彩かしものがたり
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□ かつて途中で挫折した、江戸風ファンタジーパロ(未完結)
□ レッド(赫兵衛)→ナツメ(柑)
 奇妙な客が赫兵衛(かくべえ)の営む万屋「壱屋」を訪れたのは、その晩のことである。ちょうど赫兵衛は店の奥まったところにある六畳一間におり、毛筆を片手に売上台帳への記入を終え、溜息をついたところであった。赫兵衛の実家は農民で、有り体にいえば貧乏だった。特にここ二年は不作が続き、借金をしながらどうにかやっている状況だった。そこで一人息子の赫兵衛は、十四歳の成人とともに真白の里から一念発起、都に出稼ぎに出てきたものの、その成果は芳しくない。赫兵衛ひとりが店を営み暮らしていくのがそこそこの数字しか残らない売り上げ台帳は、赫兵衛が商いの道にそれほど向いていないことをありありと物語っていた。ちょうどそのとき、閉じた店の戸を叩く音が聞こえてきたのだ。
(こんな夜更けに、だれだろう)
 赫兵衛は首を傾げながらも灯をともした燭台を片手に、腰を上げた。戸を開ける前に窓の敷居戸を外し、そっと外を伺い見る。月の無い夜である。姿形はほとんど窺い知ることができなかったが、身につけている衣装の影からして、店先に立っているのは女ひとりのようだ。訳ありなのかもしれない、と赫兵衛は思い、敷居戸をもとに戻して店先の戸を開け、女を招き入れた。
 女は蝋燭の僅かな明かりのもとで赫兵衛と向かい合って座り、頭巾を外した。長い黒髪を高く結い上げ、藍色の小紋を細帯で締めた、目元のきりっとした色の白い女である。随分と若い。赫兵衛といくらも違わぬのではないだろうか。申し訳程度に唇に差した紅の他には化粧っ気もなく、身につけているものも地味というのに野暮でなく、むしろどことなく垢抜けた印象を与えるあたり、不思議な女であった。まだ男女のことを知らぬ赫兵衛が思わずぼうっとしてしまったのも無理からぬことであったが、ことさら赫兵衛をくらくらさせたのは金木犀の芳香であった。香油でも擦り込んでいるのか、女の白い肌からは、匂い立つような金木犀の香りがする。
「あなたが赫兵衛か?」
 開口一番、女は尋ねた。女らしからぬ口調であったが、同時に育ちの良さを伺わせる高貴さが滲んでいる。これはいよいよ訳ありかもしれぬと思いながら、赫兵衛は頷いた。
「私の名は柑(こん)という。今宵はあなたに頼みがあって参上した」
 お柑と名乗ったその女は、順を追って説明すると申し出て、淡々と自分の身の上を語りだした。お柑は千二百石取の旗本の娘として生まれた。二歳のとき母親を疫病で亡くし、父親は未亡人と再婚したものの、未亡人の連れ子——お柑にとっては義妹にあたる——と折が合わなかった。勝ち気な気性の義妹は、女は淑やかであるべしと考える父の意にそわぬことが多々あったのだという。事あるごとに衝突し、時には手をあげられながら、ついに堪えきれなくなった義妹は家を出て、それきり行方知れずだということである。
「……女中が小火を起こし、都の屋敷が炎上したのが五年前のことだ。私と父上はかろうじて生き延びたが、火傷が元で父上は片足が不具になってしまった。これでは武士としてのお役目も果たせないというので、私たちは、ひとまず田舎に住む親戚の家に住まわせてもらうことにした。これまで貯めた財産が残っていたので生活には困らないが、それからというもの、父上はすっかり腑抜けのようになってしまったのだ。そうした気の弱さが身体にさわってしまったのか……ここ二ヶ月というもの、食べ物もろくに口にせず寝込んでしまわれている。そしてうわ言のように、父上が義妹に詫びる声がときどき聞こえてくる。父上は衰弱していくばかりだ。そこで、私は義妹を捜しに単身、都に戻ってきたのだ」
 そうして義妹探しに連日都を歩いたお柑は三日前、ついに義妹を見つけた。けれども幼くして親元から飛び出した彼女は、詐欺や泥棒を生業としていたのだという。問いつめようとしたお柑を振り切って義妹は逃げ、再び行方をくらましてしまった。
 お柑はにわかに声を震わせた。
「私を見れば義妹は逃げる。父上が義妹にした仕打ちを思えば無理からぬことといえ……時は一刻を争うのだ。けれどもだからといって、義妹が犯罪に手を染めていることを知ってしまった以上、奉行所に届け出ることもできぬ。そこで恥を忍んであなたに御頼み申し上げたい。……百両ある。義妹を見つけ出し、私のもとへ連れてきてほしい」
「ひゃ、百両!?」
「……手付金として、まず二十両渡す。そして妹を連れてくることが出来たら、残りの八十両もお支払いしよう。……引き受けていただけるだろうか?」
 赫兵衛はすぐには返事ができなかった。なにせ家一軒建つほどの報酬である。お世辞にも暮らし向きの良いとは言えない生活を送ってきた赫兵衛にとっては天文学的な金額に違いなく、ましてやそれが自分の懐に転がり込んでくるとなれば、何か裏があるのではと勘ぐるのも至極当然のことといえよう。そんな赫兵衛のうろたえた態度を慮ってか、お柑は静かに口を開いた。
「……勿論、こちらとて唯の人探しに百両支払おうというのではない。それなりの条件と罰則がある」
 お柑は袖に手を差し込み、一枚のあやかし札を取り出した。あやかし札とは、あやかしを使役する際の契約書とも言うべきものである。人はあやかしを使役するが、それもあやかしが人を認めて初めて叶う。同じ能力のあやかしを使役するのにも、人によってあやかしが使役を許す力の質は異なるのだ。例えば、十分に能力のあるあやかし使いは何時いかなるときでも、そのあやかしの持つだけの力を自由に使うことができる。しかし、あやかし使いの能力があやかしにとって十分でない場合には、「空を飛んで物を運ぶ」ことは許すが、「他者への攻撃」は許さない、といった具合に、使役条件が課されるのである。あやかし札にはそれらの条件が古語で記されている。この内容を敵に知られるのはあやかし使いにとって致命的であるため、通常、契約条件が見えぬよう、あやかし札は契約条件の記された面を内側に畳み込まれる。そして複数所持する際の区別のため、あやかしの名を表面に書いておくのが一般的である。お柑の取り出したあやかし札もそれに違わず、封筒のような折られ方をした札であった。
「一に、このことは決して口外せぬこと。二に、万一義妹を巡って奉行所や幕府と衝突した場合でも降伏せず、依頼を続行すること。……見張りとして、依頼が終わるまで私のあやかしをあなたに付ける。もし条件が破られた場合には、あなたの命が代償となることを覚悟していただきたい」
 代償が命とは、穏やかでない話である。赫兵衛は唾を飲み込んで、自然顔つきも険しくなる。
「…………なんで、俺なんだ? 俺よりも知られた、有能な万屋はいっぱいあるだろ」
「理由は二つある。まず、これは幕府に背を向ける行為でもあり、出来る限り秘密にしなければならない。大きな万屋は、百両の報酬などそれほど珍しいものでもないのだ。幕府とのつながりも強いところが少なくないだけに、密告される恐れがある。そしてもう一つは、今年奉行所に入った、仁緑というあやかし使いのことだ」
 仁緑の名前が出て、赫兵衛はぎくりとなった。仁緑は赫兵衛と同じ真白の里の出身であるが、彼は幼い頃より留学していたため、初対面は十二歳のときの、あやかし競技会でのことあった。忘れもしない競技会年少の部決勝で、赫兵衛に勝ち優勝に輝いた人物である。
「話を聞くに、剣術の名手であり、同時に優れたあやかし使いのようだ。並大抵の者では、彼には太刀打ちできないだろう。そこで、彼とあやかし競技会で優勝の座を争ったあなたが万屋を営んでいると知り、白羽の矢を立てたのだ」
 聞けば、確かに納得のいく話である。負けた赫兵衛とて、年少ながらそこらの大人では太刀打ちできないくらいの実力であったのだ。その赫兵衛の更に上を行く仁緑は、あやかし使いとしては既に奉行所の中でも有数の存在になっているであろう見当はついた。
 赫兵衛と仁緑は、十二歳で出会い、十四の成人まで二年間、競い合うようにして技を磨き合った仲であった。衝突した回数は数知れず、それ以上に良き友であった二人であるが、ものの見方、考え方は真逆に近く、その溝はついに埋まることがなかった。
 仁緑はまず規律を重んじた。法律は人を守るものとし、違法は例外なく罰すべきものと考えていた。たとえどれほど共感できる事情があろうとも、少なくとも形式的には例外なく罰することで、社会の調和を維持できると考えていた。全体の規律のためには、個々の事情を思い遣ることが多少犠牲になるのは仕方がないと割り切っていたのだ。だからこそ彼が奉行所に勤めだしたのは必然といえよう。一方、赫兵衛はそこを割り切ることができないのである。全体の規律を維持しながら、個々の事情を思い遣ることを諦められない。だから彼は万屋として、時に奉行所の目をくぐり抜け、そうした人々をこっそりと助ける抜け道となることを選んだのである。
 これまで万屋といえども、違法とはほど遠いささやかな依頼ばかり。おまけに出稼ぎに出てきたにも関わらず仕送りもろくにできぬ日々だった。赫兵衛にとってお柑の依頼はまさに、かつて彼が描いた理想を体現するようなものであった。
「すぐに答を出せとは言わぬ。ただ、こちらも急いでいる身ゆえ、明日の晩までに返事を……」
