darling
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□ リクエスト「シルブル」
 トキワの東に位置するシロガネ山——前人未踏と名高い未開地、ポケモントレーナー達のために整備された道路や洞窟とは比べ物にならないほど、屈強な野生ポケモンの生息するこの山は登ることはおろか、その周囲にさえ人を寄せ付けまいとするかのような、深い樹海が広がっている。
 この山に好き好んで足を踏み入れようとする人間が殆ど居なくなった今でも、かつて数々のトレーナー達が果敢に挑んだ名残として、麓の樹海にはいくつかの休憩所が残っていた。未だに細々と運用されているものもあれば、すっかり忘れ去られて今にも朽ち果てようというのもある。そうして忘れかけられていた休憩所のうちのひとつが、最近のシルバーのもっとも上等な住処となっている。今や彼は、一日のほとんどをその小屋に籠って過ごしていた。
 彼がのめりこんでいた特撮番組、タウリナーΩの放送が終了したのはほんの二月前のことである。彼は友人ゴールドの屋敷にて、ポケモン達とともにテレビを見守りながら、厳かに最終回を迎えた。そしてその日のうちに、彼は長らく世話になっていた友人と屋敷を預かる母親に礼を言ってその場所を後にし、先輩に当たるグリーンに以前より貸し出しを依頼していた五冊ほどの書物を受け取り、前々から目をつけていた、シロガネ山麓の休憩所のうちの一つに引きこもり、本を開いたのだった。それから彼がやることといえば、ひたすら読書に耽り、無くなったら新しい本を借りに行き、そしてまたこの小屋に戻ってくると、その繰り返しだった。
 この行動に関して、彼の真意を知るものは少ない。それはシルバー自身が話す機会に恵まれなかったというのもあるし、近しい友人たちが、差はあれどもシルバーのこのやりかた——目標を見定めたら、それに向かって具体的なプランを自分で考え、一つずつこなしていくことができる——を知っているというのもある。何かに向かって突き進んでいる間は、ある程度放っておいても心配するようなことは無いということだ。
 今日もシルバーは、密生する樹木に日差しを遮られた薄暗い小屋の中、ひたすら文字を追っていた。そのときに不意に、がちゃりと音を立てて扉が開いたので、彼は顔を上げてから、思わず唇を綻ばせた。ずいぶん長いこと表情の変化が無かったためか、自分でもどことなくぎこちないような気がしたが。
 揺れる長い髪。真っ白な毛皮のコートの下、ホルターネックの黒色のワンピースの裾がふわりと広がった。
「ねえさ」
「シルバー!!」
 呼んだ言葉を完全に遮られた上、ブルーはハイヒールと思えない軽やかさで駆け寄ってくると、本の中に埋まっているようなありさまのシルバー目がけて飛び込んで来た。
 本の山が崩れ落ちたのを目視するだけの余裕もないまま、シルバーは咄嗟に手を後ろについて、背中から倒れそうになるのを踏みとどまる。みっしりと毛の生えたコートのもさもさとした感触が口の中に入りそうになって思わず唇を閉じたところで、尚更ぎゅっと抱き締められて息苦しい。何とか呼吸をしようともがけば、香水と化粧の香り——口に出したことはないがシルバーの苦手な香り——が肺を圧迫する。
「ゴメンねシルバー、もっと早くに会いたかったんだけどあたしのほうもいろいろ忙しくて!!」
「待っ……ねえさ、苦しい」
「……あ、ごめん」
 我に返ったようにブルーは呟き、ぱっと弟分を解放した。シルバーは大きく呼吸をしなおして、濃厚に残る香水のかおりに咳き込んだ。
「調子はどう?」
 ブルーは崩れた本の一角から適当な一冊を拾い上げ、読む気もなさそうにページをめくりながら尋ねた。シルバーは先ほどまで読んでいた本に、栞代わりのはがき(出版社へご感想をお送りください、のあれ)を挟みながらうなずく。
「うん、順調だよ」
「あとね、これ、ゴールドからの預かりもの。たまには息抜きしろ、って」
 ブルーは小さな包みを洒落た鞄から取り出して弟分に渡した。シルバーがそれを開けてみると、中に入っていたのは電池式のラジカセ。
「……ここ、電波悪いんだけどな」
 ぽそりとシルバーがつぶやく。
「メインはこっちじゃないの」
 ブルーが黄色のマニキュアでコーティングされた爪先でボタンを押すと、ラジカセの一部がぱかりと開いた。そこには既にカセットが入れられて、シルバーがなにげなしにつまみ上げると、A面に貼られたシールにはあの友人の大好きなクルミちゃんの歌のタイトルがずらりと並んでいた。彼の屋敷に滞在中によく目にしたし耳にもしたので、シルバーもしっかり覚えていたのである。思わず、あいつ、と呟いてげんなりしそうになったが、掌の上のものをブルーがひっくり返し、目に入ってきたものに、シルバーは目をみはった。
「…………いい友達じゃない? A面がクルミちゃん、っていうのがあのこらしいけどね」
 B面には、タウリナーやらブロムヘキサーやらの主題歌や挿入歌、いくつかのBGMのタイトルがぎっしりと書かれていた。気のせいだろうか。あの友人にしては妙にぎこちない、几帳面な筆跡だと思ったのは。
「うん。……ねえさん」
 綻びかけた口元のままシルバーはゆっくりと呟いた。なあに? とブルーも微笑んで返す。そしてシルバーはお定まりの一言を口にするのだ。
「また、誰かを振ったの?」


