたことに気がついた。
ここから出て行ったところで、どこに行けばいい。紺碧の満ちるどこに、俺が落ち着ける場所がある。どうせならば浸食されきってしまえば、あの樹々に、いきものたちに、朝と夜に、光に、同化してしまえばよかったのに。
『ひどい格好じゃねーか』
そう言って、あいつが俺を切り抜くから。
無邪気なことこのうえないのが腹立たしい。絨毯の上に座り込んで呼吸を繰り返す。結局のところ、ここに留まるしかない。それしかない。光を反射する眼差しに照らし出されるくらいなら、いっそのこと逃げだしてしまえばよかった。だがもう遅い、もう遅すぎる。
一度自分の影を見てしまったら、気付いてしまったら。後はみっともなくしがみついて、すがりつくしかできないんだ。
---
2回目の挑戦。やっぱり何か違う
(2015/05/11)