「いや、その必要はない」
 お柑が不思議そうな目で赫兵衛を見た。
「引き受けるよ。俺は、あなたや、あなたの父上みたいな人を助けるために、万屋をやっているんだ」
 続けた赫兵衛が力強く頷くと、お柑は意外そうに目を瞠り、それから、ゆっくりと微笑んだ。意外なほどに柔らかいその笑みに、赫兵衛はどきりとする。しかしすぐにお柑はその表情を引き締め、袖に手を入れると一枚の紙を取り出して赫兵衛に渡した。見ると、それは人相書きであった。
「義妹は名を静乃(しずの)という。その人相書きは、三日前に義妹を見てすぐ、絵描きに依頼したものだ」
 人相書きには、なるほど、義妹というだけあって、お柑と似つかない少女の顔が描かれていた。お柑のように、見るからに高嶺の花というような強烈な印象はないが、癖の強い茶髪とぱっちりとした目の愛くるしい少女である。それからお柑は眠狐(けいしい)という名のあやかしを赫兵衛に付け、自分と連絡が取りたいときは、眠狐に頼むようにと赫兵衛に言った。加えて手付金の二十両を置き、帰り際に、見送りに立った赫兵衛と向かい合う。
「あなたの働きに期待している」
 吉報を待っている、と最後に残して、お柑は万屋を去った。
 翌日、赫兵衛は町奉行所を訪れていた。目当ては探し人、お静の情報である。もし彼女が家出して以来ずっと犯罪に手を染めて生きてきたのならば、手配書や犯罪歴に関する資料があるやもしれぬという期待からであった。かくして、赫兵衛の目の付け所は的を射ていたといってよい。
 当直の武士に人相書きを見せたところ、すぐさま手配書をもらうことができた。見れば、その身柄にかけられた金子は五両ほどである。あまり日の目を見ることのない、せいぜいが小悪党といったところであろう。更に調べてもらうと、罪状は詐欺や泥棒が主だったもので、しかしその多くの被害額は少額である。一度に欲張らず、数をこなしているのだろう。記帳に並ぶ罪状だけでも数十件にのぼっていたが、顔が割れていない、または少額すぎて告発されずにいる働きはもっと多いやもしれぬ、と赫兵衛は思った。
 罪状の詳細を見ると、盗みは殆どが有名どころの商店を狙って行われていて、詐欺もゆすりやたかりの部類ではなく、不良品を売りつけるなどの一回こっきりのものばかりである。いずれの被害額も一度に多くとも一、二両だったけれども、掏摸の罪状となるとそれが途端に跳ね上がり、五両を超すこともある。場所は、都の中心部にやや偏りがある。
「この女を捕えるつもりか?」
 じっと記帳に視線を落とす赫兵衛をものめずらしそうに眺めていた当直の武士が尋ねた。
「ああ。……もしかして、もう奉行所のほうで捕えにかかってるのか?」
「まさか。奉行所も火盗改方も、いまは榊(さかき)一味にかかりきりでな、そのような小物に構っている暇はない」
 榊一味とは、ここ半年というもの、あやかしを用いて都で悪事を繰り返している集団のことである。そういえば、仁緑が榊一味のなにがしを捕えて手柄を上げたという話を風の噂で聞いたことを思い出した。いま、奉行所にその仁緑はいないようである。おそらくは都のどこへやら、遠征に繰り出しているのだろう。どちらにしろ仁緑が留守にしていたことは赫兵衛にとっても幸運であった。赫兵衛は奉行所へ向かう道すがら、馴染みの彼の前でぼろを出さぬかと、内心ひやひやしていたのである。
 その後、赫兵衛は奉行所を出て、町の中心に向かってぶらりと歩き始めた。ほどなくして、小川にかかる桜橋が見えてくる。両岸に一本ずつある枝垂れ桜の老木が小さな橋を覆うようにその枝を伸ばしていることから、俗にそう呼ばれて定着しており、本当の名前は赫兵衛も知らない。幼子の悲鳴が聞こえてきたのは、橋を渡ろうとしたそのときであった。赫兵衛ははっと息を呑むと、悲鳴が聞こえたほうに向かって引き返した。損得考えず、困っている人とみれば、見過ごせない性質なのである。こういうところが、彼が商いに向かぬ一つの理由であろう。
 川沿いを走り、長屋の裏側に回ると、黒装束の大人と幼い少女がなにやら揉めている様子であった。赫兵衛の目の前で、黒装束が少女から五色の飾り糸の巻かれた手鞠を取り上げる。
「それ、わたしの大事な物なの、かえして!」
「悪いな、命令なんでな」
 手鞠を手にした後もすぐに去らず、にやにやと薄笑いを浮かべて少女を見下ろしているところからするに、どうやら小物のようである。待てっ!と声を上げて、赫兵衛は飛び出した。
「鞠をその子に返せ! 小さな子をいじめるなんて、大人のやることじゃないだろ!」
「いじめ、ねぇ。わかってねえな小僧。……ま、聞き分けの悪い子供を躾んのも、大人の役目だもんなあ」
 黒装束は意味ありげに薄ら笑いを洩らし、ゆらり、とその前にあやかしが現れる。長い髭を震わせて赫兵衛を睨みつけている、大鼠(らった)である。すかさず赫兵衛は自らもあやかしを呼び出した。赫兵衛のあやかしは、手足を生やし、地上生活に適応したかのような外見のおたまじゃくし、大蝌蚪(にょろぼん)であった。ふん、と黒装束は鼻を鳴らす。
「なるほどねえ、小僧もあやかし使いの端くれって訳か。策もなく止めに入ったわけじゃねえんだな。……だが、俺たちのやり方を知ってるかな?」
 言いながら、黒装束は腰を落とし、さりげなく手を後ろにやる。
「……どういう意味だ」
 その一挙一動をじっと睨みつけながら、赫兵衛は低く尋ねる。黒装束は喉の奥で笑った。
「呑気な町人どものお遊びとは違うってことよ! 大鼠、電光石火!」
 瞬間、大鼠があやかしのほうではなく、人——赫兵衛のほうへ突っ込んだ。大鼠の強靭な後ろ足が乾いた土を蹴り、砂埃が舞い上がる。目にも留らぬ早さで突っ込んでいった大鼠の勢いを考えれば、勝負の行方は確認するまでもない。あやかしの力は人のそれより遥かに強大である。あやかしと対等に渡り合うには、余程修練を積まなければならないが、目の前の明らかに商人じみた格好の少年がそれほどであるとは思えない。勝利を確信した黒装束がに、と笑みを深くする。
 しかしそのとき、赫兵衛の落ち着き払った声が聞こえてきた。
「……人相手にあやかしを嗾けるなんて、いい度胸してるよ、お兄さん」
「……!?」
 視界が晴れ、そこで黒装束は、大鼠の突進を己の拳ひとつで受け止めた赫兵衛の姿を見た。信じがたい光景を目の前にして、一瞬、黒装束は言葉を失った。しかし赫兵衛の足下にいたはずの大蝌蚪が消えているのを見るや、はっと息を呑む。
「……てめえ、依り代か」
 普通、人間はあやかし札を媒体にしてあやかしを使役する。札は契約書であると同時に、あやかしと人間を繋ぐ糸、人が使役するあやかしの依り代としての役割もしている。ゆえに札を破られればあやかしはたちまち煙となり、契約自体も破棄される。けれどもたまに、生まれながらにしてあやかしと契約している人間、いうなれば自身があやかし札そのものである人間が生まれることがあった。彼らは依り代と呼ばれた。ただの人よりも彼らはあやかしの棲む異界に近しい存在と見え、あやかしとの親和性が高く、その身体にあやかしを取り込み、その手で自らあやかしの力を行使することができる存在である。赫兵衛が大鼠の巨体の突進を片の掌だけでかるがると受け止めたのも、彼が依り代であるがゆえのことであった。
 鼻先を掴まれていた大鼠が赫兵衛の手から身をもぎはなすようにして逃れた。あやかしは俊敏に、主人である黒装束の元まで後退する。
「それを返して、その子に謝ったほうが良いと思うけどな」
「ふん……生意気な口をきくな。ただの小僧だと思ってたら、とんだ見込み違いだった訳だが、それでも負ける気はしねえな」
 黒装束は、先端に錘のついた鞭を握っている。どうやら彼も依り代ではないにしろ、腕に覚えがあるらしい。そして彼の強気も分からぬことでもなかった。依り代もそうでないのも、それぞれ違った強みを持っているからである。依り代でないあやかし使いは、多くがその弱点を補うために武術を習い、自らがあやかしと共闘するのである。そうした戦法は決して侮れぬことを赫兵衛は骨身に沁みて分かっていた。というのも、赫兵衛が幾度となく敗北を期したあやかし使いの仁緑が、その戦法をとっていたからである。かつて里で唯一の依り代であった赫兵衛は、あやかし使いとして里の誰からも頼りにされ、少々自身過剰に思っていた節があった。けれどもその慢心は、依り代でない同い年の少年に負けたことで砕け散った。何度挑んでも勝てず、さんざん辛酸を舐めたからこそ赫兵衛は冷静である。目の前の相手が依り代でないからといって、否、依り代でないからこそ油断は禁物だ。
 黒装束は焦っているはずだ、と赫兵衛は踏んでいる。早く片をつけなければ、いつ近隣の住民が気付いて奉行所に知らせを走らせるか分かったものではない。黒装束と対峙したまま、赫兵衛は相手が仕掛けてくるのを待った。間もなく、黒装束が動いた。大鼠と二手に別れ、異なる方向から赫兵衛に向かって攻撃をしかけてくる。
「突進!」
 やはり大鼠のほうが早い。赫兵衛は同じように受け止めようと腕を引いたが、ひゅぅっと空気を切る音がしたかと思うと、受け止めようとした右手が鞭に絡めとられていた。赫兵衛は咄嗟に左手を構える。柔らかく指を曲げて掌に抱き込んだわずかな空間がねじれ、そこから勢い良く発射された水で、大鼠を押し戻すことに成功した。しかしまだ、黒装束が残っている。間髪いれずに飛んできた二、三のくないを左手で叩き落とし、拘束された右手を強く引く。単純な力比べならば、依り代である赫兵衛に分がある。赫兵衛がぐっと力を込めて今一度鞭を引っ張ると、黒装束の手から武器が抜けた。