 ここ三ヶ月ほど、ブルーは、よく男友達と遊んでいる。
 というのも、彼女自身が恋人を欲しいと思ったからだ。長らく少女じみた色恋沙汰が無かったのもある。ブルーはなかなかの容姿だったし、それに明るくて口も上手かったから、バトルをしたり、街を歩いているだけでもそこそこの出会いがあった。ナンパをするような軽い人もいれば、案外に誠実な人もいたのだが、問題はブルーのほうにあった。友達としてなら良い。だが、恋人として見ようとした途端、抗い難い嫌気がさしてしまうのだった。
「……二十一歳。大学生。中流家庭。容姿よし性格よし」
 再び本に目を落としはじめた弟分の横、指折り数えながら、ブルーは大きな溜息をつく。
「今度は大丈夫だと思ったんだけどなあ」
「そういうこと繰り返してると、へんな噂、流されるんじゃない」
「へんな噂?」
「男を弄んでるとか」
「ちょっと、どこでそういうの覚えてくるの」
 応えてシルバーが呟いたのは、半年程前に放送していたドラマのタイトルだった。ゴールドの屋敷で観ていたという。
「やだ、どんどん可愛くないこと覚えちゃうんだから」
 暗に非難してブルーは敷き毛布の上に転がった。真っ白な毛のコートを着たままだ。
「ちょっと」
 思わずシルバーは声に出していた。思いのほかとげとげしい声色になったが、ブルーは気にした様子も無く、毛布の上に転がったまま、きょとんとしてシルバーを窺っている。
「……何でも無い」
 言うはずじゃなかった。シルバーは後悔とともに視線をそらしたが、ブルーはそれを見てにやっと笑った。
「なあに? 言いなよ」
「何でもないよ」
「さっき言いかけたじゃん」
「忘れたんだ。思い出したら言う」
「嘘。あんた、こういうどうでもいい嘘つくの下手だよね」
 顔に出てると笑われて、シルバーはもうどうにでもなれという気持ちで頭を振って、吐き捨てた。
「毛布、使わないで」
 ブルーが意外に思うどころか笑みを深くして、「どうして?」等と聞いてくるのにシルバーは意地が悪いと訴えたくなる気持ちを抑えて、声を絞り出す。
「嫌い。その、香水とか、化粧とか……においが…………嫌いだ」
 多分、義姉に対して嫌いという言葉を向けたのは初めてだ。その事実がなんだかとても苦々しく、まるで自分で自分を傷つけているようで不快だった。引け目を感じて伏せていた視線をそろそろと上げ、シルバーがブルーを窺うと、彼女は意外にもとてもやさしい顔をしていた。
「……知らない人、みたいで?」
 なにかを促すように、ブルーはささやいた。
 シルバーは彼女の言ったことが、もやもやしていた自分の気持ちにぴったりと嵌ることに驚きを覚えながら、頷いた。するとブルーはにっこりして言った。
「じゃあ今度来るときは、香水も化粧もしないことにするね」
「……なんでうれしそうなの」
 楽しげに毛布から身体を離した彼女とは対照的に、一気に疲れた気分になってシルバーは呟く。ブルーは鞄を持ち、来たときの姿のまま外に出て行って、しばらくして、また戻ってきたときには、バッグは持っていなかったし、コートも羽織っていなかった。ホルターネックの黒いワンピース一枚の姿で、足にはストッキングもハイヒールもなかった。
 流石にぎょっとして、シルバーは書物から顔を上げたまま固まる。
「ねえさん」
「どう? まだにおうかな?」
「いや、大丈夫だけど。そうじゃなくて」
 よく見ると顔が首筋が濡れていて、近くの川で化粧を落としてきたらしいことが知れる。この樹海は決して暖かくないというのに、無茶をするものである。
「寒そうだよ」
「うん、でも、あのコート、におい取れなくてさ。煙草の臭いももすごいし。ストッキングも濡らしちゃって冷たくて。何か履いてないと、ハイヒール靴擦れしちゃうし、それにね」
「も、いいって」
 放っておけばいつまでも喋り続けそうなブルーを押しとどめて、シルバーは立ち上がり、先ほどの毛布を拾い上げると、その肩にかけた。あまり丁寧な手つきでなかったのは、多目にみてもらいたい。ブルーはしばらくきょとんとしていたが、定位置に戻った弟を見て、首をかしげる。
「いいの? 多分あたしまだ、におい全部とれてないと思うんだけど」
「うん。風邪ひくよ」
「ひかないわよ、これくらいで」
「前もそう言って、嘘だったじゃないか」
 ずっと小さな頃に、ブルーがそう言って小さな弟に毛布を譲ったときのことを蒸し返して、シルバーが言う。これで少しでもブルーが言葉に詰まりでもしてくれれば多少は胸もすくのだったが、ブルーはあくまで悪びれずに、「大きくなったんだから今はちがうわよ」と言ってのける。
「……資本主義の——これは経済学ね、……心理学、これも心理学? 生物、また経済……法律」
 ブルーは芋虫のように毛布を身体にまきつけながら、積み上げられた本のジャンルを順繰りに読み上げていく。
「あんたのパ……、サカキを相手にするなら確かにあったほうが良い知識だとは思うけど、ここに閉じこもってもう二月でしょ。気分転換とかしたほうがいいんじゃない」
「そうかな」
「棒読みで言うんだから」
「……ねえさんここ分かる?」
「どこ?」
 話している最中もずっと本に集中していたシルバーは、何気なく呟いた一言のあとに、突然視界の端に降りて来た髪の毛の一房に驚いた。続いて例の、きつい香料のにおいが鼻についた。
(整髪剤、落とし忘れてる)
 出来る限りその香料から意識を逸らそうとシルバーは文字の塊で視界を埋め尽くそうとしたが、どう頑張っても端にはちらちらと茶色い房が揺れて、むっとするような甘い香りは否応無く鼻孔に満ちて喉を圧迫する。においそのものというよりは、それに対する熾烈な感情が、集中を途切らせて心を乱す。得意とする工学系の分野だっただけに止めどないブルーの解説も、シルバーの頭には上手く入ってきてくれなかった。
「シールーバー」
 そんな弟分の心境を知ってか知らずか、ブルーは無邪気に、彼を背中から抱きすくめる。ちらとこちらを窺った彼の表情に、今まで見たことのなかった億劫そうな色を認めて彼女は楽しそうに微笑む。
「そんなにこのにおい、嫌い?」
 不意打ちで尋ねてみれば、抱き締めた身体がひくりと跳ねた。
「…………うん……」
「あたしはこういうのも嫌いじゃないんだけどなー」
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
 静かに呟いて、友人の屋敷に世話になっていたころに比べても無精になっているのだろう、ブルーはすこしぱさぱさした髪の毛を撫でるように梳いた。
 恋人探しを始めて暫く経つと、ブルーはシルバーから貰った服を着なくなった。そのかわりに、以前に比べればすこし派手な格好を好むようになっていた。
「そんなに嫌なら、止めさせてみたら」
「……?」
「あんたが、あたしをあんたのいいようにさせるのよ、分かる?」
 その言葉を、まるで理解できないという顔をして、ただまじまじと見詰めてくる義弟に、義姉はとけそうなほどやさしいまなざしを注いだ。