「ちっ……電光石火だ、大鼠!」
 起き上がった大鼠が赫兵衛に再び突進してくる。拘束のない赫兵衛にとってもはや敵ではなく、赫兵衛の回し蹴りの前に大鼠は呆気なく沈んだ。あやかし自身の体力の限界に達したらしく、大鼠は煙となって消える。じ、と赫兵衛は黒装束を見た。もはやこれまで、鬼ごっこをしたとしても、勝ち目がないのは彼とて分かっているはずである。黒装束は舌打ちをして、手に持った鞠を赫兵衛に投げつけた。思いの他強い力で向かってきたそれを、赫兵衛が両手で受け止めた間に、黒装束は姿を消していた。
 遠巻きに戦いを見守っていた少女がぱたぱたと駆け寄ってきた。このあたりでは珍しい、蒲公英色の髪を結い上げているが、その小袖姿からするに町娘のようだ。
「お兄さん、大丈夫?」
「うん。はい、これ、大事なものなんだろ」
「ありがとう」
 少女ははにかんで手鞠を受け取って、ふと、表情を曇らせた。
「お兄さんの着物、切れてる……」
 言われてみれば、赫兵衛の袖のあたりが裂けている。くないが擦っていたのだろう。ちょっと待ってて、と少女は袖から巾着袋を出し、そこから裁縫道具を取り出した。あ、糸がない、と小さく呟いたあと、少女は何の躊躇いもなく、五色の糸の巻かれた手鞠から白色の糸を一本、縫い針の先に引っ掛けて抜き出した。慌てたのは、赫兵衛のほうである。
「え、……それ、大事な」
「この鞠ね、わたしのお兄ちゃんがくれたものなの。この糸がお守りになるんだって」
 言いながら、赫兵衛の着物の袖を取り、少しだけおぼつかない手つきで少女は裂けた部分を繕い始める。不器用ではあるが丁寧な仕事で、それでも五分はかからなかったろう。出来映えは最高とまでは言いがたいが、十分見られるくらいまでにはよく繕われている。にこにこと笑う少女に毒気を抜かれ、赫兵衛はありがとう、と素直にお礼を言った。
「君に一つ聞きたいんだけど、なんであいつはこの鞠を狙っていたんだ?」
「……わからないの。わたしがここでお迎えを待ってたら、いきなりあの人がわたしが衝いていた鞠を取り上げたの」
 少女が手に持つ鞠は、見れば一目で高級品と分かる。掌で転がせば五色の糸は絹のように滑らかで、しかも色合いも淡く美しい。二カ所にある糸の留め具も、磨き抜かれた真鍮製である。売れば十両はくだらないだろう、と赫兵衛は思った。金目当ての犯行であるといっても、確かに頷ける。だが、単なる金目当ての犯行であるならば、このような真っ昼間から、あれほど自己主張の強い黒装束で現れるだろうか。普通であれば目立たぬよう、編み笠をかぶった浪人姿や町人姿で現れるものではないのだろうか。考えても仕方がない。
「俺は万屋をやってる赫兵衛っていうんだ。君は?」
「わたしは、こうっていうの」
「よし、おこうちゃん、だな。いいかい、もしさっきの奴みたいにまた君の手鞠が狙われるようなことがあったら、町奉行所に行くんだ。で、もし取り合ってもらえなかったり、奉行所には言いたくない事情があるなら、俺のところにくるんだ。場所は……奉行所に仁緑っていう俺くらいの男がいるから、そいつに頼めば地図を描いてもらえる」
 うん、とおこうは真面目な顔で頷いた。
「あ、それと……」
 赫兵衛は言いながら、大蝌蚪を呼び出した。
「ごめんな。さっき、怖かったよな。でも、怖いのはあやかしじゃなくて、人間のほうなんだ。あやかしは使役する人によって、悪いことも良いこともする。だからもし君があやかしを使うときには、よく考えてほしいんだ。人間とあやかしが力を合わせれば、すごいことができるのはみんな知ってる……でも大事なのは、その善し悪しなんだよ」
「……うん。わかった、ありがとう、赫兵衛さん」
 おこうはにっこりと笑った。間もなくしておこうの迎えの男が来て、赫兵衛に頭を下げていった。
 おこうが去ってから、赫兵衛は鞭をずっと持っていたことを思い出した。手の中にある鞭の持ち手に、何やら紋らしきものが描かれている。紋の形状は丸く、その縁には異国の言葉が彫られていて、赫兵衛には読むことができなかった。しかし、その紋の中心にある文字は漢字である。
「榊……?」
 それでは、先ほどの黒装束は榊一味のものであったのか、と赫兵衛は思い至る。赫兵衛は、鞭を握りしめたまま、しばらく迷った。しかしやがて黙ってその鞭を袖の中に入れ、その場を立ち去った。
 本格的に捜索を開始するとなると、店をずっと閉めていなければならない。思いがけず二十両という大金が転がり込んだので暮らし向きには困らないといえども、何せ信用商売である。あまり長いこと家を留守にするのもよろしくないというので、赫兵衛は店の裏の長屋に住む五郎(ごろう)という少年に手間賃をやって留守を頼むことにした。赫兵衛の万屋は小棚物屋としての一面もあるので、そちらからの細々とした収入で手間賃くらいは賄える。
 この五郎、歳は赫兵衛よりも四つ下の十歳なのだが、なかなかしっかりした少年である。彼は九尺二間の長屋に母親と五男二女の兄弟とともに暮らしている。五郎は名の示す通り末弟で、下に妹が二人いる。四年前に父親を亡くして以来困窮に喘ぐ暮らしだったようであるが、幸いにして子供は皆健康であった。五郎の上にいる四人の兄たちも成人を待たず物売りや見世物小屋手伝いなど始めて、最近では貧乏なりに、少しずつ暮らし向きも良くなってきたらしい。それでも、一番上の子くらい、道場に通わせてやれたらいいんだけどねえ、というのが赫兵衛の店に来たときの母親の口癖で、今年に入って妹二人も手がかからなくなっていたので、五郎も働き口を探していたのを思い出したのである。
 五郎は飢餓と隣り合わせの生活を送ってきたとは思えぬほど、素直な少年である。父親存命のころ寺子屋に通っていたという長兄、次兄の教育で、簡単な金勘定もできるし、嘘やごまかしのできない心根の正直な人柄であるから、赫兵衛も安心して店の留守を任せることができる。依頼から三日目である今日もそうして五郎に留守を頼んだあと、赫兵衛は静乃を探しに盛り場へ繰り出した。
 赫兵衛はそうして陽が傾くまで盛り場をうろついてみたが、静乃らしき少女には出会えていない。お柑からはあれ以来、眠狐を通して一度だけ首尾を尋ねる連絡があったが、赫兵衛は色よい返事を返すことができなかった。お柑は相変わらず感情の起伏の読み難い声であり、明らかな落胆の色は読み取れなかったが、事を急いでいるようなことをぽつりと零したところを見ると、やはり気は急いているのだろう。今日こそ見つけなくては、と息巻いては見るものの、結局のところ見つかるかどうかは運任せであるような今の状況は、赫兵衛としては少々情けないといっても良いくらいであった。
 何はともあれ腹が空いたので、赫兵衛は盛り場から路地に入った。昨日入った水茶屋で働いていた娘に、美味しい蕎麦屋を紹介してもらったのを思い出したのである。普通、商店というものは大通りに面した場所で営んでいるところが多いが、そこは裏長屋の一角で商売をやっているそうである。分かり難いところにあるけれど、目印があるのだとその娘は言った。路地を暫く真っ直ぐに進むと、左側に大きな金木犀が見えてくるのだそうだ。その金木犀の前で立ち止まって、右を向くと、ちょうどそこが件の蕎麦屋であるという。かくして、その言葉に従って歩いていくと、武家屋敷らしき囲いが小径の左側に見え、その途中で金木犀の樹を見つけた。屋敷の裏口と見えるすぐ横である。いまが咲きどきと見え、山吹色の花を散らすその樹から、芳醇な香りが秋風に運ばれてくる。その香りに、赫兵衛はお柑のことを思い出した。
 蕎麦屋に入って、赫兵衛は金木犀の見える入口付近の席に腰を下ろした。切り盛りしているのはどうやら年老いた親父と若い女中だけのようであった。これほど閑散としている場所にも関わらず、二、三の客がいる。どうやら隠れた名店といった風情は本当らしいと赫兵衛は思った。
 横目で金木犀を眺めていた赫兵衛に、女中が注文を取りに来た。痩せぎすといってもいいくらい華奢な娘だが、肌は程よく陽に焼けていて病人のような印象はない。肉がつかない体質なのだろうか。歳は赫兵衛より二、三は上であろうか。小さな顔についた大きな二つの目が印象的な、人懐っこい娘のようである。赫兵衛は二八蕎麦をひとつ頼んで、再び金木犀に意識を移した。
 半刻としないうちに、先ほどの女中が冷たい蕎麦を持ってきて、言った。
「……旦那さん、あのお屋敷のことを知っていらっしゃるの?」
「え?」
「だってずっと見ていたでしょう」
 依頼内容については口止めされているから、滅多なことでは口に出すこと憚られる。赫兵衛はなんとか言葉を濁し、逆にどうしてそんなことを聞くのかと女中に尋ねてみた。
 女中は名を早苗(さなえ)といい、蕎麦屋の親父の孫娘であった。聞くに、今は焼け跡となっているあの金木犀の武家屋敷に奉公したことがあり、そのときに旗本の一人娘と仲良くなったのだという。ところが数年前屋敷は炎上し、屋敷の者の多くは焼け死んでしまった。それを機に旗本とその娘は都を離れてしまったそうである。赫兵衛は目をぱちくりさせた。つい最近、似たような話を聞いたばかりではなかったか。