*
 東向きの窓辺に取り残された、からからに乾いた植物の葉の間から、黄金色の陽光が溢れている。誘われるように薄く窓を開いたら、冷えた明け方の外気が細く流れ込んで来た。
 トキワジムの一角にある物置部屋には大量の書物があった。現ジムリーダーであるグリーンが元ジムトレーナーに聞いたところによると、先代ジムリーダー——サカキが資料庫として使っていた場所ということだった。そこには一人で読むには膨大すぎる書物が貯蔵されていたが、地面タイプのジムだったこともあるだろう、チーク材の本棚はしっかりと壁に固定され、更に収納板は奥から手前にかけて僅かに上向きになっていて、ポケモンの”じしん”でも、本が落ちないように工夫されている。サカキ失踪ののち、この部屋も例外ではなく警察の調査が入り、本の一冊一冊に至って念入りに調べられたが、ごく普通の図書館と同じように、たまに文章にラインが引かれたりしているほか変わったところもなく、そのままグリーンの代に受け継がれることになった。だが、先代の素性が明らかになった今はその場所により付くような物好きも少なく、結局物置部屋ということで落ち着いているのだという。
 グリーンからその一連の話を聞いて初めてその元書庫を訪れたときに、シルバーが目にしたものは、ポケモンに関する研究論文や学説の他、それと同じくらいの政治や経済や、その他もろもろの学問に関する本だった。心理学、地学、歴史、哲学、その他諸々、ジャンルは多岐に渡り、最もすくないのは美術や音楽、文学等の芸術系だったが、戯曲や小説が数十はずらりと並んでいた。
(お父さんのことを改心させるなら、知っておいたほうが良いのかもしれない)
 倒すべき悪として、敵の知っている知識を。
 改心させる父親として、大量の書物を紐解いたその時間と想いを。
 同じことをしたって勝つことはできないのは分かっている、それでも、息子として、父親を理解できることを願っていた。
 けれどもシルバーはあまりに気付いていなかった。連なる文字を辿るたび、丸く癖のついたページのはしをめくるたび、特に鉛筆やペンで線引きされた文章を目で追うたび、ページの裏にまで染み込んだ赤インキのあとを見るたびに、いままでぼんやりとしか見えていなかったものが明瞭にうかびあがって、それが違和感となって心の底に燻っていたこと。以前であれば、義姉が化粧を塗りたくっていても香水を振りかけていても、殆ど気に留めなかったであろうこと。ただ、それはあまりにささやかすぎるので、彼が目標に向かって突き進むエネルギーの巨大さと、父親に近付くよろこびにくらんで、かき消されてしまっているだけなのだ。
 とんとん、と扉を叩く音がして、シルバーが顔を上げると、入り口にグリーンが立っていた。彼は、”大地の奥義”を手にしていた。

 シルバーはそれを受け取って隠れ家に戻ると、いつかと同じように、黙々と読み始めた。
 一個年下のとりつかいの男の子。あたしより少し背が高かったけど、年齢より少し幼く見える子で、大きな目、磨いたみたいにぴかぴかしていてそれがかわいかった。
 最初の違和感は初めて遊びに行った映画館。あの子が好きなアクション映画の続編がちょうどやっていたので。友達からはじめようとしていたあたしたちは、ふわふわした気持で、もうすぐ昼ご飯なのに何か食べたり飲んだりするものを買おうと話し合った。あたしはすっかり有頂天になっていたから、ジュースなにがいい? って聞かれたときに、あたしなんでもいいわと言って、あの子を送り出してしまったの。それであの子はジンジャーエールをもってきた。あのぴかぴか光る瞳から、照れ臭そうな笑みをこぼしながら。だけどあたしが欲しいのは、その飲み物じゃなかった。
 落胆を隠して微笑みながら、ちらりと目をやった先のメニューで。
(”あのこ"だったら、きっと……メロンソーダを持ってきてくれた)
 そのときは、単なる偶然だと思ってた。あのことはずいぶん長く一緒にいて、あたしの好みもすっかり知っていたから、それでたまたま思い浮かんだんだと思ってたのよ。だけど違った。

 あのこはあたしにジンジャーエールを選ばない。
 あのこは映画の途中でひそひそと話しかけてきたりしない。
 あのこはこんなに上手な言葉の選び方はしない。
 あのこは——

 あのこじゃない男の子と遊びに行くたび、いままで唯一だったあのこがたくさんの人の中のひとりになる。あのこの優れたところ劣ったところが人の中で浮かび上がって、あのこを評価する言葉が増えていく。けれど不思議なことに、いっこも悪いことなんてなかったのよ。
 どの人と遊びにいってもおんなじことの繰り返しだった。あの子よりも優しい人、あのこよりも整った顔立ちの人、あのこよりも色んなことを知ってる人。そんな人は街の中にはいくらだっていて、ひょっとしたら、あのこよりもあたしを愛してくれる人が、その中にいるのかもしれない。だけどどう足掻いたって、あのこよりもあたしを理解ってくれる人なんていないのよ。
 それにしたって、道行く人はあまりにあたしを知らなさすぎるわ。いいなって思える人とすれ違うときに、いつだってこう考えてしまうの。"この人は、パパやママにすら——パパやママだからこそ言えない、あたしの犯歴を、分かってくれるかしら? 憎まず、赦さず、ただ一緒に背負ってくれるかしら? 犯歴ごと、あたしを抱き締めてくれるかしら? あたしの犯歴を、愛してくれるかしら。"
 ひとりならいいの、ひとりで背負っていけばいいもの。だけど愛する人と自分のすべてを分かち合えないというのはどうなのかしら。もし本当にただひとりの人を愛したときには、どうしてあたしの全てを打ち明けずにいることができるだろう。そうでなければ、あたしは最も誠実であるべき人に嘘をつくことになるの。けれどあたしの全てを知って、誰が傍にいてくれるっていうの。