「以来何の音沙汰もないので、心配していたんです。そこに旦那が、ずっとあの屋敷を見ていらっしゃるから、何かご存知なのではないかと思って……」
「……その屋敷の一人娘って、もしかしてお柑さんって言わないか?」
「……なぜ旦那がそれを……?」
 大きな目を更に見開いて、早苗は暫く言葉を失っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうです、確かにお柑さまといいました。けれど、なぜご存知なのです?」
 赫兵衛の格好はあからさまに商人体としたものである。武士なれば武家同士の付き合いもあり知っていてもおかしくはないが、唯の商人が知っていることに、早苗は驚いているのであろう。早苗の赫兵衛を見る目が、怪訝そうなものになる。
「知り合いに聞いた話にそっくりだったんだよ。ところでさっき一人娘っていったよな。俺の聞いた話じゃもう一人、静乃さんっていうお嬢さんがいたって」
 これは、うまいことお静の話を聞く機会だと思い、さりげなさを装って赫兵衛は尋ねる。しかし早苗は、困ったような顔で首を傾げた。
「静乃さん……? もしかして、二番目の奥様の連れていた方のことかしら」
「そうそう、確か連れ子だって」
「でもその方は行方不明になられたって……私がご奉公に行く前のことだから、よく知りません」
 早苗がきっぱりと言ったので、赫兵衛は内心で落胆した。それに気付かず、早苗はなつかしそうに目を細める。
「懐かしゅうございます。お柑さまは箱入りのお嬢様でございましたから、外を歩くこともできなくて、あの金木犀の下で待ち合わせて、こっそりここに来てお爺ちゃんに白玉をこしらえてもらったりしたものです」
「へえ……お父上が厳しかったとか?」
 少々興味をそそられて、赫兵衛が相槌を打ちながら尋ねると、早苗は眉をひそめた。露骨な嫌悪の表情である。お柑の話からあまり人柄の良い人ではなかったのだろうとは思っていたが、奉公人たちにも嫌われていたのだろうか。
「ええ、それはもう……。お柑さまは絶対に屋敷の外に出てはならないと、いつも旦那様に厳しく言いつけられておりました。私たちにも、お柑さまを決して外出させてはならないと、鬼の形相で言うのですもの。それだけならまだしも、お柑さまはいつもお一人で離れの庵で寝食されておりました。奥様もやはり血の繋がらない娘は可愛くないものと見えて、お柑さまはいつもひとりぼっちだったのですわ。しかもお柑さまへの風当たりは年々強くなっていって、あの火事の直前なぞ、旦那様はまるで敵を見るような目でお柑さまを見ておられました」
「酷い人だなあ。……でも実の娘をそれだけ冷遇するっていうのは、何か理由がありそうなものだけど」
 赫兵衛が言ったとき、他の客が勘定に早苗を呼び、早苗は明るい声を張り上げて踵を返した。見ていると、どうやら早苗は赫兵衛に恋慕でもしていると思われていたのか、からかわれているらしい。早苗の元気が声が笑っている。客が少ないからこそであろうが、女中が水茶屋並みに客相手にお喋りをしてお叱りがないあたり、おおらかな店なのだなあと赫兵衛は思う。台所でむっつりとしている親父から文句が飛んでくるような気配もない。
 しばらくして、早苗が戻ってきた。
「先ほどの理由について、使用人たちの間の噂ですけど……旦那様と奥様はその行方不明になられた娘さんを逃がしたのがお柑さまだと疑っていたからだ、と」
「……どういうことだ? その旦那様と静乃さんは、仲が悪かったのじゃあ……」
「わたしも、よくは知りません。噂ですもの、根も葉もないことかもしれません。……でももしそれが本当でも、お柑さまは酷いことをするようなお人じゃありません。逃がしたとすれば、何か理由があったのですわ」
 どうやらこれ以上静乃の情報は得られそうにないと思い、赫兵衛は蕎麦を平らげて店を後にした。はらはらと花を落とす金木犀の前で立ち止まり、物思いに見上げる。
(それにしても、お柑さんがなあ)
 お柑がそれほど苦労していたとは、赫兵衛には意外だった。父母にそれだけ冷遇されていながら、武士顔負けの隙のない所作や毅然とした態度で自分の愚痴など何一つこぼさず、父親の身を案じ、義妹に同情をかけているとは、見上げるほどの性根の良さといわざるを得ない。まるで思い出の全てを切り捨ててしまったようにも見えるが、彼女が金木犀の香油をつけているのは、早苗と誘い合わせて白玉を食いにいったことが忘れられないからではないだろうか。そう思うと、なんだかいじらしいようで、胸の奥がむずがゆくなる。同時に、なんとしてでもお静をつかまえねばと決意も硬くなる。赫兵衛は、落ちていく金木犀の花を二、三、手のひらにとって、それを袖の下に仕舞ってから歩き出した。
 依頼を受けてからちょうど一週間となるが、静乃は相変わらず見つからない。おおっぴらに聞き込みでもできれば良いのだが、依頼内容については口止めされているし、聞き込みをすれば静乃本人にこちらの行動を知らせることにもなりかねないのが辛いところであった。早苗に話を聞いて以来、あの店の蕎麦が気に入ったのもあり、金木犀屋敷前の蕎麦屋には毎日通っている。早苗の口から、炎上した屋敷の使用人で生き残った者の名前を聞き出せれば、静乃についての情報が得られるかもしれぬという狙いもあったのだが、それも不発に終わった。早苗はそのうちの誰の居所も知らなかったのである。
 赫兵衛は今日も件の蕎麦屋を訪れ、蕎麦を胃の腑に落とし込みながら、何か良い方法はないものかと思案に暮れていた。結局これという方法を思いつかぬまま、勘定を支払い、蕎麦屋を出たそのときであった。何気なく赫兵衛の視界に入った人影に、赫兵衛はあっと声を上げそうになった。蕎麦屋を出て右手方向、金木犀屋敷の塀に寄り添うように立っているひとりの女。頭巾で顔はよく見えないが、遠目にもわかるほどに白く、滑らかに長い首に、心臓が高鳴った。瞬間、赫兵衛はゆっくりとそちらの方向へ歩き出した。女はまるで分かっていて待っているかのように、赫兵衛が目の前に立つまで微動だにしなかった。
「…………お柑さん?」
 その一言を言うのに、なかなか声が出なかった。そういえば名前を呼ぶのは初めてだと、呼んでから、また心が騒ぐ。
 女は伏せていた顔をゆっくりと上げる。思った通り、お柑であった。この間とは違う、華やかな山吹地に白い小花を散らした小袖姿である。胸高に赤い太帯を締めたその姿は、この間よりも少女然として見えた。それに、何より違うのは化粧をしている。この間は化粧をしていないのが逆に荒んだような色香を醸し出していたのだが、今日は肌に一点の曇りもなく、どことなく品のある風情が漂っている。
「赫兵衛殿か。このような場所で会うとは……驚いたな」
 お柑は悠然と微笑んだ。
「……ここに来ているってことは、やっぱり、忘れられないのか?」
 赫兵衛は思い切って尋ねてみることにした。すると、お柑は一瞬虚を突かれたような顔をして、やがて、ふっと低く笑う。そして、場所を変えよう、と提案してきた。赫兵衛は黙って頷いた。
 赫兵衛はお柑とともに、表通りの水茶屋の一件に入り、座敷の一番奥の席に座った。茶汲女は緑茶を運んでくると、訳知り顔で退散した。彼女たちが目当てとしているのは心付けである。男性客ならば丁重にもてなせばいくらかの心付けをもらえる見込みがあるが、男女の二人連れとなるとそもそも見込みがないし、いろいろと世話を焼いたところで邪魔あつかいされることのほうが多いことを分かっているのだろう。そのぶん愛想はしぜん悪くなるが、赫兵衛は心付けを払わなくて済むことにむしろほっとしていた。
「早苗から聞いたのだな?」
 お柑が椀を手に口火を切った。ああ、と赫兵衛は応えた。お柑はさすがに上品な手つきで、赫兵衛も同じように茶に手をつけるにしても、なんだかどぎまぎしてしまう。
「あれは気の好い娘だが、お喋りなところにはたまに閉口する」
 憮然としてお柑は言ったが、言葉ほどには怒っていないようすである。
「じゃあ、やっぱりあの屋敷がお柑さんの家だったのか」
「そうだ。……その様子だと、静乃のことも何か掴んだか?」
「いや、早苗さんは静乃さんのことをほとんど何も知らなかったよ。俺が聞いてみたときも、誰のことだかわからないみたいだったしなあ……。お柑さんの腹違いの妹が行方不明になったってことくらいしか知らなかったって」
 そうか、と低く呟いてお柑は息をついた。
「お柑さんのほうは?」
「私も探してはいるが、駄目だ。一向に見つからない」
 赫兵衛は伏し目がちになったお柑を伺うように覗く。見れば見る程に美しい女である。昼間の明るさの中で、お柑のくろぐろとした髪が艶々と光ることに気付いた。みどりの黒髪とはこのようなものを言うのだろうか、というようなことが赫兵衛の頭を過る。と、そこで赫兵衛は我に返り、脱線しかけた思考を戻した。
「お柑さん、あの屋敷でお父上に辛く当たられていたんだろ? それなのに、なんで今、遠い都に来てまでお父上のために……」
「…………野暮なことを聞くものだな」
 ばっさりと、お柑は切って微笑んだ。
「理由など本質ではあるまい。ただ、私がしたいからする、それだけだ。それとも何か。貴公は、何か理由があって私の依頼を引き受けたのか?」
 逆に問われて赫兵衛は答に窮した。
「参ったな」
 素直に赫兵衛が呟くと、お柑は気をよくしたように笑みを深くする。