 だから怖くなった、あたしとあのこを引き離そうすとする全ての人のことが。

*
「どういうつもり」
 その日、あたしはすぐにトキワジムを訪れた。おざなりに落とした化粧の残り香を孕んだその体のまま。目指すのは”関係者立ち入り禁止”の扉の向こう、今日は挑戦者がいないから執務室で書き物をしているというグリーンのところ。
「何が」
 グリーンは、本や紙きれの散らばった机の上で、ノートに鉛筆を走らせながら、あたしに見向きもしない。
「決まってるでしょ、シルバーのことよ…………今更、一度読み解いた大地の奥義を勧めるなんて、何を考えているの?」
 ちらりとグリーンがこっちを窺ったかと思うと、淡々と返した。
「お前に言う必要があるのか?」
「答えてよ」
 尚更苛立って詰め寄ると、グリーンは溜息を一つついた。その仕草に煽られたけれど、ここはぐっと堪えて口を結ぶ。
「サカキの頭の中を覗きたいと思ったら、あの奥義書が一番手っ取り早い」
 そこでグリーンはいったん言葉を切って、続けた。
「あいつは今、サカキの利用していた資料庫にある本を片っ端から読んでいる。あの奥義書を完成させるために、サカキが参考にした文献があの資料庫に残っていることも多いに考えられる。だからこそ、以前読み解いたときには読み取れなかったものが読み取れるかもしれない……、それだけだ。予想通りだったんじゃないのか」
 確かにそれはあたしの思ったとおりだった。だけど、あのこには。
「まだ早いわ」
「何故そう思う」
 グリーンもあたしの返答を予測していたかのような早さで尋ね返してきた。
「まだ子供よ。あたしを嫌うことなんて有り得ないと思ってる」
 そう、無理だわ。あたしは試したけれどあのこは何も分かっていない。自分がまだ、あたしという領域の中にしかいないと思ってる。だから、まだ、まだ大丈夫。もしかしたらそんな日は来ないのかもしれない、そんな期待さえ抱いていたのに。
「……確かめたのか。安心したか?」
 それはあんまりにも冷たい返事じゃないかしら?

*
 あのこが夢中でページをめくっているのを見るのは、面白くない。そこにあるのはあたしの言葉じゃない。あたしがろくに知りもしない他人の言葉。よりにもよって、本来あのこが手に入れるべきだった父親の言葉なんだわ。
 ぽっかり口を開けたあのこの空虚が歓喜に喘いでる。あのこがひた向きにあたしの言葉を詰め込んだその場所が、刻一刻本当に詰められるはずだったもので満ちていく。仮初めの言葉はもういらない。あのこは自分だけの本当の心の形を、言葉でなぞろうとしている。あのこは喜びに震えてる。そしてあたしのあげた心の形を忘れてしまうの。
「シルバー」
「うん」
「いっこ聞きたいんだけど」
 あたしはタマムシから出かけた帰り。今日は、化粧も香水も落としてない。なのにあのこはあたしが入って来たときも生返事で、嫌いだと言った香りに殆ど気付きもせずに本を読んでるんだから嫌になる。
 小さな窓から見えるのは曇り空で、今にも嵐がやってきそう。あたしにも分かるくらいの湿った空気が流れ込んで来てる。そろそろ帰ったほうがいいよ、って気を使ってくれるはずのあのこは黙り込んでいる。それが憎らしくて、意地になって居座ってた。
「……子供の頃、あたしたち、いろいろしてたじゃない?」
「いろいろって——」
 シルバーは考え込むように視線を空に放り、それから思い当たったように呟いた。
「ああ……不法侵入とか掏摸とか?」
「うん。そういうの、あんたのお父さんに話した?」
「ううん、話してない」
「……どうして?」
 思わず聞き返していたけれど、シルバーもあたしの質問に驚いたみたいで、びっくりしたような顔をしていた。
「些細なことだよ」
「それは、あんたのお父さんがロケット団の首領だから?」
「そうじゃなくて……俺は、もしそのときに必要なら、同じことをする。それだけだよ……、どうして?」
 透き通った瞳があたしをじっと見詰めてくる。本から目を離して、あたしの言葉を待っている表情は、子供のころのまま。
 ふいに、あのこが不思議そうに首を傾げた。
「泣いてるの?」
 その言葉を境に、雨がさあっと音を立てて一斉に落ちた。それで我に返ったように、シルバーが窓のほうを向いた。分厚く灰色がかった雲で空はいっぱいになっていた。降り出す限界まで水を抱え込んでいたのが、ついに堪えきれなくなったみたい。
 雨を見てたら急に正気に戻って、惨めな気分になった。ここで頑張ったところで、あたしが帰れなくなるだけじゃない。本当につまらない意地だった。
「……今日、雨宿りしていってもいい?」
 だけど、あのこにならあたしはこうやって言える。叱られた犬みたいな惨めさに濡れても、甘えた目で見上げて、しょんぼり呟くことができる。それだけのことにいつもほっとする。
 うん、と、事も無く頷いたシルバーは再びあたしに視線を戻して、ふと眉を寄せた。
「……ねえさん、香水……」
「あんた気付いてなかったじゃない」
「だって、ここ最近化粧も香水も落として……」
 シルバーは言葉を続ける気も失せた様子で頭を振ったと思ったら、まじめな顔であたしを見て、それから再び本に意識を戻した……ふりをしていた。
 あたしはそれに気付かないふりをして待っていた。あたしの甘えにシルバーが気取らないでいるのと同じ。あたしは何も知らないような顔をして待ってるし、あのこはそれを承知で自分の言葉が出て来るのを待っている。不意に、小さな声でシルバーが言った。
「……寒く、ない?」
「……ん、そだね」
「その……これからもっと寒くなるよ」
 ようやく言ってることの意味が分かって、泣き出しそうになるのを堪えたら、逆に笑いが込み上げて来た。
 小さな頃、あたしが寂しがっていると分かったときのあのこの常套手段だったから。あたしのことを気遣っておずおず窺うあのこの優しさに何度救われたかわからないの。夏になっても、寒くない、って訊いてくるのには笑っちゃったけれど。
 あたしが嫌なにおいをさせていても、まだそう言ってくれるの。化粧も香水も落とさずに、思いっきり抱き寄せて毛布に包まって、シルバーに嫌な顔をしてほしいとも思ったけれど、流石に嫌われちゃうので我慢。鞄に入れておいた携帯用クレンジング・シートと、消臭スプレーできちんとしてから、毛布を持って、木箱を机代わりに読書をするシルバーの隣に引きずっていって、包み込んだ。
 あの子はいつの間にか大地の奥義じゃなく、化学の書籍に切り替えてた。あたしに合わせてくれたのかしら。並ぶ原子記号や公式や、解説を眺めているうちに少しずつあたたまってきて、ぼんやりする。この場所は静かすぎる。でもかえってシルバーにはそれがいいのかもしれない。ふと、さっきの話の続きが頭に浮かんだ。
「…………さっきの続きね」
 うん、とシルバーが生返事をするけれど、今ばかりは眠くて気にならなかった。
「あたしは、後悔してるのよ」
「後悔?」
「うん。後悔」
 胸の底で凝ってる乖離感が浮かび上がる。あたしは罪だと考えて、シルバーはそうは考えない。あたしがそれを打ち明けないといけないと思ってることも、シルバーはそんな些細なこと、と言う。このまま進んで心を忘れ、犯した罪さえ共有できないのなら、いったいあんたにとってのあたしはどうなってしまうの。
 あのこはあたしが見つけた。あのこはあたしが眠りの胎内から取り上げた。光も、音も。心も。世界のすべてをあたしは与えた。そして世界にあのこのすべてを与えたのも、このあたしだったのに。
「それだけ?」
 続いた沈黙のために、雨に攫われてしまった言葉尻を拾って、シルバーが尋ねる。
 それだけ、そう、それだけよ。だけど罪、だけど犯歴なのよ。ねえあんたには分からないでしょう。罪ってものは、どんなに小さくてどんなに些細なことでも、あるというだけでみんなまるっきり駄目にしてしまうものなの。真新しいとびっきり素敵な白いコートを、さあ高かったから、これから大事に使いましょうっていう矢先、真っ黒いしみをつけてしまうようなものなのよ。

*
「……そうだな。行ってみるといい。座標の場所は……ハナダの洞窟の地下か」
 グリーン先輩は、俺の話を一通り聞き終えると、そうか、とゆっくりと息をついた。
 本をたくさん読むようになって気付いたことは多い。表紙、本のタイトルに添えられている著者の名前。その人はどこの国の人で、いつの時代に本を書いたのか。論旨にはその人個人の性質よりもはるかに、思想が培われた時代背景や生活があらわれる。
 百年前のもの、五十年前のもの。さまざまな論文を目にしてみると、サカキがなぜあれほど多岐に渡ったジャンルの本を、均等に置いていたのかも分かるような気がした。百年前に書かれた論文を理解するために、著者が生きた百年前の文化や生活習慣を知っていれば、きっと大きな助けになっただろう。
 グリーン先輩が”大地の奥義”の再読を勧めてくれたときの意図も、なんとなく分かるような気がした。読んでみたらすぐに夢中になった。以前は読み流していた、引用部分や、原理の応用を理解できた。なぜサカキがこの言葉を選んだのか、なぜこの表現でなければいけなかったのか。細部に至って想像できるようになっていた。
 大地の奥義書を読み返して、改めて気付いたこと。とある章で、サカキはある野生ポケモンの習性を利用した育成方法について述べており、またそれに関する仔細なデータも参考として残していた。
 しかし、章末の参考文献の中で、その習性について述べられているのは、「理論上は」というフレーズがついた一文に過ぎなかった。そこで、このデータはサカキが手ずから調査したものではないかと思った。
 そしてその座標の地に行ってみようと思い立った。常駐していたといっても、観測地とキャンプ地は違うだろうし、例えそれらしき場所を見つけることができたとしても、あいつの性格上、何かを残しているようなことが考え難いことも分かっている。それでも、今なら、何かを拾える気がしていた。
「ブルーには言ったのか?」
「……ああ、明日の朝六時に出発するつもりと」
「邪魔されるかもしれんぞ」
 思いたって一番に連絡したんだ。事実の通りを伝えると、グリーン先輩は低く笑った。冗談めかした、ずいぶんめずらしい笑い方だった。
 それは、俺も何となく、そうかもしれない、と思っていたことで。ただ、それが邪魔という言葉にはつながらなかった。ただ漠然と、ねえさんが俺を止めようとするかもしれないと感じていた。だが、例えそうなら、ねえさんは俺を止めなければならないし、俺はねえさんに、止まらないと言わないといけない。そう思った。
 この数ヶ月で、ねえさんのことについても、分かったことがある。俺の思っていたよりもずっと、俺はねえさんに多くを与えられていて、それがあまりにも大部分を占めていたので、それにすらずっと気付かずにいたということ。
 小さい頃から一緒にいて、たくさんのものを与えてくれた彼女に、例え彼女の身につけているほんの小物のことであっても、嫌いという感情を抱くことがあるなんて信じられなかった。アクセサリーや靴の収集だって、理解できなかったにしろ、彼女がそうするなら良いものだろうという不思議な確信が持てたし、彼女が嬉しそうに新しい靴の話をするのは、目にも耳にも快かった。彼女が嬉しいなら俺もそれだけで嬉しかったし、彼女が悲しいなら俺もそれだけで悲しかった。
 そして気付いた——というより、理解したんだ。その変化を、ねえさんが不安に思っていることも、なんとなく分かった。けど、それだけだ。ねえさんの不安を自分のものとして捉える時期はもう、とうに過ぎ去っていたのに、理解していなかったから、催眠にかけられたまま、ずるずるここまで来てしまった。
 驚くほど不安は無かった。こんなものかと拍子抜けしてしまうほど。ねえさんの感情は、伝染するものではなく、理解する対象のひとつになってしまった。それだけが少し悲しい。
「きっと、ねえさんは来る」
 小屋の中、大地の奥義を閉じながら呟いた。
 明日に備えて寝ようと毛布を引き寄せたら、知らない女のにおいがした。