「貴公のそういうところが気に入ったのだ」
 囁くように告げられて、赫兵衛はかっと頬が熱くなったのを自覚した。顔に血が集まっているのがばれていないようにと思わず祈ったが、いまや身体中が暑くてあまり自信はない。やっとのことで、赫兵衛は次の言葉を絞り出した。
「……早苗さん、心配してたけど、会わなくていいのか?」
「ああ。特に今していることは、あまり褒められたことではないだろう」
 公共の場であることを考慮して、ぼかして言ったのだろうが、違法行為に早苗を巻き込むようなことは本意ではないのだろう。そうか、と赫兵衛は少しだけ浮かない気持ちになった。お柑とて、早苗の想いとそれほどかけ離れた心を持っているとは思えない。そうでなければ、焼け跡となった屋敷を訪れたりはしないだろう。それで、赫兵衛も気持ちが固まって、袖の下に手を差し入れた。取り出したのは、細長い千代紙の包みである。赫兵衛はそれをお柑に差し出した。お柑はしばらく目を瞬いて固まっていたが、やがて、口を開いた。
「……私に、か?」
「受け取ってほしいんだ」
 なぜ、とお柑が小さく呟いた。赫兵衛は朗らかに笑う。
「お柑さんの喜ぶ顔が見られたらいいなと思ってさ」
「理由になっていない」
「さっきお柑さんだって言っただろ。喜ぶ顔が見たいと思うのに、理由なんてないよ」
 お株を取られた形になったお柑は、黙って千代紙の包みを受け取った。無言でそれを開くと、そこには金木犀の押し花の栞が一枚、入っている。お柑は何もいわずしばらくそれを眺めていたが、不意に赫兵衛を見て、不敵に微笑む。
「……もしかして、私を口説いているのか?」
「……へ!?」
 慌てたのは赫兵衛のほうで、彼自身はそんなことなど欠片も意識していなかっただけに、間抜けな声を上げて固まった。お柑は赫兵衛の返事を待たずに腰を浮かす。
「まあ、どちらにしろ貴公の心遣いは嬉しかった。これはいただいておく。有り難う、赫兵衛殿」
 お柑はやや多めの代金を置き、颯爽と席を立っていった。赫兵衛はといえば、彼女が去ったあともしばらく動けず、赤くなったり青くなったり忙しくしていた。そんな赫兵衛の心境を推し量ってか、手持ち無沙汰になっている茶汲女も赫兵衛に寄ってこようとはしない。ようやく心を落ち着けて店を出ることができたのは、お柑が去ってから半刻もしたところであった。千代紙の包みを取り出した袖の下を見ると、今でも顔が熱くなる。よくもあんなに大胆なことが——まだ二度しか会っていない女に、贈り物をするようなことが——できたものだと、自分でも感心する。
 結局その日、赫兵衛は静乃捜索にあまり身が入らなかった。情けないことである。
「ねえ赫兵衛さん、いちど上位になったあやかしが下位にもどるということは、ありえるんでやんすかねえ?」
 毎朝せっせと赫兵衛の店まで来て、すっかり留守番も板についてきた五郎が、ある朝、そんなことを言った。妙なことを言うものだなあと赫兵衛は思った。
 長いことあやかしと一緒にいると、突然、あやかしが姿を変えることがある。人の見ている目の前で姿を変えることもあれば、一度あやかしを還してまた呼び出したときに、同じ札を使っているのに姿形の違うあやかしが呼び出されることもある。そうして姿を変えたあやかしを上位物(じょういもの)または上物(じょうもつ)、対して姿の変わる前のあやかしを下位物(かいもの)または下物(げもつ)という。下位物から上位物になるということは、あやかしが成熟したという証でもある。大人になった人の子が子供に戻れないように、上位物となったあやかしは下位物には決して戻れぬ決まりがあるのである。普段あやかしを使わぬ場合は知らぬものもいないではないが、あやかし札を使えば平凡な町人とて、気軽にあやかしを使役できる時代である。近所にあやかしを使う人も少なくないだろうに、長屋暮らしの五郎が知らぬとはいささか考えられぬことであった。
「いや、聞いたことないな、そんな話……。誰かに聞いたのか?」
「へい、実は、お六(ろく)とお七(しち)が……」
 五郎の話はこうであった。
 昨日、料亭で働いている五郎の母は暇をもらい、幼い娘のお六とお七を連れて盛り場へ行った。お六とお七はひとつ歳の違う、たいそう仲のよい姉妹である。五郎が赫兵衛の店で留守を勤めるようになって以来、二人っきりで家の中のことをしながら留守番をしている娘たちを、気晴らしにつれていってやろうと考えたわけである。ところで、五郎の母は昔気質であやかし札の使い方も知らず、興味もない女性だが、お六とお七はあやかしに興味津々であった。隣の長屋であやかしの走り回る音を聞いては壁に顔をつけて耳をそばだて、井戸に洗濯に行っては自分たちと変わらぬ歳の子があやかしと戯れ合っているのを横目に見る。五郎の妹たちはそうして興味を示しながらも、自ら手を伸ばすには少しおっかなびっくりな様子であるという。
 だから、お六とお七は盛り場でとある見世物小屋を見つけて、たいへん興奮したのである。題目は、上物と下物を自由自在に行き来するあやかし、とあった。むろん、娘二人はその題目の意を解したわけではなかったが、題目にあやかしとあるだけで、純朴な娘たちは舞い上がってしまったのである。早速娘たちは母親に付き添ってもらって、その見世物小屋に入った。そこで娘たちは題目の通り、下位物が上位物となり、それがまた下位物にもどり、更にはまたしても上位物になるというあやかしを目にしたことを、五郎に興奮気味に語ったというのである。一度上位になったあやかしは下位に戻ることはないという原則を知っている五郎は怪訝に思って、母親に確かめてもみたものの、あやかしに疎い母の言うことも宛にならぬことが分かっただけであった。
 そこで五郎は、一端のあやかし使いである赫兵衛に尋ねてみることにしたのだという。赫兵衛は学者ではないからあるともないとも言い難かったが、つい興味をそそられる話でもあった。赫兵衛は出かけ際に五郎の家に寄り、お六に見世物小屋の場所と時刻を聞いてから静乃捜索に出かけた。その後、赫兵衛は適当に町をうろつき、ここのところ通い詰めている金木犀屋敷の蕎麦屋で昼飯を食い、それから件の見世物小屋に出かけた。代金を払って中に入ると、既に人でいっぱいになっている。余程流行りの見世物なのだろう。枡席の一角でしばらく待っていると、やがて開幕の合図である太鼓が拍子を打ち、ざわついていた周りの人々もさっとお喋りを止めた。
 見世物小屋の奥にある広い台の上に、青い絣模様の小袖を身につけ、物売り風に裾をたくしあげた、腰の曲がった男が上がってきた。格好こそありふれているが、へっぴり腰でよたよたと歩くさまが早くも観客の笑いを誘っている。しかし、男はいったん壇上にあがるやいなや、ぴんと背筋を伸ばし、ろうろうと響く声で枡席に語りかけたのである。
「さあ、いまからお目にかけるのは世にも不思議なあやかし、その名も変異獣(いいぶい)。知る人ぞ知るこの変異獣、なんと姿形も能力も違う三つの上位物に変化する、珍重なるあやかしでございます」
 観客席がざわつく。赫兵衛も聞き覚えのあるあやかしの名前であるが、本物を見たことはない。更に興味をそそられた。
「さてさて、それだけではございません。何が特別と申しますとこの変異獣、なんと上位物になっても再び下位物へ戻り、また上位物に変化することができる、これまで信ずられてきたあやかしの常識を覆す能力を持っております。それでは世にも特別な変異獣の変化劇、心行くまで存分にご覧くださいませ」
 男が二、三歩下がり、懐から一枚の札を取り出すと同時に、男の前にあやかしが現れる。高さ一尺ばかり、ぴんと立った長い耳と、首回りを分厚く包む白い長毛、大きく膨らんだ尻尾と、極めて愛らしい容姿をしたあやかしである。
「先ずは炎」
 ぱちりと男が指を鳴らすと、変異獣が壇上で急に硬直したかと思うと、みるみるうちにその姿形を変え、炎獣(ぶうすた)と変じた。炎獣は上位物へ変化したことを示すように、ふっと軽く炎を口から吹いて空中で散らしてみせた。
「さ、もどれ」
 再び男が指を鳴らすと、炎獣がぴたりと硬直し、その身体が縮んで元の一尺の変異獣となる。赫兵衛は驚いて、思わず身を乗り出した。先ほどまでの炎獣は既になく、そこには愛らしい姿の変異獣がいるだけだった。あやかしは星の数ほどいるといえども、まさかこのような特殊能力をもつあやかしが存在するとは思わなんだ。素直に赫兵衛が感嘆の息をついたそのときである。赫兵衛のあやかし、大蝌蚪が勝手に赫兵衛の袖から煙となって顔をのぞかせてきた。
「どうした、にょろ?」
 鷹揚な気性のにょろがこのような狭い場所で赫兵衛の呼び出しもなく、勝手に出てくるようなことは珍しい。何かあったのだろうかと赫兵衛はこっそりと問いかける。にょろは何か伝えたそうに赫兵衛と自分を交互に指す。
「……憑依したいのか?」
 赫兵衛が思い至って尋ねれば、にょろはこくこくと頷いた。よく分からないが、そうしてみようと赫兵衛は目を閉じて身体の力を抜いた。にょろがすうと袖に引っ込んだが、還ったのではなく、赫兵衛に乗り移ったのである。赫兵衛は憑依されると、自分が自分であってそれでいてそうでないような、ふわふわと矛盾した感じを受ける。それでも意識ははっきりしている。目を開けると、壇上の男が再び指を鳴らすところであった。
「お次は雷」
 先ほどと動揺、ぴくりと変異獣が固まった、が。
(……うっ!?)