*
 幼い頃の夢を見た。
 倉庫の中、彼女のまだ寝ている早朝に目が覚めた。起こさないよう静かに毛布から這い出して、僅かに上下する肩に毛布をかけなおしたとき、一筋の光が差してきた。天井近い窓から差し込んで来た朝焼けの光線が、目の前で拡がって、凍えた肌を焼いた。積もった砂埃を追い立てる風のように、冷たい床をすっかり照らし出した光の中では、細かな糸屑が魚のように宙を泳いでいた。
 そのとき、彼女を忘れた。彼女の呼吸や、言葉や、触った感じ、彼女が居るということを忘れた。そのとき俺はひとりだった。光を泳ぐ魚に夢中になっていた俺は、たったひとりだった。



 獰猛なポケモン達の溢れ返るハナダの洞窟にその日に挑むのも不安だった。だから念のため、シルバーから連絡のあった日に一度軽く見回ってみて、且つ早めに出発したから、遅れをとることはないと思っていたら、本当に早く着いてしまった。
 シルバーの言っていた座標の地点は、天井の高い広間。とはいっても、ところどころに隆起や突き出た石柱があって、座標地点は丁度、その端。高台のように盛り上がった隆起があって、遠目にポケモン達の動向を観察するには絶好の場所。サイドンやサイホーンという大型のポケモンなら、まず見逃すことはない。
 あのこは大地の奥義から見出した、先代トキワジムリーダーが過ごしたことのある場所に行くと、そう言ったの。止めなきゃならないと思ったのは、あたしがあのこの”ねえさん”だから。あたしにとってもシルバーにとっても、どっちが良いことかなんて分からないけれど、あたしはここに来ないといけなかったの。
(”あのこ”があたしのためだけに存在したのとは違って、”ねえさん”という生き物は、あのこのためだけにいたんじゃない。”ねえさん”は、弱くて、可哀想な……ただの女の子よ)
 シルバーの動向の監視はケーちゃんに任せて、高台を降りた。流石に、ここじゃ視界が開けすぎているから、キャンプしていたとするなら別の場所でしていたはず。
 洞窟内は、地下水の雫が岩を伝って落ちて行く音が聞こえるほど静かだったけれど、そこら中にポケモンの息遣いがひしめきあっているのが分かる。いったいどこにこれほどのポケモンが隠れる場所があるのかと思うほどだった。人間であるあたしは彼らのように上手に身を隠す方法を持っていないけれど、彼らはあたしを監視すれども襲って来はしない。
 あたしがサカキ——観察者だったら、絶好の監視場所を見つけた後に、どうやってキャンプ場を見つけるかしら?
 ひとまず広場を出て、できるだけ幅の広い道へ進む。こんな洞窟で下手に狭い道に入って、野生のポケモンに囲まれたりするのは勘弁だわ。思考の道筋を辿るように五分程歩いていたら、ふと人間ひとりギリギリで入れるくらいの隙間を見つけた。このくらいの隙間だったら、ポケモンで塞ぐのも簡単だわ、地面タイプ専門のサカキなら尚更——と、思って、気付いた。
「…………ここ、かしら……?」
 壁に手で触れてみて、そっと足を入れてみる。中は空洞になっていて、天井は高すぎて見えない。上のほうから、ゴルバットやズバットの鳴き声が聞こえる。
 ここに生息するのは人間よりも大型のポケモンが多いから、殆どのポケモンはあの隙間を通っては来れない。よってここが何かの巣である可能性は低く、入り口を塞いでしまえば中をのぞかれることもない。上空にはズバットとゴルバットの気配があるが、彼らが好んで降りてくるとも考え難いし、万一降りて来たとしても、下から見ればその姿は丸見えだ。
「あたしだったら、ここにするけど……」
 ほんの五畳ほどの小部屋をうろつき回って、ちょっとした岩をどかしてみたりしてみたけれど、サカキがここを利用したという確信はどこにも見つからなかった。
「……まあ、普通に考えたらそう、よね。仮にここだとしたって、よく忘れ物をするロケット団首領なんてさまにならないもの」
 悪いねえさんだって分かってるけど、ちょっとだけ安心して、息をついた。そのときにちょうど、ケーちゃんがテレポートで、シルバーの接近を知らせてくれた。もうそろそろ、あたしも戻らないといけないみたい。
 そこでふと気になって、ボールの中のぷりりに言ったの。
「……ぷりり。シルバーと戦うかもしれない——本気で。間違いなのかもしれないけど……あたしのために、しなきゃいけないことなの。全て終われたら、きっと仲直りできるから……それまで、力を貸していてね」
 ぷりりは全部分かってるみたいに、ボールの中でにっこり笑った。
 妄想だって笑われちゃうかもしれないけど、あたしたまに、ぷりりのことお姉さんみたいって思うこと、あるの。
 そして歩き出して、視界の端に何か紙きれのようなものをみとめて息を呑んだ。見たらいけないわ。そう思ったのに、あたしは気付いたら屈み込んで、それを拾い上げていた。くしゃりと丸まった古い写真。右端から真ん中にかけて、ほとんどまっぷたつに切り裂かれていたれど、表面の土埃を落としたら、
「……サカキと……それに、抱かれているのは……」
 喉がからからに乾く。
 言葉にするのが怖かった、けれど、あたしは。
「………………シルバー」

*
「マニューラ? どうした?」
 地下一階を歩いていたところで、先導していたマニューラが、ぴくりと動きを止めた。一度俺を振り返って、それから嬉しそうに勢いよく駆け出したことで、そこで気付いた。現在位置座標から目標地点まで、直線距離で百メートル。ポケギアを横目にマニューラの後を追って飛び出した瞬間に、俺の足元に砕かれた岩の欠片が転がった。
 マニューラが驚いた表情で正面を見詰めている。立ちふさがるようにそこにいたのは、カメックスと、
「…………ねえさん」
 ポケギアの心許ないライトしかなくても、遠目でも、すぐに分かった。化粧、してないし、香水もつけてない。両親に会う度のためにと思って、俺が選んだあの服を着て、帽子を目深に被って、直立して俺を真っ直ぐに見詰めている。
「ここを通るんでしょう?」
 ねえさんは淡々と言った。それで、もうすっかりねえさんも分かっているんだと思った、俺が退かないということを。
「ねえさんは、止めるんだね」
「そう。だから……通りたいのなら、力づくであたしを倒すことよ……、分かる?」
 その言い方はずっと厳しかったけれど、前にも聞いたことがあった。そのときは何のことだか、よくわからなかったけれど。こういうことだったんだ、って今は分かる。頷いたらねえさんは一瞬、とても寂しそうな顔をした。
 この暗さじゃ、この距離じゃ、見えない。
 でも、分かる。
 彼女の表情も、息遣いも、寂しそうな顔に込められた想いのすべても、きっと今までで一番わかってる。
「……始めるわ」
 そして俺たちは、モンスターボールを手にした。

*
(地形は広間、ところどころに隠れられそうな場所がある。野生ポケモンは戦いの気配を察してか遠ざかりはじめたようだ。天井の高さは目測で二十メートル前後。流石にドンカラスが飛ぶのに十分な高さとは言えず、しかも天井にも地面にも障害物がある。ギャラドスの巨体は移動するだけでも一苦労だろう。一方ねえさんのポケモンは小型が多く、鳥ポケモンもない。地形は圧倒的にこちら側が不利だが、マニューラとドンカラスは暗闇でも目が利く。その特性を活かせれば、あるいは——)

 戦闘は僅差で、常にブルーが勝っていた。何かとっかかりがあれば途端にひっくり返してしまえるほどの、ほんの少しの差にも関わらず、隙がない。
 ブルー先鋒のカメックスが地面をぬかるませ、続くグランブルのこわいかおからのほのおのキバで、シルバーのマニューラはグランブルと相打ちとなった。シルバーのドンカラスは、攻撃を堪えたプクリンのハイパーボイスで撃ち落とされ、プクリンはギャラドスに一撃を加えたものの、かみくだくで戦闘不能。ギャラドスは体力の差でへんしんしたブルーのメタモンにハイドロポンプを放つものの力負けし、メタモンは続いたキングドラと相打ち。シルバーのオーダイルがピクシー、ニドクインを倒し、カメックスを前に力尽きた。
 残るは、ブルーのカメックスと、シルバーのドサイドンのみとなった。

*
「……今のところ……、全部あたしの想定内だったわよ、シルバー」
 立ちふさがるカメックスを前に、倒れたオーダイルをボールに戻す。
 ねえさんの今日の戦い方、厄介だ。常に僅差しかないように見せておきながら、最後の一体を確実に、自分が有利になるように仕向けてくる。ねえさんは俺のことを知りすぎている。戦い方も、物事の考え方もすべて、ねえさんからもらったものだったから。
「これだけじゃ、あたしに勝てないの……分かってるよね?」
 だけど、俺だけが見てきたものだってある。俺だけが思ったものだってある。グリーン先輩や、ゴールドや、クリスや、ポケモン達、他のみんなと。ねえさんや俺が思っていたよりもずっと、たくさんの言葉が、たくさんの世界が目の前に開けていた。もう、手はいつだって差し伸べられている。ねえさんがいなくても、ありがとう大丈夫だと言って、笑って立ち上がることができる。そういうことなんだ。そしてきっと、ねえさんと一緒にいたときでさえ、俺だけのものがあった。気付いた瞬間に、遥か昔、光を泳ぐ魚を観ていたそのときから、俺も、俺だけの考えで動いていたと知ったんだ。
「行け、ドサイドン、じならし!」
「カメちゃん、ハイドロ——きゃ!? 何っ……泥が!?」
 強い振動とともに、地面から泥が吹き出す。カメックスの重量ではどんどん足元が沈むばかりだ。足元が不安定なら自慢の砲台も狙いが定まらない。ねえさんが何かに気付いたように顔を上げる。
「"液状化現象”、……ねえさんは、知ってるよね?」
 ギャラドス、キングドラ、オーダイルを使って、辺りに水をまき散らしたのも、すべてこのためだった。だが、これだけじゃ詰めが甘い。
「……あたしが教えたんだものね。だけど甘いわ、カメちゃん、うずしお!」
 カメックスは逆に浮上してきた泥水を利用して、ドサイドンを泥の渦の中に引きずり込もうとする。泥水といえども表面は水分を多分に含んでいるからドサイドンにはかなりきついだろうが、うずしおが退いたとき、そこにドサイドンの姿はないはずだ。なぜならドサイドンがいるのは、地中。動きの鈍いカメックスに狙いを定めて——
「”あなをほる”!!」
 カメックスがどう、と音を立てて倒れた。