 今まで見えていなかったものが、赫兵衛の目に映っていた。文字である。雷と男が命じたと同時に、変異獣の身体中に無数の言葉が浮かび上がり、虫のようにその小さな身体の表面で犇めき合っていた。それらは変異獣の耳を裂き、背中をかきむしり、鼻先を引っぱり、羽毛を四方八方にぴんと伸ばす。変異獣は苦しげにうめいている。
 半端に裂かれてぎざぎざになった耳や、かきむしられた体毛が針のように鋭く固くなってくると、そこにいるのは既に変異獣ではなかった。上位物、雷獣(さんだす)である。身体中から電気が、細い稲妻となって宙を走った。
「最後に水だ」
 そう言った瞬間、雷獣の身体にわっと文字が寄り集まり、今度は先ほど裂いた耳や引っ張った鼻先を、今度はぎゅうぎゅうと押し込める。そうして一度もとの変異獣に戻り、再び文字が変異獣の身体をよってたかって伸ばし始めた。そうして今度は水獣(しゃわず)に変化する。赫兵衛はその一部始終を見ていた。にょろにはこれが見えていて、同族が痛めつけられているのを捨て置けぬと思ったのだろう。
 赫兵衛は見世物小屋を出た。痛めつけられているあやかしに同情の気持ちも強かったが、それ以上にあの文字がいったい何を意味しているのかが気になって、赫兵衛は知り合いの札師——あやかし札を作ってやることで生計を立てている職人のことである——のもとを訪ねることにした。
 盛り場から細い路地を通り、十分ほど歩いたところに、札師藤蔵(とうぞう)のひっそりとした家屋がある。藤蔵は、いまは亡き赫兵衛の父親の歳の離れた友人であり、赫兵衛自身にとっても恩人である。生まれながらあやかしと契約を結ぶ依り代は、自我が芽生えるまでは自らの中にあるあやかしを治めることができぬ。そのため、依り代が生まれると、あやかしが暴走しないように札師が身体にあやかしを眠らせるための呪を書き付ける。それは揺り籠の呪と呼ばれ、依り代たる赫兵衛の身体に揺り籠の呪を書いたのが、藤蔵その人であった。今はもう齢七十を超え、札師もとうに引退して妻女とともに粛々と老後を送っているというが、かつては腕利きの札師として名高かった人物である。彼に会うのは、赫兵衛が都に出てきたとき以来なので、半年ぶりとなる。
 果たして、藤蔵は在宅であった。彼は赫兵衛が物心ついたときから変わらぬ柔和な笑みをもって迎え、赫兵衛を縁側に誘った。藤蔵の家は狭いが、人に知られていない、こじんまりとしてはいるが実に見事な庭がある。白い丸石の敷き詰められた庭には小さな竹林があり、小さな祠がある。竹の根元には白粉花や菊が寄り添うように咲いて華を添え、まるで異界のようであった。
 妻女が運んできた茶を啜りながら、赫兵衛は藤蔵に先ほどの見世物小屋であったことを話すと、藤蔵はふむとひとつ頷き、あっさりと答えた。
「ふむ、それは呪言じゃろうな」
 あやかし札を書くということは、あやかしを契約で縛るということでもある。そのため、札に書かれるのは縛る言葉、いうなれば呪言である。あやかしはあるようでない、極めて曖昧な存在である。呪言の刻まれた媒体がなければ、この世に形を取ることすらできぬ。その媒体が、札人、または自然に存在する苔むした岩や大木、草原、海などである。あやかし札は人為的に呪言を書き付け、媒体としたものとなる。
「爺ちゃん、あの変異獣の呪言って解けるのか?」
「あやかし札を見てみないことには、何とも言えぬが、赫兵衛……まさかおぬし」
 最後まで口に出さずとも、表情から赫兵衛のやらんとすることを読み取ったらしく、藤蔵は困ったように眉を寄せ、たっぷりと蓄えた自らの白髭を撫でた。
「赫兵衛。いくら悪事とても、人のあやかし札を盗むのは泥棒に違いない。ここは御奉行に任せ、じっとしているのが良いと思うがね」
 だが、赫兵衛は首を横に振った。
「奉行所は、今悪ノ牙一味にかかりきりで、小物に構ってる暇はないんだってさ。証拠だって、普通の人間には見えないんだ。言ったところで、まともに取り合ってくれるとは思えないよ」
 むう、と渋い顔で藤蔵は唸ったが、やがて諦めたように溜息をついた。話は決まったとばかりに立ち上がりかけた赫兵衛を、藤蔵は呼び止める。
「赫兵衛、確かにおぬしは強いが、世間は広い。まだまだ上はおる。くれぐれも自らの力量を見誤るでないぞ。……特に、法に背くときはな。法は、善意も悪意も区別せず、ただ裁くだけのものじゃからの」
「分かってるって! それじゃ、また来るから!」
 調子よく立ち上がって庭に飛び降りた赫兵衛が駆けていくのを見送りながら、やれやれと藤蔵は今一度溜息をついた。赫兵衛は真っ直ぐで正義感の強い少年だが、昔からいささか自信過剰のきらいがある。どうやら父親に似たらしい。若者の快活な後ろ姿が、藤蔵には赫兵衛の父親と被って見えた。
「おう」
 ふと、庭先に小さなあやかしの姿を見つけて、藤蔵は声を上げた。竹林に潜んでいたらしいそのあやかしは、電気鼠(ぴかちゅう)である。竹の後ろからひょっこりと顔を出し、赫兵衛の去っていった方向を見ていたが、しばらくして丸石を蹴って藤蔵の前までやってくると、老翁を見上げる。つぶらな黒目が、問いかけるようにじっと藤蔵に向けられていた。いつの間にか竹林の中に、木の実が無造作に置かれている。
「そうか、今日は墓参りか」
 遠路はるばるご苦労じゃったのう、と労いの言葉をかけながら、藤蔵は赫兵衛に出した煎餅の一枚を砕き、電気鼠に分け与えた。電気鼠はその場で堅焼き煎餅を両手に持って、かりかりと齧り始める。食べ終わって、くるくると口元の毛繕いをしたあと、電気鼠は再び藤蔵に視線を向けた。うむ、と藤蔵がうなずく。
「さっきのが、お前さんのご主人の息子でな、似てるじゃろ?」
 電気鼠は再び赫兵衛の去っていった方を首だけで追い、チュウ、と不満そうにひと鳴きした。あんなのは歯牙にもかけない、そういいたげな風情である。藤蔵は笑いそうになるのを堪えた。
「どうやら、少々お前さんにも似ておるようじゃの」
 心外だ、というふうに、電気鼠はぷいと顔を背けた。
 盗みに入るのにはうってつけの、月の暗い夜である。赫兵衛は営業の終わった見世物小屋から出てくる、昼間壇上に立っていた男の後をつけた。男は赫兵衛の尾行に気付かず、とある道場に入っていった。道場は朽葉と呼ばれる流派で、都の中でも十本の指に数えられるほど、名の知られた大道場である。
 そんな所に、何故? 赫兵衛は不穏な空気を感じて、道場に忍び込んだ。にょろを憑依し、外塀をらくらく飛び越えて音もなく着地すると、赫兵衛は上がり込もうとして縁に手をついた。そのとき、びりっと赫兵衛の手足に電流が走り、思わず立ち上がって二、三歩後ろによろめいた。罠かと思い、咄嗟に逃げ出そうとしたが、足が痺れてその姿勢のまま動けない。
「誰だ、こんな時間に」
 笑いを含んだ掠れ気味の声とともに、縁に浴衣姿の男がぬっと現れた。見世物小屋の男ではない。
 その風貌は、一言で表すならば逞しいとでもいおうか。背丈は大男というまではいかずとも大きく、胸や手足などひとつひとつの部分が全体的に太い筋肉に覆われているのが衣服の上からでも分かる。金髪白皙で、発音に独特のアクセントがある。赫兵衛はふと、朽葉道場師範が異国の人であるという話を聞いたことを思い出した。
「……あんたが、朽葉道場の……?」
 思わず赫兵衛の口をついて出た言葉に、男はにやりと白い歯を見せて笑った。
「そうだ。おれが道場主のマチスだが、こんな時間に入門希望者か?」
 言葉とは裏腹に、全身が竦むほどの凄まじい気迫である。気圧された赫兵衛が何も言えないでいると、マチスは赫兵衛の襟首を掴んで、軽々と持ち上げた。うわあ、と声を上げる赫兵衛をよそに、マチスはずんずんと道場の廊下を歩いていく。
「うちはあやかし道場だが、あやかしに頼らない主義でな。道場のあちこちにおれの罠が仕掛けられている」
 歩きながら言い、マチスは赫兵衛を玄関先で下ろした。
「到着……、坊主、入門希望なら今度は昼間に、入口から入ってこい」
 薄ら笑いともとれるような表情を浮かべながら、マチスは赫兵衛に背を向けて道場の中に戻っていく。堂々と背を向けたその後姿に一点の隙も見つけられないことに、赫兵衛は戦慄する。やはり、道場主ともなるとあやかし使いとしての技量も相当のもののようである。
 赫兵衛は大人しく道場の外に出たが、諦めてはいなかった。マチスという道場主は、赫兵衛が入門希望で来たのではないと看破していたと考えていいだろう。見世物小屋であやかしを痛めつけていたあの男と、朽葉道場主マチスには、何か繋がりがあるのかもしれない、と赫兵衛は考え始めていた。後ろめたいことがなければ、赫兵衛の行動は単なる悪戯としか受け止めようのないものだ。しかし、警告の響きを含んだマチスのあの気迫——今回は見逃してやるが次は無いぞ、というような——は、何か探られてはまずいことを抱えているからこそではないだろうか。
 しかし、だからといって、どうしようか。道場の前に立ち尽くして考え込んでいた赫兵衛の耳に、ふと、小さな呼びかけが聞こえた。
「旦那さん、ちょっと」