 心臓の音がいつになく大きく、大して動いてもいないのに息が上がっていた。ドサイドンもかなり消耗しているが、カメックスの立っていた場所をしっかりと足で踏みしめている。カメックスのほうは、小さく身じろぎをしたように見えたが、やがて動かなくなった。目の前で、しかも自分が指示したことにも関わらず、俺はすぐには何が起こったのかを呑み込むことができなかった。
 縋るような気持でねえさんを見ると、ねえさんはひどく悲しそうな顔をして俺を見ていた。きっと、同じような顔をしている。裏切ったんだ。いい事か、わるい事なのか、分からないけど。ただ確かなのは、俺がねえさんを裏切ったということ。
 いざこうなってしまったら、なんだか無性に悲しくて仕方が無かった。ねえさんのことが、大好きだった。だが、これで良かったと思いたくて必死だった。裏切ってでも、俺には彼女に伝えたいことがあったんだ。
 一歩踏み出した。それはもしかしたら、緊張が解けてよろけただけかもしれないが、それを合図にしたように、ねえさんと俺はポケモンをボールに戻し、互いに歩み寄った。そのときに、ふいに激しく広間が揺れ出した。
「な……なに!?」
 咄嗟に辺りを見回すと、不意に地面のあちこちから、ディグダやダグトリオが顔を出しては引っ込んでいく。
「……さっきのうずしおに巻き込まれたディグダ達の群れかもしれない……きゃあっ!!?」
「っ!!」
 ねえさんの立っていた地面が、表面のぬかるみごと掘り返された。このままじゃ地面の中にひきずり込まれる。咄嗟に駆け寄って、掘り返された隆起の上から手を伸ばそうとしたときに、ねえさんが叫んで、俺のほうに手を伸ばした。
「シルバー! これ!!」
 一瞬だったけど、はっきり見えた。サカキだ。赤ん坊を抱いている、お父さんの写真。
 ねえさんの手首に俺の手はぎりぎり届かないだろう。けど、写真を掴めば彼女は手を離してしまうかもしれない。だったら。
 手を伸ばし、写真を掴んで、瞬間的に思い切り引っ張った。反射でねえさんの指に力がこもったために、写真はもともと破れていたところからまっぷたつに裂けたが、引力によって僅かに俺とねえさんとの距離が縮まり、掌を掴んだ。だが、そのために、俺も安定した足場を失う。
「馬鹿!! なにやってるの!!?」
 酷く取り乱したその声に思わず顔を向けたら、ねえさんが子供みたいに泣きそうな顔をしているのに思わず笑ってしまった。
 応えている余裕なく、もう片方の手でボールの開閉スイッチを押した。ドサイドンの腕が伸びて、俺の身体を掴んだ。ドサイドンが持ち前の重量で地面を踏み固めて持ちこたえてくれていて、ほっと息をついた。



*
 上空からのゴルバット達の声のほか、何も聞こえない。なんとか広間から脱出した後、あたしが見つけた縦穴で休憩を取ることにしたの。幸いにも互いに怪我はなかったけれど、流石にバトルとトラブルが連続して起こって疲れていたし、あたしは膝まで泥に浸かっていたから、それを洗い落として乾かさないといけないってシルバーが言ったから。ポケモン達の手当をしたあと、キングドラで泥を洗い流してもらった。携帯燃料とマッチで火をおこして、靴と靴下を乾かしながら、シルバーが持って来ていたらしい毛布をもらった。もしかしたら、お父さんのキャンプ地を見つけて、野宿するつもりだったのかもしれない。
 にわかに勢いを増して揺らぐ火を眺めていたら、ふとそんなことを思って、情けなさに泣きたくなった。
「……ごめんね」
 シルバーの顔をまともに見られなくて、体育座りのまま、毛布に顔を埋める。
「……どうして?」
「写真。最初に渡しておけばよかったと思って」
 応えるシルバーの声がとてもやさしいのに涙を煽られる。ここで泣いたりしたら、ほんと、かっこわるいもの。
「些細なことだよ」
 そういってシルバーが静かに笑う。流石にすこし変に感じて、少し顔を傾けてシルバーを窺ってみた。口元が微笑んでる。
「あんたはあたしのこと、怒ってもいいのよ……」
「知ってる」
「じゃ、なんで怒らないの」
「怒るようなこと、なにもなかったから」
「嘘……」
「どうでもいい嘘をつくのは苦手なんだ」
 からかわないでよ、そう言おうとして目線を上げたの。
 そしたら暗闇の中、あのこの目は磨かれたみたいにぴかぴか光ってた。あのとりつかいの子とはじめて出会ったときみたいに。ああ、どうしよう。救われないわ、あたし。今度こそ泣きたい思いで顔を伏せて、口を閉じた。しばらく沈黙がつづいて、だんだんあたたまってきてとろとろとしてきた。泣きながら眠ってしまいたい。声もなく、誰にも知られることなく泣けたらどんなにいいかしら。ふいにシルバーが口を開いた。
「好きだよ」
 ぱちぱち、燃える火の音と、遠いゴルバットの声だけ、反響してる。約束事みたいに使い古された言葉。聞き慣れたはずのその響きは今までで一番やさしい。少しまどろんでいて、反応が遅れたけれど、今度はあたしが笑う番だった。
「……今更な話じゃない?」
「そういうのじゃなくて」
 正直なところを返せば、シルバーも少し笑いながら否定する。
「ずっと、俺を守ってくれたねえさんも、そうじゃなくなったねえさんも好きだ。化粧して、香水をつけてるねえさんも……そんなには嫌いじゃない」
 どこで覚えてきたの、そんな殺し文句。顔を見てみたいと思ったけれど、それよりもずっと恥ずかしさが先行してしまって顔を毛布に埋めた。
 微睡みの中で、あたしは昔のことを思い返していた。仮面の男のところにいたときのこと、シルバーと一緒に、色んなところをまわっていたときのこと、ひとりで詐欺や掏摸を繰り返していたときのこと、ポケモンリーグに挑戦したときのこと。どれだって愛しい、あたしの思い出だ。いらないものなんてない。あらゆるあたし、すべてのあたしの中で、何一つとして、愛せないものなんてないと——きっとシルバーは、そう言ってくれた。
 昔からシルバーは優しくて、あたしを特別扱いしてくれて、甘やかしてくれる。何も知らないままあたしに笑いかけてくれたあのこは今、何もかもを分かって、変わらずに笑いかけてくれる。あたしもおんなじだと気付いた。昔、何も知らなかったあのこも、今の、すっかり理解してしまったあなたも。同じように、大好き。変わらずにあいしてるの。
 ねえさん、眠ったの?
 愛しい声が夢のなかにまで届いてる。目覚めたら、きっとあのこの顔が見られる。そう信じられることが、涙が滲むほど幸せだった。
(2015/01/03)