 女の声である。赫兵衛が振り向くと、小径に物売り姿の女が一人、ひっそりと佇んで手招きをしていた。近づいて見ると、色が白く目鼻立ちのはっきりとした、細面の美貌の女である。深々とした二重瞼が、どこか異国人じみた印象であったが、発音のほうは至極自然だった。蒸栗色の波打つ長い髪を結わえもせず、胸元までしどけなく垂らしている。
「ねえ、さっき、朽葉道場に侵入しようとしてたでしょ」
 艶のある声で女が囁いた。むんと来るような、濃密な色気に、赫兵衛はいささかたじたじとなりながらも、頷いた。この女も美人ではあるが、お柑のほうがいい、と赫兵衛は思う。涼しげな一重の目元や、抜けるように白く長い首筋から、ほのかに匂い立つような慎ましやかな色気のほうが、赫兵衛にとっては好もしいもののように感じる。と、考えて、赫兵衛は心の中だけで激しく首を振った。女と見るやお柑のことが頭に浮かんだことが、なんだか、お柑に対して申し訳ないような気がしていた。
 目の前の女は、赫兵衛の内心の動揺に気付いた素振りもなく、続けた。
「もしかしてあなた、変異獣のあやかし札を狙って来たのでなくて?」
「なっ……」
「実はねえ、あたしもなのよ」
 なぜ知っているのか、と思わず口に出しかけた赫兵衛に、女はにっこりとした。赫兵衛は思わず身構えるが、女のほうは少しも気にしたふうでもない。
「あ、でも、あたしは札自体が欲しいわけじゃないのよ、中身が見られればいいだけでね。そこで旦那に相談なんだけど、あたしに協力しない?」
 女は以前から変異獣のあやかし札を狙っていて、見世物師が朽葉道場の高弟、謙二郎[けんじろう]という男であることまで突き止めていた。謙二郎は田舎からあやかし使いとしての修行のために都に来ており、朽葉道場に寝泊まりしている。朽葉道場の警備が厳しいのを知っていた女は、謙二郎が道場から見世物小屋に行く道すがら掠め取ったのだが、あえなく偽物であったという。
「おそらく、見世物小屋で見せている札も偽物でしょうね。本物は、着物の裏地にでも縫い付けてあるのじゃないかしら」
 相手は朽葉道場の高弟、正攻法で対峙して楽に勝てる相手とも思えぬ。そもそも、町中で堂々と勝負を仕掛けるようではいろいろと障りも大きい。というので、女は作戦を変更し、寝込みに侵入して札を取る作戦に転向し、調査を進めた。そしてつい一昨日、朽葉道場の罠の配置図の写しを手に入れたのだという。ところが、まだ問題が一つある。
「……問題?」
「配置図があるから罠の場所はわかるんだけど、あたしの運動能力じゃ全ての罠を回避するのは難しそうなのよ。そこで取引の話になるわけ」
 女はあやかしを憑依した赫兵衛が、やすやすと高塀を乗り越えるのを目にした。それで、赫兵衛ならば罠をくぐり抜け、あやかし札を盗み出すことができるのではないかと踏んだのだ。
「どう? あたしは札を見るだけだから、札は旦那の手に入るし……罠の場所も全部教えてあげるのだから、悪い話ではないと思うけど」
 流し目を送ってよこす女に、やはりぎくっとなりながらも、赫兵衛は頷いた。みっちりと周辺捜査を終えていることといい、何のこともなしに謙二郎から偽物の札を掏摸取ったことといい、どうやらこの女、生粋の泥棒のようである。そんな女の片棒を担ぐのに気が引けないでもないが、今回に限っては赫兵衛も同じことをしようとしているのだから、五月蝿くは言えまい。
「ほほ、取引成立ね」
 女は口に手を添えて軽く笑い、袖から一枚の札を取り出した。
「けいちゃん、いらっしゃい」
 女が囁いたと同時に姿を表したのは、眠狐(けいしい)であった。赫兵衛の見張りのため、お柑が赫兵衛に付けていったのと同種のあやかしである。
「この子を旦那に付けさせるから、罠の場所はこの子に聞いて頂戴」
「わかった」
 子の刻を過ぎ、道場の明かりが全て消えてから一時間は経った頃、にょろを憑依させた赫兵衛は訳もなく道場に忍び込んだ。忍び込んでまんまと罠にかかった縁には、糸が張ってあったらしい。赫兵衛はけいちゃんに教えられるがままにひょいと足を上げて道場の中に侵入した。広い道場である。けいちゃんに誘導されるがままに忍び足で廊下を歩いていくと、ふと障子越しにほのかな明かりが見えた。
 誰かいるのか、と赫兵衛は足を止める。耳を澄ませると、低く忍ぶような話し声が聞こえてくる。両方とも男の声のようだが、仔細はわからない。
「……謙二郎(けんじろう)はうまくやっているらしいな?」
「いや、そうでもねえ。偽札だったから良かったものの、こないだは札を掏られやがったし、今日はつけられてたことにすら気付かなんだ」
 一人は知らぬ男の声だが、もう一人はどうやらマチスらしい。
「あやかし使いの腕は確かなんだが、どうも抜けているところがいただけねえ」
「そう言うな。我らの仕事に最も大事なのは忠義心。おぬしも謙二郎のそこを見込んで使っているのだろう」
「まあ、そうだけどよ」
「しかし気になるのは、今日謙二郎をつけていたという奴のことだな。顔は見たのか?」
「ああ、見た。だが気にかけるにゃ及ばねえな。尾行の仕方も侵入方法もまるで素人だったよ」
「そうか。だが、万一ということもある。人相書きを作って首領に提出しておいたほうが宜しかろう」
「わかったよ。……で、そっちのほうはどうなんだ。静乃とか言う女は見つかったのか?」
 静乃。赫兵衛は耳聡くその言葉を聞いて、息を呑んだ。
「いや、まだだ。棗(なつめ)のほうからも吉報は無い」
「まだかよ……そろそろ下の奴らが痺れを切らしてんぞ。起源(みゅう)の札がねえと調査が進まねえとさ」
「待たせておけ。近々集会が開かれる。そこで首領から改めて説明がある」
「……けど、その女の要求は金なんだろう? 三百両だったな。懐が痛むほどの金額でもねえ、さっさと渡しちまえばいいじゃねえか」
「馬鹿を申すな。女子ひとりに機密事項を握られ金まで取られたとあっては、榊一味の沽券に関わる」
 榊一味。赫兵衛が表情を険しくするのには、十分なやり取りであった。もしそれが赫兵衛の探し人と同一人物であるならば、彼女は奉行所だけでなく榊一味からも追われる立場にあるようである。しかも、名門と呼ばれる朽葉道場は、榊一味とどうやら密接な関わりがあるようだ。会話の内容からするに、その関係というのも、おそらくは朽葉道場主が榊一味であるという線が最も濃厚そうに見えた。
「全く面倒くせえ。殺るのか?」
「札さえ取り戻せれば、生死は問わぬ」
 物騒な会話に身を固くしたそのとき、けいちゃんが赫兵衛の端折った裾を引く。もう少々話を聞いていたいようにも思ったが、いつ部屋の中の二人が出てきてもおかしくはないことに気付いて、赫兵衛はその場をそっと離れた。
 それから間もなく、赫兵衛は謙二郎が熟睡している部屋に忍び込んだ。札はどこにあるのだろうと思って辺りを見回すと、枕元に畳まれておいてある羽織から、何やら不思議な気配を感じた。にょろを憑依させ、感覚を共有しているために、あやかし札の発する呪の気配が読み取れるようになっているのだろう。赫兵衛はあっさりと羽織の内側に縫い付けられていた札を抜き取った。直後、けいちゃんが僅かに発光したかと思うと、赫兵衛の身体は宙に投げ出されていた。
「……うわっ!?」
 咄嗟に身体を捻ることも叶わず、尻餅をついた赫兵衛の目の前で、赫兵衛に盗みの協力を求めた女がひらひらと落ちてくる目的の札を手に取った。それを見届けるか見届けないかといったところで、赫兵衛は休息に意識が遠のくのを感じた。意識の片隅で、微かな歌を聞いた気がした。

 ぺしり、と頬を叩かれて赫兵衛は目を覚ます。目の前には、細面の女の顔。うわ、と再度間抜けに叫んだ赫兵衛に、女は失礼ね、と憤慨してみせたが、本当のところそこまで怒っているようではない。
「旦那が札を取った後、けいちゃんに旦那をここまで瞬間移動させたんだけど……旦那、空中から落ちた衝撃で気を失ってたのよ」
「……そうだったのか」
「はい、あやかし札。あたしはさっき中身を見せてもらったから、もういいわ」
 赫兵衛はそれを聞いて、改めて怪訝に思った。中身を見るだけでいいと言ったが、そもそも、何故中身を見る必要があるのだろうか。まさか、と赫兵衛は思い至る。女がほしがっているのはこのあやかし札ではなく、刻まれた特別な呪言そのものだとしたら。札を受け取りながら、赫兵衛は自分の顔が強張るのを感じた。
「……一つ聞きたい。この札の中身を、何に使うつもりなんだ?」
 女は一瞬だけきょとんとして、それからにんまりと笑った。
「何って……決まってるじゃない、売るのよ」
「売る?」
「そうよ、札師にね。こんな珍しい呪言を書けたら儲かるに決まってる。ほしがる札師は後を立たないもの」
 うふふ、思いっきり跳ね上げてやるんだから、と息巻く女に、赫兵衛は思わず待て、と声をかけていた。女はきょとんとして赫兵衛を見る。
「……協力しておいてなんだけど、それは止めてくれ。上位物から下位物に変化しないのは、あやかしの本質なんだ。それを無理矢理ねじ曲げるのは、あやかしにとって苦痛でしかない」
「だからなあに? あたしには関係ないわ」
 女は冷ややかな目で赫兵衛を見たが、赫兵衛は怯まず続けた。
「あんたもあやかしを好いているなら、そんなものを世に広めるのは、止めてくれ。金子に困っているのなら、十両あるから、これで手を打たないか」
 赫兵衛が金子を懐から取り出すと、女は目を丸くしてそれを見ていたが、ふと何かを堪えるような顔つきになり、やがて呆れたように溜息をついた。そして赫兵衛の差し出した金子を受け取り、自らの懐に滑り込ませた。流石といってよい手つきである。
「……まあ、今回の働きは旦那がいてこそだものね。旦那の人の好さに免じて、今回はこれで勘弁してあげましょ」
「本当か!?」
 赫兵衛は笑顔になって、半ば身を乗り出した。
「そういえば、あんたの名前、なんて言うんだ?」
 女は薄く笑った。
「……龍胆(りんどう)」
「龍胆か」
「あんたとは、また近いうちに会うような予感がするわ」
 龍胆と名乗った女は片目を瞑って、身を翻すように姿を消した。
「爺ちゃん、起源(みゅう)って知らないか?」
 翌日、赫兵衛は変異獣(いいぶい)のあやかし札を持って藤蔵のもとに行った。日の当たる縁側で、藤蔵が札の中身を確かめるのを隣で待っていたが、不意に昨晩の会話が頭を過り、尋ねた。一瞬、藤蔵がぴたりと動きを止める。
「……その言葉をどこで聞きなすったね?」
 藤蔵の声はいつもの好々爺じみた、おっとりとした響きである。けれども赫兵衛は、どうやら只ならぬことを知ったらしいと直感し、自然声を潜めて、昨日聞いた密談の内容を藤蔵に打ち明けることにした。藤蔵は立ち上がって赫兵衛を部屋の中に招き、障子を閉めた。
 その後、藤蔵は相槌を打ちながら赫兵衛の話を聞いていたが、やがて話が終わると、静かに口を開いた。
「起源は、おぬしの察する通りあやかしの一種じゃよ」
 今でこそ、人の住む世界と、あやかしの棲む幾多の異界があるといわれているが、遥か昔には世界はひとつであり、起源と人が共存していた。起源は肥沃な大地と海、多様な自然環境と交わり、時とともにその形を変え、あるものは火のあやかしとなり、あるものは水のあやかしとなり、あるものは草のあやかしとなった。やがて時が経ち、いつしか人があやかしを従えて戦いの道具とするようになり、多くの血が流れた。そこで、人とあやかしの未来を憂えた一人の若者が、一対のあやかしを従えて世界を引きちぎった。引きちぎられた世界の大きな一片は人の住まう世界となり、その他のこまごまとした幾多の世界はあやかしの棲む異界となった。けれども元はひとつの世界、千切られた世界は、呪で繋がっている。人の住まう世界で、呪——一般には、あやかし札に書かれる呪言であるが、空模様や梅雨の草原といった自然の中にも多く存在する相——を結んだとき、そこが異界へ繋がる扉となるのである。
「この言い伝えに出てくるように、起源は全てのあやかしの祖といわれておる。起源の呪は、全てのあやかしの呪を含んでいるという話じゃ。しかし、榊一味は起源の札の写しで何をするつもりなんじゃろうな」
 赫兵衛は俯いて、しばらく考え込んでいた。赫兵衛が知っている一味の活動は、少女おこうの手鞠の盗難未遂、呪による変異獣の退化強制、そして起源の札である。ただ、財を求める盗賊団というには、その行動は不可解な点が多い。手鞠も高価な品であったし、変異獣の見世物も大層繁盛していたようだが、金子を求めるのであればそのように回りくどいことをせずとも、邸宅にでも盗みに入ったほうが手っ取り早い。となれば、榊一味には金以外の目的があるのではないだろうか。
「……榊一味って、何なんだ? 都で悪さばかりやっているっていうけれど、何か目的があるんじゃないか」
 赫兵衛がそう口にすると、藤蔵は黙って首を横に振った。
「それは儂にも分からぬ。榊一味について知っていることといえば、ここ一年活発に活動している新興組織というだけじゃな」
 藤蔵は変異獣のあやかし札を元通り畳む。
「赫兵衛、このあやかし札じゃが、処分しないほうが良さそうじゃ。かなり強い紙に呪が刻まれてあるゆえ、退化を促す呪は、札を通して変異獣にも浸透しておる。無理に呪を引きはがそうとすれば、変異獣のほうが死んでしまうやもしれん」
「え、それじゃあこいつは……」
「まあ落ち着きなさい……まだ手はある。あやかし札を書き換え、おぬしがこの変異獣の契約者になるのはどうじゃ?」
「札を書き換えるって、そんなことできるのか?」
「あまり罷り通らない秘法じゃが、この際、しようがなかろう。もちろん、変異獣に前の主人との契約を破棄し、おぬしとの契約を承諾する意思がないと使えぬが」
 藤蔵は試すように、細い目で赫兵衛を覗くように見上げる。断る理由などなく、赫兵衛は無言で頷く。
「ならば、早速変異獣に是非を問うてみるとしよう」
 藤蔵は毛筆を子瓶に入った水に浸し、さらさらと札に何かを書き付ける。通常、たとえ札師であろうとも、他の誰かとの契約を使ってあやかしを呼び出すことはできない。けれども、あやかしと人を結ぶのが呪言であるから、呪言の書きようによっては理論上は可能である。しかし、そんなことが出来てしまっては今のあやかしを中心とした生活の基盤が崩れるわけであり、それが秘法たる所以なのだろう。藤蔵が毛筆を札から離すと同時に、するり、と煙のように変異獣の姿が現れた。変異獣は卓袱台の上できょろきょろと、不思議そうにあたりを見回している。
「後は、契約破棄と契約申し込みを同時に行う。ちょうど両手を同時に出しなさい」
「……契約破棄って、自分の契約じゃなくてもできるのか?」
「一般的には無理じゃ。しかし、今回は秘法を使う手続きとして必要になる」
 わかった、と赫兵衛は答え、息をすうっと吸ってから、変異獣に向き直る。そして、左手と右手を変異獣の前に真っ直ぐに伸ばした。これが古より定められた契約申し込み、および破棄の法である。左手は契約申し込み、右手は契約破棄を表す。
 ぴくりと変異獣が耳を動かして、赫兵衛をじっと見た。ここで変異獣が取る行動は大きく分けて、承諾、試練、拒否の三つである。承諾は契約を結ぶことを了承したということであり、拒否は承知しなかった場合を指す。試練というのは、その変異獣と勝負をすることになり、その結果如何によって承諾か拒否かどちらかを示される。
 変異獣はじっと赫兵衛を見上げていたが、やがて大人しくその場に伏せって服従の意を示した——承諾、である。
 ほっと息を吐いた赫兵衛に、藤蔵が続けて言った。
「良かったの。では、契約代理人として儂を指定してくれ」
 赫兵衛は契約用の毛筆を手に取り、藤蔵に渡した。これが契約代理人を指定したという合図となり、変異獣は心得たとばかりに藤蔵に向き直る。
「おぬしは暫く縁側で待っていなされ。いくら気心知れたおぬしでも、札師の秘法を見せるわけにはいかぬ」
「わかった」
 赫兵衛は再び縁側に出て足を下ろし、しばしぼうっと庭を眺めていた。しゅるり、と赫兵衛の袖からにょろが姿を見せる。
「なんだ、おまえ、楽しみなのか?」
 少し笑って、にょろをからかうように言ったが、にょろのほうはどこかしら不安げな様子である。それを見て、赫兵衛はふっとにょろから視線を外し、正面を向く。いつのまにか彼から表情が消え、ふう、と小さく溜息が漏れる。
「……そーだよな……ずっと、俺とお前だけだったもんな」
 赫兵衛は基本的に、依り代特有の憑依型の戦い方が性に合っていた。何度か他のあやかしと契約を結んだことはあるが、上手く使いこなせず、結局すべて破棄してしまったというあまり自慢の出来ない経歴がある。今まではそれでも十分だった。赫兵衛は憑依型としては相当に優秀な部類であったから、人とあやかしが別々に戦う方法——分離型——がてんで駄目なことに関しても、それほど劣等感を抱いたことはなかった。赫兵衛の好敵手であり、優秀な分離型の使い手である仁緑に負けたときも、なまじ手応えがあっただけに、技を磨いていけばいつか勝てる自信があった。
 だが、つい先日対峙した、朽葉道場の主である、マチスという男。あのただならぬ気迫。いま思い出しても、身震いするのを抑えられない。変異獣の札を盗んだことは、もう榊一味の中では知れてしまっているはずである。赫兵衛はいま、いつ榊一味に襲われてもおかしくはない状況にあるのだ。マチスのような男のいる榊一味に対して、分離型としての戦闘が苦手という弱点を残したまま対峙して、果たして無事でいられるだろうか。
「………………腹。括んなきゃ、かもな」
 赫兵衛が呟いたときである。かさっ、という音に顔を上げると、いつの間にか、庭に一匹のあやかしがいた——電気鼠(ぴかちゅう)だ。彼は何をするでもなく、赫兵衛のことをじっと見上げていたが、不意に、これ見よがしに鼻を鳴らして、ぷいと背を向けて庭を出て行った。
 愛らしい姿のあやかしが馬鹿にするような仕草をして去っていったことに、赫兵衛はしばしぽかんとしていたが、やがて我に返ると、かちん、と頭の奥で音がした。
「なんだあいつ!」
 語気を強めて憤慨する赫兵衛に、にょろがやれやれといったふうに袖に引っ込んだ。
(2013/xx/xx)